2014年10月31日金曜日

漢文訓読と、中国語。

(01)
① ¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
は、「ド・モルガンの法則」である。
従って、
(02)
① から、( )を除いた、
② ¬P∧Q=¬P∨¬Q
といふ「式」は、「誤り」である。
然るに、
(03)
括弧は曖昧さがない場合は適当に省略される(赤間世紀、Prologで学ぶ AIプログラミング、2008年、13頁)。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① ¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
に於いて、「( )が省略されてゐる。」のであれば、その時に限って、
② ¬P∧Q=¬P∨¬Q
といふ「等式(ド・モルガンの法則)」は、「正しい」。
従って、
(05)
「( )が省略されてゐる。」と、思へば、その時に限って、
② ¬P∧Q=¬P∨¬Q
といふ「等式(ド・モルガンの法則)」は、「正しい」。
然るに、
(06)
① ¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
③ P→¬Q = Q→¬P
に於いて、
① は、③ に等しい。
cf.
詳しくは、「前回の記事(H26/10/28)の、追記」をお読み下さい。
然るに、
(07)
① 不為児孫買美田(¬P∧Q) =
①(児孫の為に美田を買ふこと)はない=
③ 美田を買ふならば、児孫の為ではない(Q→¬P)。
といふ「等式」が、成立する。
cf.
詳しくは、「前々回の記事(H26/10/27)」をお読み下さい。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
① 不為児孫買美田=
② 不(為児孫買美田)=
③ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(05)(08)により、
(09)
① 不為児孫買美田=
② 不(為児孫買美田)。
といふ風に、「思ってゐる」が故に、
「ド・モルガンの法則、含意の定義、対偶」により、
① 不為児孫買美田=
③ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(10)
① 不為児孫買美田。
に於いて、
不 といふ一字が、
為児孫買美田 といふ六字に、「係ってゐる」。
と、西郷隆盛が「思ってゐる」。
と、我々が「思ってゐる」が故に、
① 不為児孫買美田 =
② 不(為児孫買美田)=
③ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「等式」が、成立する。
cf.
   偶 成  西郷南洲
幾歴辛酸志始堅
丈夫玉碎恥甎全
我家遺法人知否
不爲兒孫買美田
従って、
(11)
尚且つ、
為 といふ一字が、
児孫 といふ二字に、「係ってゐる」。
と、西郷隆盛が「思ってゐる」と、するならば、
不為児孫買美田 =
不〔為(児孫)買美田〕。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(12)
尚且つ、
買 といふ一字が、
美田 といふ二字に、「係ってゐる」。
と、西郷隆盛が、「思ってゐる」と、するならば、
不為児孫買美田 =
不〔為(児孫)買(美田)〕。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(13)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
① 不為児孫買美田 =
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
といふ風に、「(西郷は思ってゐると、)思っても良い」のであれば、
「漢文の補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」
といふ「事実」に基づき、
① 不為児孫買美田 =
① 不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
② 〔(児孫)為(美田)買〕不=
② 〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ、「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(14)により、
(15)
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
② 〔(児孫)為(美田)買〕不。
に於いて、
① は、「漢文の語順」であり、
② は、「国語の語順」である。
と同時に、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
② 〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
に於いて、
① は、「漢文の補足構造」であり、
② は、「国語の補足構造」である。
が故に、
① 〔( )( )〕=
② 〔( )( )〕。
は、「漢文と国語の、補足構造」である。
従って、
(15)により、
(16)
① 不為児孫買美田。
といふ「漢文」を、
② 児孫の為に美田を買は不。
といふ風に、「訓読」する。といふことは、
① 不為児孫買美田。
といふ「漢文の補足構造」を、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
といふ風に、「捉へてゐる」といふことを、「意味」してゐる。
従って、
(16)により、
(17)
① 不為児孫買美田。
といふ「七文字」を、
① フイジソンバイビデン。
といふ風に、「音読」出来るからではなく、
① 不為児孫買美田。
といふ「七文字」が、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
といふ「構造(シンタックス)」が、「見える」からこそ、
② 児孫の為に美田を買は不。
といふ風に、「訓読」出来る。といふことになるし、思ふに、
「書を読むは書を看るに如かず(荻生徂徠、訳文荃蹄・題言)。」
といふのは、このことを言ふ。
従って、
(17)により、
(18)
① 不為児孫買美田 ⇒
② 児孫の為に美田を買は不。
といふ「漢文訓読」は、「漢文の補足構造」に即した、「(定型的な)訳読」である。といふことになる。
従って、
(19)
例へば、
① 不(憤)不(啓)⇒
② (憤せ)不んば(啓せ)不。
すなはち、「論語、述而第七、八」も、「漢文の補足構造」に即した、「(定型的な)訳読」である。といふことになる。
従って、
(19)により、
(20)
① 不(憤)不(啓)⇒
③ If you do not agonize trying to understand, I will not enlighten you(K.Yuhazu 訳).
並びに、
① 不(憤)不(啓)⇒
④ 不到他想求明白却又想不通而苦恼时,不去开导他(K.Yuhazu 訳).
は、「原文の補足構造」に即さない、「(非定型的)意訳」である。といふことになる。
然るに、
(21)
私には、
④ 不到他想求明白却又想不通而苦恼时,不去开导他。
といふ「現代中国語」が、全く分からない。
(22)
「漢字」で書かれているが故に、
求明白却又=求める明白かえってまた
のやうには、読めるものの、これが仮に、
④ Bù dào tā xiǎng qiú míngbái què yòu xiǎng bùtōng ér kǔnǎo shí, bù qù kāidǎo tā(グーグル翻訳).
のやうに「ピンイン(ローマ字)」で書かれてゐたら、「文字通り、完全に、理解不能」となる。
従って、
(23)
その意味では、
③ If you do not agonize trying to understand, I will not enlighten you((K.Yuhazu 訳).
④ Bù dào tā xiǎng qiú míngbái què yòu xiǎng bùtōng ér kǔnǎo shí, bù qù kāidǎo tā(グーグル翻訳).
の二つは、「外国語」といふ点に関しては、全く同じことである。
然るに、
(24)
英語はノルマン人の征服の後、フランス語から多くの語彙を吸収し、何世紀もかけてドイツ語やアイスランド語などの保守的なゲルマン語諸語になお見られる文法的な複雑さの多くを失った。この違いは、現代アイルランド人が現在のアイスランド・サガを読めるのに、『べーオウルフ』のような古英語による叙事詩の言語が、現代のイギリス人読者にとってはまるで異質な言語であることを考えれば明らかである(新曜社、消えゆく言語たち/失われることば、失われる世界、2001年、17・18頁改)。
然るに、
(25)
現代中国語と言われるものは概ね北京語に他ならない。北京語と古典中国語(文言)は互いに違う言葉である。北京語(普通話)に通じることは文言の理解を特別に助けるものではない(Webサイト:二十一世紀の漢文-死語の将来 - 日本文化研究センター)。
従って、
(26)
漢文というものをやってみるとわかるんですが、現代中国語をしゃべれないような人はほんとうは漢文は読めないんです(yellow.ap.teacup.com/kadowaki/248.html )。
といふ「言ひ方」は、
現代英語をしゃべれないドイツ人は、古英語も読めないんです。
といふ「言ひ方」と、同じやうにしか、聞こえない。
(27)
日本語と古典中国語(漢文)も、もちろん、互いに違ふ言葉である。
しかしながら、
(28)
(15)でも書いたやうに、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
② 〔(児孫の)為に(美田を)買は〕ず。
に於いて、
① 〔( )( )〕=
② 〔( )( )〕。
であることからすれば、「漢文と国語の、補足構造」は、「等しい」。
従って、
(29)
① 不為児孫買美田。
② 児孫の為に美田を買はず。
に於ける、「語順の違ひ」だけに着目して、
① 〔( )( )〕=
② 〔( )( )〕。
といふ「捕捉構造」には、触れない形で、国語(日本語)と漢文の違ひを「強調」することは、「正しいやり方」であるとは、思へないし、それと同時、次のやうな事情も、忘れるべきではない。
すなはち、
(30)
われわれ日本人は、実に古い中国の古典語彙をいまなお使用していることに改めて驚かされる。本国の中国で、それらのことばは、とうの昔にわすれられてしまい、古典語彙の辞書の中にその存在を示すにとどまっているのである(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、227頁)。
といふことも、忘れるべきではない。
加へて、
(31)
漢字は、実は、本場の中国においても、その読み方は地域の自由にまかせているのである。― 中略 ―その多様さはインド・ヨーロッパ語族の多様さに優に匹敵する。それゆえに、もし中国においてことばの表記を表音文字にきりかえたならば、同時に十三以上の外国語ができてしまうということになる。(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、134・5頁)。
といふことも、忘れるべきではない。
従って、
(32)
現代中国語をしゃべれないような人はほんとうは漢文は読めないんです。
といふ「言ひ方」は、
現代欧州語をしゃべれないような人はほんとうはラテン語は読めないんです。
といふ「言ひ方」を、想起させるものの、さうしたことが、有り得るとは、思へない。
平成26年10月31日、毛利太。

