2017年5月29日月曜日

私が大野です(大野は私です)。

(01)
でなくてQである。
④ Qであってでない。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(02)
③ Pでなくてである。といふことはない。
であってPでない。といふことはない。
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(03)
③ PでなくてQである。といふことはない。
④ QであってPでない。といふことはない。
といふことは、
③ PでないならばQでない。
④ QであるならばPである。
といふことに、他ならない。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
③ PでないならばQでない。
④ QであるならばPである。
に於いて、
③=④
であるといふことは、「日本語」として、「正しい」。
然るに、
(05)
  1(01)~P→~Q  A
  2(02) Q     A
  3(03)~P     A
 13(04)~Q     13MPP
123(05) Q&~Q  24&I
12 (06)~(~P)  35RAA     
12 (07) P      6DN
1  (08) Q→ P   27CP
∴ ~P→~Q├ Q→P
(06)
  1(01) Q→P   A
  2(02)~P     A
  3(03) Q     A
 13(04) P     13MPP
123(05)~P&P   24&I
12 (06)~Q     35RAA
1  (07)~P→~Q  26CP
∴ Q→P├ ~P→~Q
従って、
(05)(06)により、
(07)
③ ~P→~Q
④  Q→ P 
に於いて、
③=④
であるといふことは、「論理学」として、「正しい」。
従って、
(04)(07)により、
(08)
③ PでないならばQでない(~P→~Q)。
④ QであるならばPである( Q→ P)。
に於いて、
③=④
であるといふこと、すなはち、「対偶」は、「日本語・論理学」として「正しい」。
然るに、
(09)
③ PでないならばQでない。
④ QであるならばPである。
といふことは、
③ P以外はQでない。
④ QはPである。
といふことに、他ならない。
従って、
(08)(09)により、
(10)
③ P以外はQでない。
④ QはPである。
に於いて、
③=④
であるといふこと、すなはち、「対偶」は、「日本語・論理学」として「正しい」。
然るに、
(11)
② 東京日本の首都である。
③ 東京以外に日本の首都はない。
④ 日本の首都は東京である。
といふ「命題」は、「三つ」とも、「真(本当)」である。
然るに、
(12)
② 東京日本である。
③ 東京以外に日本はない。
④ 日本は東京である。
といふ「命題」は、「三つ」とも、「偽(ウソ)」である。
然るに、
(13)
① 東京は日本の首都である。
① 東京は日本である。
といふ「命題」は、「二つ」とも、「真(本当)」である。
従って、
(11)(12)(13)により、
(14)
① 東京は日本の首都である。
② 東京日本の首都である。
③ 東京以外に日本の首都はない。
④ 日本の首都は東京である。
といふ「命題」は、「四つ」とも、「真(本当)」であるが、
① 東京は日本である。
② 東京日本である。
③ 東京以外に日本はない。
④ 日本は東京である。
といふ「命題」は、「一つ」だけ、「真(本当)」である。
従って、
(14)により、
(15)
③ A以外はBでない。
④ BはAである。
といふことは、
② ABである。
といふ風に、「言ひ得る」ための、「必要条件」であって、
③ A以外はBでない。
④ BはAである。
といふことは、
① AはBである。
といふ風に、「言ひ得る」ための、「必要条件」ではない
従って、
(15)により、
(16)
① AはBである。
としても、
③ A以外はBでない。
④ BはAである。
かどうかは、「分からない」ものの、
② ABである。
ならば、
③ A以外はBでない。
④ BはAである。
といふことが、「確定」する。
従って、
(16)により、
(17)
① AはBである。
とは言はずに、敢へて、
② ABである。
といふ風に、言ふのであれば、その場合は、
③ A以外はBでない。
④ BはAである。
といふことを、「確認」してゐる、ことになる。
従って、
(10)(17)により、
(18)
何らかの「理由」により、
③ A以外はBでない。
といふことを、「確認」したいのであれば、その場合は、
① AはBである。
とは言はずに、
② ABである。
④ BはAである。
といふ風に、言ふことになる。
従って、
(18)により、
(19)
③ 私以外は大野ではない。
といふことを、「確認」したいのであれば、その場合は、
① 私は大野です。
とは言はずに、
② 私大野です。
④ 大野は私です。
といふ風に、言ふことになる。
然るに、
(20)
(3) 未知既知
この組み合わせは次のような場合に現われる。
 私が大野です。
これは、「大野さんはどちらですか」というような問いに対する答えとして使われる。つまり文脈において、「大野」なる人物はすでに登場していて既知である。ところが、それが実際にどの人物なのか、その帰属する先が未知である。その未知の対象を「私」と表現して、それをで承けた。それゆえこの形は、
 大野は私です。
に置きかえてもほぼ同じ意味を表わすといえる(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、34頁)。
従って、
(19)(20)により、
(21)
② 私大野です。
④ 大野は私です。
といふ「日本語」は、
③ 私以外は大野ではない。
といふ「意味」なのであって、「既知・未知」といふこととは、「関係」がない。
(22)
⑤ そのことだけ、看過できない。
といふ「日本語」は、
⑤ (他のことは兎も角)そのことだけは、看過できない。
といふ、「意味」である。
然るに、
(23)
⑥ そのことだけ、気掛かりである。
といふ「日本語」は、
⑥ そのことが気掛かりであって(、そのこと以外は気掛かりではない)。
といふ、「意味」である。
従って、
(22)(23)により、
(24)
⑤ AだけはBである。
⑥ AだけBである。
に於いて、
⑤≠⑥ であって、
⑤=⑥ ではない。
然るに、
(25)
② 東京、 日本の首都である。
⑥ 東京だけ日本の首都である。
の場合は、
②=⑥ であって、
②≠⑥ ではない。
従って、
(26)
② A、 Bである。
⑥ AだけBである。
に於いて、
②=⑥ である。
(27)
① AはBである。
② AがBである。
③ AもBである。
といふ「日本語」は、
① A is B.
② Only A is B.
③ A is B,too.
といふ「意味」である。
然るに、
(28)
① A is B.
② Only A is B.
③ A is B,too.
に於いて、
① A は「主語」である。
② A は「主語」である。
③ A は「主語」である。
従って、
(27)(28)により、
(29)
① AはBである。
② AがBである。
③ AもBである。
に於いて、
① A は「主語」である。
② A は「主語」である。
③ A は「主語」である。
従って、
(29)により、
(30)
①「Aは」Bである。
②「Aが」Bである。
③「Aも」Bである。
に於いて、
①「Aは」は「主語は」である。
②「Aが」は「主語が」である。
③「Aも」は「主語も」である。
従って、
(31)
① AはBである。
に於いては、
①「A 」が、「主語」であって、
①「A」は、「主語」ではない
cf.
ところが、古文では、この「」「」「を」が、当然のことのように省略されている場合が、ずいぶん多い
(中村菊一、重点整理基礎からわかる古典文法、1978年、7頁)。
然るに、
(32)
日本語などの東アジアの言語には必要のない「主語」は、明治維新以降は「脱亜入欧」の掛け声のもと、英文法を真似て導入されたものだった。大野晋も『日本語の世界』付録の丸谷才一との対談、その事情をあっさり認めてゐる。

明治以降、要するに英文法をもとにして、大槻博士が日本語の文法を組み立てた。その時に、ヨーロッパでは文を作る時に必ず主語を立てる。そこで『文には主語が必要』と決めた。そこで日本語では主語を示すのに『』を使う、と考えたのです。ヨーロッパにあるものは日本にもなくては具合が悪いというわけで、無理にいろんなものを当てはめた。
ここまで言い切る大野なら、なぜ「日本語に主語はない」と文部科学省に断固抗議し、学校文法改正の音頭を取らないのだろう。言語学的に何ら根拠のない「ハとガの違い」の説明に拘泥し、三上章の「主語廃止論」を一蹴した国語学会の大御所である大野晋も、学問的に正しく批判さる日がやがて来るだろう。
(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、11頁)
(33)
② A(だけ)がBである。
③ Aも(また)Bである。
であって、
①(少なくとも)AはBである。
である。
然るに、
(34)
①(少なくとも)は「副詞」であって、
②(だけ)   は「副詞」であって、
③(また)   も「副詞」である。
従って、
(32)(33)(34)により、
(35)
① AはBである。
に於いては、
①「Aは」は、「主語+副詞」であるとすることも、「不可能」ではない。
従って、
(36)
日本語では主語を示すのに『は(副詞)』を使う。
とするならば、マチガイである。
しかしながら、
(37)
① AはBである。
に於ける、
①「A」ではなく、
①「A 」を「主語」である。
としても、「不都合」が生じることはなく、それ故、「日本語に主語はない」などといふ「荒唐無稽」は、有り得ない。
(38)
  1(01)  ~P→~Q A
  2(02)  ~P&Q  A
  2(03)  ~P    2&E
  2(04)   Q    2&E
 12(05)  ~Q    14MPP
 12(06)  ~Q&Q  45&E
 1 (07)~(~P&Q) 26RAA
∴ PでないならばQでない。├ (PでなくてQである)といふことはない。
(39)
  1(01)~(~P&Q) A
  2(02)  ~P    A
  3(03)   Q    A
 23(04)  ~P&Q  34&I
123(05)~(~P&Q)&(~P&Q)
12 (06)  ~Q    35RAA
1  (07)  ~P→~Q 26CP
∴(PでなくてQである)といふことはない。├ PでないならばQでない。
従って、
(38)(39)により、
(40)
③ PでないならばQでない。
といふことは、「論理学的」には、
③ PでなくてQである。といふことはない。
といふことに、他ならない。
然るに、
(41)
③ PでないならばQでない。⇔
③ PでなくてQである。といふことはない。
といふことは、「論理学」を学ばなくとも、「常識」として「正しい」。
然るに、
(42)
④ QであるならばPである。⇔
④ QであってPでない。といふことはない。
といふことも、「論理学」を学ばなくとも、「常識」として「正しい」。
然るに、
(43)
③ PでなくてQである。といふことはない。
④ QであってPでない。といふことはない。
といふことも、「論理学」を学ばなくとも、「常識」として「正しい」。
従って、
(41)(42)(43)により、
(44)
③ PでないならばQでない(P以外はQでない)。
④ QであるならばPである(QはPである)。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(44)により、
(45)
③ 私以外は大野ではない。
④ 大野は私です。
に於いて、
③=④ である。
といふ「我々の直感」は、「論理学的にも、正しい」。
然るに、
(46)
③ 大野さんはどちらですか。
といふ「問ひかけ」がないにも拘はらず、
① 私は大野です。
とは言はずに、
③ 私以外は大野ではない。
④ 大野は私です。
といふ風に言ふのは、ヲカシイ。
然るに、
(47)
③ 大野さんはどちらですか。
といふ「問ひかけ」がないにも拘はらず、
① 私は大野です。
とは言はずに、
② 私大野です。
といふ風に言ふのも、ヲカシイ。
従って、
(46)(47)により、
(48)
② 私大野です。
③ 私以外は大野ではない。
④ 大野は私です。
に於いて、
②=(③=④)
であると、「推定」される。
平成29年05月29日、毛利太。
―「関連記事」―
「が」=「가」なのか、私には分らない(http://kannbunn.blogspot.com/2017/05/blog-post_22.html)。

