2015年3月30日月曜日

「鏡像(左右が逆)」Ⅱ。

(01)。
大事なことは「実は鏡は左右を逆に映していない。」という点だ。そして「上下も逆に映していない。」のだ。鏡がしていることは「鏡を正面から見たときに手前と奥を逆転させている。」だけなのだ。― 中略 ―。この問題についてインターネットで検索すると、非常に多くのページがヒットするが、間違った説明をしているものがとても多い。ある心理学者は「人間の錯覚である。」などと見当はずれの答を書いているし、別の精神科医は「人間の意識下の問題だ。」とか言って思考停止に陥っている。この問題について大げさなシンポジウムまで開かれていたのを見つけたときは苦笑を禁じえなかった(Webサイト、解答: どうして鏡は左右を逆に映すのに上下はそのままなの? - とね日記)。
(02)
大事なことは「実は鏡は左右を逆に映していない。」という点だ。
といふことは、認めるにしても、それでは何故、「そうした事実」に反して、
鏡が上下でなく左右を反対にするのはなぜでしょうか ... - Yahoo!知恵袋。
といふ風に、思ってしまふのか。といふ、「理由」が知りたい。
(03)
論語に『天子南面』という言葉があります。これは、皇帝などの偉人は南に向いて座り、北面は臣従することを意味しています。また、南に向いたときに日の出の方角(東。つまり左手側)が上座で、日没の方向(西。つまり右手側)が下座とされています(NAVERまとめ)。
従って、
(04)
① 南を向いて坐ってゐる天子にとっての「左側」は、東側である。
② 北を向いて坐ってゐる臣下にとっての「左側」は、西側である。
然るに、
(05)
① 南を向いた状態から、「回れ右」をすれば、北を向く。
② 北を向いた状態から、「回れ右」をすれば、南を向く。
従って、
(04)(05)により、
(06)
「現実の世界」に於いて、
① 南を向いた状態から、「回れ右」をしたにも拘わらず、「左側」が西ではない。
② 北を向いた状態から、「回れ右」をしたにも拘わらず、「左側」が東ではない。
といふことは、有り得ない。
然るに、
(07)
①「鏡の外の自分」が、南を向いてゐるならば、「鏡の中の自分」は、北を向いてゐて、尚且つ、二人とも、「左側」が、東側である。
②「鏡の外の自分」が、北を向いてゐるならば、「鏡の中の自分」は、南を向いてゐて、尚且つ、二人とも、「左側」が、西側である。
従って、
(06)(07)により、
(08)
①「鏡の中の自分」を、「鏡の外の自分」が、「回れ右」をした状態である。と「仮定」すると、「鏡の外の自分にとっての左右」と、「鏡の中の自分にとっての左右」が、「反対」になる。
従って、
(08)により、
(09)
「鏡が上下でなく左右を反対にするのはなぜでしょうか」 といふことが、疑問に思へるのであれば、その人は、「無意識」の内に、「鏡に映る自分の像」を、
①「回れ右」をして「振り返った自分」である。と「仮定」してゐて、
②「逆立ち」をして「振り返った自分」である。と「仮定」してゐない。
然るに、
(10)
「実際」には、
①「鏡に映る自分の像」は、「回れ右」をして「振り返った自分」ではないし、
②「鏡に映る自分の像」は、「逆立ち」をして「振り返った自分」でもない。
従って、
(10)により、
(11)
①「鏡に映る自分の像」が、「回れ右」をして「振り返った自分」である。
とする「仮定」は、
②「鏡に映る自分の像」が、「逆立ち」をして「振り返った自分」である。
といふ「仮定」と、同様に、「偽(ウソ)」である。
従って、
(11)により、
(12)
A:「鏡に映る自分の像」が、「回れ右」をして「振り返った自分」である。
といふ「仮定」が「真(本当)」ではない以上、
B:「鏡に映る自分の像」は、「左右が逆」になる。
といふ風には、言へない。
従って、
(12)により、
(13)
B:「鏡に映る自分の像」は、「左右が逆」になってはいない。以上、
C:「上下が逆」ならずに、「左右が逆」になるのは何故か(?)。
といふ「疑問」自体が、ヲカシイことになる。
(14)
AならばBであり、BならばCである。
然るに、
(15)
Aではない。
従って、
(14)(15)により、
(16)
Aではない以上、Bではなく、固より、
Bではない以上、Cではなくとも、ヲカシクはない。
平成27年03月30日、毛利太。