2014年10月28日火曜日

「括弧」はあります!の「追記」。

この「記事」は、「10月27日の記事」の「追記」です。
(29)
① Pでない。か、Qでない。
② Pである。
とします。
然るに、
(30)
① Pでない。
② Pである。
に於いて、
①と②は、「矛盾」するため、
② Pである。
ならば、
① Pでない。
は、「否定」されます。
従って、
(31)
① Pでない。か、Qでない。
② Pである。
であるならば、
① Pでない。
は、「否定」されるため、「消去法」により、
③ Qでない。
といふことに、なります。
従って、
(31)により、
(32)
① Pでない。か、Qでない。
② Pである。∴
③ Qでない。
といふ「推論(選言三段論法)」は、「正しい」。
然るに、
(33)
① Pであるならば、Qでない。
② Pである。∴
③ Qでない。
といふ「推論(前件肯定式)」は、当然、「正しい」。
従って、
(32)(33)により、
(34)
① Pでない。か、Qでない。
といふ「命題」は、
② Pであるならば、Qでない。
といふ「命題」に等しく、このことを、「含意の定義」といふ。
然るに、
(35)
① Pでない。か、Qでない。
は、「ド・モルガンの法則」により、
③(Pであって、Qである)でない。
に、等しい。
従って、
(34)(35)により、
(36)
① Pでない。か、Qでない。
② Pであるならば、Qでない。
③(Pであって、Qである)でない。
に於いて、
①=②=③
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(37)
例へば、
② Nが偶数であるならば、N+1は偶数でない。
といふ「命題」の「対偶」は、
④ N+1が偶数であるならば、Nは偶数でない。
であって、「対偶」は等しい。
従って、
(37)により、
(38)
② Pであるならば、Qでない。
といふ「命題」は、その、「対偶」である、
④ Qであるならば、Pでない。
といふ「命題」に、等しい。
従って、
(36)(38)により、
(39)
① Pでない。か、Qでない。
② Pであるならば、Qでない。
③(Pであって、Qである)でない。
④ Qであるならば、Pでない。
に於いて、
①=②=③=④
といふ「等式」が、成立し、それ故、
③(Pであって、Qである)でない。
といふ「命題」は、
④ Qであるならば、Pでない。
といふ「命題」に等しい。
従って、
(39)により、
(40)
③(児孫の為に、美田を買ふこと)はない。
といふ「命題」は、
④ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「命題」に等しい。
従って、
(41)
③ 不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
③〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ「命題」は、「論理的」に、
④ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「命題」に、等しい。
然るに、
(42)
「ド・モルガンの法則」により、
① Pでない。か、Qでない。
といふ「選言」は、
③(Pであって、Qである)でない。
といふ「連言の否定」に等しい。
とする際に、
③(Pであって、Qである)でない。
から「括弧」を除き、
③ Pであって、Qでない。
とすることは、出来ない。
従って、
(41)(42)により、
(43)
③ 不(為児孫買美田)⇒
③(児孫の為に、美田を買ふこと)はない=
④ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
に於いて、
③ (  )。
といふ「括弧」を、「無視」することは、出来ない。
然るに、
(44)
以上の「推論」は、「論理学」として「正しい」ため、「国語(日本語)」を超えて、「正しい」。
従って、
(29)~(43)と、(44)により、
(45)
われわれ日本人が中国の古典を学ぶようになってから、永く久しい。その間、その学び方も時代とともに、さまざまに変遷してきた。中国の古典がはじめてわが国に伝来したころは、われわれの祖先は恐らく、まず当時の中国語を学び、それを基礎にして中国の古典の読み方を覚え、内容を理解したにちがいない(牛島徳次郎、中国古典の学び方、1977年、1頁)。
といふことに、かかわらず、
③ 不(為児孫買美田)=
④(児孫の為に、美田を買ふこと)はない。
といふ「漢文」に、「括弧」はあります!。
平成26年10月28・29日、毛利太。

(29)~(45)により、
(46)
不(為児孫買美田)。
の「括弧」に関しては、「ドモルガンの法則」と、「含意の定義」で「証明」出来ても、
残念なことに、
為(児孫)
買(美田)
といふ「括弧」に関して、そのやうな「証明」は、出来ない。
しかしながら、
(47)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)といふ「事実」は、
為(児孫)⇒(児孫)為
買(美田)⇒(美田)買
であるとき、
「語順」として見れば、
左側は、「漢文の語順」であって、
右側は、「国語の語順」である。が、
「補足構造」として見れば、
左側は、「漢文の補足構造」であって、
右側は、「国語の補足構造」である。
といふことを、意味してゐる。
従って、
(43)(47)により、
(48)
不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
〔(児孫)為(美田)買〕不。
に於いて、
上は、「漢文の語順」であって、
下は、「国語の語順」である。
と同時に、
上は、「漢文の補足構造」であって、
下は、「国語の補足構造」である。
といふことを、意味してゐる。
従って、
(49)
不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
に於いて、
上は、「漢文の補足構造」であって、
下は、「国語の補足構造」である。
といふことについては、「訓読否定派の方たち」も、認めるもののと、思はれる。
従って、
(49)により、
(50)
不為児孫買美田 ⇒
児孫の為に美田を買は不。
といふ「漢文訓読」が、「補足構造」に即した、「(定型的な)訳読」であることについては、「訓読否定派の方たち」も、認めるもののと、思はれる。
然るに、
(51)
不(憤)不(啓)⇒
(憤せ)不んば(啓せ)不。
すなはち、「論語、述而第七、八」の英訳は、例へば、
if you do not agonize trying to understand, I will not enlighten(ゆはず かずより).
となってゐて、「(非定型的な)意訳」であるが、固より、英語には、漢字が無い。
従って、
(52)
「漢文訓読」は、「漢文英訳」とは、全く異なってゐて、ユニークなのは、もちろん、「漢文訓読」である。
然るに、
(53)
漢文教育(かんぶんきょういく)とは、高等学校における国語教育の1領域である。
中国の古典の読解方法(返り点など)を教える。大学入学試験に課されない場合もあるため、教育現場ではあまり重視されていない(ウィキペディア:漢文教育)。
私もそう思います。戦前は漢文教育が盛んだった日本もGHQによる旧制中学精神構造解体の結果、漢文レベルダウン深刻。でも今も共通テストには漢文あったかな?(Twitter/cunqi)。
といふわけで、
(54)
「ユニークな漢文訓読」は、しばらくすると、GHQと日教組のもくろみ通り(?)に、絶滅します。
平成26年10月29日、毛利太。

2014年10月27日月曜日

「括弧」はあります!

(01) 孟母
(02)

美田

従って、
(01)(02)により、
(03)
① 二 二 一 一。
② 二 二 一 二 一 一。
では、「順番」が分からず、
① 四 二 一 三。
② 六 二 一 四 三 五。
であっても、分かりやすくはないため、
① 下 二 一 上。
② 下 二 一 二 一 上。
とした「結果」が、
① 下 二 一 上。
② 下 二 一 二 一 上。
である。といふ、ことになる。
従って、
(03)により、
(04)
① 四 二 一 三。
② 六 二 一 四 三 五。
といふ「番号」を、「読みやすくしたもの」が、