2017年5月22日月曜日

「が」=「가」なのか、私には分らない。

(01)
~A→~B=~(~A)∨~B=A∨~B=~(~A&B)=~(B&~A)=~B∨~(~A)=~B∨A=B→A
といふ「等式」は、「論理学」として「正しい」。
cf.
含意の定義、二重否定律、ド・モルガンの法則、交換の法則、ド・モルガンの法則、二重否定律、含意の定義。
然るに、
(02)
③ ~A→~B
④  B→ A
といふ「論理式」は、
③ AでないならばBでない。
④ BであるならばAである。
といふ「意味」である。
然るに、
(03)
③ AでないならばBでない
④ Aでなくて、 Bである。といふことはない
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(04)
なくて、Bである。
④ Bであって、ない
に於いて、
③=④ である。
従って、
(04)により、
(05)
③ Aでなくて、Bである。といふことはない。
④ Bであって、Aでない。といふことはない。
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(06)
③ Bであって、  Aでない。といふことはない
④ Bであるならば、Aである
に於いて、
③=④ である。
従って、
(03)~(06)により、
(07)
③ AでないならばBでない。
④ BであるならばAである。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(02)(07)により、
(08)
③ ~A→~B=AでないならばBでない。
④  B→ A=BであるならばAである。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(01)(02)(08)により、
(09)
③ ~A→~B=AでないならばBでない。
④  B→ A=BであるならばAである。
に於いて、
③=④ である。
といふこと、すなはち、「対偶」は、「論理学・日本語」として、「正しい」。
然るに、
(10)
③ AないならばBない
④ BであるならばAである。
といふことは、
③ A以外はBでない
④ BはAである。
といふことに、他ならない。
従って、
(09)(10)により、
(11)
③ ~A→~B=A以外はBでない。
④  B→ A=BはAである。
に於いて、
③=④ である。
といふことは、「論理学・日本語」として、「正しい」。
然るに、
(12)
② 東京日本の首都である。
③ 東京以外に日本の首都はない。
④ 日本の首都は東京である。
といふ「命題」は、「三つ」とも、「真(本当)」である。
然るに、
(13)
② 東京日本である。
③ 東京以外に日本はない。
④ 日本は東京である。
といふ「命題」は、「三つ」とも、「偽(ウソ)」である。
然るに、
(14)
① 東京は日本である。
① 東京は日本の首都である。
といふ「命題」は、「二つ」とも、「真(本当)」である。
従って、
(12)(13)(14)により、
(15)
① AはBである。
といふ「言ひ方」が、
② ABである。
といふ「言ひ方」に、「置き換へる」ことが出来るのであれば、その時に限って、
② ABである。
③ A以外はBでない。
④ BはAである。
といふ「言ひ方」は、「三つとも、正しい」。
従って、
(13)(15)により、
(16)
② 東京日本の首都である。
③ 東京以外に日本の首都はない。
④ 日本の首都は東京である。
がさうであるやうに、
② ABである。
③ A以外はBでない。
④ BはAである。
に於いて、
②=③=④ である。
然るに、
(17)
① 東京は=東京+清音
② 東京=東京+
である。
然るに、
(18)
もし音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(17)(18)により、
(19)
① 東京は=東京+清音
② 東京=東京+
に於いて、
② の「心理的な音量」は、
① の「心理的な音量」よりも「大きい」。
従って、
(16)(19)により、
(20)
① 東京は日本の首都である。
② 東京日本の首都である。
に於いて、
② の「主語」の「音量」は、
① の「主語」の「音量」よりも「大きく」、尚且つ、
② 東京日本の首都である。
といふ「日本語」は、
③ 東京以外に日本の首都はない
といふ「意味」である。
然るに、
(21)
〔63〕a.TOM sent Mary flowers.
   b.Tom SENT Mary flowers.
   c.Tom sent MARY flowers.
   d.TOM sent Mary FLOWERS.
"Tom sent Mary flowers.”"(トムはメアリーに花を送った)という文は、四つの単語からできていますが、どの単語を強調して発音するかによって少しずつ意味が違ってきます。
〔63〕では、強調して発音される単語は全部大文字で示してあります。
Tom を強調して発音すれば、「他の誰でもないトムメアリーに花を送った」という意味になります。つまり、主語として、「トム」という人間が他の人間と対比されているということです。
(町田健、チョムスキー入門、2006年、150頁)
従って、
(21)により、
(22)
② Tokyo is the capital of Japan.
に於いて、
② Tokyo を「強く発音」すれば、
③ 東京以外に日本の首都はない。
といふ、「意味」になる(はずである)。
従って、
(20)(22)により、
(23)
② Tokyo is the capital of Japan.
に於いて、
② Tokyo を「強く発音」すれば、
③ 東京以外に日本の首都はない
といふ、「意味」になる。ものの、
② 東京日本の首都である。
③ 東京以外に日本の首都はない
に於いて、
②=③ であって、尚且つ、
① 東京は日本の首都である。
② 東京日本の首都である。
に於いて、
② の「主語」の「音量」は、
① の「主語」の「音量」よりも「大きい」。
然るに、
(24)
③ 東京以外に日本の首都はない
のやうな「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」といふ。
従って、
(19)(23)(24)により、
(25)
濁音による強調形」を含めて、「強調形」は、「排他的命題」を主張する。
然るに、
(26)
濁音大きい」という音象徴パターンは、濁音を持つ他の言語の話者でも観察されることが、研究の結果とわかっています。
(川原繁人、 音とことばのふしぎな世界、2015年、9頁)
然るに、
(27)
① 東京は日本の首都である。
② 東京日本の首都である。
に対する「韓国語訳(グーグル翻訳)」は、
① 도쿄는 일본의 수도이다.
② 도쿄 일본의 수도이다.
① dokyoneun ilbon-ui sudoida.
② dokyoga ilbon-ui sudoida.

である。
然るに、
(28)
wakwak1234123さん2008/2/1815:08:27
韓国語で「~は」は~ヌン、「~」は~ と考えてよいのでしょうか?
corea828さん 2008/2/1822:54:42
基本的にはそれでよいと思いますが、やはり外国語。日本語と100%互換性があるとは言えません。
従って、
(16)(27)(28)により、
(29)
② ABである。
③ AはBであり(A以外はBでない)。
④ AはBであり(BはAである)。
だけでなく、
② ABである。
③ A는Bであり(A以外는Bでない)。
④ A는Bであり(B는Aである)。
であっても、
②=③ であるならば、その時に限って、
②=④ である。
といふ風に、思ってゐた。
然るに、
(30)
        カ
母音終りの体言+가
        イ
子音終りの体言+이
カ イ
가/이は、日本語の「~が」に相当する助詞ですが、「~が」と訳せない場合もあるので注意が必要です。
(趙義成、基本ハングル文法、2015年、18頁改)。
然るに、
(31)
固より、가(カ)/이(イ)は、「音」ではなく、「音」である。
従って、
(31)により、
(32)
が(濁音)=가/이(音)
ではなく、
が(濁音)≠가/이(音)
である。
従って、
(32)により、
(33)
는(ヌン)は「音」であって、
가( ガ )は「音」である、が故に、・・・・・である。
といふ「言ひ方」は、固より、成立しない。
従って、
(28)(33)により、
(34)
② ABである。
③ AはBであり(A以外はBでない)。
④ AはBであり(BはAである)。
だけでなく、
A가 B다.
③ A는 B이며 (A이외는 B가 아니다).
④ A는 B이며 (B는 A다).
であっても、
②=③ であるならば、
②=④ である。
といふことには、なりそうもない(?)。
平成29年05月22日、毛利太。

2017年5月19日金曜日

訓民正音(民に正音を教ふ)。

(01)
[主語A]+[述語B(他動詞)]+[補語D]+[目的語C]
「Aが+Bする+Dに+Cを」
a 我與友人書 →A我 B与 D友人 C書 ・・・・A我 D友人に C書を  B与ふ。
b 王施民衆善政→A王 B施 D民衆 C善政・・・・A王 D民衆に C善政を B施す。
(紫藤誠也、漢文重要語句辞典、1991年、212頁)
然るに、
(02)
b 王施民衆善政→王、民衆に善政を施す。
であるならば、
c 王施善政 →王、民に善政を施す。
である。
然るに、
(03)
c 王施民善政→王、民に善政を施す。
であるならば、
d 王訓民正音→王、民に正音を訓ふ。
である。
然るに、
(04)
d 王訓民正音→王、民に正音を訓ふ。
であるならば、
e  訓民正音→  民に正音を訓ふ。
である。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
基礎的な漢文」しかしらない私自身は、今の今まで
「訓民正音」=「民に、正しい音を、教える。」
であると、思ってゐた。
然るに、
(06)
「訓民正音」は訓読すれば「民を訓うる正しき音」である。この名称は、音を正すことにより、民衆を強化するという意味合いが込められている(趙義成 訳注、訓民正音、2010年、194頁)。
従って、
(05)(06)により、
(07)
「訓民正音」=「民に、正しい音を、教える」
ではなく
「訓民正音」=「民に教える、正しい音」
である。といふ、ことになる。
然るに、
(08)
「所訓民正音。」
といふ「漢文」が有るならば、この場合は、
「民に教ふる所の正音」
といふ風にしか、「訓読」することが出来ず、
「民に教ふる所の正音。」
といふ風にしか、「訓読」することが出来ないのであれば、
「所訓民正音」=「民に教える、正しい音」
である。
従って、
(07)(08)により、
(09)
「民に教える、正しい音」=「 訓民正音」
であるならば、その一方で、
「民に教える、正しい音」=「所訓民正音」
である。といふ風に、思はれる。
因みに、
(10)
音楽=音を楽しむ。
ではなく、
音楽=音は楽しい。
である。
(11)
音を楽しむ。
であれば、
音楽(オンガク)
ではなく、
楽音(ラクオン)
である。
平成29年05月19日、毛利太。
― 関連記事 ―
「趙義成 訳注、訓民正音(P136~P162)、2010年」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/05/p136p1622010.html

