2017年6月30日金曜日

「返り点」よりも「簡単」な「括弧」(Ⅱ)。

(01)
① より(いにしえ)テイオウなし{ざる[え〔これをに(カンナン)〕てうしなは〔これをに(あんいつ)〕]は}。
に於いて、
① ( )の中を、「読み終へた」直後に、「より」  を読む。
① { }の中を、「読み終へた」直後に、「なし」  を読む。
① [ ]の中を、「読み終へた」直後に、「ざる」  を読む。
① 〔 〕の中を、「読み終へた」直後に、「え」   を読む。
① ( )の中を、「読み終へた」直後に、「に」   を読む。
① 〔 〕の中を、「読み終へた」直後に、「うしなふ」を読む。
① ( )の中を、「読み終へた」直後に、「に」   を読む。
といふことは、
① (いにしへ)よりテイオウ{[〔これを(カンナン)に〕えて〔これを(アンイツ)に〕うしなは]ざるは}なし。
といふ「それ」を、
① 「からへ読む」ことに、「等しい」。
然るに、
(02)
① 自 =より
① 古 =いにしへ
① 帝王=テイオウ
① 莫 =なし
① 不 =ざる
① 得 =え
① 之 =これ
① 於 =を
① 艱難=カンナン
① 失  =うしなふ
① 安逸=アンイツ
である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 自(古)帝王莫{不[得〔之於(艱難)〕失〔之於(安逸)〕]}。
に於いて、
① ( )の中を、「読み終へた」直後に、「自」を読む。
① { }の中を、「読み終へた」直後に、「莫」を読む。
① [ ]の中を、「読み終へた」直後に、「不」を読む。
① 〔 〕の中を、「読み終へた」直後に、「得」を読む。
① ( )の中を、「読み終へた」直後に、「於」を読む。
① 〔 〕の中を、「読み終へた」直後に、「失」を読む。
① ( )の中を、「読み終へた」直後に、「於」を読む。
といふことは、
① (いにしへ)よりテイオウ{[〔これを(カンナン)に〕えて〔これを(アンイツ)に〕うしなは]ざるは}なし。
といふ「それ」を、
① 「からへ読む」ことに、「等しい」。
然るに、
(04)
中国語の「助字」は、あってもなくてもよいである。
(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、49頁)
従って、
(05)
「漢文」の場合は、
① 於(艱難)=(カンナン)に
① 於(安逸)=(アンイツ)に
ではなくて、
①  (艱難)
①  (安逸)
であっても、
①  (艱難)=(カンナン)に
①  (安逸)=(アンイツ)に
である。
然るに、
(06)
①  (艱難)
①  (安逸)
であっても、
①  (艱難)=(カンナン)に
①  (安逸)=(アンイツ)に
であるならば、
② (於艱難)=(カンナンに)
② (於安逸)=(アンイツに)
であっても「良い」。といふ、ことになる。
従って、
(03)(06)により、
(07)
① 自(古)帝王莫{不[得〔之於(艱難)〕失〔之於(安逸)〕]}。
ではなく、
② 自(古)帝王莫[不〔得(之於艱難)失(之於安逸)〕]。
であっても、両方とも、「正しい」。
cf.
① 自古帝王莫之於艱難之於安逸。 

② 自古帝王莫之於艱難之於安逸
従って、
(03)(07)により、
(08)
② 自(古)帝王莫[不〔得(之於艱難)失(之於安逸)〕]⇒
② (古)自帝王[〔(之於艱難)得(之於安逸)失〕不]莫=
② (古)自り帝王[〔(之を艱難に)得て(之を安逸に)失は〕不るは]莫し。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
然るに、
(09)
この場合は、「文脈(十八史略)」により、
② 之=天下
である。
従って、
(08)
② (古)自り帝王[〔(之を艱難に)得て(之を安逸に)失は〕不るは]莫し。
といふ「訓読」は、
② (いにしへ)より帝王で、[〔(天下を艱難に)得て(天下を安逸に)失ふ〕といふことはない。]といふ者は、一人もゐない。
といふ「意味」、すなはち、
② (いにしへ)より帝王は、[〔(天下を艱難に)得たならば天下を安逸に)失ふ〕]といふ者が、全員である。

cf.
~(P&Q)=~P∨~Q=P→Q:ド・モルガンの法則、含意の定義。
然るに、
(09)
② 玄齢は吾と共に天下を取り、百死を出でて一生を得たり。
② 玄齢は自分と伴に天下を取り、幾度も、危険な目に会ひながらも、生き延びることができた。
従って、
(09)により、
(10)
② 今の帝王も、天下艱難得た
従って、
(08)(10)により、
(11)
② 「いにしへ」よりの「前例」に従ふ限り、今の帝王は、「天下を、安逸に、失ふ。」ことになる。
従って、
(12)
② 今の帝王が、「いにしへ」よりの「前例」を「覆す」ためには、今の帝王は、「安逸甘んじては、ならない
といふ「意味」になる。
平成29年06月30日、毛利太。

2017年6月29日木曜日

「返り点」よりも「簡単」な「括弧」について。

(01)
① 4×3+2+1=囗
② 4×3+2+1=囗
③ 4×3+2+1=囗
に於いて、
① は、4× の「直後」に、( )が「省略」されてゐる。
② は、4× の「直後」に、( )が「省略」されてゐる。
③ は、4× の「直後」に、( )が「省略」されてゐる。
然るに、
(02)
① 4×(3)+2+1=12+3=15
② 4×(3+2)+1=20+1=21
③ 4×(3+2+1)=24+0=24
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 4×3+2+1=15
② 4×3+2+1=21
③ 4×3+2+1=24
であるならば、( )が、書かれてはゐなくとも、「実質的」に、
① 4×(3)+2+1=15
② 4×(3+2)+1=21
③ 4×(3+2+1)=24
である。
従って、
(04)
① 4×3+2+1=15
② 4×3+2+1=21
③ 4×3+2+1=24
であるならば、( )が、書かれてはゐなくとも、「実質的」に、( )は有る。といふ、ことになる。
従って、
(05)
② 読其文矣=その文を読めり。
といふ「漢文」に対して、
② 読(其文)矣。
といふ「括弧」を「認める」ことは、
② 4×3+2+1=21
に対して、
② 4×(3+2)+1=21
といふ「括弧」を「認める」ことと、「同じではないが、「似てゐる」。
(06)
① 孫権使呂蒙読書。
① 孫権 let 呂蒙 read 書。
に於いて、
① 呂蒙が「読む(reads)」のは(何か)。と言へば、(書)である。
従って、
(06)により、
(07)
① 孫権使呂蒙読書。
① 孫権 let 呂蒙 read 書。
に於いて、
①「読む(reads)」の「意味」は、(書)に、及んでゐる
(08)
① 孫権使呂蒙読書。
① 孫権 let 呂蒙 read 書。
に於いて、
① 孫権が「させる(lets)」ことは〔何か〕。と言へば、〔呂蒙に、書を読ませること〕である。
従って、
(08)により、
(09)
① 孫権使呂蒙読書。
① 孫権 let 呂蒙 read 書。
に於いて、
①「させる(lets)」の「意味」は、〔呂蒙読書〕に、及んでゐる
然るに、
(10)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(10)により、
(11)
括弧は、漢字の意味が及ぶ範囲(スコープ)を明示する働きを持つ。
従って、
(06)(09)(11)により、
(12)
① 孫権使呂蒙読書。
に於いて、
① 孫権使〔呂蒙読(書)〕。
である。
然るに、
(13)
「英語」や「漢文」は、
O=主語+動詞+目的語
であるのに対して、
「国語」の場合は、
SO=主語+目的語+動詞である。
従って、
(12)(13)により、
(14)
① 呂蒙(書)。
といふ「漢文の語順」に対する、「訓読語順」は、
① 呂蒙(書を)読む
である。
然るに、
(15)
[3]使役・尊敬の助動詞
【2】[す][さす][しむ]「す」「さす」は、口語の「セル」「サセル」にあたる。
① 使役 〈・・・・・セル・・・・・サセル〉
馬に水を飲ます。 [訳]馬に水を飲ませる。
弟に菊を植ゑさす。[訳]弟に菊を植えさせる。
馬に水を飲ましむ。[訳]馬に水を飲ませる。
(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、86頁改)
然るに、
(16)
「英語」や「漢文」の「それ」とは異なり、「国語」の「助動詞」は、「動詞(用言)」の「」に来る。
従って、
(14)(15)(16)により、
(17)
使〔呂蒙(書)〕。
といふ「漢文の語順」に対する、「国語の語順」は、
① 〔呂蒙に(書を)読ま
① 〔呂蒙をして(書を)読ま使む
でなければ、ならない。
従って、
(12)(17)により、
(18)
① 孫権使呂蒙読書。
といふ「漢文」が、
① 孫権 let 呂蒙 read 書。
といふ「意味」であるならば、
① 孫権使呂蒙読書。
といふ「漢文」には、
① 孫権使〔呂蒙読(書)〕。
といふ「括弧」が有って、
① 孫権使〔呂蒙(書)〕。
といふ「漢文」に対する、「訓読語順」は、
① 〔呂蒙をして(書を)ま〕使む。
である。といふ、ことになる。
然るに、
(19)
② 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
に於いて、
② 是以=かういう理由で、
は、「接続詞」であって、
② 必=かならず
は、「副詞」であって、「副詞」は、「漢文」であっても、「国語」であっても、「補語」を、持たない
従って、
(20)
① 孫権使〔呂蒙読(書)〕。
であっても、
② 是以孫権必使〔呂蒙読(書)〕。
であっても、
① 〔 ( ) 〕 は、
② 〔 ( ) 〕 の、ままである。
従って、
(19)(20)により、
(21)
① 孫権使呂蒙読書。
② 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
に於いて、
① は、「単純な、使役構文」であって、
② は、「複雑な、使役構文」である。
従って、
(22)
② 是以孫権必使呂蒙読書。
に於いて、
② 是以孫権必使〔呂蒙読(書)〕。
であることから、
② 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
に於いて、
② 是以大学始教必使〔学者即(凡天下之物)〕。莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
であるといふ風に、「予想」してみる。
然るに、
(23)
② 是以大学始教必使〔学者即(凡天下之物)〕。莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
であるならば、
② 是以大学始教必使〔学者即(凡天下之物)〕。
といふ「文」に対する、
② 莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「文」の、「関連」が、「説明」出来ない
然るに、
(24)
② 莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
に於いて、
② 莫不因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕。
であることは、「分りやすく」、
② 莫不因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕。
であるならば、
② 莫不
は、「二重否定」であるため、
② 莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}。
であることは、「分りやすい」。
然るに、
(25)
② 是以大学始教必使〔学者即(凡天下之物)囗〕。
に於いて、
② 囗=莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}
といふ「代入」を行ふと、
② 是以大学始教必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「補足構造」が、成立する。
然るに、
(26)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(25)(26)により、
(27)
② 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」に、
② 是以大学始教必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「補足構造」が、有るのであれば、「国語(日本語)」の「補足構造」は、
② 是を以て、大学の始教は、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)即きて、{[(其の已に知るの理に)因りて、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
である。といふ、ことになる。
すなはち、
(28)
② 是以、大学始教、必使学者即凡天下之物、莫不因其已知之理、而益極之、以求至乎其極。
といふ「漢文」の、
⑥ 是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。 