① 下 二 一 上。
② 下 二 一 二 一 上。
といふ「返り点」である。といふことに、なる。

然るに、
(05)
それでは、何故、「漢文訓読」に於いて、「番号」が必要なのか。といふと、
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)からである。
従って、
(03)
有〔為(児孫)買(美田)者〕⇒
〔(児孫)為(美田)買者〕有=
〔(児孫の)為に(美田を)買ふ者〕有り。
といふ風に、「括弧」が、「返り点の役割」を果たす「理由」は、
有為児孫買美田者。
ごいふ「漢文」が、
有〔為(児孫)買(美田)者〕。
といふ「補足構造」をしてゐるからである。といふ、ことになる。
然るに、
(04)
有為児孫買美田者。
といふ「漢文」に、
有〔為(児孫)買(美田)者〕。
といふ「補足構造」が在る。
ことを、「証明」せよ。と言はれても、
〔( )( )〕。
は、顕微鏡を使っても、見えないため、
〔( )( )〕。
を、写真に撮ることは、出来ない。
ただし、
(05)
有為児孫買美田者=
児孫の為に美田を買ふ者有り。
といふのであれば、
児孫の為に。
が、有る。わけでも、
美田を買ふ。
が、有る。わけでも、なく、
児孫の為に美田を買ふ者。
が、有る。ことだけは、間違ひない。
従って、
(05)により、
(06)
有(為児孫)買美田者。
有為児孫(買美田)者。
とすることは、出来ないが、
有(為児孫買美田者)。
とすることに、「問題」は無い。
(07)
不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
〔(児孫)為(美田)買〕不=
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ「命題」が、
〔為(児孫)・買(美田)〕。
といふ「連言」の「否定」であるならば、
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不=
〔(児孫の)為ならば、(美田を)買はない〕。
といふ「等式」が、成立する。
cf.
「ド・モルガンの法則」、「含意の定義」。
然るに、
(08)
〔(児孫の)為ならば、(美田を)買はない〕。
の「対偶」は、
〔(美田を)買ふならば、(児孫の)為でない〕。
である。

cf.
命題「AならばB」の真偽とその対偶「BでないならAでない」の真偽とは必ず一致する(ウィキペディア)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
不〔為(児孫)買(美田)〕=
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ「否定文」が、
為(児孫)・買(美田)=
(児孫)の為に・(美田を)買ふ。
といふ「命題」の「否定」であれば、
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ「命題」は、
〔(美田を)買ふならば、(児孫の)為でない〕。
といふ「命題」に等しい。
然るに、
(10)
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ風に、西郷隆盛が言ってゐて、その西郷が、
〔(美田を)買ふ〕のであれば、
西郷が、「ウソつき」でない限り、西郷は、
〔(児孫以外の)為に、(美田を)買ふ〕ことになる。

cf.
「不為児孫買美田」は、西郷隆盛の「偶感」といふ詩の一句。
然るに、
(11)
〔(美田を)買ふ〕のであれば、
〔児孫以外の為に、美田を買ふ〕ことになる。
といふことは、
〔(美田を)買ふならば、(児孫の)為でない〕。
といふことに、他ならない。
従って、
(07)~(11)により、
(12)
不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふことから、
〔(美田を)買ふならば、(児孫の)為でない〕。
といふ風に、言へる。といふことは、
不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
に於いて、「ド・モルガンの法則」が、成り立つ。
といふことに、他ならない。
然るに、
(13)
「ド・モルガンの法則」とは、
¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
であるため、「括弧の存在」を、必要とする。

cf.
C言語などプログラミング言語の記号を使って書けば、P, Q がどんな式であろうと
 !(P || Q) == !P && !Q !(P && Q) == !P || !Q (ウィキペディア)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
不為児孫買美田=
児孫の為に、美田を買はず。
といふ「漢文訓読」から、
「美田を買ふならば、児孫の為でない。」
といふ「意味」が、「読み取れる」のであれば、少なくとも、
不(為児孫買美田)=
(児孫の為に、美田を買は)ず。
といふ「括弧」だけは、認めざるを、得ない。
従って、
(07)~(14)により、
(15)
不(為児孫買美田)⇒
(児孫の為に、美田を買は)ず。
といふ「括弧」を、認めないのであれば、
¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
といふ、「ド・モルガンの法則」が、成り立たないか、「我々の直観」が、誤りである。

といふ、少なくとも、どちらか、一方である。
然るに、
(16)
「西郷隆盛が、自分の児孫の為に、美田を買はない。」のであれば、
「西郷隆盛が、美田を買ふならば、自分の児孫の為でない。」と、せざるを得ないし、
尚且つ、「ド・モルガンの法則」は、「論理学」として、「正しい」ため、以上の推論は、「日本語」を超えて、「正しい」
従って、
(15)(16)により、
(17)
不(為児孫買美田)=
(児孫の為に、美田を買は)ず。
といふ「括弧」に関しては、顕微鏡では見えず、写真には取れなくとも、その「存在」を、認めてもらえる、はずである。
従って、
(06)(17)により、
(18)
① 不(為児孫買美田)。
② 有(為児孫買美田者)。
に関しては、「括弧」の「存在」を、認めてもらえる、はずである。
然るに、
(19)
私自身は、
① 不(為(児孫)買(美田))。
② 有(為(児孫)買(美田)者)。
だけなく、「返り点」を付けることが出来る「漢文」であれば、その「漢文」には、「括
弧」で表せる所の「補足構造」が必ず有る。と、考へます。
従って、
(20)
例へば、
虎求百獣而食之得狐。
狐曰子無敢食我也。
天帝使我長百獣。
今子食我是逆天帝命也。
子以我爲不信吾爲子先行。
子随我後観。
百獣之見我而敢不走乎。
虎以爲然。
故遂与之行。
獣見之皆走。
虎不知獣畏己而走也。
以爲畏狐也。
といふ「虎の威を借る(戦国策)」であれば、
(21)
それが書かれた「時点(紀元前)」に於いて、
虎求(百獣)而食(之)得(狐)。
狐曰子無〔敢食(我)〕也。
天帝使〔我長(百獣)〕。
今子食(我)是逆(天帝命)也。
子以(我)爲〔不(信)〕吾爲(子)先行。
子随(我後)観。
百獣之見(我)而敢不(走)乎。
虎以爲(然)。
故遂与(之)行。
獣見(之)皆走。
虎不[知〔獣畏(己)而走〕]也。
以爲〔畏(狐)〕也。
といふ「補足構造」をしてゐる。と、考へます。
従って、
(20)(21)により、
(22)
そのやうな、「補足構造」が有るからこそ、
虎(百獣を)求めて(之を)食らひ(狐を)得たり。
狐曰く子〔敢へて(我を)食らふこと〕無かれ。
天帝〔我をして(百獣に)長たら〕使む。
今子(我を)食らはば是れ(天帝の命に)逆らふなり。
子(我を)以て〔(信なら)不と〕爲さば吾(子の)爲に先行せむ。
子(我が後に)随ひて観よ。
百獣の(我を)見て敢へて(走ら)不らむや。と。
虎以て(然りと)爲す。
故に遂に(之)与行く。
獣(之を)見て皆走る。
虎[〔獣の(己を)畏れて走るを〕知ら]不るなり。
以て〔(狐を)畏るると〕爲すなり。
といふ「漢文訓読」が可能になる。と、考へます。
従って、
(21)(22)により、
(23)
例へば、
③ 虎不知獣畏己而走也=
③ 虎不[知〔獣畏(己)而走〕]也。
であるからこそ、
#=虎=1
レ=不=7
二=知=6
#=獣=2
レ=畏=4
_=己=3
#=而
一=走=5
#=也
といふ「返り点」が成立する。と、考へます。
従って、
(21)~(24)により、
(25)、
③ 虎不知獣畏己而走也=
③ 虎不[知〔獣畏(己)而走〕]也。
が有って、然る後に
③ レ 二 レ 一。
といふ「返り点」が成立する。と、考へます。
従って、
(25)により、
(26)
③ レ 二 レ 一。
といふ「返り点」が、日本に於いて、生まれなかったとしても、
③ 虎不知獣畏己而走也=
③ 虎不[知〔獣畏(己)而走〕]也。
といふ「補足構造」は存在する。と、考へます。
従って、
(27)
漢文よみを止めて中国語(その当時は支那語でしたが)でもってよまなければならない。それは徳川時代にも荻生徂徠がいっぺんやったことだが、今はもっとやりよい時代だから大いにやらなければならない(倉石武四郎、中国語五十年、1973年、21頁)。
とする、「漢文音読派」の方たちであっても、例へば、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
② 有〔為(児孫)買(美田)者〕。
③ 虎不[知〔獣畏(己)而走〕]也。
といふ「括弧の存在」だけは、認めるべきである。と、考へます。
それ故、
(28)
『返り点に対する「括弧」の用法』は、単なる「漢文訓読」の問題ではない。と、考へます。
平成26年10月27日、毛利太。