2017年5月13日土曜日

「趙義成 訳注、訓民正音(P136~P162)、2010年」

(01)
『趙義成 訳注、訓民正音、2010年』で読むことが出来る「書き下し文(P136~P162)」を参考にして、
『崔万里等 諺文(언문、ハングルの旧称)反対上疏文(西暦1444年)』に、「括弧」を付けてみました。
(02)
「訓民正音とその関連文献にくまなく日本語の訓読文を附したのは、おそらく本書が初めてではないかと思う(あとがき)。」
とのことですが、「同書」には、「訓読文(書き下し文)」は有っても、「返り点」は有りません。
(03)
だ[〔(  に) りて に(  を) す 〕 り]。
といふ「平仮名」を「ハングル」に変へた場合、おそらく、
다[〔(  니) 리데 니(  오) 수 〕 리]。
である(?)か、それに近いものと思はれます。
従って、
(04)
例へば、
未有因方言而別爲文字者=
有〔因(方言)而別爲(文字)者〕。
に於いて、
不[ ]⇒[ ]不
有[ ]⇒[ ]有
因( )⇒( )因
爲( )⇒( )爲
といふ「移動」を行った上で、「平仮名・ハングル」を加へると、
未有因方言而別爲文字者=
未[有〔因(方言)而別爲(文字)者]〕⇒
未[〔(方言)因而別(文字)爲者〕有]不=
未だ[〔(方言に)因りて別に(文字を)爲す者〕有ら]不=
未다[〔(方言니)因리데別니(文字오)爲수者〕有리]不。
といふ「漢文訓読(日本語訳)」が成立する。
cf.
「未(尚不)」は「再読文字」。
「而」は「て・데(接続詞)」。
然るに、
(05)
韓国語の構文は、日本語の場合とほとんど同じと考えてよいだろう(森下喜一 池景來、日・韓対照言語学入門、1992年、14頁)。
ミョンワンソンキジから、ウジュウチョンハムヤマトがチュルドンし、コンギョクをケーシした。
冥王星基地에서、宇宙戦艦 ヤマト가出動 헤、攻撃 을開始했다。
どれほど似ているか、お判りいただけるだろうか。韓国語で仮名がふれるくらい、全く同じ語順なのだ(豊田有常、韓国が漢字を復活できない理由、119頁)。
従って、
(04)(05)により、
(06)
未だ[〔(方言に)因りて別に(文字を)爲す者〕有ら]不。
未다[〔(方言니)因리데別니(文字오)爲수者〕有리]不。
等の「平仮名・ハングル」を「韓国語のハングル」に「書き換へる」ことにより、「韓国語」を用ゐた、「括弧」による「漢文訓読」は、「原理的に可能」なはずです。
(07)
以下に於いて、
(Ⅰ)「句読点」等がついた「原文」。
(Ⅱ)「括弧」を加へた「それ」。
(Ⅲ)「訓読」の語順の「それ」。
(Ⅳ)「平仮名」を加へた「それ」。
(Ⅴ)「現代語訳(逐語訳)」。
であることを、確認します。
(08)
(Ⅰ)庚子。集賢殿副提學崔萬理等、上疏曰『臣等伏覩、諺文制作、至爲神妙、創物運智、夐出千古。然以臣等區區管見、尚有可疑者。敢布危懇、謹疏于後、伏惟聖裁。』
(Ⅱ)庚子。集賢殿副提學崔萬理等、上疏曰『臣等伏覩、諺文制作、至爲(神妙)、創物運智、夐出(千古)。然以(臣等區區管見)、尚有〔可(疑)者〕。敢布(危懇)、謹疏(于後)、伏惟(聖裁)。』
(Ⅲ)庚子。集賢殿副提學崔萬理等、上疏曰『臣等伏覩、諺文制作、至(神妙)爲、創物運智、夐(千古)出。然(臣等區區管見)以、尚〔(疑)可者〕有。敢(危懇)布、謹(于後)疏、伏(聖裁)惟。』
(Ⅳ)庚子。集賢殿副提學崔萬理等、上疏して曰く、『臣等伏して覩るに、諺文の制作、至って(神妙)爲り、創物運智、夐かに(千古を)出づ。然れども(臣等の區區管見を)以てするに、尚ほ〔(疑ふ)可き者〕有り。敢へて(危懇を)布き、謹んで(後に)疏し、伏して(聖裁を)惟ふ。」
(Ⅴ)集賢殿副提學である崔萬理らが、上疏して言った、『私どもが思いますに、「諺文」の制作は、非常に(神妙)であって、王様の物を創造される知恵は、はるかに(千古の昔を)抜きん出ています。しかしながら(私どもの浅慮)からしますと、〔(疑問に)思うことが〕有り、敢へて(厳しい真心)をもって、謹んで(以下に)申し上げ、(ご聖断を仰ぐ)次第です。』
庚子(1444年2月20日の干支)
副提學(官職名)
崔萬理(人名)
諺文(ハングル)
上疏(君主へ上奏すること)
夐(はる)かに
惟(おも)ふ
(09)
(Ⅰ)一、我朝自祖宗以來、至誠事大、一遵華制。今當同文同軌之時、創‐作諺文有駭觀聽。黨曰『諺文皆本古字、非新字也。』則字形雖倣古之篆文、用音合字、盡反於古、實無所據。若流中國、或有非‐議之者、豈不有愧於事大慕華。
(Ⅱ)一、我朝自(祖宗)以來、至誠事(大)、一遵(華制)。今當(同文同軌之時)、創‐作(諺文)有(駭觀聽)。黨曰『諺文皆本(古字)、非(新字)也。』則字形雖〔倣(古之篆文)〕、用(音)合(字)、盡反(於古)、實無〔所(據)〕。若流(中國)、或有〔非‐議(之)者〕、豈不{有[愧〔於事(大)慕(華)〕]}。
(Ⅲ)一、我朝(祖宗)自以來、至誠(大)事、一(華制)遵。今(同文同軌之時)當、(諺文)創‐作(駭觀聽)有。黨曰『諺文皆(古字)本、(新字)非也。』則字形〔(古之篆文)倣〕雖、(音)用(字)合、盡(於古)反、實〔(據)所〕無。若(中國)流、或〔(之)非‐議者〕有、豈{[〔於(大)事(華)慕〕愧]有}不。
(Ⅳ)一、我が朝(祖宗)自り以來、至誠に(大に)事へ、一に(華制に)遵ふ。今(同文同軌の時に)當り、(諺文を)創‐作するに(駭きて觀聽する)有り。黨しくは曰く、『諺文は皆(古字に)本づき、(新字に)非ざるなり。』則ひ字形〔(古の篆文に)倣ふと〕雖も、(音を)用ひ(字を)合はすは、盡く(古に)反す、實に〔(據る)所〕無し。若し(中國に)流れ、或は〔(之を)非‐議する者〕有らば、豈に{[〔(大に)事へ(華を)慕ふに〕愧ずること]有ら}ざらんや。
(Ⅴ)一つ、我が国は(初代国王)より、誠をもって(大国に)仕え、ひたすら(中華の制度に)従っています。今、(中華と進べき道を同じくするに)当たり、(諺文を)創‐作したことに対して(驚きをもって見聞きする者が)います。あるいは、『諺文はすべて(古い文字に)本づいていて、(新しい字)ではない。』と言われるかも知れません。たとえ字の形が〔(昔の文字に)ならっているに〕せよ、(音を)用いて(字を)合わせるのであれば、ことごとく(古いものに)反することになり、実に〔(根拠とする)所が〕有りません。もし(中国に)この「諺文」が知られることになって、〔(この「諺文」を)非難する者が〕有るとすれば、{[〔(大国に)仕え、(中華を)慕うに於いて〕恥ずべきこと]であると}思わないのでしょうか。
事大(大国である、中国に仕へ従ふ)
同文(文字を同じくする)
同軌(規格を同じくする)
則・即(たと)ひ