2015年3月28日土曜日

「鏡像(左右が逆)」。

(01)
「鏡に映る自分の像」を、「回れ右」をして「振り返った自分」と「仮定」すると、「左右」が「逆」になる。
然るに、
(02)
「鏡に映る自分の像」を、「逆立ち」をして「振り返った自分」と「仮定」すると、「上下」が「」になる。
すなはち、
(03)
逆立ち」をしてゐるのであれば、「」で「」でなければならない。にも拘わらず、さのやうには映らないといふ意味で、「上下」が「」になる。
従って、
(01)~(03)により、
(04)
「鏡は左右に反転して上下に反転しないのは何故か?」 といふことが、疑問に思へる人がゐるのであれば、その人は、「鏡に映る自分の像」を、「回れ右」をして「振り返った自分」と「仮定」してゐるからに、他ならない。
然るに、
(05)
「鏡に映る自分の像」は、「回れ右」をして「振り返った自分」ではないし、
「鏡に映る自分の像」は、「逆立ち」をして「振り返った自分」でもない
従って、
(06)
「鏡に映る自分の像」が、「回れ右」をして「振り返った自分」であるとする「仮定」は、「(ウソ)」である。
従って、
(01)(06)により、
(07)
「仮定」が「真(本当)」ではない以上、「鏡に映る自分の像」は、「左右が逆」になる。といふ風には、言へない。
(08)
① 〇〔△(囗)〕⇔〔(囗)△〕〇
等を、「鏡像(ミラーイメージ)」とする。
(09)
① 不〔読(書)〕⇔〔(書)読〕不
等も、「鏡像(ミラーイメージ)」とする。
従って、
(09)により、
(10)
① 我不〔常読(書)〕⇔〔(書)読常〕不我
は、「鏡像(ミラーイメージ)」である。
従って、
(10)により、
(11)
① 我不〔常読(書)〕⇔〔(書)読常〕不我
② 我不〔常読(書)〕⇔ 我〔常(書)読〕不
に於いて、
②は、「鏡像(ミラーイメージ)」ではない。
従って、
(09)(11)により、
(12)
② 我不〔常読(書)〕⇔ 我〔常(書)読〕不
自体は、「鏡像(ミラーイメージ)」ではない。が、
② 我不〔常読(書)〕⇔ 我〔常(書)読〕不
に於ける、
① 不〔読(書)〕⇔〔(書)読〕不
の部分は、「鏡像(ミラーイメージ)」である。
然るに、
(13)
我不〔常読(書)〕⇒
我〔常(書)読〕不=
我〔常には(書を)読ま〕不。
は、「漢文訓読」である。
従って、
(12)(13)により、
(14)
我不〔常読(書)〕⇒
我〔常(書)読〕不=
我〔常には(書を)読ま〕不。
といふ「漢文訓読」は、
我不〔常読(書)〕⇔ 我〔常(書)読〕不
に於ける、
①「鏡像(ミラーイメージ)」の部分の「左右を逆」にして、
②「平仮名」を補ふこと。
に、他ならない。
平成27年03月28日、毛利太。