2014年10月25日土曜日

「返り点の問題」。

(01)
「返り点」は、「下から上へ返る点」であるため、「横書き」では、「右から左へ返る点」である。
従って、
(01)により、
(02)
(a)1 2 3。
(b)1 ③ ②。
(c)② ① 3。
(d)② 3 ①。
(e)③ 1 ②。
(f )③ ② ①。
に於いて、「丸」で囲まれてゐない「番号」に、「返り点」は、付かない。
従って、
(02)により、
(03)
(a)# # #。
(b)# ③ ②。
(c)② ① #。
(d)② # ①。
(e)③ # ②。
(f )③ ② ①。
に於いて、# に、「返り点」は、付かない。
従って、
(02)(04)により、
(04)
(a)1 2 3=
(a)# # #。
に、「返り点」は、付かない。
(05)
(d)② 3 ①=
(d)② # ①。
の場合は、
(d)②-3 ①。
のやうに、「ハイフン」を必要とするため、取りあへず、今は、扱はない。
(06)
(f )③ ② ①=
(f )レ レ 。
についても、#が無いため、ここでは、取り上げない。
従って、
(07)
ここでは、
(b)# ③ ②。
(c)② ① #。
(e)③ # ②。
を取り上げるものの、この四つは、
(イ)# 2 1。
(ロ)2 1 #。
(ハ)2 # 1。
といふ風に、書き換へても、「返り点」としては、変はりがない。
従って、
(07)により、
(08)
(イ)1 3 2。
(ロ)2 1 3。
(ハ)3 1 2。
に対して、「数字の順番」になるやうに、「数字」に対して「返り点」を付けよ。
といふ「問題の答へ」は、
(09)
(イ)# 2 1。
(ロ)2 1 #。
(ハ)2 # 1。
に対して、「数字の順番」になるやうに、「数字」に対して「返り点」を付けよ。
といふ「問題の答へ」と、同じになる。
然るに、
(10)
(イ)#=1 2 3
(ロ)#=3 4 5
(ハ)#=1 2 3
である時、
(イ)1 2 3 5 4。
(ロ)2 1 3 4 5。
(ハ)5 1 2 3 4。
に対して、「数字の順番」になるやうに、「数字」に対して「返り点」を付けよ。
といふ「問題の答へ」は、
(イ)# 2 1。
(ロ)2 1 #。
(ハ)2 # 1。
に対して、「数字の順番」になるやうに、「数字」に対して「返り点」を付けよ。
といふ「問題の答へ」と、同じになる。
然るに、
(11)
(イ)# 2 1。
(ロ)2 1 #。
(ハ)2 # 1。
に「返り点」を付けよといふ「問題」と、
(イ)1 2 3 5 4。
(ロ)2 1 3 4 5。
(ハ)5 1 2 3 4。
に「返り点」を付けよといふ「問題」とを、比較した場合に、わかりにくいのは、もちろん、後者である。
(12)
「返り点が、わかりません(2014/10/16)」で取り上げた、
(ニ) 55 49 3 1 2 33 5 4 8 6 7 10 9 11 12 23 15 13 14 17 16 18 19 20 22 21 25 24 29 28 26 27 32 30 31 36 34 35 48 40 37 38 39 43 42 41 47 46 44 45 54 53 50 51 52。
のやうな、「(有り得ない?)問題」に比べれば、
(イ)1 2 3 5 4。
(ロ)2 1 3 4 5。
(ハ)5 1 2 3 4。
は、「簡単極まり」ないものの、それでもなほ、
(イ)# 2 1。
(ロ)2 1 #。
(ハ)2 # 1。
よりは、むずかしい。
(13)
(ホ)5 1 2 4 3。
(へ)6 1 2 5 3 4。
(ト )1 7 4 2 3 5 6。
(河合塾、ステップアップノート10、2007年、7頁)
にしても、
(ホ)3 # # 2 1。
(へ)3 # # 2 # 1。
(ト )# 4 2 # 1 # 3。
よりも、難しい。
然るに、
(14)
(01)
(イ)# 2 1。
(ロ)2 1 #。
(ハ)2 # 1。
(ホ)3 # # 2 1。
(へ)3 # # 2 # 1。
(ト )# 4 2 # 1 # 3。
に「返り点」を付けよといふ「問題」と、
(イ)1 2 3 5 4。
(ロ)2 1 3 4 5。
(ハ)5 1 2 3 4。
(ホ)5 1 2 4 3。
(へ)6 1 2 5 3 4。
(ト )1 7 4 2 3 5 6。
に「返り点」を付けよといふ「問題」は、「返り点の問題」としては、結局は、同じことである。
従って、
(15)
(イ) レ 。
(ロ)レ  。
(ハ)二 一。
(ホ)二 一レ 。
(へ)三 二 一。
(ト )下 二 一 上。
といふ「返り点」を理解するのであれば、HPでも書いたやうに、わざわざ、「むずかしい方」である、
(イ)1 2 3 5 4。
(ロ)2 1 3 4 5。
(ハ)5 1 2 3 4。
(ホ)5 1 2 4 3。
(へ)6 1 2 5 3 4。
(ト )1 7 4 2 3 5 6。
に「返り点」を付けよ。といふ「問題」を、やる必要はない。
然るに、
(16)
急ぎです!
漢文の返り点の付け方がわかりません
難し過ぎて分かりません
わかる方いらっしゃいましたら回答お願いします!
8 9 5 4 2 1 3 7 6 10
の場合は、
8 9 5 4 2 1 3 7 6 # 
であるため、#で置き換へても、ほとんど、変はらないので、その意味では、「実際に、難しい」。
(17)
②-3 ①。
と同様に、一番最初が、
8-9
であることも、注意が、必要である。
然るに、
(18)
8-9 5 4 2 1 3 7 6。
 丙  下 中 二 一 上 乙 甲。
とすれば、取りあへずは、「順序」としては、「成立」する。
そのため、
(19)
8-9 5 4 2 1 3 7 6。
 丙  下 中 二 一 上 乙 甲。
と「同じ順番」になるやうに、「レ点」を用ゐれば、良いことになる。
従って、
(20)
8-9 5 4 2 1 3 7 6。
 下  レ 二 レ   一 上レ 。
が、「正しい。
従って、
(21)
8 9 5 4 2 1 3 7 6 10
がさうであるやうに、「難し過ぎて分かりません。」といふ場合は、「ハイフン」が有るのかも知れないとした上で、HPでも書いたやうに、取りあへず、
① 一二点。
② 上下点。
③ 甲乙点。
④ 天地点。
だけで考へてみることを、勧めたいと、思ひます。
平成26年10月25日、毛利太。