cf.
この上ない真心をもって大国に仕え(至誠事大)、

ひたすら中華の制度に従っています(一遵華制)。
といふ態度は、「ウリジナル(韓国起源説)」の否定に、他ならない。
(10)
(Ⅰ)一、自古九州之内、風土雖異、未有因方言而別爲文字者。唯蒙古・西夏・女眞・日本・西蕃之類、各有其字、是皆夷狄事耳、無足道者。傳曰『用夏變夷、未聞變於夷者也。』歴代中國皆以我國有箕子遺風、文物・禮樂比‐擬中華。今別作諺文、捨中國而自同於夷狄。是所謂棄蘇合之香而取螗螂之丸也。豈非文明之大累哉。
(Ⅱ)一、自(古)九州之内、風土雖(異)、未[有〔因(方言)而別爲(文字)者〕]。唯蒙古・西夏・女眞・日本・西蕃之類、各有(其字)、是皆夷狄事耳、無〔足(道)者〕。傳曰『用(夏)變(夷)、未[聞〔變(於夷)者〕]也。』歴代中國皆以(我國)有(箕子遺風)、文物・禮樂比‐擬(中華)。今別作(諺文)、捨(中國)而自同(於夷狄)。是所謂棄(蘇合之香)而取(螗螂之丸)也。豈非(文明之大累)哉。
(Ⅲ)一、(古)自九州之内、風土(異)雖、未[〔(方言)因而別(文字)爲者〕有]不。唯蒙古・西夏・女眞・日本・西蕃之類、各(其字)有、是皆夷狄事耳、〔(道)足者〕無。傳曰『(夏)用(夷)變、未[〔(於夷)變者〕聞]不也。』歴代中國皆(我國)以(箕子遺風)有、文物・禮樂(中華)比‐擬。今別(諺文)作、(中國)捨而自(於夷狄)同。是所謂(蘇合之香)棄而(螗螂之丸)取也。豈(文明之大累)非哉。
(Ⅳ)一つ、(古)自り九州の内、風土(異なると)雖も、未だ[〔(方言に)因りて別に(文字を)爲す者〕有ら]ず。唯だ蒙古・西夏・女眞・日本・西蕃之類、各々(其の字)有るは、是れ皆夷狄の事のみ、〔(道ふに)足る者〕無し。傳に曰く、『(夏を)用ひて(夷を)變ずるも、未だ[〔(夷に)變ずる者を〕聞か]ざるなり。』歴代の中國、皆(我國を)以て(箕子の遺風)有りとし、文物・禮樂は(中華)に比‐擬す。今、別に(諺文を)作り、(中國を)捨て、自ら(夷狄と)同じくす。是れ所謂(蘇合の香を)棄て(螗螂の丸)取るなり。豈に(文明の大累に)非ざらんや。
(Ⅴ)一つ、(昔)から、各地の風土は、それぞれ(異っている)としても、これまでに[〔(各地の言葉に)本づいて(文字を)作った者は〕い]ません。唯だ、蒙古・西夏・女眞・日本・西蕃などに(彼等の字が)有るのは、野蛮人であるからに、過ぎないので、〔(言う)必要は〕ありません。古典には、『(中華に)よって(野蛮人)が変わることはあっても、[〔(野蛮人に)感化された〕例は]ありません。』歴代の中国は、皆(我が国)に(箕子の遺風が)有るとして、文物や礼楽は(中華)になぞらえています。にもかかわらず、新たに(諺文を)作り、(中国から)離れて、自分から(野蛮人に)なろうとしています。これでは(蘇合の香を)棄てて、(カマキリ薬)を取ることになります。どうして(文明に対する大害で)ないと言えるでしょうか。
九州(中国全土)
夷狄(自分たち以外の野蛮人)
箕子(殷の紂王のおじ)
蘇合之香(高価な物の譬え)
螗螂之丸(まがい物の譬え)
(11)
(Ⅰ)一、新羅薛聰吏讀、雖爲鄙俚、然皆借中國通行之字、施於語助、與文字元不相離。故雖至胥吏僕隷之徒、必欲習之、先讀數書、粗知文字、然後乃用吏讀。用吏讀者、須馮文字、乃能達意。故因吏讀而知字者頗多、亦興學之一助也。若我國元不知文字、如結繩之世、則姑借諺文、以資一時之用猶可、而執正議者、必曰『與其行諺文以姑息、不如寧遲緩而習中國通行之文字、以爲久長之計也。』而況吏讀行之數千年、而簿書期會等事、無有防礎者。何用改舊行無弊之文、別創鄙諺無益之字乎。若行諺文、則爲吏者專習諺文、不顧學問文字、吏員岐而爲二。苟爲吏者以諺文而宦達、則後進皆見其如此也、以爲『二十七文字諺文足以立身於世、何須苦心勞思、窮性理之學哉。』如此則數十年之後、知文字者必少、雖能以諺文而施於吏事、不知聖賢之文字、則不學墻面、昧於事理之是非。徒工於諺文、將何用哉。我國家積累右文之化、恐漸至掃地矣。前此吏讀雖不外於文字、有識者尚且鄙之、思欲以吏文易之。而況諺文與文字暫不干渉、專用委巷俚語者乎。借‐使諺文自前朝有之、以今日文明之治・變魯至道之意、尚肯因循而襲之乎。必有更張之議者、此灼然可知之理也。厭舊喜新、古今通患。今此諺文不過新奇一藝耳。於學有損於治無益、反覆籌之未見其可也。
(Ⅱ)一、新羅薛聰吏讀、雖〔爲(鄙俚)〕、然皆借(中國通行之字)、施(於語助)、與(文字)元不(相離)。故雖〔至(胥吏僕隷之徒)〕、必欲〔習(之)〕、先讀(數書)、粗知(文字)、然後乃用(吏讀)。用(吏讀)者、須馮(文字)、乃能達(意)。故因(吏讀)而知(字)者頗多、亦興學之一助也。若我國元不〔知(文字)〕、如(結繩之世)、則姑借(諺文)、以資(一時之用)猶可、而執(正議)者、必曰『與〔其行(諺文)以(姑息)〕、不[如〔寧遲緩而習(中國通行之文字)、以爲(久長之計)〕]也。』而況吏讀行(之)數千年、而簿書期會等事、無[有〔防(礎)者〕]。何用改(舊行無弊之文)、別創(鄙諺無益之字)乎。若行(諺文)、則爲(吏)者專習(諺文)、不〔顧(學問・文字)〕、吏員岐而爲(二)。苟爲(吏)者以(諺文)而宦達、則後進皆見〔其如(此)〕也、以爲『二十七文字諺文足[以立〔身(於世)〕]、何須〔苦心勞思、窮(性理之學)〕哉。』如(此)則數十年之後、知(文字)者必少、雖〔能以(諺文)而施(於吏事)〕、不〔知(聖賢之文字)〕、則不學墻面、昧(於事理之是非)。徒工(於諺文)、將何用哉。我國家積累右文之化、恐〔漸至(掃地)〕矣。前(此)吏讀雖[不〔外(於文字)〕]、有(識)者尚且鄙(之)、思欲〔以(吏文)易(之)〕。而況諺文與(文字)暫不(干渉)、專用(委巷俚語)者乎。借‐使諺文自(前朝)有(之)、以(今日文明之治・變魯至道之意)、尚肯(因循)而襲(之)乎。必有(更張之議)者、此灼然可知之理也。厭(舊)喜(新)、古今通患。今此諺文不〔過(新奇一藝)〕耳。於(學)有(損)於(治)無(益)、反覆籌(之)未〔見(其可)〕也。
(Ⅲ)一、新羅薛聰吏讀、〔(鄙俚)爲〕雖、然皆(中國通行之字)借、(於語助)施、(文字)與元(相離)不。故〔(胥吏僕隷之徒)至〕雖、必〔(之)習〕欲、先(數書)讀、粗(文字)知、然後乃(吏讀)用。(吏讀)用者、須(文字)馮、乃能(意)達。故(吏讀)因而(字)知者頗多、亦興學之一助也。若我國元〔(文字)知〕不、(結繩之世)如、則姑(諺文)借、以(一時之用)資猶可、而(正議)執者、必曰『〔其(諺文)行(姑息)以〕與、[〔寧遲緩而(中國通行之文字)習、以(久長之計)爲〕如]不也。』而況吏讀(之)行數千年、而簿書期會等事、[〔(礎)防者〕有]無。何用(舊行無弊之文)改、別(鄙諺無益之字)創乎。若(諺文)行、則(吏)爲者專(諺文)習。〔(學問・文字)顧〕不、吏員岐而(二)爲。苟(吏)爲者(諺文)以而宦達、則後進皆〔其(此)如〕見也、以爲『二十七文字諺文[以〔(於世)身〕立]足、何須〔苦心勞思、(性理之學)窮〕可哉。』(此)如則數十年之後、(文字)知者必少、〔能(諺文)以而(於吏事)施〕雖、〔(聖賢之文字)知〕不、則不學墻面、(於事理之是非)昧。徒(於諺文)工、將何用哉。我國家積累右文之化、〔漸(掃地)至〕恐矣。(此)前吏讀[〔(於文字)外〕不]雖、(識)有者尚且(之)鄙、思〔(吏文)以(之)易〕欲。而況諺文(文字)與暫(干渉)不、專(委巷俚語)用者乎。借‐使諺文(前朝)自(之)有、(今日文明之治・變魯至道之意)以、尚(因循)肯而(之)襲乎。必(更張之議)有者、此灼然可知之理也。(舊)厭(新)喜、古今通患。今此諺文〔(新奇一藝)過〕耳。(學)於(損)有(治)於(益)無、反覆(之)籌未〔(其可)見〕不也。
(Ⅳ)一つ、新羅の薛聰の吏讀は、〔(鄙俚)爲りと〕雖も、然れども皆(中國通行の字を)借り、(語助を)施し、(文字)と元々(相ひ離れ)ず。故に〔(至胥吏僕隷の徒に)至ると〕雖も、必ず〔(之を)習はんと〕欲せば、先ず(數書を)讀み、粗ぼ(文字を)知りて、然る後に乃ち(吏讀を)用ゐる。(吏讀を)用ゐる者は、須らく(文字に)馮り、乃ち能く(意を)達す。故に(吏讀に)因りて(字を)知る者頗る多く、亦た興學の一助なり。若し我が國元々〔(文字を)知ら〕ず、(結繩の世の)如くんば、則ち姑く(諺文を)借り、以て(一時の用に)資するも猶ほ可なれども、(正議を)執る者、必ず曰く『〔其の(諺文を)行ひ(姑息を)以ってする〕與りは、[〔寧ろ遲緩なれども(中國通行の文字を)習ひ、以て(久長の計を)爲すに〕如か]ざるなり。』而も況んや吏讀は、(之を)行ふこと數千年にして、簿書・期會等の事、[〔(礎を)防ぐる者〕有ること]無し。何の用にか(舊行無弊の文を)改め、別に(鄙諺無益の字を)創らんむや。若し(諺文を)行はば、則ち(吏)爲る者は專ら(諺文を)習ひ、〔(學問・文字を)顧み〕ず、吏員は岐れて(二と)爲らむ。苟くも(吏)爲る者、(諺文を)以て宦達すれば、則ち後進、皆〔其の(此くの)如き〕見るや、以爲く『二十七文字の諺文[以て〔(世に)身を〕立つるに]足らば、何ぞ須く〔苦心勞思し、(性理の學を)窮む〕可きや。』(此くの)如くん則ち數十年の後、(文字を)知る者は必ず少なく、〔能く(諺文を)以て(吏事に)施すと〕雖も、〔(聖賢の文字を)知ら〕ずんば、則ち不學墻面にして、(事理の是非に)昧し。徒に(諺文に)工なるは、將た何ぞ用ひんや。我が國家積累右文の化、〔漸く(掃地するに)至るを〕恐る。(此に)前つ吏讀は[〔(文字を)外れ〕ざると]雖も、(識)有る者は尚ほ且つ(之を)鄙み、思ひて〔(吏文を)以て(之に)易へんと〕欲す。而るに況んや諺文は(文字)と暫く(干渉せ)ず、專ら(委巷の俚語を)用ゐる者をや。借‐使ひ諺文(前朝)自り(之)有るとも、(今日の文明の治・變魯至道の意を)以てすら、尚ほ(因循を)肯じて(之を)襲ぬるや。必ず(更張の議)有るは、此れ灼然として可知の理なり。(舊を)厭ひ(新しきを)喜ぶは、古今の通患なり。今、此の諺文〔(新奇の一藝に)過ぎ〕ざるのみ。(學に)於て(損)有り(治)於て(益)無く、反覆して(之を)籌れども未だ〔(其の可なるを)見〕ざるなり。
(Ⅴ)一つ、新羅の薛聰が作った吏読は、〔(田舎)めいている〕にしても、全て(中國で通用するの字を)借りて、(助詞)としているので、(文字)とそれは、元々(互いに離れ)てはいません。そのため、〔(小役人や下僕)であるに〕せよ、どうしても〔(これを)習い〕たいのであれば、最初に(数冊の書を)読み、ほぼ(文字を)知ってから、その後で(吏読を)用います。(吏読を)用いる者は、しばらく(文字に)たより、そのようして(意を)尽すことができます。それ故(吏読に)たよって(字を)覚える者が大変多く、このことがまた学を興す上での一助になります。もし我が国が元々〔(文字を)知ら〕ないで、(今でも、結繩を用いるような)状態であれば、しばらくの間、(諺文を)を用いて、(一時的な用と)したとしても、良いでしょうが、(正論に)固執する者であれば、必ず『〔(諺文を)用いて(一時しのぎ)をする〕のであれば、[〔それよりも、遅遅としても、(中国で通じる文字を)習ひ、(長い計画を)行なう〕方が]良い。』と言うはずです。しかも吏読の場合は、(これを)行ふことが数千年に及んでいて、報告書や会計などにおいて、[〔(その基礎を)崩すようなことが〕有り]ません。それなのに何故、(古くからの弊害の無いの文字を)改め、別に(卑しく無益の文字を)創ろうとするのでしょうか。もし(諺文を)行へば、(役人)である者は専ら(諺文を)習い、〔(学問・漢字を)顧み〕なくなり、役人は分れて(二つと)なるでしょう。仮にも(役人)である者が、(諺文に)よって、官職を得るようになれば、後から続く者は、皆〔先輩たちの(その)ような様子を〕見て、『二十七文字の諺文[で〔(世に)出れ〕る]のであれば、どうして〔苦労して(性理の学を)究める〕ことがあろうか。』と思うはずです。(この)ようなことが続けば、数十年の後、(文字を)知る者は必ず少なくなり、〔(諺文に)よって(役所仕事が)出来た〕としてもも、〔(聖賢なる漢字を)知ら〕なければ、何も学んでいないのと同じであって、(物事の道理に)暗くなります。(諺文に)優れていたとして、それだけで、一体、何の使い道が有るというのでしょうか。我が国が積み重ねて来た文を尊ぶ気風が、〔だんだんと(地面を掃くように無くなって)しまうことを〕恐れます。(従来)の吏読は[〔(文字から)外れて〕いない]にせよ、(学識)有る者は、それでもなお(諺文を)蔑み、〔(吏文を)用いて(諺文に)代えよう〕とします。ところが、諺文は(文字)と少しも(関わりが)無く、専ら(世俗の話し言葉を)用いるものではないですか。もし仮に、諺文が(前の王の治世)から(それが)有ったとしても〔仮定法過去?〕、(今日の文明の政治や魯を変革して王道に至らせるような大儀を)持ちながら、それでもなおも(古いしきたりに囚われ)て(諺文を)引き継ぐのでしょうか。必ず(改めようと議論する者が)有るのは、合点のいく道理です。(古いものを)嫌い(新しいもの)喜ぶのは、古今を通じての病理です。今、この諺文は〔(物珍しいの一芸に)過ぎ〕ないのです。(学門に)おいて(害が)有り、(政治)おいても(益が)無く、繰り返して(このことを)考えてみても、未だに〔(それを良しとする理由を)見つけることが〕出来ません。
薛聰(人名)
吏讀(漢字を用いた朝鮮語の表記の一つ)
結繩の世(文字が無かった時代)
不學墻面(何も学ばず、土塀の前に立ったまま)
昧(くら)し
暫(しばら)く
借‐使(たと)ひ