といふ「補足構造」に於いて、
② 使〈 〉⇒〈 〉使
② 即( )⇒( )即
② 莫{ }⇒{ }莫
② 不[ ]⇒[ ]不
② 因( )⇒( )因
② 極( )⇒( )極
② 求〔 〕⇒〔 〕求
② 至( )⇒( )至
といふ「移動」を行った「結果」である、
② 是以、大学始教、必〈学者(凡天下之物)即、{[(其已知之理)因、而益(之)極、以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使。
に対して、「平仮名を加へた「が、
② 是を以て、大学の始教は、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)即きて、{[(其の已に知るの理に)因りて、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
である。といふ、ことになる。
然るに、
(29)
② 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
のやうな「漢文(大学伝五章)」は、「このような複雑な文章」といふに、相応しい。
然るに、
(30)
② 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
のやうに、「複雑な文章」であっても、
② 是以、大学始教必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}
のやうに、「括弧」を加へれば、例へば、
使 といふ「漢字の意味」が、
②  学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極
といふ「26個の漢字」に「掛ってゐる」といふことを、「簡明直截」に、知ることが出来る。
然るに、
(31)
しばしばとりあげられる〈語順〉の問題、元来はまっすぐに書かれた漢文に返り点をつけた、転倒しながら読むのは不自然だという考え方、などは、むしろ些少なことにすぎないかもしれない。かえって、語と語との修飾や支配の関係を、まったく構造を異にする日本語という言語と対比させることによって、はっきりとうかびあがらせる効用があるというべきである。
 是以、大学始教、必使学者即凡天下之物、 莫上レ其已知之理、而益々極之、以求上レ乎其極
そこで大学での始めの教えは、学習者が天下の物すべてについて、彼がすでに知っている理を手がかりとしてますますこれをきわめ、そしてその極点にまで到達することを求めるようにせしめる(原文では、「求めないことはいっさいないように、ぜひともせしめる」)のである。
このよう複雑な文章でも、返り点があることによって、簡明直截に文字のかかり方を知ることができる。
(平凡社、日本語の歴史2、2007年、155・156頁改)
従って、
(30)(31)により、
(32)
② 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」に付く、
② 是以、大学始教、必使学者即凡天下之物、 莫上レ其已知之理、而益々極之、以求上レ乎其極
といふ「返り点」も、
② 是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ、「漢文の補足構造」に、付いてゐると、すべきである。
然るに、
(33)
進研ゼミからの回答!
こんにちは。
早速、いただいた質問についてお答えしていきましょう。
【質問の確認】
返り点がたくさんついた複雑な漢文は、どういう順番で読んだらいいのかがわからなくなります。
どうしたらいいですか?
【解説】
レ点や一二点の読み方はわかっていても一レ点や上レ点が組み合わさると一気に難しくなった気がしますね。
従って、
(34)
② 是以、大学始教、必使学者即凡天下之物、 莫上レ其已知之理、而益々極之、以求上レ乎其極
に付いてゐる、
② 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ「返り点」は、「中高生」には、「難しい」。
然るに、
(35)
② 是以、大学始教、使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
の場合は、
② 〈 〉の中を、「読み終へた」直後に、「使」を読み、
② ( )の中を、「読み終へた」直後に、「即」を読み、
② { }の中を、「読み終へた」直後に、「莫」を読み、
② [ ]の中を、「読み終へた」直後に、「不」を読み、
② ( )の中を、「読み終へた」直後に、「因」を読み、
② ( )の中を、「読み終へた」直後に、「極」を読み、
② 〔 〕の中を、「読み終へた」直後に、「求」を読み、
② ( )の中を、「読み終へた」直後に、「至」を読む。
といふ「ルール」が有るだけであるため、「極めて、簡単」である。
(36)
③ 盍各言汝志。
に於いて、
③ 盍=何不=なんぞ・・・ざる。
は、「再読文字」である。
然るに、
(37)
③ 盍各言汝志。
③ 何不〔各言(汝志)〕。
に於いて、
③ 〔 〕の中を、「読み終へた」直後に、「不」を読み、
③ ( )の中を、「読み終へた」直後に、「言」を読む。
といふことは、
③ 何不〔各言(汝志)〕。
といふ「語順」を、
③ 何〔各(汝志)言〕不。
といふ「語順」にした上で、「左から右へ」、
③ 何ぞ〔各々(汝の志を)言は〕ざる。
といふ風に、「読む」ことに、「等しい」。
平成29年06月29日、毛利太。

2017年6月28日水曜日

「大学伝五章」の「返り点」と「括弧」。

(01)
従って、
(01)により、
(02)
① 二 一レ 二 一
④ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ「返り点」は、
② 四 三 二 一
⑤ 己 二 一 戊 丁 二 一 二 一 丙 乙 甲
といふ「返り点」に「等しく」、
② 四 三 二 一
⑤ 己 二 一 戊 丁 二 一 二 一 丙 乙 甲
といふ「返り点」は、
③ [ 〔 ( ) 〕 ]
⑥ 〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「括弧」に、「等しい」。
然るに、
(03)
kirakiraebaさん2010/7/2320:43:43
漢文の朝三暮四で
恐(二) 衆 狙 之 不 (一レ) 馴 (二) 於 己(一) 也、・・・ という文がありました。
この文を帰り点に従って訓読すると「衆狙の馴れざらんことを恐るる己に馴れ也、・・・」となり
「馴」を二回読んでしまうのですがこれは正しいですか。
( )内は返り点です。
noname#100659
漢文についてお聞きします。
(数字)は、返り点を表します。レ点はカタカナの(レ)で書きます。
漢文の教科書に次のような文章が出てきます。
例文は有名な朝三暮四です。
恐(2)衆狙之不(1+レ)馴(2)於己(1)也、先誑(レ)之曰、・・・(以下略)。
(読み下しは、衆狙の己に馴れざらんことを恐るるや、先づこれを誑きて曰く・・です。)
これなのですが、打ち方はこれ一通りと決まっていますか?
次のように打つと何がいけないのでしょうか? 
同じように読めてしまうような気がするのですが・・。
(3)衆狙之不(レ)馴(2)於己(1)也、先誑(レ)之曰、・・・(以下略)。
上の打ち方だと何が問題でしょうか?
同じにはなりませんでしょうか?
なお、これは学校の宿題等ではありませんのでよろしくおねがいします。
投稿日時 - 2005-11-20 01:10:47
従って、
(01)(03)により、
(04)
① 二 一レ 二 一
といふ「返り点」は、「分りにくい」ものの、
② 四 三 二 一
といふ「返り点」は、「極めて、分りやすい」。
然るに、
(05)
① 二 一レ 二 一
といふ「返り点」が、「分りにくい」のであれば、
④ 下 上レ 下 上レ
といふ「返り点」を含む、
 二 一 上レ  二 一 レ 上レ 二 一
といふ「返り点」も、「分りにくい」。
従って、
(02)(04)(05)により、
(06)
① 二 一レ 二 一
④ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
のやうな、「レ点」を含む、「通常の、返り点」は、
② 四 三 二 一
⑤ 己 二 一 戊 丁 二 一 二 一 丙 乙 甲
のやうな、「レ点」を含まない、「返り点」よりも、「分りにくい」。
(07)
⑦ 是以孫権必使呂蒙読書=
⑦ 是以孫権必使〔呂蒙読(書)〕。
といふ「漢文」に於いて、
⑦ 使〔 〕⇒〔 〕使
⑦ 読( )⇒( )読
といふ「移動」を行ふと、
⑦ 是以孫権必使〔呂蒙読(書)〕⇒
⑦ 是以孫権必〔呂蒙(書)読〕使=
⑦ 是を以て、孫権、必ず〔呂蒙をして(書を)読ま〕使む。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
然るに、
(08)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(07)(08)により、
(09)
⑦ 是以孫権必使呂蒙読書=
⑦ 是以孫権必使〔呂蒙読(書)〕。
といふ「漢文」に於いて、
⑦ 使〔 〕⇒〔 〕使
⑦ 読( )⇒( )読
といふ「移動」を行ふと、
⑦ 是以孫権必使〔呂蒙読(書)〕⇒
⑦ 是以孫権必〔呂蒙(書)読〕使=
⑦ 是を以て、孫権、必ず〔呂蒙をして(書を)読ま〕使む。
といふ「日本語語順」になる。といふことは、
⑦ 是以孫権必使〔呂蒙読(書)〕。
に於ける、
⑦       〔     ( )〕
といふ「括弧」が、
⑦ 孫権必使呂蒙読書。
といふ「漢文」に於ける、「補足構造」を表してゐる。
といふことを、示してゐる。
然るに、
(10)
⑦ 是以孫権必使〔呂蒙読(書)〕。
に於いて、
⑦ 孫権  =大学始教
⑦ 呂蒙  =学者
⑦ 読(書)=即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}
といふ「代入」を行ふと、
⑥ 是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「漢文」を、認めることになる。
然るに、
(11)
(01)でも、「確認」した通り、
⑥ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
⑥ 是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
⑥ 是以、大学始教、必〈学者(凡天下之物)即、{[(其已知之理)因、而益(之)極、以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
⑥ 是を以て、大学の始教は、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)即きて、{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ、「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
⑦ 是以孫権必使〔呂蒙読(書)〕。
に於ける、
⑦ 〔 ( ) 〕
といふ「括弧」が、
⑦ 孫権必使呂蒙読書。
といふ「漢文」に於ける、「補足構造」を表してゐる。
といふことを、示してゐるやうに、
⑥ 是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
に於ける、
⑥ 〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「括弧」も、
⑥ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」に於ける、「補足構造」を表してゐる。
従って、
(13)
⑥ 是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「漢文」を、
⑥ 是を以て、大学の始教は、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)即きて、{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ風に、「訓読」すれば、「語順」は、確かに、「変る」ものの、
⑥ 是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「漢文」に於ける、
⑥ 〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「補足構造」は、「保存」される。
従って、
(14)
語順」を「保存」する「読み方」よりも、
構造」を「保存」する「読み方」の方が、「価値」が有るとするならば、
語順」を「転倒」することは、「些細なこと」である。といふ「考へ方」が有っても、少しも、悪くはない。
然るに、
(01)により、
(15)
④ 是以、大学始教、必使学者即凡天下之物、 莫上レ其已知之理、而益々極之、以求上レ乎其極
であっても、
⑥ 是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
であっても、両方と、
④ 是を以て、大学の始教は、必ず学者をして、凡そ天下の物に即きて、其の已に知るの理に因って、益々之を極め、以て其の極に至るを求め不るを莫から使む。
⑥ 是を以て、大学の始教は、必ず学者をして、凡そ天下の物に即きて、其の已に知るの理に因って、益々之を極め、以て其の極に至るを求め不るを莫から使む。
といふ風に、「訓読」される。
従って、
(14)(15)により、
(16)
④ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」に対して、
④ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ「返り点」を用ゐて、
④ 是を以て、大学の始教は、必ず学者をして、凡そ天下の物に即きて、其の已に知るの理に因って、益々之を極め、以て其の極に至るを求め不るを莫から使む。
といふ風に、「訓読」しても、「構造」は「保存」されるので、「語順」を「転倒」することは、「些細なこと」である。といふ「考へ方」が有っても、少しも、悪くはない。
然るに、
(17)
しばしばとりあげられる〈語順〉の問題、元来はまっすぐに書かれた漢文に返り点をつけた、転倒しながら読むのは不自然だという考え方、などは、むしろ些少なことにすぎないかもしれない。かえって、語と語との修飾や支配の関係を、まったく構造を異にする日本語という言語と対比させることによって、はっきりとうかびあがらせる効用があるというべきである。
 是以、大学始教、必使学者即凡天下之物、 莫上レ其已知之理、而益々極之、以求上レ乎其極
そこで大学での始めの教えは、学習者が天下の物すべてについて、彼がすでに知っている理を手がかりとしてますますこれをきわめ、そしてその極点にまで到達することを求めるようにせしめる(原文では、「求めないことはいっさいないように、ぜひともせしめる」)のである。
このよう複雑な文章でも、返り点があることによって、簡明直截文字のかかり方を知ることができる。