2015年3月17日火曜日

既知は・未知が。

(01)
AとBは集合であって、
A={1,2}
B={1,2,3}
であるとする。
従って、
(01)により、
(02)
ⅹがAの要素であれば、
ⅹ=1 か、
ⅹ=2 であるが、
1は、Bの要素であって、
2 も、Bの要素である。
然るに、
(01)により、
(03)
ⅹがBの要素でないならば、
ⅹ≠1 であって、
ⅹ≠2 であって、
ⅹ≠3 であるため、
ⅹは、
A={1,2}
の中にはない。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
AとBが、集合であって、
A={1,2}
B={1,2,3}
であるならば、
① ⅹがAならば、ⅹはBである。
② ⅹがBでないならば、ⅹはAでない。
に於いて、
①と②は、両方とも「正しい」。
加へて、
(05)
A={1,2}
B={1,2}
である場合も、
A={1}
B={1}
である場合も、
① ⅹがAならば、ⅹはBである。
② ⅹがBでないならば、ⅹはAでない。
に於いて、
①と②は、両方とも「正しい」。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① Aならば、Bである。
② Bでないならば、Aでない
に於いて、
①が「真(本当)」であれば、
②も「真(本当)」であって、
②が「真(本当)」であれば、
①も「真(本当)」である。
然るに、
(07)
① Aならば、Bである。
に対する、
② Bでないならば、Aでない
を、
①の「対偶」といふ。
然るに、
(08)
② Bでないならば、Aでない
の「対偶」は、
② Aでない・でないならば、Bでない・でない
① Aならば、Bである。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① Aならば、Bである。
② Bでないならば、Aでない
に於いて、
①は②の「対偶」であり、
②は①の「対偶」であるものの、
通常の数学では、命題「AならばB」の真偽とその対偶「BでないならAでない」の真偽とは必ず一致する(すなわち真理値が等しい)〔ウィキペディア:対偶〕。
従って、
(09)により、
(10)
① Aならば、Bである。
② Bでないならば、Aでない。
に於いて、
①と②は、「同じ命題」の、「言ひ換へ」に過ぎない。
然るに、
(11)
② Bでないならば、Aでない
といふことは、
③ B以外は、Aでない
といふことに、他ならない。
従って、
(10)(11)により、
(12)
① Aならば、Bである。
② Bでないならば、Aでない
③ B以外は、Aでない
に於いて、
①=②=③
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(13)
Aならば、Bである。
② Bでないならば、Aでない。
③ B以外は、Aでない。
に於いて、AとBには、特に、意味が無い。
従って、
(13)により、
(14)
① A以外は、Bでない。
② Aでないならば、Bでない
③ Bならば、Aである。
に於いて、
①=②=③
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(15)
① ABである。
としても、
② A以外はBでない
とは、限らない。
然るに、
(16)
① ABである。
ならば、
② A以外はBでない
従って、
(14)(16)により、
(17)
① ABである。
ならば、
② A以外はBでない(BならばAである)。
然るに、
(18)
① ABである。
であって、尚且つ、
① AはBでない
とするならば、「矛盾」する。
従って、
(18)により、
(19)
① ABである。
ならば、
① ABである。
従って、
(17)(19)により、
(20)
① ABである。
といふ「言ひ方」は、
① AはBであり、
② BはAである(A以外はBでない)。
といふ「連言」に、等しい。
従って、
(21)
① 私社長です。
といふ「言ひ方」は、
① 私は社長であり、
② 社長は私である(私以外は社長でない)。
といふ「連言」に等しい。
従って、
(22)
① 私社長です。
② 社長は私です(私以外は社長でない)。
といふ「答へ」を期待してゐるのであれば、
① 誰社長ですか。
② 社長誰ですか。
といふ風に、質問すべきであって、
① 誰社長ですか。
といふ風に、質問すべきではない。
従って、
(22)により、
(23)
例へば、
 誰社長ですか。
 社長誰ですか。
 私社長です。
 社長私です。
といふ「日本語」を説明する際に、「既知未知」といふ「用語」を用ゐる必要はない。
然るに、
(24)
ハの上には既知扱いのものがおかれる当然の結果として、ハの上には疑問詞はこない。
 誰はいるか。
 何はあるか。
 どれは君のか。
という表現は可能ではない。ハの上は既知として扱うのが原則であるから、「誰」「何」「どれ」のような疑問詞をハで承けることはない(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、26頁)。
然るに、
(25)
例へば、
(AとBの内)どれ君のか。
 これ(A)私のです。
といふのであれば、
 これ(A)は私のであって、
 これ以外(B)は私のではない
といふことに、他ならない。
(26)
このハの上にくるものは、既知として扱うので、誰でも当然知っているものがくる。たとえば、
 地球は丸い
 人は死ぬ
 二掛ける三は六である。
 花のにほひは昔に変らず。
「地球」「人」などは時や場所を超越して、誰でも知っている存在として扱われる対象である。「二掛ける三」とは学問上の命題である。こうしたものはハで承ける(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、26頁)。
然るに、
(27)
{地球、三角定規、竹とんぼ、ホームベース、食パン}の中では、
 地球丸く(地球以外は丸くない)。ものの、
{地球、三角定規、竹とんぼ、ホームベース、食パン}は、大人の日本人であれば、ほぼ、誰もが、知ってゐる。
(28)
1+2+3=6
は完全数であるとのことであるが、
6の次の完全数江夏の背番号(28)である。
といふ場合の、
6の次の完全数 、普通の日本人には、「未知」である。
従って、
(29)
既知 ・ ・ ・ ・ ・。
未知 ・ ・ ・ ・ ・。
であるならば、
6の次の完全数江夏の背番号である。
といふ「言ひ方」は、
6の次の完全数江夏の背番号である。
でなければならない。
然るに、
(30)
6の次の完全数江夏の背番号である。
といふ「言ひ方」は、「普通」である。
平成27年03月17日、毛利太。