cf.
ハングルが広がれば、漢字を学ぶ者がゐなくなる。といふ危惧は、その通りになり、その結果、

あれほど自分たちが大事にし、また誇りに思ってゐる李斯朝鮮について、その歴史書を読める人が、
ほとんどゐなくなった。歴史が消えたのだ。
(12)
(Ⅰ)一、若曰『如刑殺獄辭、以吏讀文字書之、則不知文理之愚民、一字之差、容或至冤。今以諺文直書其言、讀使聽之、則雖至愚之人、悉皆易嘵而無抱屈者。』然自古中國、言與文同、獄訟之間、冤枉甚多。借以我國言之、獄囚之解吏讀者、親讀招辭、知其誣而不勝棰楚、多有枉服者。是非不知招辭之文意而被冤也、明矣。若然則雖用諺文何異於此。是知刑獄之平不平、在於獄吏之如何、而不在於言與文之同不同也。欲以諺文而平獄辭、臣等未見其可也。
(Ⅱ)一、若曰『如刑殺獄辭、以(吏讀文字)書(之)、則不〔知(文理)〕之愚民、一字之差、容或至(冤)。今以(諺文)直‐書(其言)、讀使〔聽(之)〕、則雖(至愚之人)、悉皆易嘵而無〔抱(屈)者〕。』然自(古)中國、言與(文)同、獄訟之間、冤枉甚多。借以(我國)言(之)、獄囚之解(吏讀)者、親讀(招辭)、知(其誣)而不〔勝(棰楚)〕、多有(枉服者)。是非[不〔知(招辭之文意)〕而被(冤)]也、明矣。若然則雖〔用(諺文)〕何異(於此)。是知{刑獄之平不平、在(於獄吏之如何)、而不[在〔於言與(文)之同不同〕]}也。欲〔以(諺文)而平(獄辭)〕、臣等未〔見(其可)〕也。
(Ⅲ)一、若曰『如刑殺獄辭、(吏讀文字)以(之)書、則〔(文理)知〕不之愚民、一字之差、容或(冤)至。今(諺文)以(其言)直‐書、讀〔(之)聽〕使、則(至愚之人)雖、悉皆易嘵而〔(屈)抱者〕無。』然(古)自中國、言(文)與同、獄訟之間、冤枉甚多。借(我國)以(之)言、獄囚之(吏讀)解者、親(招辭)讀、(其誣)知而〔(棰楚)勝〕不、多(枉服者)有。是[〔(招辭之文意)知〕不而(冤)被]非也、明矣。若然則〔(諺文)用〕雖何(於此)異。是[刑獄之平不平、(於獄吏之如何)在、而[〔於言(文)與之同不同〕在]不}知也。〔(諺文)以而(獄辭)平〕欲、臣等未〔(其可)見〕不也。
(Ⅳ)一つ、若しくは曰ふ『如し刑殺獄辭、(吏讀文字)以て(之を)書かば、則ち〔(文理を)知ら〕ざるの愚民、一字の差、容に或は(冤を)至さむ。今(諺文を)以て(其の言を)直‐書、讀みて〔(之を)聽か〕使めば、則ち(至愚の人と)雖も、悉く皆易く嘵て〔(屈を)抱く者〕無し。』然れども(古)自り中國は、言と(文)と同じけれども、獄訟の間に、冤枉甚だ多し。借りに(我國を)以て(之を)言ば、獄囚の(吏讀を)解する者、親ら(招辭を)讀み、(其の誣を)知れども〔(棰楚)勝へ〕ず、多く(枉服する者)有り。是れ[〔(招辭の文意を)知ら〕ずして(冤せ)被るるに]非ざるや、明らかなり。若し然らば則ち〔(諺文を)用ゐると〕雖も何ぞ(此れに)異ならん。是れ[刑獄の平不平は、(獄吏の如何に)在りて[〔言と(文)との同不同に〕在ら]ざるを}知るなり。〔(諺文を)以て(獄辭を)平にせんと欲する〕は、臣ら未だ〔(其の可なるを)見〕ざるなり=
(Ⅴ)一つ、あるいは『刑罰の判決書を、(吏讀や漢字を)用いて(それを)書けば、〔(文章の筋道が)分から〕ない愚かな民は、一字の違いで、たやすく或いは(濡れ衣を)着せられるかもしれない。しかし(諺文を)用いて(その人の言葉を)そのまま書き、読んで〔(それを)聞くか〕せれば、(大バカ者)であっても、すべて皆容易に理解して〔(不平を)抱く者が〕いなくなる。』と言います。しかしながら(昔)から中國は、言葉と(文字)とが同じであっても、訴訟の中に、冤罪が非常に多くあります。借りに(我國に)おいて(このことを)言うならば、獄につながれた者で(吏讀を)読める者が、自ら(調書を)読み、(それが濡れ衣であることを)知ったとしても〔(鞭うち)堪えられ〕ずに、多く(屈服する者が)有ります。このことからも[〔(調書の文意を)知ら〕ないので(濡れ衣を)着せられるのでは]ないということは、明白です。もしそうであるならば〔(諺文を)用いたと〕してもどうして(吏讀を用いることと)変わりが有るのでしょうか。それ故[刑罰の公平と不公平は、(獄吏の在りように)在るのであって[〔言葉と(文字)が同じかどうか〕在る]のではないことが}分ります。〔(諺文を)用いて(判決書を)公平にしようとすること〕は、私どもには、まだ〔(それを良しとする理由が)見えて〕いません。
容(まさ)に
親(みずか)ら
(13)
(Ⅰ)一、凡立事功、不貴近速、國家比來措置、皆務速成、恐非為治之體。儻曰諺文不得已而為之、此變易風俗之大者、當謀及宰相、下至百僚。國人皆曰可、猶先甲先庚、更加三思、質諸帝王不悖、考諸中國而無愧、百世以俟聖人而不惑、然後乃可行也。今、不博採群議、驟令吏輩十餘人訓習、又輕改古人已成之韻書、附會無稽之諺文、聚工匠數十人刻之、劇欲廣布其於天下。後世公議何如。且今淸州椒水幸、特慮年歉、扈從諸事、務從簡約、比之前日十減八九、至於啓達公務、亦委政府。若夫諺文非國家緩急不得已及期之事、何獨於行在汲汲爲之、以煩聖躬調變之時乎。臣等尤未見其可也。
(Ⅱ)一、凡立(事功)、不〔貴(近速)〕、國家比來措置、皆務(速成)、恐[非〔為(治之體)〕]。儻曰[諺文不〔得(已)〕而為(之)]、此變‐易(風俗)之大者。當〔謀及(宰相)、下至(百僚)〕。國人皆曰(可)、猶先甲先庚、更加(三思)、質(諸帝王)不(悖)、考(諸中國)而無(愧)、百世以俟(聖人)而不(惑)、然後乃可(行)也。今、不〔博採(群議)〕、驟令(吏輩十餘人訓習)、又輕改(古人已成之韻書)、附‐會(無稽之諺文)、聚(工匠數十人)刻(之)、劇欲〔廣‐布(其於天下)〕。後世公議何如。且今、淸州椒水幸、特慮(年歉)、扈從諸事、務從(簡約)、比(之前日)十減(八九)、至(於啓達公務)、亦委(政府)。若夫諺文非[國家緩急不〔得(已)〕及(期)之事]、何獨於(行在)汲汲爲(之)、以煩(聖躬調變之時)乎。臣等尤未〔見(其可)〕也。
(Ⅲ)一、凡(事功)立、〔(近速)貴〕不、國家比來措置、皆(速成)務、[〔(治之體)為〕非]恐。儻[諺文〔(已)得〕不而(之)為]曰此(風俗)變‐易之大者。當〔謀(宰相)及、下(百僚)至〕。國人皆(可)曰猶先甲先庚、更(三思)加、(諸帝王)質(悖)不、(諸中國)考而(愧)無、百世以(聖人)俟而(惑)不、然後乃(行)可也。今、〔博(群議)採〕不、驟(吏輩十餘人訓習)令、又輕(古人已成之韻書)改、(無稽之諺文)附‐會、(工匠數十人)聚(之)刻、劇〔(其於天下)廣‐布〕欲。後世公議何如。且今、淸州椒水幸、特(年歉)慮、扈從諸事、務(簡約)從、(之前日)比十(八九)減、(於啓達公務)至、亦(政府)委。若夫諺文[國家緩急〔(已)得〕不(期)及之事]非、何獨(行在)於汲汲(之)爲、以(聖躬調變之時)煩乎。臣等尤未〔(其可)見〕不也。
(Ⅳ)一つ、凡そ(事功を)立つるに、〔(近速を)貴ば〕ざるに、國家比來の措置、皆(速成に)務め、[〔(治の體を)為すに〕非ざるを]恐る。儻し[諺文〔(已むを)得〕ずして(之を)為すと]曰はば、此れ(風俗を)變‐易するの大なる者なり。當に〔謀ること(宰相に)及びて、下は(百僚に)至る〕可し。國人皆(可と)曰へども、猶ほ先甲先庚し、更に(三思)を加へ、(諸を帝王)質して(悖ら)ず、(諸を中國に)考して(愧)無く、百世以て(聖人を)俟ちて(惑は)ず、然る後に乃ち(行ふ)可きなり。今、〔博く(群議を)採ら〕ず、驟に(吏輩十餘人をして訓習せ)令む、又た輕く(古人已に成すの韻書)改め、(無稽の諺文を)附‐會し、(工匠數十人を)聚め(之を)刻ませ、劇ぎて〔(其れを天下に)廣‐布せんと〕欲す。後世の公議何如ならむ。且つ今、淸州椒水の幸、特に(年の歉するを)慮ひ、扈從諸事は、務めて(簡約に)從ひ、(之を前日に)比べ十に(八九に)減じ、(啓達公務に)至りても、亦た(政府に)委ぬ。若し夫れ諺文[國家の緩急にして〔(已むを)得〕ず(期に)及ぶの事に]非ずんば、何ぞ獨り(行在に)於て汲汲として(之を)爲し、以て(聖躬調變の時を)煩はさんや。臣ら尤も未だ〔(其の可なるを)見〕ざるなり=
(Ⅴ)一つ、何事も(功績を)立てるのに、〔(拙速であることは)良く〕ないことですが、我が国の近頃の措置は、どれも(急いで完成することに)務め、[〔(政治の体を)なして〕いないのではと]心配します。もし[諺文を〔(已むを)得〕ない事情で(これを)作った]とすると、このことは(風俗を)大きく変えることになるので、当然〔議論するのは(宰相)以下、(百官に)至る〕必要があります。國中の人が(良いと)認めたとしても、それでもなお十分に説明し、更に(三たび考え)直し、(これを帝王の説)に照らして(間違いが)なく、(これを中國に)うかがいをたてて(恥じることが)無く、後々の世の(聖人)が現れても(迷いが)ないか、そのようにした後で(それを)行なうべきです。今〔多く(の人々の議論を)採ら〕ずに、にわかに(小役人の十人ほどに習わ)せて、その上、軽々しく(先人が作った韻書)改めて、(荒唐無稽な諺文を)こじつけで当てはめ、(工匠数十人を)集めて(これを)印刷し、急いで〔(それを世の中に)広めようと〕なさっています。後世の公論はどのようになるでしょうか。さらに、このたびは、淸州の椒水への行幸で、とりわけ(今年の凶作を)心配なさり、付き従う諸事も(簡約に)して、(前の日に)比べて十を(八九に)減して、(上奏と公務に)至ってもまた、(議政府に)委ねました。もしそれ諺文[國家の危急であって〔(已むを)得〕ず(期日に)間に合わせなければならない事で]ないのであれば、どうしてもっぱら(行在所に)居られても汲汲として(これを)爲さり、(お体を整えるの時に)煩わしいことをなさるのでしょうか。私どもはどうしても、未だに〔(それを良しとする理由が)見えて〕いません。
扈從(王の乗り物のお供)
啓達(上奏する)
質(ただ)す
悖(もと)る
愧(はぢ)
俟(ま)つ
驟(にわか)に
劇(いそ)ぐ
(14)
(Ⅰ)一、先儒云『凡百玩好皆奪志。至於書礼、於儒者事最近。然一向好着、亦自喪志。』今、東宮雖徳性成就、猶當潛心聖學益求其未至也。諺文縱曰有益、特文士六藝之一耳。況萬萬無一利於治道而乃研精費思、竟日移時、實有損於時敏之學也。臣等倶以文墨末技、待罪侍從、心有所懐、不敢含默。謹罄肺腑、仰瀆聖聰。
(Ⅱ)一、先儒云『凡百玩好皆奪(志)。至(於書礼)、於(儒者事)最近。然一向好着、亦自喪(志)。』今、東宮雖(徳性成就)、猶當〔潛‐心(聖學)益求〔其未(至)〕也。諺文縱曰〔有(益)〕、特文士六藝之一耳。況萬萬無〔一利(於治道)〕而乃研(精)費(思)、竟(日)移(時)、實有〔損(於時敏之學)〕也。臣等倶以(文墨末技)、待‐罪(侍從)、心有〔所(懐)〕、不(敢含默)。謹罄(肺腑)、仰瀆(聖聰)。
(Ⅲ)一、先儒云、『凡百玩好皆(志)奪。(於書礼)至、(儒者事)於最近。然一向好着、亦自(志)喪。』今、東宮(徳性成就)雖、猶當〔(聖學)潛‐心益其未(至)不求〕可也。諺文縱〔(益)有〕曰特文士六藝之一耳。況萬萬〔(於治道)一利〕無而乃(精)研(思)費、(日)竟(時)移、實〔(於時敏之學)損〕有也。臣等倶(文墨末技)以、(侍從)待‐罪、心〔(懐)所〕有、〔敢含默)不。謹(肺腑)罄、仰(聖聰)瀆。
(Ⅳ)一つ、先儒に云ふ『凡百の玩好は皆(志を)奪ふ。(書礼に)至りては、(儒者の事に)於いて最も近し。然れども一向に好着するも、亦た自ら(志を)喪ふ。』今、東宮は(徳性成就すと)雖も、猶ほ當に〔(聖學に)潛‐心して益々其の未だ(至)ざるを求む〕可きなり。諺文、縱ひ〔(益)有りと〕曰へど、特だ文士六藝の一のみ。況んや萬萬〔(治道に)一利〕無くして乃ち(精を)研ぎ(思ひ)費し、(日を)竟へ(時を)移すは、實に〔(時敏の學に)損〕有るなり。臣ら倶に(文墨の末技を)以て、(侍從に)待‐罪するも、心に〔(懐く)所〕有りて、〔敢て含默せ)ず。謹んで(肺腑を)罄くし、仰ぎて(聖聰を)瀆す=
(Ⅴ)一つ、昔の儒者は『数々の遊びは(志を)奪う。(書き物)などは、(儒者の仕事に)おいて最も近い。しかしながら、そのことだけを好む場合もまた、自ら(志を)失う。』今や、王子は(徳性が成就したと)しても、なお当然〔(聖學に)専念して益々その未だ(至ら)ない点の完成を求め〕なければなりません。諺文が、たとえ〔(有益)であると〕いっても、ただ文士の六藝に過ぎません。まして決して〔(世を治める道には)一利も〕無いのに(精しさを)究めることに(思い)費やし、(日を)終えて(時を)過ごすことは、實に〔(時敏の學の)損失に〕なります。私どもは俱に(文筆のつまらない技を)用いて、(侍從を)務めさせてもらっておりますが、心に〔(思う)ことが〕有って、〔黙っていることは敢えて)せず。謹んで(心中を)吐露し、仰ぎ見つつも(王の聡明を)瀆します。
時敏(その時にすべきこと?、辞書には無い?)
待罪(その職にあることを、謙遜して言う)
仰瀆(という言葉は、辞書には無い?)
(15)
(Ⅰ)上覧疏、謂萬理等曰『汝等云、用音合字、盡反於古。薛聰吏讀、亦非異音乎。且吏讀制作之本意、無乃爲其便民乎。如其便民也、則今之諺文亦不爲便民乎。汝等以薛聰爲是而非其君上之事何哉。且汝知韻書乎。四聲七音、字母有幾乎。若非予正其韻音、則伊誰正之乎。且疏云、新奇一藝。予老來難以消日、以書籍爲友耳。豈厭舊好新而爲之。且非田獵放鷹之例也、汝等頗有過越。且予年老、國家庶務世子專掌。雖細事固當參決、況諺文乎。若使世子常在東宮、則宦官任事乎。汝等以侍從之臣杓知予意而有是言可乎。』