(平凡社、日本語の歴史2、2007年、155・156頁改)
従って、
(16)(17)により、
(18)
「平凡社、日本語の歴史2、2007年」の編集委員は、
④ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」に対して、
④ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ「返り点」を用ゐて、
④ 是を以て、大学の始教は、必ず学者をして、凡そ天下の物に即きて、其の已に知るの理に因って、益々之を極め、以て其の極に至るを求め不るを莫から使む。
といふ風に、「訓読」しても、「返り点」によって、簡明直截に「文字のかかり方構造)」を知ることが出来るので、「語順」を「転倒」することは、「些細なこと」である。といふ風に、述べてゐる。
然るに、
(19)
⑥ 使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
であれば、
⑥ 使 の「語」が、
⑥ 〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
に「掛ってゐる(管到してゐる)」ことは、「一目瞭然」であるが、
④ 使学者即凡天下之物、莫上レ其已知之理、而益々極之、以求上レ乎其極
の場合は、
⑥ 使 の「語」が、
学者即凡天下之物、莫上レ其已知之理、而益々極之、以求上レ乎其極
に「掛ってゐる(管到してゐる)」ことが、「一目瞭然」であるとは、言へない
従って、
(20)
⑥ 使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
に於ける、
⑥ 〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「括弧」は、「補足構造」と、「訓読の語順」の、「両方」を表してゐるが、
④ 使学者即凡天下之物、 莫上レ其已知之理、而益々極之、以求上レ乎其極
に於ける、
④ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ「返り点」は、「補足構造」といふよりも、主として、「訓読語順」を表してゐる。と、すべきである。
従って、
(06)(20)により、
(21)
④ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ「返り点」は、主として、「訓読語順」を表してゐて、尚且つ、「分りにくい」。
(22)
⑥ 使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
の場合は、
⑥ 〈 〉の中を、「読み終へた」直後に、「使」を読み、
⑥ ( )の中を、「読み終へた」直後に、「即」を読み、
⑥ { }の中を、「読み終へた」直後に、「莫」を読み、
⑥ [ ]の中を、「読み終へた」直後に、「不」を読み、
⑥ ( )の中を、「読み終へた」直後に、「因」を読み、
⑥ ( )の中を、「読み終へた」直後に、「極」を読み、
⑥ 〔 〕の中を、「読み終へた」直後に、「求」を読み、
⑥ ( )の中を、「読み終へた」直後に、「至」を読む。
といふ「ルール」が有るだけであるため、「極めて、簡単」である。
従って、
(23)
⑥ 使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
に於ける、
⑥ 〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「括弧」の方が、
④ 使学者即凡天下之物、 莫上レ其已知之理、而益々極之、以求上レ乎其極
に於ける、
④ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ「返り点」よりも、明らかに、「優れてゐる」。
然るに、
(24)
Kaeriten(返り点)
Unicode 表示 名称 備考
3191 IDEOGRAPHIC ANNOTATION REVERSE MARK レ点
3192 IDEOGRAPHIC ANNOTATION ONE MARK ≈<super>4E00(一)
3193 IDEOGRAPHIC ANNOTATION TWO MARK ≈<super>4E8C(二)
3194 IDEOGRAPHIC ANNOTATION THREE MARK ≈<super>4E09(三)
3195 IDEOGRAPHIC ANNOTATION FOUR MARK ≈<super>56DB(四)
3196 IDEOGRAPHIC ANNOTATION TOP MARK ≈<super>4E0A(上)
3197 IDEOGRAPHIC ANNOTATION MIDDLE MARK ≈<super>4E2D(中)
3198 IDEOGRAPHIC ANNOTATION BOTTOM MARK ≈<super>4E0B(下)
3199 IDEOGRAPHIC ANNOTATION FIRST MARK ≈<super>7532(甲)
319A IDEOGRAPHIC ANNOTATION SECOND MARK ≈<super>4E59(乙)
319B IDEOGRAPHIC ANNOTATION THIRD MARK ≈<super>4E19(丙)
319C IDEOGRAPHIC ANNOTATION FOURTH MARK ≈<super>4E01(丁)
319D IDEOGRAPHIC ANNOTATION HEAVEN MARK ≈<super>5929(天)
319E IDEOGRAPHIC ANNOTATION EARTH MARK ≈<super>5730(地)
319F IDEOGRAPHIC ANNOTATION MAN MARK ≈<super>4EBA(人)
のやうに、「ユニコード」には、「一レ、上レ、甲レ、天レ」点と、

のやうな、「ハイフンに付く返り点」が無いものの、「JIS漢字コード」には、「返り点」自体が無い。
従って、

(25)
「ユニコード」の「返り点」は、「中途半端」であるといふべきであって、何故、そのやうに「中途半端」なのかと言へば、思ふに、「ユニコード」を作成した方たちが、「漢文訓読」には、「何らの関心」も無かったからに、違ひない。
然るに、
(26)
( )〔 〕[ ]{ }〈 〉
であれば、これらの「括弧」は、ほとんどの「文字コード表」の中に、見付かるはずである。
従って、
(27)
その点に於いても、アドバンテージが、有るのは、「括弧」であって、「返り点」ではない
平成29年06月28日、毛利太。

2017年6月26日月曜日

我吃(了{橘子)}。

(01)
① 3{2(1)}。
に於いて、
① 1( )⇒( )1
① 2{ }⇒{ }2
といふ「移動」を行ふと、
① 3{2(1)}⇒
① {(1)2}3。
(02)
② 2(3{1)}。
② 1( )⇒( )1
② 2{ }⇒{ }2
といふ「移動」を行ふと、
② 2(3{1)}⇒
② ({1)2}3。
然るに、
(03)
① 3{2(1)}。
② 2(3{1)}。
に於いて、
①  { ( )}
は、「括弧」であるが、
②  ( { )
は、「括弧」ではない
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① 3>2>1
といふ「順番」を、「括弧」を用ゐて、
① 1<2<3
といふ「順番」に、「並び替へ(ソートす)る」ことは出来ても、
② 2<3>1
といふ「順番」を、「括弧」を用ゐて、
② 1<2<3
といふ「順番」に、「並び替へ(ソートす)る」ことは出来きない
然るに、
(05)
① 私はミカンを食べます。
② 私はミカンを食べました。
に対する、「Weblio翻訳」は、
① 我吃橘子。
② 我吃橘子。
である。
従って、
(05)により、
(06)
② 我吃橘子。⇒
② 私はミカンを食べまし
に於いて、

である。
従って、
(06)により、
(07)
② 我吃了橘子。⇒
② 私はミカンを食べました。
といふ「訓読」に付く「返り点」は、
② 我吃橘子
である。
然るに、
(08)
「返り点」は、「(右)から、(左)へ、返る点」であるため、

② 二→三
といふ「順番」を含む、
② 二 三 一
といふ「それ」は、「返り点」ではない
然るに、
(04)により、
(09)
② 二<三>一
といふ「順番」を、「括弧」を用ゐて、
② 一<二<三
といふ「順番」に、「並び替へ(ソートす)る」ことは出来きない。
従って、
(07)(08)(09)により、
(10)
② 我吃了橘子。
に対して、「括弧・返り点」を用ゐて、
② 私はミカンを食べました。
といふ風に、「訓読」することは、出来ない。 
(11)
蘇さん、ちょっと事務所に来てくれる。
小苏, 请   你   到  办公室 来  一下。
蘇さん どうか あなた まで 事務所 来る ちょっと
(宮岸雄介、文法からマスター!はじめての中国語、2010年、91頁)
然るに、
(12)
③ 蘇さん 下さい{あなた まで〔事務所(来て[ちょっと)〕]}。
に於いて、
③ 事務所( )⇒( )事務所
③  まで〔 〕⇒〔 〕まで
③  来て[ ]⇒[ ]来て
③ 下さい{ }⇒{ }下さい
といふ「移動」を行ふと、
③ 蘇さん 下さい{あなた まで〔事務所(来て[ちょっと)〕]}⇒
③ 蘇さん{あなた 〔([ちょっと)事務所〕まで]来て}下さい。
といふ「語順」になる。
然るに、
(13)
③ 蘇さん 下さい{あなた まで〔事務所(来て[ちょっと)〕]}。
に於ける、
③  { 〔 ( [ )〕]}
といふ「それ」は、「括弧」ではない
然るに、
(14)
③ 五{三〔二(四[一)〕]}
に於いて、
③ 二( )⇒( )二
③ 三〔 〕⇒〔 〕三
③ 四[ ]⇒[ ]四
③ 五{ }⇒{ }五
といふ「移動」を行ふと、
③ 五{三〔二(四[一)〕]}⇒
③ {〔([一)二〕三]四}五。
従って、
(14)により、
(15)
③  { 〔 ( [ )〕]}
といふ「それ」は、
③ 五 三 二 四 一
といふ「それ」に「相当」する。
然るに、
(16)
「返り点」は、「(右)から、(左)へ、返る点」であるため、
③     三 → 四
といふ「順番」を含む、
③ 五 三 二 四 一
といふ「それ」は、「返り点」ではない
従って、
(11)~(16)により、
(17)
③ 小苏,请你到办公室来一下。
に対して、「括弧・返り点」を用ゐて、
③ 蘇さん、ちょっと事務所に来て下さい。
といふ風に、「訓読」することは、出来ない
(18)
劉さんは店長に食べ物を買いに行かされました。
小刘      老板    去  买  吃   的 了。
劉さん される 店長 される 行く 買う 食べる の た
(宮岸雄介、文法からマスター!はじめての中国語、2010年、160頁)
然るに、
(19)
小刘      老板    去  买  吃   的 了。
劉さん される 店長 される 行く 買う 食べる の た
のやうに、「される」を、「二つ持つ」、
④ 小刘被老板叫去买吃的了。
に対して、「括弧・返り点」を用ゐて、
④ 劉さんは店長に食べ物を買いに行かされました。
といふ風に、「訓読」することは、出来ない
従って、
(10)(17)(19)により、
(20)
② 我吃了橘子。
③ 小苏,请你到办公室来一下。
④ 小刘被老板叫去买吃的了。
に対して、「括弧返り点」を用ゐて、
② 私はミカンを食べました。
③ 蘇さん、ちょっと事務所に来て下さい。
④ 劉さんは店長に食べ物を行かされました。
といふ風に、「訓読」することは、出来ない
従って、
(21)
「宮岸雄介、文法からマスター!はじめての中国語、2010年」に目を通して、「分ること」は、「中国語」は、「漢文とは異なり、常には、「返り点括弧」を付けることが、出来ない
といふ、ことである。
従って、
(22)
通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア)。
といふことであっても、「確かに、さうなのであらう」といふことで、「納得し易い」。
然るに、
(23)
「漢文」ならぬ、「中国語」を「訓読」すると、「たいへん奇妙な日本語」になる。と言ふのであれば、「漢文」と「中国語」は、互いに、「別の言語」である。といふことに、他ならない
加へて、
(24)
nobu751221さん2011/11/814:50:30
中国語の発音は難しい!!!
中国語の発音って本当に難しいですよね。有気音、無気音、声調、捲舌音・・・、日本語にはない独特の発音に悩まされた学習者は多いと思います。
私の場合、捲舌音はあまり苦労しなかったのですが、有気音と無気音の区別、声調の第二声に悩まされました。有気音や無気音を意識すると、たどたどしい口調になったり、第二声はきちんと上がり切らずに第一声と同じになったり・・・今もまだ意識しすぎると口調がおかしくなったりします。
中国語を勉強し始めた方、もう長年勉強されている方、皆さん色々発音には苦労されていると思います。苦労談、解決法など教えてくださいませんか?皆さんの回答が、これから勉強しようという方、今現在悩んでいる方のアドバイスになるかもしれません。
よろしくお願いいたします。
加へて、
(25)
③  苏,请你 办
④  刘     买
のやうな「簡体字」も、難しい。
従って、
(26)
「漢文」と「中国語」は、互いに、「別の言語」であって、尚且つ、「中国語の発音」は難しく、「漢字(簡体字)」も難しい。
加へて、
(27)
国語漢語と現代中国語のくちがいを示すひとつのパターンは、国語漢語は中国古典語彙をかなり残し、現に使用しているが、本場の中国においては、その言葉が死語になっていて、現在では別のいいかたがふつうになっているという場合である。
(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、206・7頁)
従って、
(28)
「漢文」と「中国語」は、互いに、「別の言語」であって、「中国語の発音」は難しく、「中国語の漢字(簡体字)」も難しく、「中国語の語彙」も難しい。
平成29年06月26日、毛利太。