2014年10月23日木曜日

「二 四 三 一」について。

(01)
① 3 1 2 ⇒ 1 2 3。
② 3 2 1 ⇒ 1 2 3。
③ 2 3 1 ⇒ 1 2 3。
④ 2 3 4 1 ⇒ 1 2 3 4。
⑤ 2 4 3 1 ⇒ 1 2 3 4。
等を、「ソート」と呼ぶことにする。
(02)
① 3(12)⇒
① (12)3=1 2 3。
② 3〔2(1)〕⇒
② 〔(1)2〕3=1 2 3。
等を、「括弧を用ゐたソート」と呼ぶことにする。
(03)
③ 2-3(1)⇒
③(1)2-3 = 1 2-3。
④ 2-3-4(1)⇒
④(1)2-3-4 = 1 2-3-4。
等を、「括弧とハイフンを用ゐたソート」と呼ぶことにする。
この時、
(04)
⑤ 2 4 3 1 ⇒ 1 2 3 4。
に関しては、「括弧を用ゐたソート」も、「括弧とハイフンを用ゐたソート」も、両方とも、「可能」ではない。
何となれば、
(05)
③ 2(3〔1)〕⇒
③ (〔1)3〕2=1 2 3。
③ (〔 )〕。
は、「括弧」とは、言へないため、
④ 2 3 4 1 ⇒ 1 2 3 4。
⑤ 2 4 3 1 ⇒ 1 2 3 4。
の場合も、当然、「括弧を用ゐたソート」は、「不可能」である。
加へて、
(06)
③ 2-3(1)⇒
③(1)2-3 = 1 2-3。
④ 2-3-4(1)⇒
④(1)2-3-4 = 1 2-3-4。
に対して、
⑤ 2-4-3(1)⇒
⑤(1)2-4-3 ≠ 1 2-3-4。
であるため、
⑤ の場合は、「括弧とハイフンを用ゐたソート」も、「不可能」である。
従って、
(01)~(06)により、
(07)
① 3 1 2 ⇒ 1 2 3。
② 3 2 1 ⇒ 1 2 3。
に関しては、「括弧を用ゐたソート」が、「可能」であり、
③ 2 3 1 ⇒ 1 2 3。
④ 2 3 4 1 ⇒ 1 2 3 4。
に関しては、「括弧とハイフンを用ゐたソート」が、「可能」であり、
⑤ 2 4 3 1 ⇒ 1 2 3 4。
に関しては、両方とも、「可能」ではない。
然るに、
(08)
① 3(12)⇒
① (12)3=1 2 3。
といふ「ソート」は、「返り点」では、
① 二 一。
に「相当」し、
② 3〔2(1)〕⇒
② 〔(1)2〕3=1 2 3。
といふ「ソート」は、「返り点」では、
② レ レ 。
に「相当」する。
(09)
③ WHO ARE YOU=汝を 誰と 為す。
二=誰=WHO=2
三=為=ARE=3
一=汝=YOU=1
に於いて、
二=誰
三=為
といふ「点」は、「上から下へ行く点」であって、「下から上へ返る点」ではない。
従って、
(09)により、
(10)
③ WHO ARE YOU=汝を 誰と 為す。
二=誰=WHO=2
三=為=ARE=3
一=汝=YOU=1
は、「返り点」ではない。
然るに、
(11)
二=誰=2
三=為=3
一=汝=1
ではなく、
二=誰
#=為
一=汝
であれば、
③ ARE YOU WHO=為す 汝を 誰と。
二=誰=WHO=3
#=為=ARE=1
一=汝=YOU=2
であるため、
③ WHO ARE YOU=汝を 誰と 為す。
とは、ならない。
従って、
(10)(11)により、
(12)
③ WHO ARE YOU=汝を 誰と 為す。
といふ「WH移動」に対して、「返り点」を付けることは、出来ない。
然るに、
(13)
③ 誰 為 汝 = WHO ARE YOU。
ではなく、
③ 訓-読 書 = 書を 訓-読す。
であれば、
③ 訓-読 = 二字熟語
であるため、
#=訓=2
二=-
#=読=3
一=書=1
のやうに、「返り点(ハイフン有り)」を、付けることが、出来る。
従って、
(08)~(13)により、
(13)
① 3 1 2 ⇒ 1 2 3。
② 3 2 1 ⇒ 1 2 3。
に於いては、「返り点を用ゐたソート」が、「可能」であり、
③ 2 3 1 ⇒ 1 2 3。
に於いては、「返り点とハイフンを用ゐたソート」が、「可能」である。
然るに、
(14)
二=B=2
三=C=3
四=D=4
一=A=1
に於いて、
二=B
三=C
四=D
といふ「点」は、「上から下へ行く点」であって、「下から上へ返る点」ではないため、
二=B=2
三=C=3
四=D=4
一=A=1
は、「返り点」ではない。
然るに、
(15)
二=B
#=C
#=D
一=A
であれば、
二=B=4
#=C=1
#=D=2
一=A=3
であって、
④ B C D A ⇒ C D A B。
である。
(16)
二=B
レ=C
#=D
一=A
であれば、
二=B=4
レ=C=2
#=D=1
一=A=3
であって、
④ B C D A ⇒ D C A B。
である。
従って、
(14)(15)(16)により、
(17)
「ハイフン」が無い場合は、
④ B C D A ⇒ A B C D。
すなはち、
④ 2 3 4 1 ⇒ 1 2 3 4。
といふ、「返り点を用ゐたソート」は、「可能」ではない。
然るに、
(18)
#=B=2
二=-
#=C=3
#=-
#=D=4
一=A=1
ならば、
④ B-C-D A ⇒ A B-C-D。
すなはち、
④ 2-3-4 1 ⇒ 1 2-3-4。
といふ、「返り点を用ゐたソート」が、「可能」になる。
従って、
(13)(18)により、
(19)
① 3 1 2 ⇒ 1 2 3。
② 3 2 1 ⇒ 1 2 3。
に於いては、「返り点を用ゐたソート」が、「可能」であり、
③ 2 3 1 ⇒ 1 2 3。
④ 2 3 4 1 ⇒ 1 2 3 4。
に於いては、「返り点とハイフンを用ゐたソート」が、「可能」である。
然るに、
(20)
二=B=2
四=D=4
三=C=3
一=A=1
に於いて、
二=B
三=C
といふ「点」は、「上から下へ行く点」であって、「下から上へ返る点」ではないため、
二=B=2
四=D=4
三=C=3
一=A=1
は、「返り点」ではない。
然るに、
(21)
二=B=2
四=D=4
三=C=3
一=A=1
ではなく、
二=B
#=D
#=C
一=A
であれば、
二=B=4
#=D=1
#=C=2
一=A=3
であるため、
⑤ B D C A ⇒ D C A B。
である。
(22)
二=B=2
四=D=4
三=C=3
一=A=1
ではなく、
二=B=2
下=D=4
上=C=3
一=A=1
であれば、「上下点は、必ず一二点をまたいで返る場合に用ゐる(原田種成、私の文法講義、1995年、43頁)。」といふ「規則」に、抵触する。
(23)
二=B
レ=D
#=C
一=A
であれば、
二=B=4
レ=D=2
#=C=1
一=A=3
であるため、
⑤ B D C A ⇒ C D A B。
である。
(24)
#=B=2
二=-
#=D=4
#=-
#=C=3
一=A=1
のやうに、「ハイフン」を用ゐても、
⑤ B-D-C A ⇒ A B-D-C。
となって、
⑤ B D C A ⇒ A B C D。
すなはち、
⑤ 2 4 3 1 ⇒ 1 2 3 4。
とは、ならない。
従って、
(20)~(24)により、
(25)
⑤ 2 4 3 1 ⇒ 1 2 3 4。
に於いては、「返り点を用ゐたソート」も、「返り点とハイフンを用ゐたソート」も、両方とも、「可能」ではない。
従って、
(19)(25)により、
(26)
① 3 1 2 ⇒ 1 2 3。
② 3 2 1 ⇒ 1 2 3。
に関しては、「返り点を用ゐたソート」が、「可能」であり、
③ 2 3 1 ⇒ 1 2 3。
④ 2 3 4 1 ⇒ 1 2 3 4。
に関しては、「返り点とハイフンを用ゐたソート」が、「可能」であり、
⑤ 2 4 3 1 ⇒ 1 2 3 4。
に関しては、両方とも、「可能」ではない。
従って、
(07)(26)により、
(27)
① 3 1 2 ⇒ 1 2 3。
② 3 2 1 ⇒ 1 2 3。
に関しては、「返り点(括弧)を用ゐたソート」が、「可能」であり、
③ 2 3 1 ⇒ 1 2 3。
④ 2 3 4 1 ⇒ 1 2 3 4。
に関しては、「返り点(括弧)とハイフンを用ゐたソート」が、「可能」であり、
⑤ 2 4 3 1 ⇒ 1 2 3 4。
に関しては、両方とも、「可能」ではない。
従って、
(27)により、
(28)
例へば、
⑤ 2 4 3 1 ⇒ 1 2 3 4。
に加へて、
⑥ 2 4 5 3 1 ⇒ 1 2 3 4 5。
の場合も、両方とも、「可能」ではない。
(29)
⑥ B(D[E{C〔A)〕]}⇒
⑥ ([{〔A)B〕C]D}E=
⑥ A B C D E。
に於いて、、
⑥([{〔 )〕]}。
は、「括弧」とは、言へないし、
二=B=2
四=D=4
五=E=5
三=C=3
一=A=1
に於ける、
⑥ 二 四 五 三 一。
も、「返り点」とは、言へない。
(30)
⑥ 2 4-5 3 1。
は、
4-5
を、
「一字」と見なすため、
⑥ 2 4-5 3 1。
は、
⑤ 2 4 3 1。
と、「同じ事」である。
(31)
⑦ 2 4 5-3 1。
⑧ 2 4- 5-3 1。
⑨ 2-4-5-3 1。
のやうにすれば、その時点で、
2 4 5 3 1 ⇒ 1 2 3 4 5。
といふ「ソート」は、「不可能」である。
平成26年10月23日、毛利太。

