2013年12月23日月曜日

「返り点」について、

(01)
このブログは、昨日(12月22日)に書いたFCブログの「記事(返り点について、)」のダイジェストであり、
FCブログの「記事(返り点について、)」は、一昨日(12月21日)迄に書いた、
ホームページ、(〇一)~(七二)」のダイジェストです。
従って、
(02)
このブロガーは、「ダイジェストの、ダイジェスト」であるため、「厳密」であるよりも、「簡潔」に書くつもりです。
(03)
学校で習ふ「返り点」は、
① レ
② 一 二 三 四 五 ・・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・・ 
⑤ 天 地 人
然るに、
(03)
この場合、
⑤ 天 地 人
の「三つ」では足りないため、以下では、
⑤ 天 地 人
を「六つ」に増やし、
① レ
② 一 二 三 四 五 ・・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・・
⑤ 天 地 人
⑤ 天 地 人間 界 極
とする。
然るに、
(04)

何不令人謂韓叔曰秦之
敢絶周而伐韓者信東周
也公何不与周地発質使
之楚秦必疑楚不信周是
韓不伐也又謂秦曰韓彊
与周地将以疑周於秦也
周不敢不受。
といふ、65個字の「白文」の「訓読」は、
(05)
⑮ 何ぞ人をして韓の公叔に謂ひて「秦の敢へて周を絶つて韓を伐たんとするは東周を信ずればなり、公何ぞ周に地を与へ、質使を発して楚に之かしめざる、秦必ず楚を疑ひ、周を信ぜざらん、是れ韓伐たれざらん、」と曰ひ、又秦に謂ひて「韓彊ひて周に地を与ふるは、将に以て周を秦に疑はしめんとするなり、周敢へて受けずんばあらず」と曰は令めざる(これならわかる返り点 ― 入門から応用まで ― 古田島洋介、九一頁)。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
⑮ 何不令人謂韓叔曰、秦之敢絶周而伐韓者、信東周也、公何不与周地発質使之楚、秦必疑楚不信周、是韓不伐也、又謂秦曰、韓彊与周地、将以疑周於秦也、周不敢不受。
といふ「漢文」には、
⑮ レ 間 二 一 乙 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 甲レ 人 二 一 三 二 一 地 天レ。
といふ「返り点」が、付くことになる。
然るに、
(07)
① レ
② 一 二 三 四 五 ・・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・・
⑤ 天 地 人
⑤ 天 地 人間 界 極
から、
① レ
を除いて、
② 一 二 三 四 五 ・・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・・
⑤ 天 地 人
⑤ 天 地 人間 界 極
とした場合の「返り点」も、「返り点」の「役割」を果たすことが出来、その場合の「返り点」は、
⑮ 極 界 二 一 丙 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 乙 甲 二 一 間 二 一 三 二 一 人 地 天。
である。
然るに、
(08)
一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった(新稲法子:はてなブログ、2013-03-15)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
⑮ 極 界 二 一 丙 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 乙 甲 二 一 間 二 一 三 二 一 人 地 天。
といふ「返り点」は、
⑮ 三六 三五 二 一 二三 四 三 六 五 八 七 一五 一〇 九 一二 一一 一四 一三 一七 一六 二〇 一九 一八 二二 二一 二五 二四 三四 二七 
二 六 三〇 二九 二八 三三 三二 三一。
といふ「返り点」に、対応する。
然るに、
(10)
⑮ 三六 三五 二 一 二三 四 三 六 五 八 七 一五 一〇 九 一二 一一 一四 一三 一七 一六 二〇 一九 一八 二二 二一 二五 二四 三四 二七 二 六 三〇 二九 二八 三三 三二 三一。
は、「一 ~ 三六」であるため、「36個」。
然るに、
(11)

極 界 二 一 丙 
二 一 二 一 二 
一 下 二 一 二 
一 中 上 二 一 
三 二 一 乙 甲 
二 一 間 二 一 
三 二 一 人 地 天。
であるため、
⑮ 極 界 二 一 丙 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 乙 甲 二 一 間 二 一 三 二 一 人 地 天。
も、「36個」である。
然るに、
(12)
複数の要素からなるデータの列を、ある特定の規則に従って並べ替えること。整列とも言う。数値を大きい順(小さい順)で並べ替えたり、文字列を五十音順で並べ替えるのがソートである(e-Words)。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
⑮ 三六 三五 二 一 二三 四 三 六 五 八 七 一五 一〇 九 一二 一一 一四 一三 一七 一六 二〇 一九 一八 二二 二一 二五 二四 三四 二七 二 六 三〇 二九 二八 三三 三二 三一。
といふ「36個の要素」を、
⑮ 一 二 三 四 五 六 七 八 九 一〇 一一 一二 一三 一四 一五 一六 一七 一八 一九 二〇 二一 ニニ 二三 二四 二五 二六 二七 二八 二九 三〇 三一 三二 三三 三四 三五 三六。
といふ「順番」に「並び替へる」ことを、「ソート」とするならば、
⑮ 極 界 二 一 丙 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 乙 甲 二 一 間 二 一 三 二 一 人 地 天。といふ「36個の要素」を、
⑮ 一 二 一 二 一 二 一 二 一 二 一 二 上 中 下 一 二 一 二 三 甲 乙 丙 一 二 一 二 一 二 三 天 地 人 間 界 極。
といふ「順番」に「並び替へる」ことも、「ソート」である。
然るに、
(14)