2017年6月24日土曜日

宛「荻生徂徠」様。

(01)
和訓」を排除するのは、無用にいかめしくむつかしい雰囲気を作る日本語だからである。
過則勿憚改は、アヤマテバスナハチ云云ではなくして、コウ ツヱ ホン ダン カイ。である。それをそのとおりに読むのが、万事のはじまりである。当時はそれを長崎通事の仕事として意識されていたゆえに、彼はそれを「崎陽の学」と呼ぶ。しかし「崎陽の学」はまだ普及しない。二次的な方法として、アヤマテバスナワチアラタムルニハバカルコトナカレと、いいかめしい雰囲気を持つ訓読よみを、せめてものことに廃棄する。その代替として、平易な日本語の口語におきかえる。シクジッタラヤリナオシニエンリョスルナ。あるいはシクジリハエンリョナクヤリナオセ。そうした俗語へのおきかえを、彼は「」と呼び、従来の訓読「和訓」の方は、「」と呼んで、両者を区別する。かくて「訓」を廃棄して「訳」を方法とすることを、「崎陽の学」すなわち中国音を知らないものは、せめてもの方法とせよ(岩波書店、日本思想大系36、荻生徂徠 、1973年、650・649頁)。
従って、
(02)
荻生徂徠は、
アヤマテバスナワチアラタムルニハバカルコトナカレ。
といふ「訓」は、「いかめしくむつかしい」といふ「理由」から、
シクジリハエンリョナクヤリナオセ。
シクジッタラヤリナオシニエンリョスルナ。
といふ「訳」を、「提案」する。
然るに、
(03)
古代、中世、近世を通じて、それらの時代にも、一方に全国的に通用する中心の言語があり、他方に各地で独自に発達したさまざまな方言があったと考えられ、その点では、現在とは似たようなものといえるのかもしれない(中央公論社、日本語の世界8、1981年、38頁)。
然るに、
(04)
      せばだば  →  それじゃあ
       まいね  →  ダメ
       びょん  →  だよね
せばだばまいねびょん  →  それじゃあダメだよね
(Webサイト:青森 方言 せばだばまいねびょん かわいいフランス語? - 郵便番号検索)
従って、
(05)
江戸であれば、
シクジリハエンリョナクヤリナオセ。
シクジッタラヤリナオシニエンリョスルナ。
といふところを、
津軽では、
シクジリ、ソノママ、セバダバマイネビョン
といふ風に、言ったのかも、知れない。
然るに、
(06)
標準語には、それでは十分に意を尽くすことができない、情がこもらないよそよそしいといった欠点があるとされ、方言には、それによってこそ言ひた本心が適確に表現できる、感情表現にふさわしい(中央公論社、日本語の世界8、1981年、39・40頁)。
従って、
(02)~(06)により、
(07)
荻生徂徠は、
アヤマテバスナワチアラタムルニハバカルコトナカレ。
といふ「訓」は、自分にとっては、「いかめしくむつかしい」といふ「理由」から、
シクジリハエンリョナクヤリナオセ。
シクジッタラヤリナオシニエンリョスルナ。
といふ「訳」を、「提案」するのであれば、
津軽の学者は、
シクジリハエンリョナクヤリナオセ。
シクジッタラヤリナオシニエンリョスルナ。
といふ「訓」は、自分にとっては、「いかめしくむつかしい」といふ「理由」から、
シクジリ、ソノママ、セバダバマイネビョン
といふ「訳」を、「提案」しても、良いことになる。
然るに、
(08)
さうであるならば、
シクジリハエンリョナクヤリナオセ。
シクジッタラヤリナオシニエンリョスルナ。
といふ「江戸弁の訳」の他に、
シクジリ、ソノママ、セバダバマイネビョン
といふ「津軽弁」や、その他に、「南部弁の訳」や、「会津弁の訳」や、「鹿児島弁の訳」等が、有っても良い。
然るに、
(09)
古代、中世、近世を通じて、それらの時代にも、一方に全国的に通用する中心の言語があり、例へば、
アヤマテバスナワチアラタムルニハバカルコトナカレ。
といふ「言ひ方」が、「(訓読としての)中心の言語」であるにも拘らず、わざわざ「それ」を、「方言」にする必要があるとは、思へないし、固より、
アヤマテバスナワチアラタムルニハバカルコトナカレ。
といふ「言ひ方」が、「むつかしい雰囲気を作る日本語」である。といふのは、飽く迄も、「荻生徂徠の、主観」に過ぎない。
(10)
予は十四歳の時に南総に流れ落し、二十五歳で赦されて江戸に還るまでの十三年間、田夫野老の中で暮らす毎日で、学問上の師も友も持てなかった。ただ父の篋中にあった「大学諺解」一冊、これは父の手沢本であったが、この書物を一生懸命に何度も読んだものである。すると久しくして、群書に通じるようになった(田尻祐一郎、荻生徂徠、2008年、78頁)。
従って、
(11)
十四歳から、二十五歳までの間、学問上の師も友も持てなかったが、「独学」で、何度も「大学諺解」を読んだことが、荻生徂徠の「学問の基礎」を作った。
然るに、
(12)
学問上の師も友も持てなかった。といふのであれば、いはんや、その当時の荻生徂徠は、漢詩文を、「唐音(中国語音)」で音読することは、出来なかったことになる。
然るに、
(13)
徂徠は、書を千遍読めば意味はおのずとわかる(「読書千遍、其義自見」)とはどういうことか、幼時にはわからなかったと云う。意味がわからないのに読めるはずがなく、読めればわかっているはずだと思ったからである。しかし後になって、中華では文字列をそのままの順で読むために、意味がわからなくとも読めること、それに対して。日本では中華の文字をこちらの言語の語順に直して読むために意味がとれなければ読めないことに気づく(勉誠出版、続「訓読」論、2010年、17頁)。
従って、
(14)
読」の際には、「意味」が分るならば、そのときに限って、「読める」ものの、
読」の際には、「意味」が分からなくとも、「声に出す」ことは、「可能」である。
といふことに、荻生徂徠は、気付いたこと、になる。
然るに、
(15)
徂徠は「題言十則」のなかで以下のように述べている。
中華の人多く言へり、「読書、読書」と。予は便ち謂へり、書を読むは書を看るに如かず、と。此れ中華と此の方との語言同じからざるに縁りて、故に此の方は耳口の二者、皆な力を得ず、唯だ一双の眼のみ、三千世界の人を合はせて、総て殊なること有ること莫し。
ここでの「読書」は、文脈からして音読であろう(勉誠出版、「訓読」論、2008年、27・244頁)。
従って、
(15)により、
(16)
徂徠は「題言十則」のなかで、
読書不如看書(書を音読することは、書を看ることに及ばない)。
看書愈於読書(書を看ることの方が、書を音読することよりも優れてゐる)。
といふ風に、述べてゐて、尚且つ、
唯だ一双の眼は、三千世界の人に「共通」であるため、
看書(書を看る)ことに関しては、何処にゐても、「可能」である。
といふ風に、述べてゐる。
然るに、
(17)
江戸時代には、荻生徂来(おぎゅう・そらい、1666-1728)が、漢文訓読法排斥して、漢詩文は唐音(中国語音)で音読すべきだと主張しました。荻生徂来は、長崎通詞であった岡島冠山(おかじま・かんざん、1674-1728)から唐話(とうわ=中国語)を学んでいました。漢詩文を唐音で読むという徂来の主張は強固なもので、彼の古文辞学(擬古的な漢文)とともに一世を風靡する大流行となりました。ただし、当時のいわゆる唐音というのは、国南方の方言音で、現在の北京語を基礎とした普通話(pŭ tōng huà)とはかなり違うものでした。当時、わが国は清国と正式の国交はなく、貿易は長崎において清国商人に信牌(貿易許可証)を与え、私貿易という形で許可していました。そのため、長崎で用いられる中国語も、清国商人が用いる南方方言だったのです(Webサイト:日本漢文の世界)。
従って、
(16)(17)により、
(18)
看書(書を看る)ことは、読書(書を音読する)ことよりも、優れてゐるし
看書(書を看る)ことに関しては、世界中の何処にゐても、「可能」である。
といふ風に、述べてゐた、その、荻生徂徠が、
漢文訓読法を排斥して、漢詩文は唐音(中国語音)で音読すべきであると、主張した、ことになる。
(19)
「今学者訳文ノ学ヲセント思ハバ、悉ク古ヨリ日本ニ習ヒ来ル和訓ト云フモノト字ノ反リト云フモノトヲ排除スベシ」。反り点排除するのは、中国語の原語序破壊だからである。
然るに、
(20)

従って、
(20)により、
(21)
「漢文」ならぬ、「白話(中国語)」に対して、「無理矢理」、「返り点」を付けるようとすると、
只‐管要
端‐的看婆‐子的本‐事
西門慶促‐忙促‐急儧造 不
了不三レ 多酒
のやうに、
下 二 上 一
二 五 三 一 四
二 三レ 一
のやうな「それ」が、「使用」される。
然るに、
(22)
「返り点」は、「(右)から、(左)へ、返る点」であるため、
二 → 上
二 → 三
二 → レ
を含む所の、
下 二 上 一
二 五 三 一 四
二 三レ 一
は、「返り点」ではない
然るに、
(23)
下 二 上 一
二 五 三 一 四
二 三レ 一
といふ「それ」は、
四 二 三 一
二 五 三 一 四
二 四 三 一
といふ「順番」を、表してゐる。
従って、
(22)(23)により、
(24)
四 二 三 一
二 五 三 一 四
二 四 三 一
といふ「順番」に対して、「返り点」を、加へことは、出来ない
然るに、
(25)
四 二 三 一
二 五 三 一 四
二 四 三 一
に対して、「それ」を、加へると、
四[二(三〔一)〕]
二(五[三〔一)〕四]
二(四[三〔一)〕]
でなければ、ならない。
然るに、
(26)
四[二(三〔一)〕]
二(五[三〔一)〕四]
二(四[三〔一)〕]
に於ける、
 [ ( 〔 )〕]
 ( [ 〔 )〕 ]
 ( [ 〔 )〕]
のやうな「それ」は、
 [ 〔 ( )〕]
 [ 〔 ( )〕]
 [ 〔 ( )〕]
のやうな「括弧」ではない
従って、
(25)(26)により、
(27)
四 二 三 一
二 五 三 一 四
二 四 三 一
といふ「順番」に対して、「括弧」を、加へことは、出来ない
従って、
(24)(27)により、
(28)
四 二 三 一
二 五 三 一 四
二 四 三 一
といふ「順番」に対して、「返り点括弧」を、加へことは、出来ない
従って、
(19)(21)(28)により、
(29)
荻生徂徠曰く、反り点を排除するのは、中国語の原語序破壊だからである。
とは、言ふものの、固より、
只管要下纏擾上我。
端的看不出這婆子的本事来。
西門慶促忙促急儧造不出床来。
吃了不多酒。
といふ「白話(中国語)」に対しては、「返り点括弧」を、加へことが、出来ない
(30)
① 不〔読(書)〕。
の場合であれば、「訓読」は、
② 〔(書を)読ま〕ず。
といふ「語順」であっても、
① 書 が、読 の「補語」であるといふこと。
② 書 が、読 の「補語」であるといふこと。
に関しては、
①=② であって、
① 不 が、「不」意外の「全体」を「否定」してゐること。
② ず が、「不」意外の「全体」を「否定」してゐること。
に関しても、
①=② である。
従って、
(30)により、
(31)
① 不〔読(書)〕。
② 〔(書を)読ま〕ず。
といふ「漢文訓読」に於いては、「語順」は「異なる」ものの、
① 〔 ( ) 〕。
② 〔 ( ) 〕。
といふ「構造」に関しては、「変り」が無い
然るに、
(32)