(Ⅱ)上覧(疏)、謂(萬理等)曰『汝等云〔用(音)合(字)、盡反(於古)〕。薛聰吏讀、亦非〔異(音)〕乎。且吏讀制作之本意、無[乃爲〔其便(民)〕]乎。如其便(民)也、則今之諺文亦不[爲〔便(民)〕]乎。汝等以(薛聰)爲(是)而非(其君上之事)何哉。且汝知(韻書)乎。四聲七音、字母有(幾)乎。若非〔予正(其韻書)〕、則伊誰正(之)乎。且疏云(新奇一藝)。予老來難(以消日)、以(書籍)爲(友)耳。豈厭(舊)好(新)而爲(之)。且非(田獵放鷹之例)也、汝等頗有(過越)。且予年老、國家庶務世子專掌。雖(細事)固當(參決)、況諺文乎。若使〔世子常在(東宮)〕、則宦官任(事)乎。汝等以(侍從之臣)杓知(予意)而有(是言)可乎。』。
(Ⅲ)上(疏)覧、(萬理等)謂曰『汝等〔(音)用(字)合、盡(於古)反〕云。 薛聰吏讀、亦〔(音)異〕非乎。且吏讀制作之本意、[乃〔其(民)便〕爲]無乎。如其(民)便也、則今之諺文亦[〔(民)便〕爲]不乎。汝等(薛聰)以(是)爲而(其君上之事)非何哉。且汝(韻書)知乎。四聲七音、字母(幾)有乎。若〔予(其韻書)正〕非、則伊誰(之)正乎。且疏(新奇一藝)云。予老來(以消日)難、(書籍)以(友)爲耳。豈(舊)厭(新)好而(之)爲。且(田獵放鷹之例)非也、汝等頗(過越)有。且予年老、國家庶務世子專掌。(細事)雖固當(參決)可、況諺文乎。若〔世子常(東宮)在〕使、則宦官(事)任乎。汝等(侍從之臣)以杓(予意)知而(是言)有可乎。』
(Ⅳ)上(疏を)覧て、(萬理らに)謂ひて曰く『汝等ら〔(音を)用ひて(字を)合はすは、盡く(古に)反すと〕云ふ。 薛聰の吏讀も、亦た〔(音を)異にするに〕非ずや。且つ吏讀制作の本意は、[乃ち〔其の(民を)便ならしめんと〕爲すに]無きや。如し其れ(民を)便ならしめんや、則ち今の諺文も亦た[〔(民を)便ならしめんと〕爲さ]ざらんや。汝ら(薛聰を)以て(是と)爲せども(其の君上の事を)非とするは何ぞや。且つ汝(韻書を)知るや。四聲七音、字母(幾らか)有らんや。若し〔予(其の韻書を)正すに〕非ずんば、則ち伊れ誰か(之を)正さんや。且つ疏に(新奇の一藝と)云ふ。予老い來りて(以て消日し)難く、(書籍を)以て(友と)爲すのみ。豈に(舊きを)厭ひ(新しきを)好みて(之を)爲さん。且つ(田獵放鷹の例に)非ずんば、汝ら頗る(過越)有り。且つ予年老いて、國家庶務、世子專掌す。(細事と)雖も固り當に(參決す)可し、況んや諺文をや。若し〔世子をして常に(東宮に)在ら〕使めば、則ち宦官(事を)任ずるや。汝ら(侍從の臣)以て杓に(予の意を)知れども(是の言)有るは可なるや。』
(Ⅴ)上(疏を)覧て、(萬理らに)謂ひて曰く『汝等ら〔(音を)用ひて(字を)合はすは、盡く(古に)反すと〕云ふ。 薛聰の吏讀も、亦た〔(音を)異にするに〕非ずや。且つ吏讀制作の本意は、[乃ち〔其の(民を)便ならしめんと〕爲すに]無きや。如し其れ(民を)便ならしめんや、則ち今の諺文も亦た[〔(民を)便ならしめんと〕爲さ]ざらんや。汝ら(薛聰を)以て(是と)爲せども(其の君上の事を)非とするは何ぞや。且つ汝(韻書を)知るや。四聲七音、字母(幾らか)有らんや。若し〔予(其の韻書を)正すに〕非ずんば、則ち伊れ誰か(之を)正さんや。且つ疏に(新奇の一藝と)云ふ。予老い來りて(以て消日し)難く、(書籍を)以て(友と)爲すのみ。豈に(舊きを)厭ひ(新しきを)好みて(之を)爲さん。且つ(田獵放鷹の例に)非ずんば、汝ら頗る(過越)有り。且つ予年老いて、國家庶務、世子專掌す。(細事と)雖も固り當に(參決す)可し、況んや諺文をや。若し〔世子をして常に(東宮に)在ら〕使めば、則ち宦官(事を)任ずるや。汝ら(侍從の臣)以て杓に(予の意を)知れども(是の言)有るは可なるや。』
王は(上疏文を)ご覧になり、(萬理らに)言った『お前たちは〔(音を)用ひて(字を)組み合わせるやり方は、尽く(古いものに)反していると〕言った。薛聰の吏讀も、亦た〔(本来の音と)異なるのでは〕ないのか。その上、吏讀を作成した際の本意は、[すなわち〔その、(民を)便利に〕させることに]有ったのではないのか。もし(民を)便利にさせることであるならば、すなわち、今回の諺文も亦た[〔(民を)便利に〕させることと]であるのではないか。お前たちは(薛聰に)ついては(是と)するのに(お前たちの君主の事を)非とするは何故かや。その上お前たちは(韻書を)知っているのか。四聲七音、それに字母を(いくつ)有るのか。もし〔私が(その韻書を)正すのでは〕ないならば、いったい誰が(これを)正すのか。その上、上文疏には(新奇の一藝と)ある。私は年老いて(日々を送るのが)難しく、(書籍を)以て(友と)するだけである。どうして(古いものを)疎んじて(新しいものを)好みて(これを)作ったというのか。(狩りや鷹狩りの例でも)ないのに、お前たちは極めて(言葉が過ぎて)いる。その上、私は年老いて、國家の庶務は、王子に任せている。(些細なことで)あっても本来は、当然(決定に加わる)べきであって、まして諺文であれば、なおさらそうしなければならない。もし〔王子を常に(東宮に)いさ〕せるのであれば、宦官(その仕事を)引き受けるのか。お前たちは(侍從の臣)であるから、よく(私の心を)知っているの(このような言葉が)有って良いと思うのか。』
(16)
(Ⅰ)萬理等對曰『薛聰吏讀雖曰異音、然依音依釋、語助文字元不相離。今此諺文、合諸字而竝書、變其音釋而非字形也。且新奇一藝云者、特因文勢而爲此辭耳。非有意然也。東宮於公事、則雖細事不可不參決、若於不急之事、何竟日致慮乎。』
(Ⅱ)萬理等對曰『薛聰吏讀雖[曰〔異(音)〕]、然依(音)依(釋)、語助文字元不(相離)。今此諺文、合(諸字)而竝書、變(其音釋)而非(字形)也。且新奇一藝云者、特因(文勢)而爲(此辭)耳。非〔有(意)然〕也。東宮於(公事)、則雖(細事)不[可〔不(參決)〕]、若於(不急之事)、何竟(日)致(慮)乎。』
(Ⅲ)萬理等對曰『薛聰吏讀[〔(音)異〕曰]雖、然(音)依(釋)依、語助文字元(相離)不。今此諺文、(諸字)合而竝書、(其音釋)變而(字形)非也。且新奇一藝云者、特(文勢)因而(此辭)爲耳。〔(意)有然〕非也。東宮(公事)於、則(細事)雖[〔(參決)不〕可]不、若(不急之事)於、何(日)竟(慮)致乎。』
(Ⅳ)萬理ら對へて曰く『薛聰の吏讀[〔(音を)異にと〕曰ふと]雖も、然れども(音に)依り(釋に)依りて、語助文字元より(相離れ)ず。今、此の諺文、(諸字を)合せて竝書し、(其の音釋を)變へて(字形に)非ざるなり。且つ新奇の一藝と云ふは、特だ(文勢に)因りて(此の辭を)爲すのみ。〔(意)有りて然るに〕非ざるなり。東宮は(公事に)於いて、則ち(細事と)雖も[〔(參決せ)不る〕可か]ず、若し(不急の事に)於いて、何ぞ(日を)竟へて(慮を)致すや。』
(Ⅴ)萬理らが答えて言った『薛聰の吏讀は[〔(本来の音と)同じではないと〕言ったと]しても、しかしながら(本来の音に)依拠し(解釈に)依拠していて、語助と文字は元来(別のものでは)ありません。ところが、諺文は、(いくつもの字を)合せて並べて書き、(音と解釈を)變へて(字形をなして)いません。但し、新奇の一藝と述べたのは、ただ(文勢に)任せて(そのように)述べただけです。〔(他意が)有ってそのように述べたので〕ないのです。東宮は(公の仕事)であれば、(些細なこと)であっても[〔(参加し採決し)なければ〕なりま]せんが、もし(急がない仕事で)あれば、どうして(一日)中(思案を)なさるのですか。』
消日(一日一日を過ごす)
(17)
(Ⅰ)上曰「前此金汶啓曰『制作諺文未爲不可。』今反以爲不可」。又鄭昌孫曰『頒布三綱行實之後、未見有忠臣孝子烈女輩出。人之行不行、只在人之資質如何耳、何必以諺文譯之而後人皆效之。』此等之言、豈儒者識理之言乎。甚無用之俗儒也。」
(Ⅱ)上曰「前(此)金汶啓曰『制‐作(諺文)未〔爲(不可)〕。』今反以爲(不可)。又鄭昌孫曰『頒‐布(三綱行實)之後、未[見〔有(忠臣孝子烈女)輩出〕]。人之行不行、只在(人之資質如何)耳。何必以(諺文)譯(之)而後人皆效(之)。』此等之言、豈儒者識(理)之言乎。甚無用之俗儒也。」
(Ⅲ)上曰「(此)前金汶啓曰『(諺文)制‐作未〔(不可)爲〕不。』今反以(不可)爲。又鄭昌孫曰『(三綱行實)頒‐布之後、未[〔(忠臣孝子烈女)有輩出〕見]不。人之行不行、只(人之資質如何)在耳。何必(諺文)以(之)譯而後人皆(之)效。』此等之言、豈儒者(理)識之言乎。甚無用之俗儒也。」
(Ⅳ)上曰「く(此に)前ちて金汶啓して曰く『(諺文を)制‐作するに未だ〔(不可を)爲さ〕ず。』今、反て以て(不可と)爲す。又た鄭昌孫曰く、『(三綱行實を)頒‐布するの後、未だ[〔(忠臣孝子烈女)有りて輩出するを〕見]ず。人の行不行、只(人の資質の如何に)在るのみ。何ぞ必ず(諺文を)以て(之を)譯して後に人皆(之に)效はんや。』此らの言、豈に儒者(理を)識るの言ならんや。甚だ無用の俗儒なり。」
(Ⅴ)王は言った「(この)前、金汶は『(諺文を)制‐作することは〔(悪いこと)では〕ない。』と言っていたが、今は、逆に(良くないと)する。その上、鄭昌孫曰は『(三綱行實を)頒‐布したのに、未だ[〔(忠臣孝子烈女)の輩出が〕見られ]ません。人が良い行いをするか否かは、ただ(人の資質が、どのようであるのかということだけに)です。どうして必ず(諺文を)用いて(三綱行實を)譯した後に、人々が皆(三綱行實に)ならうようになるでしょうか。』と言ったが、これらの発言は、どうして、その儒者が(道理を)知っていると言えるだろうか。全くもって、無用の俗儒である。」
三綱行實(絵入りの、道徳に関する、漢文で書かれた説話集)
(18)
(Ⅰ)前此、上敎昌孫曰『予若以諺文譯三綱行實、頒諸民間、則愚夫愚婦皆得易暁、忠臣孝子烈女必輩出矣。』昌孫乃以此啓達、故今有是教。上又敎曰『予召汝等、初非罪之也。但問疏内一二語耳。汝等不顧事理、變辭以對。汝等之罪、難以脱矣。』遂下副提學萬理、直提學辛碩祖、直殿金汶、應敎鄭昌孫、副校理河緯地、副修撰宋處儉、著作郎趙瑾于義禁府、翌日命釋之、唯罷昌孫職、仍傳旨義禁府、『金汶前後變辭啓達事由、其鞫以聞。』
(Ⅱ)前(此)、上敎(昌孫)曰『予若以(諺文)譯(三綱行實)、頒(諸民間)、則愚夫愚婦皆得(易暁)、忠臣孝子烈女必輩出矣。』昌孫乃以(此)啓達、故今有(是教)。上又敎曰「予召(汝等)、初非〔罪(之)〕也。但問(疏内一二語)耳、汝等不〔顧(事理)〕、變(辭)以對。汝等之罪、難(以脱)矣。」遂下(副提學萬理、直提學辛碩祖、直殿金汶、應敎鄭昌孫、副校理河緯地、副修撰宋處儉、著作郎趙瑾于義禁府)、翌日命釋(之)、唯罷(昌孫職)、仍傳-旨(義禁府)、『金汶前後變(辭)啓達事由、其鞫、以聞。』
(Ⅲ)(此)前、上(昌孫)敎曰『予若(諺文)以(三綱行實)譯、(諸民間)頒、則愚夫愚婦皆(易暁)得、忠臣孝子烈女必輩出矣。』昌孫乃(此)以啓達、故今(是教)有。上又敎曰「予(汝等)召、初〔(之)罪〕非也。但(疏内一二語)問耳、汝等〔(事理)顧〕不、(辭)變以對。汝等之罪、(以脱)難矣。」遂(副提學萬理、直提學辛碩祖、直殿金汶、應敎鄭昌孫、副校理河緯地、副修撰宋處儉、著作郎趙瑾于義禁府)下、翌日命(之)釋、唯(昌孫職)罷、仍(義禁府)傳-旨、『金汶前後(辭)變啓達事由、其鞫、以聞。』
(Ⅳ)(此に)前ちて、上(昌孫に)敎へて曰く『予、若し(諺文)以て(三綱行實を)譯し、(諸を民間に)頒てば、則ち、愚夫愚婦皆(易く暁るを)得て、忠臣孝子烈女必ず輩出せん。』昌孫乃ち(此を)以て啓達し、故に今(是の教へ)有り。上、又た敎へて曰く、『予(汝ら)召すこと、初めより〔(之を)罪するに〕非ざるなり。但だ(疏内の一二語を)問ふのみなれど、汝等ら〔(事理を)顧み〕ず、(辭)變へ以て對ふ。汝らの罪、(以て脱し)難し。』遂に(副提學萬理、直提學辛碩祖、直殿金汶、應敎鄭昌孫、副校理河緯地、副修撰宋處儉、著作郎趙瑾を義禁府に)下し、翌日命じて(之を)釋す、唯だ(昌孫の職)罷み、仍て(義禁府に)傳-旨するに、『金汶前後に(辭)を變へ啓達せし事由、其れ鞫し、以て聞せよ。』
(Ⅴ)(この)前に、王は(昌孫に)敎えて次のように言った『私が、もし(諺文を)用いて(三綱行實を)譯し、(それを民間に)頒布すれば、無学な男女であっても(容易にそれを理解)できるので、忠臣孝子烈女が、必ず輩出する。』と、そこで昌孫は、(王の言葉を)受けて上奏し、それ故、今(この教えが)有る。王は、さらに敎えて言った『私が(お前たちを)集めたのは、初めから〔(お前たちの)罪をとがめようとした〕のではない。但だ(上疏文の中の一二語を)問い正そうとしただけである。だが、お前たちは〔(道理を)顧み〕ないまま、(言葉を)變へて返答した。お前たちの罪は(許し)がたい。』と、これにより(副提學萬理、直提學辛碩祖、直殿金汶、應敎鄭昌孫、副校理河緯地、副修撰宋處儉、著作郎趙瑾を、義禁府に)下したが、翌日には(これらを)釋すように命じられた。唯だ(昌孫でけは職を)解かれ、(義禁府に)は『金汶が前後に(言葉を)を變へて上奏した理由を糾して、それを報告せよ。』と勅旨が下された。
義禁府(王命を受けて、重罪人を尋問する役目を負った官庁)
傳旨(勅旨を伝える)
鞫(罪状を調べる)
平成29年05月13日、毛利太。

