2014年8月31日日曜日

「括弧有ります!」(Ⅶ)。

(01)
① 復冀得兎=復た兎を得んことを冀ふ。
② 冀復得兎=復た兎を得んことを冀ふ。
に於いて、
① であれば、
① 狩りに出て、兎が取れることを願ったが、失敗したので、後日、もう一度、兎が取れることを願った
といふ場合が、さうであり、
② であれば、
② 最初は、思いがけず、偶然に、兎が木の根っこに激突して死んだので、もう一度、兎が木の根っこにぶつかって死ぬことを願ふ
といふ場合が、さうである。
従って、
(02)
① であれば、
① 復冀(得兎)。
に於ける、
① (得兎)を、2回、願った。
ことになり、
② であれば、
② 冀復得兎。
に於ける、
② (復得兎)を、1回、願った。
ことになり、
次の(03)は、そのことを、述べてゐる。
(03)
◆冀復得兎
この句は「復た兎を得んことを冀ふ」と読むが、いまかりに原文の「冀」と「復」を入れかえて「復冀得兎」としても読み方はかわらない。しかし意味内容の上では大きな違いがあるので注意を要する。「冀復得兎」の場合は「冀ふ」の内容が下の「復得兎」となる形であるから、「ふたたび兎を手に入れる」ということを「ねがう」の意で、まえにも手に入れたが、さらにもう一度手に入れたいと望むことになる。ところが「復冀得兎」の場合は「復」が「冀」の上にあるので、「復」が「冀」を修飾する形であり、「冀ふ」の内容は「得兎」だけになる。つまり「兎を手に入れること」を「もう一度ねがう」の意である(旺文社、漢文の基礎、1973年、36頁)。
といふことになる。
cf.
冀復得兎。兎不可復得、而身為宋国笑。
復た兎を得んことを冀ふ。兎復た得べからずして、身は宋国の笑ひと為れり。
もう一度兎を手に入れたいと願った。兎は二度と手に入れられず、彼自身は宋の国の笑いものとなった(旺文社、漢文の基礎、1973年、35頁)。
待ちぼうけ

作詞:北原白秋
作曲:山田耕筰

待ちぼうけ 待ちぼうけ
ある日せっせと 野良かせぎ
そこへ兎が とんで出て
ころり転げた 木の根っこ

待ちぼうけ 待ちぼうけ
しめたこれから 寝て待とか
待てばえものは かけてくる
兎ぶつかれ 木の根っこ
従って、
(04)
① 復冀得兎=復た兎を得んことを冀ふ。
② 冀復得兎=復た兎を得んことを冀ふ。
の場合は、
① 復冀(得兎)=復た(兎を得んこと)を冀ふ。
② 冀(復得兎)=(復た兎を得んこと)を冀ふ。
といふことに、なる。
従って、
(05)
目には見えなくとも、
① 復冀得兎。
② 冀復得兎。
に於いて、「括弧」は、有ります!
平成26年08月31日、毛利太。

2014年8月25日月曜日

「不敢」について、

右側サイドバー、
ブログアーカイブ上の、
・ 返り点に対する「括弧」の用法(HP)=
http://www9.ocn.ne.jp/~kannbunn
は、「縦書き」であるため、PCが苦手な私には、簡単には「引っ越し」出来ないのですが、

  いつもOCNをご愛顧いただきまして、誠にありがとうございます。
  このたび、誠に勝手ながら「Page ON」のサービスを、2015年
  2月28日をもちまして終了いたいします。

とのことです。
そのため、「引っ越し」が間に合わない場合は、2015年3月1日以降、あるいは、しばらくの間、
返り点に対する「括弧」の用法3(HP)。
は、ネット上から消えるかも知れないので、そのことを、お知らせします。

(01)
敢走=(出来ればさうしたくはないのであるが、さうも行かないので、)逃げる(ことにする)。
といふ意味である。
従って、
(02)
敢不走=(出来ればさうしたくはないのであるが、さうも行かないので、)逃げない(ことにする)。
といふ意味である。
従って、
(03)
敢不走乎=(出来ればさうしたくはないのであるが、さうも行かないので、)逃げない(ことにする)といふことが、あるだろうか?
といふ意味である。
従って、
(04)
百獣之見我而敢不走乎=百獣の我を見て敢へて走らざらんや(戦国策)。
といふ「反語」の場合は、
敢不走乎=(出来ればさうしたくはないのであるが、さうも行かないので、)逃げない(ことにする)といふことが、あるだろうか(、いや、そのやうなことはない)。
といふ意味である。
従って、
(05)
敢不走乎(戦国策)=「逃げたいけれど逃げない」といふことはない。
といふ意味になる。
然るに、
(06)
「逃げたいけれど逃げない」といふことはない。
といふことは、要するに、
必ず逃げる」
といふことに、他ならない。
従って、
(07)
敢不走乎(反語)=必ず逃げる。
といふ意味になる。
然るに、
(08)
必ず逃げる=
逃げないことを、決してない
然るに、
(09)
「反語」の場合は、
けっきょく、肯定している場合は否定に、否定している場合は肯定の内容になる(旺文社、漢文の基礎、1973年、45頁)。
従って、
(09)により、
(10)
①   敢不走(反語である)。
② 不敢不走(反語ではない)。
に於いて、
①=②
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(07)(08)(10)により、
(11)
② 不敢不走(反語ではない)=
② 逃げないことを、決してない
従って、
(11)により、
(12)
③ 不敢走(反語ではない)=
③ 逃げることを、決してない
決して逃げない
従って、
(12)により、
(13)
③ 不敢・・・=
決して・・・ない
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(14)
「不敢」について、
三浦吉明教諭は「「不敢(あへて・・・ず)」の解釈について」(「漢文教室」第一五四号、一九八六・六)において、次のような問題提起をした。
1 市販の問題集・参考書の類。教科書・教師用指導書の類では、「不敢」を「決して・・・ない」と訳している。
(江連隆、漢文語法ハンドブック、1997年、81頁)。
然るに、
(15)
そこに、「決して~~ない」と解釈する可能性が出て来る(下略)。
三浦教諭の述べるとおり「『すすんで・・・すること』はしない」と読んでいただきたい。
(江連隆、漢文語法ハンドブック、1997年、82頁)。
とのことである。
平成26年08月25日、毛利太。