従って、
(31)(32)により、
(33)
① 不〔読(書)〕。
② 〔(書を)読ま〕ず。
に於いては、「語順」は「異なる」ものの、
① 〔 ( ) 〕。
② 〔 ( ) 〕。
といふ「構造」に関しては、「変り」が無いやうに、
③ 是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
④ 是を以て、大学の始教は、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)即きて、{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ「漢文訓読」に於いても、「語順」は「異なる」ものの、
③ 〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
④ 〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「構造」に関しては、「変り」が無い
従って、
(33)により、
(34)
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」を、
③ 是を以て、大学の始教は、必ず学者をして凡そ天下の物に即きて、其の已に知るの理に因って、益々之を極め、以て其の極に至るを求め不るを莫から使む。
といふ風に、「訓読」しても、
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」の、
④ 〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「構造」は、「保存」される。
然るに、
(35)
⑤ 西門慶促忙促急儧造不出床来。
に対して、
⑥ 西門慶促‐忙促‐急儧造 不
⑥ 西門慶促‐忙促‐急儧‐造(不[出〔床)〕来]。
のやうに、
⑥ 二 五 三 一 四
⑥ ( [ 〔 )〕 ]
といふ、「返り点」でも、「括弧」でもない、「それら」を用ゐて、「無理矢理」、
⑥ 西門慶促忙促急([〔床を)儧‐造し〕出し来たら]ず。
といふ風に、「訓読」するといふことは、
⑤ 西門慶促忙促急儧造不出床来。
といふ「中国語(白話)の構造」と、
⑥ 西門慶促忙促急に床を儧造し出だし来たらず。
といふ「訓読(和文)の構造」が、「同じ」ではない。といふことを、意味してゐる。
従って、
(34)(35)により、
(36)
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」を、
④ 是を以て、大学の始教は、必ず学者をして凡そ天下の物に即きて、其の已に知るの理に因って、益々之を極め、以て其の極に至るを求め不るを莫から使む。
といふ風に、「訓読」しても、
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」の、
③ 〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「構造」は、「保存」されるものの、その一方で、
⑤ 西門慶促忙促急儧造不出床来。
といふ「中国語」を、
⑥ 西門慶促忙促急に床を儧造し出だし来たらず。
といふ風に、「訓読」するならば、
⑤ 西門慶促忙促急儧造不出床来。
といふ「中国語構造」は、「保存」されない
従って、
(36)により、
(37)
「問題」なのは、「語順」の「保存」ではなく、「構造」の「保存」であるとするならば、
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」を、
④ 是を以て、大学の始教は、必ず学者をして凡そ天下の物に即きて、其の已に知るの理に因って、益々之を極め、以て其の極に至るを求め不るを莫から使む。
といふ風に、「訓読」した「結果」として、「語順」が「変はる」ことは、「些細な問題」であると、すべきである。
従って、
(37)により、
(38)
しばしばとりあげられる〈語順〉の問題、元来はまっすぐに書かれた漢文に返り点をつけた、転倒しながら読むのは不自然だという考え方、などは、むしろ些少なことにすぎないかもしれない。かえって、語と語との修飾や支配の関係を、まったく構造を異にする日本語という言語と対比させることによって、はっきりとうかびあがらせる効用があるというべきである。
是以、大学始教、必使学者即凡天下之物、莫上レ其已知之理、而益々極之、以求上レ乎其極
そこで大学での始めの教えは、学習者が天下の物すべてについて、彼がすでに知っている理を手がかりとしてますますこれをきわめ、そしてその極点にまで到達することを求めるようにせしめる(原文では、「求めないことはいっさいないように、ぜひともせしめる」)のである。
このよう複雑な文章でも、返り点があることによって、簡明直截文字のかかり方を知ることができる(平凡社、日本語の歴史2、2007年、155・156頁改)。
といふ「指摘」は、「語順=構造」であるとする「部分」を除いて、「正しい」。
従って、
(39)
「問題」なのは、「語順」の「保存」ではなく、「構造」の「保存」である。
といふ「観点」無いままに
反り点排除するのは、中国語の原語序の破壊だからである。」
といふ風に、荻生徂徠が、述べてゐるのであれば、そのやうな「主張」は、「浅見」であると、すべきである。
(40)
通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア)。
との、ことである。
然るに、
(41)
(α)「漢文」は、「訓読」に、極めて、適してゐて
(β)「白話」は、「訓読」に、極めて、適してゐない
といふことは、
(γ)「漢文(文言文)」と、「白話(中国語」は、互いに、「完全に、別の言語」である。
といふことに、他ならない。
 <平成29年06月25日、毛利太。

2017年6月20日火曜日

「中国語」と「漢文」は、「完全に違ふ言語」である。

(01)
子貢問政。子曰、足食足兵、民信之矣。子貢曰、必不得已而去於斯三者何先。子曰、去兵。曰、必不得已而去、於斯二者何先。曰、去食。自古皆有死、民無信不立。
は、「論語、顔淵、七」である。
(02)
子貢問(政)。子曰、足(食)足(兵)、民信(之)矣。子貢曰、必不〔得(已)〕而去、於(斯三者)何先。子曰、去(兵)。曰、必不〔得(已)〕而去、於(斯二者)何先。曰、去(食)。自(古)皆有(死)、民無(信)不(立)。
は、(01)に対する「括弧」である。
(03)
子貢(政)問。子曰、(食)足(兵)足、民(之)信矣。子貢曰、必〔(已)得〕不而去、(斯三者)於何先。子曰、(兵)去。曰、必〔(已)得〕不而去、(斯二者)於何先。曰、(食)去。(古)自皆(死)有、民(信)無(立)不。
は、(02)に対する、「置」である。
(04)
子貢(政を)問ふ。子曰く、(食を)足し(兵を)足し、民は(之を)信にす。子貢曰く、必ず〔(已む)得〕ずして去らば、(斯の三者に)於いて何をか先にせん。(兵を)去らん。曰く、必ず〔(已むを)得〕ずして去らば、(斯の二者に)於いて何を先にせん。曰く、(食を)去らん。(古)自り皆(死)有り、民(信)無くんば(立た)ず。
は、(03)に基づく、「訓読」である。
(05)
子貢が(政治について)質問した。先生は言った、(食糧を)十分にし(軍備を)十分にして、民は(之に)信頼の心を持たせる。子貢は言った、必ず〔(やむ)得〕ずして捨てるとしたら、(この三つに)於いて、どれをか先に捨てるべきでせうか。先生は言った、(軍備を)捨てよう。言った、必ず〔(やむを)得ず〕して捨てるとしたら、(この二つに)於いてどちらを先に捨てるべきでせうか。言った、(食糧を)捨てよう。(昔)から誰にでも(死は)有る。人民に(信頼が)無ければ(立ち行か)ない。
は、(04)に基づく、「口語」である。
(06)
Zi Gong asked about politics, Confucius said, "You should have enough food and armaments, and let the people have trust." Zi gong asked, "If we have to give up one of these three, what should be the first?" Confucius said, "Give up armaments." Zi Gong asked, If we have to give up remaining two, what should be the first?" Confucius said, "Give up food. For everyone has to die, but if people do not have trust, the nation will not stand."
は、(01)に対する「英訳(𢎭和順、論語 珠玉の三十章、2007年、51頁)」である。
(07)
Zi Gong asked〔about(politics)〕, Confucius said, "You should〔have(enough food and armaments)〕, and let〔the people have(trust)〕. "Zi gong asked, "If we have- to{give-up[one〔of(these three)〕]}, what should〔be(the first)〕?" Confucius said, "Give-up(armaments).Zi Gong asked, If we have-to〔give-up(remaining two)〕, what should〔be(the first)〕?" Confucius said, "Give-up(food). For everyone has-to(die), but if people do-not〔have(trust)〕, the nation will〔not(stand)〕."
は、(06)に対する「括弧」である。
(08)
Zi Gong〔(politics)about〕asked,  Confucius said, "You〔(enough food and armaments)have〕should, and〔the people(trust)have〕let. "Zi gong asked, "If we{[〔(these three)of〕one]give-up}have- to, what〔(the first)be〕should?" Confucius said, "(armaments)Give-up." Zi Gong asked, If we〔(remaining two)give-up〕have-to, what〔(the first)be〕should?" Confucius said, "(food)Give-up. For everyone(die has-to, but if people〔(trust)have〕do-not, the nation〔(stand)not〕will."
は、(07)に対する、「置」である。
(09)
子貢が〔(政治)について〕質問した,  孔子が言った, "あなたは〔(十分な食料と軍備を)持つ〕べきであり, そして〔人々に(信頼を)持たせ〕なさい." 子貢が質問した, "もしも我々が{[〔(これらの三つ)の〕一つを]あきらめ}なければならないとしたら, 何が〔(最初に)なる〕べきでせう?" 孔子は言った, "(軍備を)あきらめる." 子貢が質問した, もしも我々が〔(残りの二つを)あきらめ〕なければならないとしたら, 何が〔(最初に)なる〕べきでせう?" 孔子が言った, "(食糧を)あきらめる. 何故なら 誰でもが(いつかは、死な)なければならないが, しかし もしも 人民が〔(信頼を)持た〕なければ, 国は〔(立ち行か)ない〕であらう."
は、(08)に対する、「日本語」である。
(10)
「𢎭和順、論語 珠玉の三十章、51頁」には、「論語、顔淵、七」の「英訳」と、「中国語訳体字)」が載ってゐる。
然るに、
(11)
「说・谁」であれば、「説・誰」であらう、といふことくらひは、「推測」可能であっても、「多くの簡体字」は、「それに対するもとの漢字(繁体字)」が、分らない。
従って、
(12)
「𢎭和順、論語 珠玉の三十章、51頁」には、「論語、顔淵、七」の「中国語訳(体字)」が載ってゐるものの、私の場合は、「それらの簡体字」を、「入力」することが、出来ない。
然るに、
(13)
Zi Gongは政治について尋ねたところ、「食糧や武器を十分に確保し、国民に信頼させるべきだ」と述べた。 Ziゴングは、 "もしこれら3つのうちの1つを断念しなければならないなら、最初は何をすべきか?"孔子は言った、 "武器をあきらめる。残りの2人をあきらめなければならないなら、最初は何をすべきか」と孔子は言った。「食糧をあきらめる。誰もが死ななければならないが、国民が信頼しなければ、国家は立たない」
は、(06)に対する、「グーグル翻訳」である。
然るに、
(14)
(06)に対する、
子贡问政治,孔子说:“你们应该有足够的食物和军备,让人们有信心。”梓公问:“如果我们要放弃这三个中的一个,那应该是第一个?”孔子说,“放弃军备”。子功问,如果我们要放弃剩下的两个,应该是第一个?“孔子说,”放弃食物。每个人都要死,但如果人们不信任,国家就不会站了。“
は、「中国語訳」である。
(15)