2014年10月22日水曜日

「一 三 二」等について。

(01)
① 読漢文=漢文を読む。
の「返り点」、すなはち、
① 二 一。
を、
二=読=3
#=漢=1
一=文=2
のやうに、書くことにする。
従って、
(02)
② 文読漢=漢文を読む。
の「点」、すなはち、
② 二 三 一。
を、
二=文=2
三=読=3
一=漢=1
のやうに、書くことにする。
然るに、
(03)
「返り点」は、「下から、上へ返へる点」であるため、
二=文=2
三=読=3
のやうに、「上から、下へ行く点」は、「返り点」ではない。
従って、
(02)(03)により、
(04)
② 文読漢=漢文を読む。
の「点」、すなはち、
② 二 三
を含む、
② 二 三 一。
は、「返り点」ではない。
然るに、
(05)
二=文=2
三=読=3
一=漢=1
を、
二=文
#=読
一=漢
にすると、
二=文=3
#=読=1
一=漢=2
となるため、
② 漢文を読む。
ではなく、
② 読漢を文する。
としか、読めない。
従って、
(04)(05)により、
(05)
① 読漢文=漢文を読む。
に対して、
② 文読漢=漢文を読む。
の場合は、「返り点」を付けることが、出来ない。
(06)
③ 不読漢文=漢文を読まず。
の「返り点」、すなはち、
③ レ 二 一。
を、
レ=不=4
二=読=3
#=漢=1
一=文=2
のやうに、書くことにする。
従って、
(07)
④ 文不漢読=漢文を読まず。
の「返り点」、すなはち、
④ 一 三 二。
を、
一=文=2
三=不=4
#=漢=1
二=読=3
のやうに、書くことにする。
然るに、
(08)
一=文=2
二=読=3
のやうに、「上から、下へ行く点」は、「返り点」ではない。
従って、
(07)(08)により、
(09)
④ 文不漢読=漢文を読まず。
の「点」、すなはち、
④ 一 二
を含む、
④ 一 三 二。
は、「返り点」ではない。
然るに、
(10)
一=文=2
三=不=4
#=漢=1
二=読=3
を、
二=文=2
下=不=4
一=漢=1
上=読=3
に変へた場合は、「上下点は、必ず一二点をまたいで返る場合に用ゐる(原田種成、私の文法講義、1995年、43頁)。」といふ「規則」に、抵触する。
すなはち、
(11)
二=文=2
下=不=4
一=漢=1
の場合は、却って、「一二点が、上点を挟んでゐる。」ため、このやうな「返り点」は、存在しない。
従って、
(09)(11)により、
(12)
いづれにせよ、
③ 不読漢文=漢文を読まず。
に対して、
④ 文不漢読=漢文を読まず。
の場合は、「返り点」を付けることが、出来ない。
従って、
(05)(12)により、
(13)
①   読漢文=漢文を読む。
③ 不読漢文=漢文を読まず。
対して、
②   文読漢=漢文を読む。
④ 文不漢読=漢文を読まず。
の場合は、「返り点」を付けることが、出来ない。
加へて、
(14)
⑤ 不文読漢=漢文を読まず。
の場合も、
四=不=4
二=文=2
三=読=3
一=漢=1
のやうに、
二=文=2
三=読=3
を含んでゐる上に、尚且つ、
レ=不=4
二=文=3
#=読=1
一=漢=2
であれば、
⑤ 不文読漢=読む漢文をず。
であるため、
②   文読漢=漢文を読む。
④ 文不漢読=漢文を読まず。
に加へて、
⑤ 不文読漢=漢文を読まず。
の場合も、「返り点」を付けることが、出来ない。
然るに、
(15)
1.『主述関係』 
2.『修飾関係』 
3.『補足構造』 
4.『並列関係』
右の四つの文法関係は、漢語文法の基礎となっている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、284頁改)。
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(16)
①   読漢文=漢文を読む。
③ 不読漢文=漢文を読まず。
は、
3.『補足構造』 
が、「逆」である所の、「漢文」であるが、固より、
②  文読漢。
④ 文不漢読。
⑤ 不文読漢。
は、「デタラメ」であって、「漢文」ではない。
然るに、
(17)
「勉誠出版、続「訓読論」、2010年、312頁:川島優子」によると、
⑥ 只管要纏擾我=ヒタスラ 我ガ ヤッカイニナル。
の場合は、
#=只=1
#=管=2
下=要=6
二=纏=4
上=擾=5
一=我=3
である。との、ことである。
然るに、
(18)
⑥ 只管要纏擾我=ヒタスラ 我ガ ヤッカイニナル。
下=要=6
二=纏=4
上=擾=5
一=我=3
は、
⑤ 不文読漢=漢文を読まず。
四=不=4
二=文=2
三=読=3
一=漢=1
と「同様」であるため、このやうな「返り点」は、存在しない。
従って、
(14)~(18)により、
(19)
例へば、
⑥ 只管要纏擾我=ヒタスラ 我ガ ヤッカイニナル。
といふ「白話」は、「デタラメ」であるとは、言へないにしても、少なくとも、「漢文」ではない。
従って、
(20)
⑥ 只管要纏擾我=ヒタスラ 我ガ ヤッカイニナル。
のやうな「白話」が読めるやうになったとしても、「漢文」が読めるやうに、なるわけではない。
平成26年10月22日、毛利太。

2014年10月19日日曜日

返り点(ハイフン有り)と括弧と番号。

(01)
レ=2=読
_=1=書
∵ 書を読む。
(02)
レ=3=不
レ=2=読
_=1=書
∵ 書を読まず。
(03)
二=3=読
#=1=漢
一=2=文
∵ 漢文を読む。
(04)
レ=4=不
二=3=読
#=1=漢
一=2=文
∵ 漢文を読まず。
(05)
三=5=不
#=1=常
二=4=読
#=2=漢
一=3=文
∵ 常には漢文を読ま不。
然るに、
(06)
①読(書)⇒
(書を)読む。
②不〔読(書)〕⇒
〔(書を)読ま〕不。
③読(漢文)⇒
(漢文を)読む。
④不〔読(漢文)〕⇒
〔(漢文を)読ま〕不。
⑤不〔常読(漢文)〕⇒
〔常には(漢文を)読ま〕不。
従って、
(01)~(06)により、
(07)
① 読書=書を読む。
② 不読書=書を読ま不。
③ 読漢文=漢文を読む。
④ 不読漢文=漢文を読ま不。
⑤ 不常読漢文=常には漢文を読ま不。
の「返り点」は、
① レ 。
② レ レ 。
③ 二 一。
④ レ 二 一。
⑤ 三 二 一。
であって、「括弧」は、
①  ( )。
②〔( )〕。
③  ( )。
④〔( )〕。
⑤〔( )〕。
であって、「番号」は、
① 2 1。
② 3 2 1。
③ 3 1 2。
④ 4 3 1 2。
⑤ 5 1 4 2 3。
である。
然るに、
(08)
② 3 2 1。
を、
⑥ 2 3 1。
に変へるならば、
② 不読書=書を読ま不。
は、
⑥ 読不書。
となるものの、
② 不読書=書を読ま不。
に対して、
⑥ 読不書=書を読ま不。
⑥ 231=1を2ま3。
といふ「漢文訓読」は、固より、有り得ない。
従って、
(09)
二=2=読
三=3=不
一=1=書
といふ「返り点」は、有り得ない。
加へて、
(10)
⑥ 2(3〔1)〕。
といふ「括弧」も、有り得ない。
従って、
(08)~(10)により、
(11)
① レ 。
② レ レ 。
③ 二 一。
④ レ 二 一。
⑤ 三 二 一。
①  ( )。
②〔( )〕。
③  ( )。
④〔( )〕。
⑤〔( )〕。
といふ「返り点」と「括弧」に対して、
⑥ 二 三 一。
⑥ 2(3〔1)〕。
といふ「返り点」と「返り点」は、有り得ない。
然るに、
(12)
⑦ 訓‐読 書=書を 訓‐読す。
⑦ 2‐3 1=1を 2‐3す。
であれば、
⑦ 訓‐読(書)=(書を)訓‐読す。
⑦ 2‐3(1)=(1を)2‐3す。
であるため、結局は、
① 読(書)=(書を)読む。
① 2(1)=(1を)2む。
と、変はらない。
然るに、
(13)
⑦ 訓‐読 書=書を 訓‐読す。
⑦ 2‐3 1=1を 2‐3す。
の「返り点」は、
#=訓=2
二=‐
#=読=3
一=書=1
といふ風に、書くことが、出来る。
従って、
(14)
⑧ 不 嘆‐息‐痛‐恨 於桓霊。
⑧ 7 3‐4‐5‐6 #12=
⑧ 7〔3‐4‐5‐6(#12)〕⇒
⑧ 〔(#12)3‐4‐5‐6〕7。
の「返り点」は、
レ=不=7
_=嘆=3
二=‐
#=息=4
#=‐
#=痛=5
#=‐
#=恨=6
#=於
#=桓=1
一=霊=2
といふ風に、書くことが、出来る。
従って、
(14)により、
(15)
⑧ 不〔嘆‐息‐痛‐恨(於桓霊)〕⇒
⑧ 〔(桓霊に)嘆‐息‐痛‐恨せ〕不。
の「返り点」は、
⑧ レ 二 一。
である。
従って、
(07)(15)により、
(16)
⑧ 不〔嘆‐息‐痛‐恨(於桓霊)〕⇒
⑧ 〔(桓霊に)嘆‐息‐痛‐恨せ〕不。
の「返り点」は、
④不〔読(漢文)〕⇒
〔(漢文を)読ま〕不。
の「返り点」と同じく、
⑧ レ 二 一。
であるべきであるが、「学校」等で習ふ、「返り点」としては、
⑧ レ 二 一。
は、「正しく」はない。
(17)
「文部省」が決めた「返り点」としては、
四=不=7
#=嘆=3
二=‐
#=息=4
#=痛=5
三=‐
#=恨=6
#=於
#=桓=1
一=霊=2
が「正しい」。
従って、
(18)
「文部省」が決めた、
⑧ 未[嘗不〔嘆‐息‐痛‐恨(於桓霊)〕]⇒
⑧ 未[嘗〔(於桓霊)嘆‐息‐痛‐恨〕不]不=
⑧ 未だ[嘗て〔(桓霊に)嘆‐息‐痛‐恨せ〕不んばあら]不。
の「返り点」は、
⑧ 五 四 二 三 一。
が、「正しい」。
平成26年10月19日、毛利太。