2017年5月10日水曜日

東洋のエスペラント(?)。

(01)
① 少年皆有〔其所(愛)少女〕。
② 少年皆〔其の(愛する)所の少女〕有り。
③ ∀x[Boy(x)→∃y〔Girl(y)&Love(x,y)〕]
④ 全てのxに於いて、xが少年であるならば、次のやうなyが存在する。すなはち、yは少女であって、尚且つ、yはxによって愛される。
に於いて
①=②=③=④
である。
然るに、
(02)
⑤ 全てのxにおいて、xが少年であるならば、次のやうなyが存在する。すなわち、yは少女であって、尚且つ、yはxによって愛される。
に対する、「エスペラント語(グーグル翻訳)」は、

⑤ En ĉiuj x, se x estas knabo, estas sekvanta de Yau, kiel kaj. Tio, y estas knabino, krom, y estas amata de x.
である。
それ故、
(03)
① は「漢文」     である。
② は「訓読」     である。
③ は「述語論理」   である。
④ は「日本語」    である。
⑤ は「エスペラント語」である。
然るに、
(04)
中国の口語文(白話文)も、漢文とおなじように漢字を使っていますが、もともと二つのちがった体系で、単語も文法もたいへんちがうのですから、いっしょにあつかうことはできません。漢文と中国語は別のものです(魚返善雄、漢文入門、1966年、17頁)。しからば、口語はAxByであるものを、文章語はABとつづめても、これはこれで完全な文となり得る。かくして記載語のABは、はじめから口語のAxByとは別のものとして発生し、存在したと思われる(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、59頁)。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
①「漢文」   は、「人工言語」である。
③「述語論理」は、「人工言語」である。
然るに、
(06)
エスペラント (Esperanto) とは、ルドヴィコ・ザメンホフが考案した人工言語。母語の異なる人々の間での意思伝達を目的とする、いわゆる国際補助語としては最も世界的に認知され、普及の成果を収めた言語となっている[要出典][1]。(ウィキペディア)
従って、
(05)(06)により、
(07)
①「漢文」     は、「人工言語」である。

③「述語論理」  は、「人工言語」である。
⑤「エスペラント」は、「人工言語」である。
然るに、
(08)
かつて漢文は、東洋のエスペラントであった。漢文で筆談すれば、日本人も、朝鮮人も、ベトナム人も、意思疎通することができた(加藤徹、漢文の素養、2006年、11頁)。シナや極東の王国では、一般に文字をも語を表わすのではなく、事物あるいは観念を表わすような、実物符号で書くのがならいになっている。そしてそれゆえに、たがいに相手の言語を理解しない国々と地方が、それにもかかわらず、たがいに相手の書き物を読むことができるのであるが、それは符号のほうが言語の及ばぬほど広い範囲に了解されるからである。そしてそれゆえに、語根語と(おそらく)同じほどばく大な数の符号があるのである(服部英次郎、多田英次、ベーコン、学問の進歩 他、2005年、124頁)。
(09)
文語体と口語体の区別は、もし簡便な基準を探すとなれば、それは耳で聞いてわかるのが口語体で、目で見なければわからないのが文語体だ、といえる。(「開明文言読本」開明書店、1948、導言)呂叔湘氏は人も知る「中國文法要略」(商務印書館、1942)の著者であり、解放後は中國科学院言語研究所長を勤めている超一流の言語学者であり、文化人である(牛島徳次、中國語の学び方、1977年、60頁)。
従って、
(06)~(09)により、
(10)
母語の異なる人々の間での意思伝達を目的とする・人工言語」といふ点に於いて、
「漢文」は、    「書き言葉」を「」とした、「人工語・普遍語」である。
「エスペラント」は、「話し言葉」を「」とした、「人工語・普遍語」である。
然るに、
(11)
しかも、漢字文化をほぼ棄ててしまったため、あれほど自分たちが大事にし、また誇りに思っている李斯朝鮮について、その歴史書を読める人がほとんどいなくなってしまった。歴史が消えたのだ。― 中略 ―、素朴にいえば、日本とて、いまや江戸時代の「歴史書や古文書を読める人がほとんどいなくなってしまった」のではないか(安田敏明、漢字廃止の思想史、2016年、29頁)。
然るに、
(12)
ID非公開さん2004/11/1815:32:45
古文書(崩し字)を読むにあたり、どのような勉強法が有効でしょうか?
ID非公開さん 2004/11/1818:27:11
まずは「かな」文字ですよね。定家のものなどは達筆と言われていますが、癖があるので初学者には難しいでしょう。
従って、
(13)
「古文書」が「読めない」のは、