2014年8月10日日曜日

「数式訓読」。

「数式訓読」。
(01)
(1+5)*(2+3)=30
である以上、わざわざ、
(1+5)*(2+3)=(1*5)+(5*5)= 5+25=30
(1+5)*(2+3)=(6*2)+(6*3)=12+18=30
(1+5)*(2+3)=(1*2)+(1*3)+(5*2)+(5*3)=2+3+10+15=30
のやうな「計算」は、普通は、しない。
然るに、
(02)
(1+5)*(2+3)=30
といふ「計算」は、
(1+5)*(2+3)=6*5=30
といふ「計算」に、他ならない。
従って、
(02)により、
(03)
(1+5)*(2+3)
といふ「計算」は、
② 1に5を足した値と、2に3を足した値を、掛け合わせる。
といふ「手順(アルゴリズム)」に、ならざるを、得ない。
従って、
(04)
コンピューター(i8086)で「計算」する場合も、
MOV AL,1
ADD  AL,5 :足し算。
MOV BL,2
ADD  BL,3 :足し算。
MUL  BL   :掛け算。
といふ「手順(プログラム)」に、ならざるを、得ない。
然るに、
(05)
① * + 1 5 + 2 3
② 1 5 + 2 3 + *
に於いて、
① は、「  ポーランド記法」であり、
② は、「逆ポーランド記法」であって、
② は、
② 1に5を足した値と、2に3を足した値を、掛け合わせる。
といふ「手順(アルゴリズム)」を表してゐる。
従って、
(01)~(05)により、
(06)
元々、逆ポーランド記法はポーランド記法をコンピュータでの利用に適した形に改変したものである(ウィキペ
ディア)。この記法は、単に日本語の構造に合致するというだけなく、一切のかっこを用いずに計算の方法を明示できるという利点をもつため、コンピューターでは実際にこの数式が利用されているほどである(大谷泰照、日本人にとって英語とは何か、2007年、30頁)。
といふ、ことになる。
然るに、
(07)
① *  +  1 5  +  2 3 =
① *〔+(1 5)+(2 3)〕⇒
② 〔(1 5)+(2 3)+〕*=
② 1 5 + 2 3 + *
(08)
① 如 揮 快 刀 断 乱 麻    =
② 如〔 揮(快   刀) 断(乱  麻)〕⇒
② 〔(快 刀)揮(乱 麻)断〕如 =
② 快刀を揮って乱麻を断つが如し。
従って、
(07)(08)により、
(09)
①「  ポーランド記法」
②「逆ポーランド記法」
は、
①「漢文」
②「訓読」に、対応する。
従って、
(09)により、
(10)
我々、日本人は、
(1+5)*(2+3)=30
といふ「数式」を、
〔(1 5)+(2 3)+〕* 30 =
〔(1に5を)足した値と(2に3を)足した値を〕掛け合わせた値は、30に等しい。
といふ「逆ポーランド記法」で、「読み下し」てゐる。
といふことになり、次の言ひ方(11)も、そのことを、述べてゐる。
(11)
これらを日本語で読もうとすれば、漢文の場合と同様に、返り点をうって逆戻りしなければ読めないことが理解できよう。しかし、それは当然のことであって、本来、数式はたまたま15世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパにおいて、ヨーロッパの言語に象って作り出されたという歴史的偶然を反映したものであるにすぎない。いかなる自然言語に対しても等距離・中立であるはずの数式は、実は、このようなまことに恣意的な産物に過ぎないのである(大谷泰照、日本人にとって英語とは何か、2007年、30頁)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
「返読」といふ現象は、「漢文訓読」にだけ特有なのではなく、「書かれてゐる順番で読ない」といふことに関しては、「数式」であっても、同じことである。
平成26年08月10日、毛利太。