2014年10月14日火曜日

「返り点」と「括弧」と「番号」。

(01)
次に示す、「縦書き(02)」により、、
① レ 二 レ 一レ 。
といふ「返り点」は、
② レ 下 二 一 中 上。
③ 六 五 二 一 四 三。
④[〔( )( )〕]。
といふ、「三通り」に、「置き換へ」られる。
(02)
二レ一レ
(03)
次に示す、「縦書き(04)」により、
何 不 令 人 謂 韓 叔 曰 秦 之 敢 絶 周 而 伐 韓 者 信 東 周
也 公 何 不 与 周 地 発 質 使 之 楚 秦 必 疑 楚 不 信 周 是
韓 不 伐 也 又 謂 秦 曰 韓 彊 与 周 地 将 以 疑 周 於 秦 也
周 不 敢 不 受。
といふ、「65字からなる漢文」に付く「返り点」は、
レ 丁 二 一 地 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 天レ レ 丙 二 一 三 二 一 乙 甲レ 。
といふ、「28個」である。
(04)
甲天逆転
然るに、
(05)
① レ 二 レ 一レ 。
といふ「返り点」が、
② レ 下 二 一 中 上。
③ 6 5 2 1 4 3。
④[〔( )( )〕]。
といふ、「三通り」に、「置き換へ」られるやうに、
何 不 令 人 謂 韓 叔 曰 秦 之 敢 絶 周 而 伐 韓 者 信 東 周
也 公 何 不 与 周 地 発 質 使 之 楚 秦 必 疑 楚 不 信 周 是
韓 不 伐 也 又 謂 秦 曰 韓 彊 与 周 地 将 以 疑 周 於 秦 也
周 不 敢 不 受。
に於ける、
レ 丁 二 一 地 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 天レ レ 丙 二 一 三 二 一 乙 甲レ 。
といふ、

「①28個の返り点」は、
己 戊 二 一 人 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 地 天 二 一 丁 二 一 三 二 一 丙 乙 甲。

といふ、
「②レ点を含まない、36個の返り点」と、
36 35 2 1 23 4 3 6 5 8 7 15 10 9 12 11 14 13 17 16 20 19 18 22 21 25 24 34 27 26 30 29 28 33 32 31。
といふ、
「③36個の番号」と、
36〈35{2(1)23[4(3)6(5)8(7)15〔10(9)12(11)14(13)〕17(16)20〔19(18)〕22(21)]25(24)34[27(26)30〔29(28)〕33〔32(31)〕]}〉⇒
〈{(1)223[(3)4(5)6(7)8〔(9)10(11)12(13)14〕15(16)17〔(18)19〕20(21)22](24)25[(26)27〔(28)29〕30〔(31)32〕33]34}35〉36=
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36。
といふ、

「④括弧」に、「置き換へ」ることが出来る。
然るに、
(06)
己 戊 二 一 人 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 地 天 二 一 丁 二 一 三 二 一 丙 乙 甲。
といふ、「②レ点を含まない、36個の返り点」を「観察」すると、
① 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・。
② 上 中 下。
③ 天 地 人。
④ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸。
に於いて、
① の間には、0個以上の①が有り、
② の間には、1個以上の①が有り
③ の間には、1個以上の②が有り、
④ の間には、1個以上の③が有る。
といふことが、分る。
(07)
0個以上の①が有る。
といふのは、
三 二 一=
三 # 一。
ならば、
#=二 
であるが、
二 一=
二 一
の場合には、
#が、0個である。
といふ、「意味」である。
(08)
〈{( )[( )( )( )〔( ) ( )( )〕( )〔( )〕( )]( )[( )〔( )〕〔( )〕]}〉。
「④括弧」を、「観察」すると、
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
に於いて、
② の中には、一つ以上の①が有り、
③ の中には、一つ以上の②が有り、
④ の中には、一つ以上の③が有り、
⑤ の中には、一つ以上の④が有る。
といふことが、分る。
従って、
(06)(08)により、
(09)
① 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・。
② 上 中 下。
③ 天 地 人。
④ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸。
に於いて、
① の間には、0個以上の①が有り、
② の間には、1個以上の①が有り
③ の間には、1個以上の②が有り、
④ の間には、1個以上の③が有る。
といふことが、分かり、
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
に於いて、
② の中には、一つ以上の①が有り、
③ の中には、一つ以上の②が有り、
④ の中には、一つ以上の③が有り、
⑤ の中には、一つ以上の④が有る。
といふことが、分る。
従って、
(05)(09)により、
(10)
36 35 2 1 23 4 3 6 5 8 7 15 10 9 12 11 14 13 17 16 20 19 18 22 21 25 24 34 27 26 30 29 28 33 32 31=
36〈35{2(1)23[4(3)6(5)8(7)15〔10(9)12(11)14(13)〕17(16)20〔19(18)〕22(21)]25(24)34[27(26)30〔29(28)〕33〔32(31)〕]}〉⇒
〈{(1)223[(3)4(5)6(7)8〔(9)10(11)12(13)14〕15(16)17〔(18)19〕20(21)22](24)25[(26)27〔(28)29〕30〔(31)32〕33]34}35〉36=
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36。
といふ「③番号」も、そのやうな「規則性」を持った「番号」である。
といふ、ことになる。
然るに、
(11)
〔ドリル〕
次の数字の順序で読めるように返り点をつけよ。
55 49 3 1 2 33 5 4 8 6 7 10 9 11 12 23 15 13 14 17 16 18 19 20 22 21 25 24 29 28 26 27 32 30 31 36 34 35 48 40 37 38 39 43 42 41 47 46 44 45 54 53 50 51 52。
といふ「問題」の場合も、そのやうな「規則性」を持った「番号」であって、「答へ」は、
亨 人 二 一 丙 レ 二 一 レ 下 二 一 レ 上レ レ レ 二 一 乙 甲 二 一 地 二 一 レ レ 天レ 二 一 元レ 二 一。
である。が、この場合は、
① 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・。
② 上 中 下。
③ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸。
④ 天 地 人。
⑤ 元 亨 利 貞。
の「順番」に、なってゐる。
cf.
元亨(利貞)点 もしくは 乾坤点 天地人点の範囲をまたぐときに用いる。「元亨利貞」は易の言葉である。
然るに、
(12)
55 49 3 1 2 33 5 4 8 6 7 10 9 11 12 23 15 13 14 17 16 18 19 20 22 21 25 24 29 28 26 27 32 30 31 36 34 35 48 40 37 38 39 43 42 41 47 46 44 45 54 53 50 51 52=

39 35 2 # 1 23 4 3 6 # 5 8 7 # # 15 10 # 09 12 11 # # # 14 13 17 16 20 19 # 18 22 # 21 25 # 24 34 27 # # 26 30 29 28 33 32 # 31 38 37 # # 36
の「括弧」は、
〈{( )[( )( )( )〔( ) ( )( )〕( )〔( )〕( )]( )[( )〔( )〕〔( )〕]}〔( )〕〉。
である。

然るに、
(13)
ついでに説明しておくと、「一・二・三・ ・・・・・」「上・中・下」「甲・乙・丙・ 
・・・・・」「天・地・人」と、いろいろ上級の返り点があり、それをつけることがあるが、「天・地・人」を使わなければならないような文は、実際にはほとんどない。そんな複雑な長い文は悪文である(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、83頁)。
従って、
(14)
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
といふ「括弧」で、「不足」することは、事実上、有り得ない。が、ただし、
六〈五{四[三〔二(一)〕]}〉⇒
〈{[〔(一)二〕三]四}五〉六。
であるため、
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
では、「括弧の種類」が不足し、
七 六 五 四 三 二 一。
レ レ レ レ レ レ 。
等を、表すことが、出来ない。
平成26年10月14日、毛利太。