2015年3月10日火曜日

矣(完了)・焉(継続)。

(01)
[り]ら り り る れ れ
「接続]四段の已然形およびサ変の未然形に付く。
[意味]① 完了 ある動作・作用が、時間に関係なく終了した意を表す。<・・・・・・タ>
(代々木ライブラリー、受験国文法、1980年、119・120頁)
然るに、
(02)
矣<完了>[例]不幸短命死矣。[読み]不幸短命にして死せり。[訳]〔顔回は〕不幸にも死んでしたった。<論語・雍也>
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、17頁)
従って、
(01)(02)により、
(03)
=死せ(サ変・未然形)
であれば、
矣(完了)=り(完了
である。
然るに、
(04)
燭滅せ
燭滅―ろうそくが消えてしまいました。断定をあらわす終助詞。
(中西清、初歩の漢文、1989年、27頁)
従って、
(04)により、
(05)
(断定)=(完了)
であるものの、
り(断定)=り(完了
は、矛盾する。
然るに、
(06)
[ぬ]な に ぬ ぬる ぬれ ね
[接続]動詞、形容詞および助動詞の連用形に付く。
[意味]① 完了 ある動作・作用が、時間に関係なく終了した意を表す。<・・・・・・タ。・・・・・・てしまう。・・・・・・てしまった。>
(代々木ライブラリー、受験国文法、1980年、110頁)
従って、
(06)により、
(07)
やん(マ行四段・連用形・撥音便)ぬる(完了・連体形)かな(終助詞・詠嘆)=終わっ・てしまった・なあ。
である。
然るに、
(08)
[慣用表現]
1 已乎[読み]やんヌルかな。[訳]もう駄目だ、もうおしまいだ。<陶潜、帰去来辞>
従って、
(07)(08)により、
(09)
乎=やん(マ行四段・連用形・撥音便)ぬる完了・連体形)かな(終助詞・詠嘆)。
であれば、
完了)=完了
であっても、問題は無い。
従って、
(03)(09)により、
(10)

乎。
に於いて、
完了
であっても、問題は無い。
然るに、
(11)
[慣用表現]
2 而已[読み]のみ ⇒ 九ページ。
[例]夫子之道、忠恕而已矣。[読み]夫子の道は、忠恕のみ。[訳]先生の道は、真心と思いやりに外ならない。<論語・里仁>
(天野成之、漢文基本語辞典、19・9頁)
然るに、
(12)
先生の道は、忠恕にして、終はりで、完了
といふことで、
夫子之道は、忠恕のみ。
と「訓読」してゐるのであれば、
而已
に於いて、
完了
であっても、問題は無い。
従って、
(10)(12)により、
(13)
死矣。
乎。
而已
に於いて、
完了
であっても、問題は無い。
従って、
(13)により、
(14)
 は、基本的に、
完了
を意味し、その、
完了
といふ意味から、例へば、
② 確信
③ 決意
等の意味が、派生すると、思はれる。
(15)
并力西向、秦必破矣=力を并せて西に向はば秦必ず破れん。
であれば、
并力西向、秦必破矣=力を并せて西に向ったその時点で、秦の敗北は完了してゐる(のも同然である)。
といふ「気分(確信)」を、
秦必破矣 の、 は、表してゐると、思はれる。
(16)
有赴東海而死矣=東海に赴きて死する有るのみ。
であれば、
有赴東海而死矣=東海に赴ひて、死んで完了(、それ以外は無い)。
といふ「気分(決意)」を、
而死矣 の、 は、表してゐると、思はれる。
(17)
本当にさうかどうかは別にして、とにかく、何となく、そんな気がする。
然るに、
(18)
には継続・進行を表わす作用がある。これは完了を表わすのと対照的である。
(布施郁三、中国古典に於ける矣・焉の解釈、1984年、37頁)
従って、
(18)により、
(19)
先世避秦時乱率妻子邑人、来此絶境不復出=先世秦時の乱を避けて、妻子邑人を率ゐて、この絶境に来たり、復た出でず。
であれば、
不復出 の、焉 は、
来此絶境不復出焉=この絶境に来てからは、二度とここから出ない状態が、続いてゐる
といふ「継続」を表してゐる。と、思はれる。
(20)
十室之邑、必有忠信如丘者=十室の邑、必ず忠信丘のごとき者有らん。
であれば、
有忠信如丘者 の、焉 は、
有忠信如丘者焉=良心と約束を守ることでは、孔子ぐらいの者は、昔から絶えず、ゐ続けてゐる
といふ「継続」を表してゐる。と、思はれる。
然るに、
(21)
徂徠は、「也」は「ナリ」、「矣」は「ケル」、「焉」は「ケレ」となおしてみればよいと説明している。
(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、158頁)
従って、
(21)により、
(22)
少なくとも、荻生徂徠が書いた、
① ・ ・ ・ ・ ・ ・ 矣。
② ・ ・ ・ ・ ・ ・ 焉。
に関しては、
① 完了
② 継続
といふ「意味」は無い。
平成27年03月10日、毛利太。