(01)
① AならばBならず。
② AなればBならず。
に於いて、
① Aなら(未然形)
② Aなれ(已然形)
である。
然るに、
(02)
已然形
(a)「ば」「ども」に続いて確定条件を表す。
風吹けば、舟出ださず。〈風ガ吹クノデ、舟を出サナイ〉
*已然―前の「未然」の反対で「已に然り」、すなわち、「スデニソウナッテイル」の意である(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、24頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① Aなら(未然形)ばBならず。
といふ「命題」は、
① もしもAでならば、Bでない。
といふ意味であって、
② Aなれ(已然形)ばBならず。
といふ「命題」は、
② 既にAであって、Bでない。
といふ意味である。
従って、
(03)により、
(04)
② Aなれ(已然形)ばBならず=
② 既にAであって、Bでない。
といふ「命題」は、
② A∧¬B=Aであって、尚且つ、Bでない。
といふ、意味になる。
然るに、
(05)
「二重否定律」、「ド・モルガンの法則」、「含意の定義」により、
② A∧¬B=¬(¬(A∧¬B))=¬(¬A∨B)=¬(A→B)
である。
従って、
(04)(05)により、
(06)
② Aなれ(已然形)ばBならず=
② ¬(A→B)
である。
然るに、
(07)
① Aなら(未然形)ばBならず=
① もしもAならば、Bでない。
は、もちろん、
① A→¬B。
である。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① Aなら(未然形)ばBならず=
① A→¬B。
であって、
② Aなれ(已然形)ばBならず=
② ¬(A→B)=
② A∧¬B
といふ、ことになる。
加へて、
(09)
「理屈」としではなく、私自身の感覚として、飽く迄も、
① Aなら(未然形)ばBならず=
① A→¬B。
であって、
① Aなら(未然形)ばBならず=
② ¬(A→B)。
には、ならない。
然るに、
(10)
数学を和文で表現するときに、最初にトラブルに陥るのはが、否定をどのように表現するか、という問題です。次の和文を読んでみてください。
AならばBではない。
この文は、2つの解釈があります。ひとつは「(AならばB)ではない」。数文であらわすと、¬(A→B)です。もう一つは「Aならば(Bではない)」。数文であらわすと、A→¬Bとなります。この2つはまったく異なる意味をもちますが、和文であらわそうとすると、どちらも同じ文になってしまうのです(新井紀子、数学は言葉、2009年、123頁)。
従って、
(09)(10)により、
(11)
新井先生の感覚からすれば、
① Aなら(未然形)ばBならず。
といふ「命題」が、
② Aなれ(已然形)ばBならず。
といふ「命題」を、兼ねてゐることになり、
私の感覚からすれば、
① Aなら(未然形)ばBならず。
は、飽く迄も、
① Aなら(未然形)ばBならず。
である。といふ、「理屈」になる。
従って、
(12)
① AならばBでない。
といふ「言ひ方」に対する捉え方(感じ方)は、同じ日本人であっても、同じではない。
ものの、因みに、「未然形:已然形」に係はる問題としては、次のやうな「議論」が、有名である。
(13)
教育勅語に文法の誤用があるという説がある。すなわち、原文「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」部分の「アレバ」は、条件節を導くための仮定条件でなくてはならず、和文の古典文法では「未然形+バ」、つまり「アラバ」が正しく、「アレバ」は誤用である、とする説である。1910年代に中学生だった大宅壮一が国語の授業中に教育勅語の誤用説を主張したところ教師に諭された、と後に回想している[6](ウィキペディア:教育勅語)。
然るに、
(14)
この場合は、
② 緩急あれ(已然形)ば=仮定条件。
① 緩急あら(未然形)ば=仮定条件。
といふことなので、
② 緩急あれ(已然形)
が、
① 緩急あら(未然形)
を兼ねてゐる。といふ、ことになる。
平成27年02月07日、毛利太。
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