のやうな、「(ワザと下手な)崩し字(の特に、ひらがな)」が「読めない」からであって、それ故、『素朴にいえば、日本とて、いまや江戸時代の「歴史書や古文書を読める人がほとんどいなくなってしまった」のではないか。』といふ「言ひ方」は、「不当」である。
平成29年05月10日、毛利太。

2017年5月6日土曜日

量化記号の読み方の順序。

(01)
① Love(x,y)
に於いて、「内部のほうから読んでいく」ならば、
① (xはyを)愛している。
といふ風に、読むことになる。
(02)
① ∃y〔Love(x,y)〕
に於いて、「内部のほうから読んでいく」ならば、
① 〔(xはyを)愛している〕というyが存在する。
といふ風に、読むことになる。
(03)
① ∀x[∃y〔Love(x,y)〕]
に於いて、「内部のほうから読んでいく」ならば、
① [〔(xはyを)愛している〕というyが存在する]ことがすべてのxに対して成り立つ。
といふ風に、読むことになる。
然るに、
(04)
量化記号の読み方の順序
ここで、量化記号がいくつもついている論理式の場合、その順番が重要だということを注意しておきます。例えば、Love(x,y)という
2つの変数を持った述語を「xはyを愛している」という述語と設定しましょう。
このとき、論理式
 ∀x∃yLove(x,y)・・・①
と、論理式
 ∃y∀xLove(x,y)・・・②
は、全く違う意味になります。
大事なのは、「内部のほうから読んでいく」ということです。
①は、「xはyを愛している、というyが存在することが、すべてのxに対して成り立つ」となります。
②は、「xはyを愛している、ということがすべてのxについて成立するようなyが存在する」となります。
(小島寛之、証明と論理に強くなる、2017年、205・6頁改)
従って、
(01)~(04)により、
(05)
大事なのは、「内部のほうから読んでいく」ということです。
①は、「xはyを愛している、というyが存在することが、すべてのxに対して成り立つ」となります。
②は、「xはyを愛している、ということがすべてのxについて成立するようなyが存在する」となります。
といふのであれば、
 ∀x∃yLove(x,y)・・・①
 ∃y∀xLove(x,y)・・・②
といふ「論理式」には、
① ∀x[∃y〔Love(x,y)〕]
② ∃y[∀x〔Love(x,y)〕]
といふ「括弧」が、無ければならない
然るに、
(06)
① 非[不〔読(書)〕]⇒
① [〔(書)読〕不]非=
① [〔(書を)読ま〕不るに]非ず。
といふ「読み方」は、「漢文訓読」である。
従って、
(03)(06)により、
(07)
① ∀x[∃y〔Love(x,y)〕]⇒
① [〔(x,y)Love〕∃y]∀x=
① [〔(xはyを)愛している〕というyが存在することが]すべてのxに対して成り立つ。
といふ「読み方」は、言ふなれば、「述語論理訓読」である。
然るに、
(08)
① ∀x∃yLove(x,y)
② ∃y∀xLove(x,y)
といふ「論理式」は、
① xはyを愛している、というyが存在することが、すべてのxに対して成り立つ。
② xはyを愛している、ということがすべてのxについて成立するようなyが存在する。
といふ「読み方」に加へて、
① 全ての人は、或る人を愛している  (能動態)。
② 或る人 は、全ての人に愛されている(動態)。
といふ風に、「読む」ことも出来る。
従って、
(09)
① ∀x∃yLove(x,y)
② ∃y∀xLove(x,y)
③ ∀x∃yLove(y,x)
④ ∃y∀xLove(y,x)
といふ「論理式」は、
① 全ての人は、或る人を愛している  (能動態)。
② 或る人 は、全ての人に愛されている(動態)。
③ 全ての人は、或る人に愛されている (動態)。
④ 或る人 は、全ての人を愛している (能動態)。
といふ風に、「読む」ことが出来る。
(10)
① ∀x∃y親である(x,y)
② ∃y∀x親である(x,y)
③ ∀x∃y親である(y,x)
④ ∃y∀x親である(y,x)
といふ「論理式」は、
① 全ての人は、或る人の、親である。
② 或る人は、全ての人の、である。
③ 全ての人は、或る人の、である。
④ 或る人は、全ての人の、親である。
といふ風に、「読む」ことが出来る。
然るに、
(11)
③ ∀x∃y親である(y,x)
④ ∃y∀x親である(y,x)
③ 全ての人は、或る人の、子である。
④ 或る人は、全ての人の、親である。
に於いて、
③と④は、明らかに、「同じ」ではない。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
③ ∀x∃yLove(y,x)
④ ∃y∀xLove(y,x)
③ 全ての人は、或る人に愛されている。
④ 或る人 は、全ての人を愛している。
に於いても、
③と④は、「同じ」ではない。
(13)
③ 全ての人は、或る人に愛されている。
といふのは、例へば、
③ 全ての人は、或る人(両親)に愛されている。
といふ「(普通の)意味」である。
(14)
④ 或る人は、全ての人を愛している。
といふのは、例へば、
④ イエス(人の子)は、全ての人を愛している。
といふ「(特殊な)意味」である。
平成29年05月06日、毛利太。

2017年5月1日月曜日

鏡は何故左右だけを逆に映すのか(再び)。

(01)
鏡の中の、上下左右について、
鏡は左右逆に映るのに、どうして上下逆には映らないのでしょう?
という「よくある質問(FAQ)」に対する答えとして、次のように考えることが、出来る。
(02)
「コピー用紙」等の「紙面」に、「AE」と書いて下さい。
(03)
①「AE」と書かれた「紙面」を、「ページ」をめくるようにして、「裏返し」にして、その「紙面」を、「光」にかざして下さい。
②「AE」と書かれた「紙面」を、「ページ」をめくるようにして、「裏返し」にして、その「紙面」を、「鏡」にうつして下さい。
③「AE」と書かれた「紙面」を、「日捲り」をめくるようにして、「裏返し」にして、その「紙面」を、「光」にかざして下さい。
④「AE」と書かれた「紙面」を、「日捲り」をめくるようにして、「裏返し」にして、その「紙面」を、「鏡」にうつして下さい。
(04)
① の場合は、「∃A」という「字形」が、「透けて見える」。
② の場合も、「∃A」という「字形」が、「鏡に映って見える」。
③ の場合は、「∀E」という「字形」が、「透けて見える」。
④ の場合も、「∀E」という「字形」が、「鏡に映って見える」。
従って、
(03)(04)により、
(05)
「文字」を「鏡に映して見る」ことは、
「文字」を「裏返し」にして「透かして見る」ことに、
比類」できるのであって、このことこそが、「重要な点」である。
(06)
⑤「∃A」という「字形」が、「透けて見えている」際に、「ページ」をめくるようにして、「表向き」にすれば、当然、「AE」という
「字形」が見える。
⑥「∃A」という「字形」が、「透けて見えている」際に、「日捲り」をめくるようにして、「表向き」にすれば、当然、「∃∀」という
「字形」が見える。
ところが、
(07)
⑤「A」⇔「A
であれば、
⑤「左右(∃E)」が「」であって、
⑤「上下(AA)」が「等しい」。
(08)
⑥「∃」⇔「∃
であれば、
⑥「上下(A∀)」が「」であって、
⑥「左右(∃∃)」が「等しい」。
従って、
(01)(05)(07)(08)により、
(09)
⑤「鏡は左右逆に映るのに、どうして上下逆には映らないのでしょう?」
というのであれば、
⑤「A」⇔「A
だけを「疑問」に思い、
⑥「∃」⇔「∃
については、「疑問」に思ってはいない。
ところが、
(10)
⑤「A」⇔「A
の場合は、「AEと書かれたTシャツを着た人物」が、「回れ右」をして「振り返る」場合に相当し、
⑥「∃」⇔「∃
の場合は、「AEと書かれたTシャツを着た人物」が、「逆立ち」をして「振り返る」場合に相当する。
しかしながら、
(11)
我々は、「後ろを振り返る」場合に、わざわざ、「逆立ち」をして「振り返る」ということをしない
そのため、
(09)(10)(11)により、
(12)
⑤「A」⇔「A
における「逆向き(∃E)」には、気が付いても、
⑥「∃」⇔「∃
における「逆向き(A∀)」には、気が付かない。
それゆえ、
(13)
⑤「鏡は左右逆に映るのに、どうして上下逆には映らないのでしょう?」
ということは、「疑問」に思っても、
⑥「鏡は上下逆に映るのに、どうして左右逆には映らないのでしょう?」
というにことについては、それを「疑問」には、思わない。
平成29年04月30日、毛利太。
(14)
「後ろを振り向く」には、「回れ右」をするか、「逆立ち」をするかの、いづれか一方である。
然るに、
(15)
「鏡の中の人物」は、「逆立ち」をしてゐない。
従って、
(16)
「鏡の中の人物」は、「逆立ち」ではなく、「回れ右」をしてゐる(はずである)。
然るに、
(17)
「鏡の中の人物」は、「回れ右」をしてこちらを向いてゐる「もう一人の自分」である。とするならば、
「鏡の外の自分」と、「鏡の中の自分」は、「上下が等しく、左右が逆である」といふことに、ならざるを得ない。
従って、
(14)~(17)により、
(18)
「鏡の中の自分」は、「逆立ち」をしてゐないし、「回れ右」もしてゐない。
とする以外に、「結論」は、有り得ない
従って、
(19)
「鏡の中の自分」は、「逆立ち」をしてないだけでなく、「回れ右」もしてゐない。
といふ風に、「納得」できるならば、
「鏡は左右逆に映るのに、どうして上下逆には映らないのでしょう?」
といふ「疑問」は、解消されることになる。
然るに、
(20)
(14)~(19)のやうに「説明」しても、納得できない人がゐるならば、これ以上の「説明」は、難しい。
そのため、
(21)
「鏡の中の世界」とは、異なるものの、次のやうな「話」を、することにする。
(22)
透明人間T」が住む「世界S」が存在すると、「仮定」する。
(23)
「世界S」で、「透明人間T」が、「透明のTシャツの胸」に「AE」と書いて、その「Tシャツ」を着たとする。
それ故、
(10)(14)(23)により、
(24)
①「AE」という「文字」が、「空中に浮かんで見える」ならば、「透明人間T」は、「こちらを向ひて、直立してゐる」。
②「∃A」という「文字」が、「空中に浮かんで見える」ならば、「透明人間T」は、「向かふを向ひて、直立してゐる」。
③「∃∀」という「文字」が、「空中に浮かんで見える」ならば、「透明人間T」は、「こちらを向ひて、立してゐる」。
それ故、
(25)
(Ⅰ)「文字の形」が、「A ⇒ A」のように変はったのであれば、「透明人間T」は、「回れ右」をしたことになる。
(Ⅱ)「文字の形」が、「∃ ⇒ ∃」のように変はったのであれば、「透明人間T」は、「逆立ち」をしたことになる。
(Ⅲ)「文字の形」が、「∃A∃A」のままが、続いてゐる場合は、「透明人間T」は、「回れ右」も、「逆立ち」も、してゐない
然るに、
(26)
「我々の世界W」に於いて、「AEと書かれたTシャツ」を着て、「鏡」の前に立ってゐる限り、
(Ⅲ)「鏡の中の、文字の形」は、「∃A∃A」のままで、変はらない
従って、
(25)(26)により、
(27)
(Ⅲ)「鏡の中の、文字の形」が、「∃A∃A」のままで、変はらない以上、
「透明人間T」と同様に、「鏡の中の自分」も、「回れ右」も、「逆立ち」もしていない。とすべきである。
平成29年05月01日、毛利太。