Zi gōng wèn zhèngzhì, kǒngzǐ shuō:“Nǐmen yīnggāi yǒu zúgòu de shíwù hé jūnbèi, ràng rénmen yǒu xìnxīn.Zǐ gōng wèn:“Rúguǒ wǒmen yào fàngqì zhè sān gè zhōng de yīgè, nà yīnggāi shì dì yī gè?” Kǒngzǐ shuō,“fàngqì jūnbèi”. Zi gōng wèn, rúguǒ wǒmen yào fàngqì shèng xià de liǎng gè, yīnggāi shì dì yī gè?“Kǒngzǐ shuō,” fàngqì shíwù. Měi gèrén dōu yàosǐ, dàn rúguǒ rénmen bù xìnrèn, guójiā jiù bù huì zhànle.“
は、(14)に対する、「ピンイン(ローマ字)」である。
然るに、
(16)
子贡问政治,孔子说:“你们应该有足够的食物和军备,让人们有信心。”梓公问:“如果我们要放弃这三个中的一个,那应该是第一个?”孔子说,“放弃军备”。子功问,如果我们要放弃剩下的两个,应该是第一个?“孔子说,”放弃食物。每个人都要死,但如果人们不信任,国家就不会站了。“
といふ「中国語」は、私には、全く分から
(17)
Zi gōng wèn zhèngzhì, kǒngzǐ shuō:“Nǐmen yīnggāi yǒu zúgòu de shíwù hé jūnbèi, ràng rénmen yǒu xìnxīn.Zǐ gōng wèn:“Rúguǒ wǒmen yào fàngqì zhè sān gè zhōng de yīgè, nà yīnggāi shì dì yī gè?” Kǒngzǐ shuō,“fàngqì jūnbèi”. Zi gōng wèn, rúguǒ wǒmen yào fàngqì shèng xià de liǎng gè, yīnggāi shì dì yī gè?“Kǒngzǐ shuō,” fàngqì shíwù. Měi gèrén dōu yàosǐ, dàn rúguǒ rénmen bù xìnrèn, guójiā jiù bù huì zhànle.“
といふ「ピンイン」に至っては、「発音することさえ、出来ない
然るに、
(18)
Zi Gong asked about politics, Confucius said, "You should have enough food and armaments, and let the people have trust." Zi gong asked, "If we have to give up one of these three, what should be the first?" Confucius said, "Give up armaments." Zi Gong asked, If we have to give up remaining two, what should be the first?" Confucius said, "Give up food. For everyone has to die, but if people do not have trust, the nation will not stand."
といふ「英語」を、「グーグル翻訳」で、「韓国語」にすると、
(19)
지 공 콘푸치오 "당신은 충분한 식량과 무기를 가지고 있고, 사람들이 신뢰를 가질 수 있도록해야한다."닫아 물었다 징, "우리가 먼저해야하는지 세 가지 중 하나를 포기해야한다면?"콘푸치오 말했다, 정치에 대해 질문 "무기를 포기"고 말했다. 우리는 남은 두 포기해야하는 경우 지 공 무엇을 먼저해야 하는가?, 물었다 "콘푸치오 말했다,"음식을 제공합니다. 모든 사람이 죽어가 들어 있지만, 사람들이 신뢰를 가지고 있지 않다면, 국가는 참을 것이다. "
といふ風に、「翻訳」され、
(20)
지 공 콘푸치오 "당신은 충분한 식량과 무기를 가지고 있고, 사람들이 신뢰를 가질 수 있도록해야한다."닫아 물었다 징, "우리가 먼저해야하는지 세 가지 중 하나를 포기해야한다면?"콘푸치오 말했다, 정치에 대해 질문 "무기를 포기"고 말했다. 우리는 남은 두 포기해야하는 경우 지 공 무엇을 먼저해야 하는가?, 물었다 "콘푸치오 말했다,"음식을 제공합니다. 모든 사람이 죽어가 들어 있지만, 사람들이 신뢰를 가지고 있지 않다면, 국가는 참을 것이다. "
といふ「韓国語」を、「グーグル翻訳」で、「英語」にすると、
(21)
Zongqing asked about politics, and Confucius said, "We must have enough food and armaments and trust the people." Zi gong asked, "If we have to give up one of these three things, what should be the first?" Confucius said, "Give up the armaments." If Zi Gong should give up the remaining two, what should we do first? "Confucius said," Everyone has to die, but if the people do not trust, the nation will not be able to stand. "
といふ風に、「翻訳」される。
従って、
(01)(06)(17)~(21)により、
(22)
지 공 콘푸치오 "당신은 충분한 식량과 무기를 가지고 있고, 사람들이 신뢰를 가질 수 있도록해야한다."닫아 물었다 징, "우리가 먼저해야하는지 세 가지 중 하나를 포기해야한다면?"콘푸치오 말했다, 정치에 대해 질문 "무기를 포기"고 말했다. 우리는 남은 두 포기해야하는 경우 지 공 무엇을 먼저해야 하는가?, 물었다 "콘푸치오 말했다,"음식을 제공합니다. 모든 사람이 죽어가 들어 있지만, 사람들이 신뢰를 가지고 있지 않다면, 국가는 참을 것이다. "
といふ「韓国語訳」は、
子貢問政。子曰、足食足兵、民信之矣。子貢曰、必不得已而去於斯三者何先。子曰、去兵。曰、必不得已而去、於斯二者何先。曰、去食。自古皆有死、民無信不立。
といふ「漢文の訳」として、「正しい」。
然るに、
(23)
私自身は、「中国語」も「韓国語」も「全く知らない」ため、
Zi gōng wèn zhèngzhì, kǒngzǐ shuō:“Nǐmen yīnggāi yǒu zúgòu de shíwù hé jūnbèi, ràng rénmen yǒu xìnxīn.Zǐ gōng wèn:“Rúguǒ wǒmen yào fàngqì zhè sān gè zhōng de yīgè, nà yīnggāi shì dì yī gè?” Kǒngzǐ shuō,“fàngqì jūnbèi”. Zi gōng wèn, rúguǒ wǒmen yào fàngqì shèng xià de liǎng gè, yīnggāi shì dì yī gè?“Kǒngzǐ shuō,” fàngqì shíwù. Měi gèrén dōu yàosǐ, dàn rúguǒ rénmen bù xìnrèn, guójiā jiù bù huì zhànle.“
といふ「ピンイン」も、
지 공 콘푸치오 "당신은 충분한 식량과 무기를 가지고 있고, 사람들이 신뢰를 가질 수 있도록해야한다."닫아 물었다 징, "우리가 먼저해야하는지 세 가지 중 하나를 포기해야한다면?"콘푸치오 말했다, 정치에 대해 질문 "무기를 포기"고 말했다. 우리는 남은 두 포기해야하는 경우 지 공 무엇을 먼저해야 하는가?, 물었다 "콘푸치오 말했다,"음식을 제공합니다. 모든 사람이 죽어가 들어 있지만, 사람들이 신뢰를 가지고 있지 않다면, 국가는 참을 것이다.
といふ「ハングル」も、両方とも、「チンプンカンプン(GREEK TO ME)」である。
然るに、
(24)
 若し中国古典文学をできる限り元来の音に近い発音で読んで鑑賞しようとすれば、現代の北京語に頼るのは決して正しい方法ではない。むしろ、前の例で分かるように、北京語を除けば漢字文化圏のどんな音読を使ってもよいが、一番ふさわしくて忠実な方法は一つしかないと思う。それは中国語学者が数十年をかけて、細かい音声学的調査の結果復元した古代・中世の音声系統に従って読むことである。もはや欧米の専門家だけでなく、中国・ 日本の学者の間でもその学問的な習慣が広がってきた。若し文学的な趣味を持ち、学問的、歴史的な関心を元に、中国古典を読もうとする人であれば、それらの学者と同様に復元された発音に従い口述するのが大切である。さもなければ、北京語と異なり語尾の子音をしっかりと表記すればどんな発音でもよろしい。言うまでもなく、日本語の呉音と漢音も他の発音に劣らない一つの音声系統である(二十一世紀の漢文-死語の将来- (Kanbun for the XXIst Century ―The Future of Dead Languages― )Jean-Noel A. ROBERT (ジャン-ノエル ロベール)フランス パリ国立高等研究院 教授)
従って、
(24)により、
(25)
子貢問政。子曰、足食足兵、民信之矣。子貢曰、必不得已而去於斯三者何先。子曰、去兵。曰、必不得已而去、於斯二者何先。曰、去食。自古皆有死、民無信不立。
といふ「漢字」を、
Zi gòng wèn zhèng. Zǐ yuē, zú shí zú bīng, mín xìnzhī yǐ. Zi gòng yuē, bì bùdéyǐ ér qù yú sī sān zhě hé xiān. Zǐ yuē, qù bīng. Yuē, bì bùdéyǐ ér qù, yú sī èr zhě hé xiān. Yuē, qù shí. Zìgǔ jiē yǒu sǐ, mín wú xìn bù lì.
といふ「北京語」で「発音」することは、
子貢問政。子曰、足食足兵、民信之矣。子貢曰、必不得已而去於斯三者何先。子曰、去兵。曰、必不得已而去、於斯二者何先。曰、去食。自古皆有死、民無信不立。
といふ「漢字」を、
シコウモンセイ。シエツ、ソクショクソクヘイ、ミンシンイイ。シコウエツ、ヒツフツトクイジキョ、オキサンシャカセン。シエツ、キョヘイ。エツ、ヒツフツトクイジキョ、オキサンシャカセン。エツ、キョショク。ジコカイイウシ、ミンムシンフツリツ。
といふ「日本漢字音」で「発音」することよりも、「優れたやり方」である。といふことには、ならないし、更に言へば、
(26)
zero4rrzさん2009/9/2922:28:41
中国語はむずかしい・・・
どうもです^^
どうしてもピンインと四声が覚えられなくて悩んでおります。
試験に向けてまず単語から勉強するのですが、なかなか頭に残らず、簡体字をやっと覚えても、ピンイン、四声がなかなか覚えられなくて結局いい点数はとれませんでした。
元々漢字はいいとして、ピンイン、声、この3つを覚えるのがすごく難しいです。
上記×○○個といった単語を覚えるのはもうしんどいです。
友人には、CDで四声を覚えろと言われましたが、音の違いが何度聞いてもやっぱりわかりません。
中国語が得意な方はどのように勉教されているのでしょうか?
との、ことである。
然るに、
(01)(04)により、
(25)
子貢問政。子曰、足食足兵、民信之矣。子貢曰、必不得已而去於斯三者何先。子曰、去兵。曰、必不得已而去、於斯二者何先。曰、去食。自古皆有死、民無信不立。
であれば、
子貢政を問ふ。子曰く、食を足し兵を足し、民は之を信にす。子貢曰く、必ず已む得ずして去らば、斯の三者に於いて何をか先にせん。兵を去らん。曰く、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於いて何を先にせん。曰く、食を去らん。古自り皆死有り、民信無くんば立たず。
といふ風に、「訓読」出来、加へて、
(26)
子貢問政。子曰、足食足兵、民信之矣。子貢曰、必不得已而去於斯三者何先。子曰、去兵。曰、必不得已而去、於斯二者何先。曰、去食。自古皆有死、民無信不立。
であれば、
シコウモンセイ。シエツ、ソクショクソクヘイ、ミンシンイイ。シコウエツ、ヒツフツトクイジキョ、オキサンシャカセン。シエツ、キョヘイ。エツ、ヒツフツトクイジキョ、オキサンシャカセン。エツ、キョショク。ジコカイイウシ、ミンムシンフツリツ。
といふ「日本漢字音」によって、「暗誦」出来る。
加へて、
(27)
① 子貢問政。子曰、足食足兵、民信之矣。子貢曰、必不得已而去於斯三者何先。子曰、去兵。曰、必不得已而去、於斯二者何先。曰、去食。自古皆有死、民無信不立。
② 子贡问政治,孔子说:“你们应该有足够的食物和军备,让人们有信心。”梓公问:“如果我们要放弃这三个中的一个,那应该是第一个?”孔子说,“放弃军备”。子功问,如果我们要放弃剩下的两个,应该是第一个?“孔子说,”放弃食物。每个人都要死,但如果人们不信任,国家就不会站了。“
於ける、
① 必不得已而去於斯三者何先。
② 如果我们要放弃这三个中的一个,那应该是第一个?
等を見れば分るやうに、
①  漢文  と、
② 中国語 は、「文法」から見れば、「明らかに、違ふ言語である」。
加へて、
(28)
発音上の問題は皆北京語の音声磨滅に依るものである。現在生きている多数の漢字の発音の間では、いちばん極端な磨滅を被ったのは異論の余地なく北京語である(二十一世紀の漢文-死語の将来- ジャン-ノエル ロベール フランス パリ国立高等研究院 教授)
従って、
(27)(28)により、
(29)
①  漢文  と、
② 中国語 は、「文法」から見ても、「発音」からしても、「明らかに、違ふ言語である」。
平成29年06月20日、毛利太。