2014年10月6日月曜日

『補足構造(括弧)は有ります!』

(01)
① 悪(寒)⇔(寒きを)悪む。
② 好(暖)⇔(暖きを)好む。
然るに、
(02)
補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 悪(寒)は、(補足構造)であって、
② 好(暖)も、(補足構造)である。
然るに、
(04)
③ 不〔悪(寒)好(暖)〕⇔
③ 〔(寒きを)悪み(暖きを)好ま〕不。
従って、
(01)(04)により、
(05)
③ 不〔悪(寒)好(暖)〕は、
③〔(補足構造)と(捕捉構造)の、補足構造〕である。
cf.
③ ~〔悪(寒)∧好(暖)〕=
③ ~  悪(寒)∨~好(暖)=
③ 寒きを悪むならば、暖きを好まない。
然るに、
(06)
④ 非[不〔悪(寒)好(暖)〕]⇔
④ [〔(寒きを)悪み(暖きを)好ま〕不んば]非ず。
従って、
(01)(06)により、
(07)
④ 非[不〔悪(寒)好(暖)〕]は、
④[〔(補足構造)と(捕捉構造)の補足構造〕の補足構造]である。
従って、
(06)(07)により、
(08)
④ 非不悪寒好暖 ⇔
④ 寒きを悪み暖きを好ま不んば非ず。
といふ「漢文訓読」は、
④「補足構造と補足構造の、補足構造の、補足構造」に、即してゐる。
然るに、
(09)
否定呼応を用いる言語では、二重に否定語を用いても単純にひとつの否定表現を作るだけであり、論理学的に見た場合は単なる否定である。しかし、否定呼応を用いない言語では、二重に否定語を用いることは論理学的に見るところの「否定」の否定であり、肯定である(ウィキペディア:二重否定)。
従って、
(10)
④ 非不悪寒好暖。
といふ「漢文」の「構造(シンタックス)」が、
④ 非[不〔悪(寒)好(暖)〕]=
④ ~[~〔悪(寒)好(暖)〕]。
といふ形の「二重否定」であるか否かといふことは、「漢文」といふ「言語自体」の「問題」であって、「漢文と訓読」の「問題」ではない。
従って、
(11)
訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だ(洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)といふ風に、「漢文訓読」を否定される、先生であっても、
④ 非不悪寒好暖=
④ 非[不〔悪(寒)好(暖)〕]=
④ ~[~〔悪(寒)好(暖)〕]。
であることに関しては、認めてもらへるものと、思はれる。
従って、
(12)
少なくとも、
④ 非不悪寒好暖 ⇔
④ 寒きを悪み暖きを好ま不んば非ず。
といふ「漢文訓読」に関して、
「漢文訓読とは、漢文(原文)の補足構造に即した、定型的な訳読である。」
といふことを、「否定」される方は、ゐないものと、思はれる。
平成26年10月06日、毛利太。

2014年10月5日日曜日

白話(現代中国)と返り点。

(01)
(1)レ点 下の一字から上の一字に返る場合に用いる。
(2)一二点(一・二・三・・・・・・) 二字以上を隔てて返る場合。
(3)上中下点(上・下、上・中・下) レ点・一二点だけで示しきれない場合。かならず一二点をまたいで返る場合に用いる(数式における( )一二点で、{ }上中下点相当するものと考えると分かりやすい)。
(4)甲乙丙点(甲・乙・丙・丁) レ点・一二点・上中下点で示しきれない場合。
〔原田種成、私の漢文講義、1995年、40~43頁〕
従って、
(01)により、
(02)
① 下 二 一 中 上。
② 下 中 二 一 上。
に対して、
③ 二 下 上 一 中。
といふ「返り点」、すなはち、
③ 一二点 の間に、上下点 が在る「返り点」は、有り得ない。
然るに、
(03)
① 〔( )( )〕。
② [ 〔( )〕]。
に対して、
③ ([〔 )〕]。
といふ「括弧」、すなはち、
③ ( ) の間に、[〔 が在る「括弧」は、有り得ない。
cf.
① 下〔二(一)中(上)〕⇒
① 〔(一)二(上)中〕下= ① 一 二 上 中 下。
② 下[中〔二(一)上〕]⇒
② [〔(一)二上〕中]下= ② 一 二 上 中 下。
③ 二(下[上〔一)〕中]⇒
③ ([〔一)二〕上中]下= ③ 一 二 上 中 下。
然るに、
(04)
白話文訓読するとどうなるか、玉里本の中から、白和文特有の構造を持つ訓読例を見てみよう。
第二回 二十三葉ウラ
端的看2不5出3這婆-子的本事1来4。(端的に這の婆子の本書を看出し来たらず)
〔勉誠出版、続「訓読」論、2010年、330頁:川島優子〕
従って、
(03)(04)により、
(05)
「白話」の場合は、
③ 二 五 三 一 四=
③ 二 下 上 一 中=
③ ([〔 )〕]。
のやうに、「返り点」や、「括弧」では、表せない「語順」が有る。
従って、
(05)により、
(06)
「漢文訓読」といふ「観点」からすると、「白話」と「漢文」は、完全に、「異なる、言語」であって、
それ故、例へば、
一般做乳母的人對事故從小撫養帶大的總是有一種偏愛、總是覺得與眾不同的:何況這位乳母所撫養帶大的是源氏之君這様稀世的人物呢!(林訳『源氏物語』一 六三頁)
(京都大学大学院・文学研究科編、世界の中の『源氏物語』、149)。
といふ「現代中国(白話)」は、「漢文の知識」では、「全く、読めない」。
(07)
「源氏物語」の冒頭である。といふことから、
從=より、
何況=まして、
であらうことは、「想像」出来ても、それ以外は、「文字通り、全く、読めない」。
平成26年10月05日、毛利太。

2014年10月4日土曜日

「括弧(捕捉構造)は有ります!(2.5)」。

(01)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
従って、
(01)により、
(02)
「横書きの、漢文」に於いて、
「管到」とは、「左の語が、右のことばのどこまで係るか」ということである。
然るに、
(03)
A(B)CD。
に於いて、
A は Bの「一字」に 係ってゐる。
(04)
A(BC)D。
に於いて、
A は BCの「二字」に 係ってゐる。
(05)
A(BCD)。
に於いて、
A は BCDの「三字」に 係ってゐる。
従って、
(02)~(05)により、
(06)
「管到」は、「括弧」で、表すことが出来る。
従って、
(07)
AB(CD)E。
に於いて、
A が、
B(CD)
に係ってゐるとき、
A〔B(CD)〕E。
といふ「管到」は、〔( )〕で表すことが、出来る。
同様に、
(08)
AB(CD)E。
に於いて、
A が、
B(CD)E
に係ってゐるとき、
A〔B(CD)E〕。
といふ「管到」は、〔( )〕で表すことが、出来る。
然るに、
(09)
読漢文=漢文を読む。
に於いて、
読(漢文)=漢文を読む。
といふ「管到」は、有り得ても、
読(漢)文=漢文を読む。
といふ「管到」は、有り得ない。
従って、
(09)により、
(10)
読漢文=漢文を読む。
の「管到」は、
読(漢文)=漢文を読む。
以外に、有り得ない。
然るに、
(11)
読(漢文)=漢文を読む。
の「否定」は、
読(漢文)=漢文を読む。
といふ「文全体」の、「否定」であるため、
不読(漢文)=漢文を読まず。
の「管到」は、
不〔読(漢文)〕=漢文を読まず。
である。
然るに、
(12)
漢文を読まざる者=漢文を読まず(の連体形)+者(体言)。
であるため、
不〔読(漢文)〕者=漢文を読まざる者。
である。
然るに、
(13)
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’といふ空所にいれて書くことにしよう(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、15頁)。
とあるため、
不〔読(漢文)〕者=漢文を読まざる者。
といふ表術(ステートメント)の「否定」は、
~(不〔読(漢文)〕者)=漢文を読まざる者で~。
である。
然るに、
(14)
この場合は、「漢文」であるため、
不〔読(漢文)〕者=漢文を読まざる者。
の「否定」は、
非〔不〔読(漢文)〕者〕=漢文を読まざる者に非ず。
である。
従って、
(15)
非不読漢文者=漢文を読まざる者に非ず。
の「管到」は、
非[不〔読(漢文)〕者]。
である。
然るに、
(16)
① 非[不〔読(漢文)〕者]⇒
① [不〔読(漢文)〕者]非。
② [不〔読(漢文)〕者]非⇒
② [〔読(漢文)〕不者]非。
③ [〔(漢文)読〕不者]非=
③ [〔(漢文を)読ま〕不る者に]非ず。
に於いて、
① 非[不〔読(漢文)〕者]⇔
③ [〔(漢文を)読ま〕不る者に]非ず。
の「語順」は、「括弧」を介して、「反対」である。
然るに、
(17)
1.『主述関係』 
2.『修飾関係』 
3.『補足構造』 
4.『並列関係』
右の四つの文法関係は、漢語文法の基礎となっている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、284頁改)。
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(15)(16)(17)により、
(18)
非[不〔読(漢文)〕者]=漢文を読まざる者に非ず。
に於ける「括弧」は、「管到」を表してゐて、尚且つ、『補足構造』を、表してゐる。
従って、
(19)
非不読漢文者=
漢文を読まざる者に非ず。
といふ「漢文訓読」に、『管到(補足構造)』が在る以上、
非不読漢文者=
漢文を読まざる者に非ず。
といふ「漢文訓読」に、「括弧」は有ります!
平成26年10月04日、毛利太。