2017年6月17日土曜日

返り点、括弧、補足構造。

(01)
従って、
(02)
「不(否定詞)」は、「ず(否定詞)」に等しく、
「於(置詞)」は、「に(置詞)」に等しい。
然るに、
(01)(02)により、
(03)
① 君子不困人於阨=
① 君子不[困〔人於(阨)〕]⇔
① 君子[〔人(阨)於〕困]不=
① 君子は[〔人(阨)に〕困しめ]ず。
に於いて、
① 不[ ]⇔[ ]ず
① 困〔 〕⇔〔 〕苦しめ
① 於( )⇔( )に
である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 君子不困人於阨=
① 君子不[困〔人於(阨)〕]⇔
① 君子[〔人(阨)於〕困]不=
① 君子は[〔人(阨)に〕困しめ]ず。
に於いて、
① 不(否定詞)=ず  (否定詞)
① 困(他動詞)=困しめ(他動詞)
① 於(前置詞)=に  (後置詞)
の「位置」が、「漢文」と「訓読」では、「反対」になる。
然るに、
(05)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 君子不困人於阨=
① 君子不[困〔人於(阨)〕]⇔
① 君子[〔人(阨)於〕困]不=
① 君子は[〔人(阨)に〕困しめ]ず。
に於ける、
①[ 〔 ( ) 〕 ]
①[ 〔 ( ) 〕 ]
といふ「括弧」は、
① 君子不困人於阨。⇔
① 君子は人を阨に困しめず。
といふ「漢文訓読」に於ける、『補足構造』を、示してゐる。
cf.
君子は阨困に会ってゐる人を苦しめない(宋襄の仁)。
従って、
(01)(06)により、
(07)
② 君子不以其所以養人者害人=
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇔
② 君子{[其〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不=
② 君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
に於ける、
②{ [ 〔 ( ) 〕 ]( ) }
②{ [ 〔 ( ) 〕 ]( ) }
といふ「括弧」は、
② 君子不以其所以養人者害人。⇔
② 君子は其の人を養ふ所以の者を以て人を害せず。
といふ「漢文訓読」に於ける、『補足構造』を、示してゐる。
cf.
② 其=君子
② 者=君子所以養人
② 君子は、人々を養ふ際の手段(土地)のために、人々を害するやうなことはしない(孟子、梁惠王章句下)。
従って、
(08)
② 君子不以其所以養人者害人=
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇔
② 君子{[其〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不=
② 君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
といふ「漢文訓読」に於いて、
②{ [ 〔 ( ) 〕 ]( ) }
②{ [ 〔 ( ) 〕 ]( ) }
といふ『補足構造』自体は、「同一」であって、「変り」が無い。
従って、
(01)(08)により、
(09)
② 君子不其所二‐以養 一レ人者甲レ人。
② 君子不其所三‐以養
に於ける、
② 乙 下 二 一レ 上 甲レ
② 丙 下 三 二 一 上 乙 甲
といふ「返り点も、
② 君子不以其所以養人者害人=
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇔
② 君子{[其〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不=
② 君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
といふ「漢文訓読」に於ける、『補足構造』を、示してゐる。
然るに、
(10)
② 君子不以其所以養人者害人=
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇔
② 君子{[其〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不=
② 君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
といふ「漢文訓読」に於いて、
② 君子不 以 其所 以 養 人  者 害 人  。
② 君子  其  人 養 所 以者 以 人 害 不。
といふ「漢字」自体は、「変らない」。
従って、
(08)(10)により、
(11)
② 君子不以其所以養人者害人=
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇔
② 君子{[其〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不=
② 君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
といふ「漢文・訓読」に於いて、
(Ⅰ)漢字。
(Ⅱ)構造。
(Ⅲ)語順。
に於いて、
(Ⅰ)漢字。は、「保存」される。
(Ⅱ)構造。は、「保存」される。
(Ⅲ)語順。は、「保存」されない。
然るに、
(12)
国語漢語と現代中国語のくいちがいを示すひとつのパターンは、国語漢語は中国古典の語彙をかなり残し、現に使用しているが、本場の中国においては、その言葉が死語になっていて、現在では別のいいかたがふつうになっているという場合である。
(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、206・7頁)
然るに、
(13)
② 君子不以其所以養人者害人。⇒
③ 君子不拿用来养活人的东西害人。
(Webサイト:古诗文网)
に於いては、
③ には、果たして、
②    以其所以養者 といふ「漢字」が無く、
② には、
③    拿用来养活 的东西 といふ「漢字」が無い。
従って、
(13)により、
(14)
② 君子不以其所以養人者害人。⇒
③ 君子不拿用来养活人的东西害人。
といふ「漢文・中国語訳」に於いて、
(Ⅰ)漢字。
(Ⅱ)構造。
(Ⅲ)語順。
といふ「三つ」の中の、少なくとも、
(Ⅰ)漢字。
に関しては、「保存」されない。
然るに、
(15)
例えば、「孝莫大於厳父、厳父莫大於配天」というところが、白話訳では「孝的勾當都無大似父親的、敬父親的勾當便似敬天一般」となっている。両者の違いは一目瞭然であろう(続訓読論、川島優子 他、2010年、312頁改)。中国語の文語文(つまり漢文)は、漢字の表意文字たる性質を十二分に生かして、簡潔な表現になっておりますから、訓読に非常に適しています。これに対し、白話(口語)の文章は、熟語や助字が多く、冗長です。そのため訓読には不向きなのです(Webサイト:日本漢文の世界)。現代中国語は,かなり「アルタイ化」している 現代中国語の「アルタイ化」とは,動詞が文末に移動すること。 現代中国語の ... 中国語の語順は,言語接触による動揺と元の状態への復帰とを繰り返して,不空合な状態が続いてきたと考えられる(Webサイト:現代中国語の「アルタイ語化」に関するメモ)。
従って、
(14)(15)により、
(16)
② 君子不以其所以養人者害人。⇒
③ 君子不拿用来养活人的东西害人。
といふ「漢文・中国語訳」に於いて、
(Ⅰ)漢字。
(Ⅱ)構造。
(Ⅲ)語順。
といふ「三つ」は、「三つ」とも「保存」されない
といふ風に、「予想」される。
然るに、
(17)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(17)により、
(18)
② 君子不以其所以養人者害人=
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}。
であるならば、
② 不  は、{以其所以養人者害人}に「掛ってゐる」。
② 以  は、 [其所以養人者]  に「掛ってゐる」。
② 所以 は、   所以〔養人〕  に「掛ってゐる」。
② 養  は、      (人)  に「掛ってゐる」。
② 害  は、        (人)に「掛ってゐる」。
然るに、
(19)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である。管到の「管」は「領(おさめる)」の意味とほぼ同じと考えてよい。
(二畳庵主人、漢文文法基礎、1984年、389頁)
従って、
(07)(17)(18)(19)により、
(20)
② 君子不以其所以養人者害人=
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇔
② 君子{[其〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不=
② 君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
に於ける、
②{ [ 〔 ( ) 〕 ]( ) }
②{ [ 〔 ( ) 〕 ]( ) }
といふ「括弧」は、
② 君子不以其所以養人者害人。⇔
② 君子は其の人を養ふ所以の者を以て人を害せず。
といふ「漢文訓読」に於ける、『管到(補足構造)』を、示してゐる。
然るに、
(21)
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」に於いて、
② 不  は、{以其所以養人者害人}に「掛ってゐる」。
② 以  は、 [其所以養人者]  に「掛ってゐる」。
② 所以 は、   所以〔養人〕  に「掛ってゐる」。
② 養  は、      (人)  に「掛ってゐる」。
② 害  は、        (人)に「掛ってゐる」。
といふことが、「事実」であって、尚且つ、
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」に於いて、
② 不  は、{以其所以養人者害人}に「掛ってゐる」。
② 以  は、 [其所以養人者]  に「掛ってゐる」。
② 所以 は、   所以〔養人〕  に「掛ってゐる」。
② 養  は、      (人)  に「掛ってゐる」。
② 害  は、        (人)に「掛ってゐる」。
といふことを、「或る人」が、「知らない」のであれば、「その人」は、
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」を、「理解」出来ない。はずである。
(22)
④ それは我々に、彼が偉大な人間であるということを、思い出させる。⇔
④ It reminds us that he is a great man(グーグル翻訳).
であるものの、「英文・訓読」は、
④ It reminds us that he is a great man.=
④ It reminds[us that〔he is(a great man)〕].⇔
④ It [us〔he (a great man)is〕 that]reminds.=
④ それは[我々に〔彼が(偉大な人間)である〕といふことを]思ひ出させる。
である。
然るに、
(23)
⑤ It reminds us that while we may be a nation divided on policies, we are a country that stands united in condemning hate and evil in all of its very ugly forms.
に対して、
⑤〈{[《〈{[〔( )〕]}〉》〔(【『「《〈{[〔( )〕]}〉》」』】)〕]}〉
を用ゐるならば、「英文・訓読」は、
⑤ It reminds us that while we may be a nation divided on policies, we are a country that stands united in condemning hate and evil in all of its very ugly forms.=
⑤ It reminds〈us{that[while《we may〈be{a-nation[divided〔on(policies)〕]}〉》, we are〔a-country(that【stands『united「in《condemning〈hate-and-evil{in[all〔of(its very ugly forms)〕]}〉》」』】)〕]}〉.⇒
⑤ It 〈{[《we 〈{[〔(policies)on〕divided]a-nation}be〉may》while, we 〔(【『「《〈{[〔(its very ugly forms)of〕all]in}hate-and-evil〉condemning》in」united』stands】that)a-country〕are]that}us〉reminds.=
⑤ そのことは〈{[《我々が〈{[〔(政策)に於いて〕分断された]国民}である〉かのやうに思へるに》せよ, 我々が〔(【『「《〈{[〔(非常に醜い形)の〕あらゆる状態]にある}憎しみや悪を〉非難すること》に於いて」団結した』状態にある】所の)国家〕である]といふことを}我々に〉気付かせてくれる.
である。
従って、
(19)(20)(23)により、
(24)
例へば、私の場合は、
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」の、『管到(補足構造)』を「把握」出来ないのであれば、
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」を、「訓読」出来ない
⑤ It reminds us that while we may be a nation divided on policies, we are a country that stands united in condemning hate and evil in all of its very ugly forms.
といふ「英文」の、『管到(補足構造)』を「把握」出来ないのであれば、
⑤ It reminds us that while we may be a nation divided on policies, we are a country that stands united in condemning hate and evil in all of its very ugly forms.
といふ「英語」を、「訓読」出来ない
然るに、
(25)
⑤ It reminds us that while we may be a nation divided on policies, we are a country that stands united in condemning hate and evil in all of its very ugly forms.
といふ「英文」の「意味」が、「チンプンカンプン(GREEK TO ME)」であって、
⑤ イット リマインズ ミー ザット フォワイル ウィ メイ ビー ア ネーション ディバイディッド オン ポリシーズ、ウィ アー ア カントリー ザット スタンズ ユナテッド イン コンデミング ヘイト アンド イビル イン オール オブ イッツ ベリー アグリー フォームズ。
といふ風に、「読むだけ」であるならば、「極めて、簡単」である。
然るに、
(26)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到してかかっているか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである。
(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)
従って、
(24)(25)(26)により、
(27)
例へば、
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」に於いて、
② 不  は、{以其所以養人者害人}に「掛ってゐる」。
② 以  は、 [其所以養人者]  に「掛ってゐる」。
② 所以 は、   所以〔養人〕  に「掛ってゐる」。
② 養  は、      (人)  に「掛ってゐる」。
② 害  は、        (人)に「掛ってゐる」。
といふことが、「事実」であって、尚且つ、
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」に於いて、
② 不  は、{以其所以養人者害人}に「掛ってゐる」。
② 以  は、 [其所以養人者]  に「掛ってゐる」。
② 所以 は、   所以〔養人〕  に「掛ってゐる」。
② 養  は、      (人)  に「掛ってゐる」。
② 害  は、        (人)に「掛ってゐる」。
といふことを、「或る人」が、「知らない」のであれば、「その人」が、
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」を、「理解」出来ない。はずである。といふことは、
中国語」を「母語」とする者であって、「日本語」を「母語」とする者であっても、「変りが無い」。はずである。
然るに、
(28)
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」に於いて、
② 不  は、{以其所以養人者害人}に「掛ってゐる」。
② 以  は、 [其所以養人者]  に「掛ってゐる」。
② 所以 は、   所以〔養人〕  に「掛ってゐる」。
② 養  は、      (人)  に「掛ってゐる」。
② 害  は、        (人)に「掛ってゐる」。
といふことは、
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」に、
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}。
といふ「補足構造」が有る。といふことに、他ならない。
従って、
(01)(28)により、
(29)
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」に対して、
② 君子不其所二‐以養 一レ人者甲レ人。
② 君子不其所三‐以養
といふ「返り点」が付く。といふことは、
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」に、
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}。
といふ「補足構造」が有る。といふことに、他ならない。
平成29年06月18日、毛利太。

2017年6月16日金曜日

「漢文訓読」のメリット。

(01)

然るに、
(02)
この場合は、の字を抜いて、
夏五月、鄭伯克段鄢。
という文章を仮定することは、やや困難であるが、ぜんぜん困難ではない。
(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、49頁改)
従って、
(02)により、
(03)
① 君子不困人阨。
の場合も、
(前置詞)=に(後置詞)
は、無くとも、構はない。
従って、
(01)(03)により、
(04)
① 君子不困人阨=
① 君子不〔困〔人阨)〕⇒
① 君子〔(人阨)困〕不=
① 君子は〔(人を阨に)困しめ〕ず。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
cf.
① 君子は、阨困にある人を、苦しめることはしない。
然るに、
(05)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(06)
① 君子不〔困(人阨)〕⇔
① 君子は〔〔人を阨に)困しめ〕ず。
に於いて、
① 〔 ( ) 〕
① 〔 ( ) 〕
といふ「括弧」は、
①「漢文の補足構造」である。
①「国語の補足構造」である。
従って、
(04)(06)により、
(07)
① 君子不困人阨。
といふ「漢文」を、
① 君子は人を阨に困しめず。
といふ風に、「訓読」したとしても、「変る」のは「語順」であって、「補足構造自体は、「変らない
従って、
(01)(07)により、
(08)
② 君子不以其所以養人者害人=
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇒
② 君子{[其〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不=
② 君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
といふ「漢文訓読」に於いても、「補足構造自体は、「変らない」。
cf.
② 其=君子
② 者=君子所以養人
② 君子は、人々を養ふ際の手段(土地)のために、人々を害するやうなことはしない。
然るに、
(09)
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇒
② 君子{[其〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不。
に於いて、
② 君子不 以 其所 以 養 人  者 害 人  。
② 君子  其  人 養 所 以者 以 人 害 不。
といふ「漢字自体は、「変らない」。
従って、
(10)
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」を、
② 君子は其の人を養ふ所以の者を以て人を害せず。
といふ風に、「訓読」しても、「変る」のは「語順」であって、「補足構造漢字は、「変らない」。
然るに、
(11)
例へば、「孝莫大於厳父、厳父莫大於配天」というところが、白話訳では「孝的勾當都無大似父親的、敬父親的勾當便似敬天一般」となっている。両者の違いは一目瞭然であろう(続訓読論、川島優子 他、2010年、312頁改)。中国語の文語文(つまり漢文)は、漢字の表意文字たる性質を十二分に生かして、簡潔な表現になっておりますから、訓読に非常に適しています。これに対し、白話(口語)の文章は、熟語や助字が多く、冗長です。そのため訓読には不向きなのです(Webサイト:日本漢文の世界)。
従って、
(11)により、
(12)
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」に対する、「中国語訳(白話訳)」の場合も、「両者の(補足構造の)違い一目瞭然であろう。」といふ風に、「予想」される。
然るに、
(13)
国語漢語と現代中国語のくいちがいを示すひとつのパターンは、国語漢語は中国古典の語彙をかなり残し、現に使用しているが、本場の中国においては、その言葉が死語になっていて、現在では別のいいかたがふつうになっているという場合である。
(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、206・7頁)
従って、
(12)(13)により、
(14)
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」に対する、「中国語訳(白話訳)」の場合も、「両者の(補足構造漢字の)違い一目瞭然であろう。」といふ風に、「予想」される。
従って、
(10)(14)により、
(15)
② 君子不以其所以養人者害人⇒
② 君子は其の人を養ふ所以の者を以て人を害せず。
といふ「漢文訓読」の場合は、
(Ⅰ)漢字。
(Ⅱ)補足構造。
(Ⅲ)語順。
の内の、「二つ」が「同じ」であるのに対して、
② 君子不以其所以養人者害人⇒
② 君子不拿用来养活人的东西害人。
といふ「漢文中国語訳」の場合は、
(Ⅰ)漢字。
(Ⅱ)補足構造。
(Ⅲ)語順。
の内の、「二つ」が「同じではない。といふ風に、「予測」される。
従って、
(16)
② 君子は其の人を養ふ所以の者を以て人を害せず。
といふ「訓読」に対する、
② 君子不拿用来养活人的东西害人。
といふ「中国語訳」が、「より正確な翻訳」である。
といふことには、ならない。はずである。
然るに、
(17)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である。管到の「管」は「領(おさめる)」の意味とほぼ同じと考えてよい。
(二畳庵主人、漢文文法基礎、1984年、389頁)
従って、
(08)(17)により、
(18)
② 君子不以其所以養人者害人=
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇒
② 君子{[其〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不=
② 君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
に於ける、
②    { [    〔 ( )〕 ] ( )}
といふ「括弧」は、
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」の、「補足構造管到」を、示してゐる。
従って、
(01)(18)により、
(19)
② 君子不其所二‐以養 一レ人者甲レ人。
に於ける、
② 乙 下 二 一レ 上 甲レ
といふ「返り点」も、
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」の、「補足構造管到」を、示してゐる。
然るに、
(20)
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」を、
② クンシフイキショイヨウジンシャガイジン。
といふ風に、「音読」することは、「漢文」を全く知らない「小学生」であっても、「可能」であるが、その場合、「小学生」は、
② 君子不以其所以養人者害人。
といふ「漢文」の、
② { [ 〔 ( ) 〕 ]( ) }
② 乙 下 二  一レ 上   甲レ
といふ「補足構造管到」を、「把握してゐるわけではない
然るに、
(21)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである。
(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)
従って、
(20)(21)により、
(22)
「漢文訓読」が、「漢文中国語音読」よりも「劣った読み方」であるといふ風に、私は思はない。
(23)
通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア)。
従って、
(24)
いづれにせよ、「中国語」ならぬ「漢文」は、「訓読に適してゐるからこそ、「訓読」され続けて来たのであって、そのことだけは、是非とも、確認したい。
平成29年06月16日、毛利太。

2017年6月14日水曜日

「漢文」を学ぶ際に「中国語の知識」は不要である。

(01)
かつて漢文科かつて漢文学科だった学科や漢文学専攻は、いま、そのほとんすべてが中国文学科中国文学専攻になってしまっている。そこでは、当然、中国語も履修することになっていて、そこで学んだ方々は、古代の中国文も現代の中国音で発音できるし、またそういう出身の先生は、得意げにそういうように読んでも聞かせたりするもののようである。そこで、日本文学科出身の国語科の先生や、教育学部の国語専修などの出身の先生は、漢文は嫌いではないのだが、生徒からなにか、偽者のように思われて辛い、と聞くことがあったりするのである(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、36頁)。
とのことである。
(02)
中国語教育の普及によって、今現代中国語による接近も可能となった。二種の接近方法は、日本人にとって、それぞれ長所と短所がある。すなわち、両者は排斥し合う関係にではなく、補い合う関係にあると考えられるのが正しい(古田島洋介、湯城吉信、2011年、10頁)。
とのことである。
然るに、
(03)
かつて東アジア一帯での外交や文化交流の際に使われた文体を、中国では「古文」と呼び、日本ではそれを「漢文」と呼んでいる。この文体は、中国の歴史のいつの時代でも、話ことばとはまったくちがうものだった。中国では文字の記録がはじまった当初から、口語の言語と文章に書かれる書面語(いわゆる文語)のあいだに、かなり大きなへだたりがあったと思われる(阿辻哲次、近くて遠い中国語、2007年、116頁)
とのこである。
(04)
現代中国語の文章は、白話の要素を多く引き継いでおり、漢文すなわち文言文の要素をなるべき少なくしようとするのが基本姿勢である(古田島洋介、湯城吉信、2011年、10頁)。
とのことである。
然るに、
(05)

・この文体(漢文)は、中国の歴史のいつの時代でも、話ことばとはまったくちがうものだった。
・現代中国語の文章は、漢文すなわち文言文の要素をなるべき少なくしようとするのが基本姿勢である。
といふのであれば、一体何故
漢文を学習する際に於いて、現代中国語(北京語)の学習を、必要とするのか。
といふ、その「理由」が、私には、分らない。
(06)
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
とのことである。
然るに、
(07)
以前にも、書いたやも知れないものの、私の「漢文の独習」は、例へば、次のやうにして行なはれる(た)。
(08)

にあって、例へば、
群臣・・・・・・・・・・。に於ける、「・・・・・・・・・・」の「原文」が、「思ひ出せなかった」とする。と、
その際には、
(09)

といふ「画面」を表示し、
群臣、其言小而功大者亦罰。
非不説於大功也。
以為、不当名也、害甚於有大功。
故罰。
といふ「白文」を、
群臣、其の言小にし而功大なる者も亦た罰せらる。
大功を説ば不るに非ざる也。
以為らく名に当たら不る也、害大功有る於りも甚だし。
といふ風に、「訓読」する。
その上で、
(10)
群臣、其の言小にし而功大なる者も亦た罰せらる。
大功を説ば不るに非ざる也。
以為らく名に当たら不る也、害大功有る於りも甚だし。
といふ「訓読」を、
グンシン、キゲンショウジコウダイシャエキバツ。
ヒフツエツオタイコウヤ。
イヰ、フトウメイヤ、ガイジンオイウタイコウ。
コバツ。
といふ風に、「音読」する。
然るに、
(11)
「(09)と(10)」を「何回か繰り返し」さえすれば、
群臣
といふ「二字を見ただけで
群臣、其言小而功大者亦罰。
非不説於大功也。
以為、不当名也、害甚於有大功。
故罰。
といふ「原文」の、
グンシン、キゲンショウジコウダイシャエキバツ。
ヒフツエツオタイコウヤ。
イヰ、フトウメイヤ、ガイジンオイウタイコウ。
コバツ。
といふ「漢字音」が、「口を衝いて、出るやう」になる。
然るに、
(12)
復文】復文とは、書き下し文(日本語の語順)を、漢文の原文(古典中国語の語順)に復元する作業である(古田島洋介、湯城吉信、2011年、118頁)。
従って、
(11)(12)により、
(13)
群臣、其の言小にし而功大なる者も亦た罰せらる。
大功を説ば不るに非ざる也。
以為らく名に当たら不る也、害大功有る於りも甚だし。
といふ「訓読」を、「口頭」で、何度か「復文」すれば、
群臣、其言小而功大者亦罰。
非不説於大功也。
以為、不当名也、害甚於有大功。
故罰。
といふ「原文」を、「暗誦出来るやうになる
然るに、
(14)
例へば、
大功 の「音」は、「タイカウ」 であって、
大功 の「音」は、「ダイギャウ」である。
然るに、
(15)
平安時代には、桓武天皇(かんむ・てんのう、737-806)が、当時遣唐使がもたらした最新の中国音である「漢音」を用いて漢籍を読むことを奨励されています。延暦11年(792年)閏11月の勅に、次のようにあります。
(原文)勅。明経之徒、不可習吳音。発声誦読、既致訛謬。熟習漢音。
(訓読)勅ちよくす。明経めいけいの徒とは、吳音ごおんを習なろう可べからず。発声はつせい・誦読しようとく、既すでに訛謬かびゆうを致いたせり。漢音かんおんを熟習じゆくしゆうせよ。(Webサイト:日本漢文の世界 kambun.jp)
といふこともあって、私の場合は、嘗て、『旺文社、高校基礎漢和辞典』の「音」を「全て、覚えよう」としたものの、「結局は、挫折」した。
従って、
(16)
群臣、其言小而功大者亦罰。
非不説於大功也。
以為、不当名也、害甚於有大功。
故罰。
のやうな「原文」を、
グンシン、キゲンショウジコウダイシャエキバツ。
ヒフツエツオタイコウヤ。
イヰ、フトウメイヤ、ガイジンオイウタイコウ。
コバツ。
といふ風に「暗誦」する際には、「漢文・呉音・唐宋音・慣用音」の、「ゴチャ混ぜ」である。
然るに、
(17)
日本の読み下しは非常に古い注釈に基づいているものとして、それなりの価値を有している、言わば即席解釈法とみなしてもいい。現代中国語と言われるものは概ね北京語に他ならない。北京語と古典中国語(文言)は互いに違う言葉である。北京語(普通話)に通じることは文言の理解を特別に助けるものではない。この事実を無視して、北京語を勉強している日本人の一部の人は一種の錯誤によく陥る。日本の訓読に正反対の読み方が北京語の読み方だという発想(訓読北京語である)。それは間違っている。実際はどこの音読でもよい。日本語の語順による訓読、読み下しはある程度まで一種の翻訳とみなしても良かろう。音読になると、特別に北京語に依頼する必要がない。北京語に依る音読が他の音読と比べて優れた正確性を有するわけでもない。その他に広東語、上海語、台湾語、ベトナム語、韓国語に依る音読も皆同じく重要視しなければならない。また言うまでもなく、 日本の呉音漢音に依る音読も極東の他の音読と平等な地位を占める。古典中国語の文章を原文のまま、文法的な変化を加えないで直接に読む限り、どんな音読でも同じぐらいの価値がある(二十一世紀の漢文-死語の将来- (Kanbun for the XXIst Century ―The Future of Dead Languages― )Jean-Noel A. ROBERT (ジャン-ノエル ロベール)フランス パリ国立高等研究院 教授)。
とのことである。
従って、
(18)
群臣、其言小而功大者亦罰。
非不説於大功也。
以為、不当名也、害甚於有大功。
故罰。
といふ「漢文」を、
Qún chén, qí yán xiǎo ér gōng dà zhě yì fá.
Fēi bù shuō yú dàgōng yě.
Yǐwéi, bùdāng míng yě, hài shén yú yǒu dàgōng.
Gù fá.
といふ風に、「発音」しなければならないと、思はない。
従って、
(19)
・中国の歴史のいつの時代でも、話ことばとはまったくちがうものだった。
・現代中国語の文章は、漢文すなわち文言文の要素をなるべき少なくしようとするのが基本姿勢である。
・北京語を勉強している日本人の一部の人は一種の錯誤によく陥る。日本の訓読に正反対の読み方が北京語の読み方だという発想(訓読対北京語である)。それは間違っている。
といふのであれば、「研究者ではない、英語さえ碌に読めないディレッタントの身」としては、「中国語を学びつつ、漢文を学ぶ気」には、到底、なれない。
(20)
・中国の歴史のいつの時代でも、漢文は、話ことばとはまったくちがうものだった
(阿辻哲次、近くて遠い中国語、2007年、116頁)。
北京語に依る音読が他の音読と比べて優れた正確性を有するわけでもない(ジャン-ノエル ロベール)。
にも拘らず、
国文学科に変身した新学科には、訓読軽蔑し、否定する教授もいらっしゃる(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、38頁)。
といふのであれば、さのやうな教授は、「かつて多くゐた、マル経の教授」と同じく、「正真正銘の、アホ」である。
(21)
なおギリシャ哲学史家の田中美知太郎博士は、音読派と訓読派の対立には現代中国賞賛派(毛沢東信奉派)と伝統中国尊重派の立場の差がという側面もあることを見抜き、そのうえで音読派を徹底するならギリシャ研究者のように発音もその当時のものを復元して読むべきではないかと言っている(土田健次郎、大学における訓読教育の必要性)。
平成29年06月14日、毛利太。