レ 間 二 一 乙 
レ レ 二 一 下 
二 一 二 一 上レ 
レ レ レ 甲レ 人 
二 一 三 二 一 
地 天レ。
は、「計27個」。
従って、
(04)(10)(11)(14)により、
(15)
⑮ 三六 三五 二 一 二三 四 三 六 五 八 七 一五 一〇 九 一二 一一 一四 一三 一七 一六 二〇 一九 一八 二二 二一 二五 二四 三四 二七 二 六 三〇 二九 二八 三三 三二 三一。
⑮ 極 界 二 一 丙 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 乙 甲 二 一 間 二 一 三 二 一 人 地 天。
による、「二通りの、返り点」が、
「65個中、36個の要素(漢字)」を「ソート」する際に、
「36個の、返り点」を用ゐている。のに対して、
⑮ レ 間 二 一 乙 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 甲レ 人 二 一 三 二 一 地 天レ。
といふ「返り点」の場合は、
「65個中、36個の要素(漢字)」を「ソート」する際に、
「27個の、返り点」を用ゐている。ことになる。
従って、
(15)により、
(16)
⑮ レ 間 二 一 乙 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 甲レ 人 二 一 三 二 一 地 天レ。
といふ「返り点」が、「ソート」であるならば、
(36-27)個=9個の、
「返り点」が、「不足」する。
然るに、
(17)
例へば、
① 非r不r読r書  =書を読ま不るに非ず:  レ  レ  レ。
といふ「返り点」が、
② 非4不3読2書1=書を読ま不るに非ず: 四 三 二 一。
といふ「返り点」の「略号」であるならば、
であるならば、
① の「返り点」の個数=3
② の「返り点」の個数=4
に於ける、
(3-4)個=-1個。
は、「矛盾」しない。
cf.
米国=2字。
亜米利加合衆国=7字。
に於いて、
(2-7)字=-5字。
は、「矛盾」しない。
従って、
(16)(17)により、
(18)
⑮ レ 間 二 一 乙 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 甲レ 人 二 一 三 二 一 地 天レ。
といふ「返り点」が、
⑮ 極 界 二 一 丙 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 乙 甲 二 一 間 二 一 三 二 一 人 地 天。
といふ「返り点」の、「略号」であるならば、
(27-36)個=-9個。
は、「矛盾」しない。
従って、
(01)~(18)により、
(19)
① レ点
は、
② 一 二 三 四 五 ・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・
⑤ 天 地 人
に対する、「略号」である。
Q.E.D.
平成25年12月23日、毛利太。

2013年12月12日木曜日

算数の括弧と、返り点の括弧(Ⅱ)。

(01)
① -2+3×4
② -2+3×4=+10
③ -2+3×4=-20
に於いて、
(02)
左辺である、
② -2+3×4
③ -2+3×4
を、「文」とする。
(03)
右辺である。
② +10
③ -20
を、「意味」とする。
然るに、
(04)
② -    2+3  ×4  =+10
③ -{(2+3)×4}=-20
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① -2+3×4
といふ「文」の「意味」が、
② +10
であるならば、
① -2+3×4
といふ「文」は、
② -    2+3  ×4  =+10
といふ「形(構造)」を、してゐて、
① -2+3×4
といふ「文」の「意味」が、
③ -20
であるならば、
① -2+3×4
といふ「文」は、
③ -{(2+3)×4}=-20
といふ「形(構造)」を、してゐる。
然るに、
(06)
① 不為劉氏左袒。
に於いて、
不=否定詞
為=前置詞
劉氏=名詞
左袒=動詞
であることについては、おおむね、誰もが、否定しない。
従って、
(07)
① 不為劉氏左袒。
は、
③ 不・為・劉氏・左袒。
といふ風に、「区切る」ことが、出来る。
然るに、
(08)
為+劉氏=前置詞+名詞。
であるため、
為(劉氏)
と書くことに、「無理」は無い。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① 不・為・劉氏・左袒。
は、
③ 不・為(劉氏)左袒。
といふ風に、「区切る」ことが、出来る。
然るに、
(10)
「命題A」の「否定」を、
~A=不A
と書いて、
  Aに、
④     為劉氏左袒(劉氏に対して味方をする)。
を代入した「形」が、
③ 不{為劉氏左袒}。
とするならば、
③ 不{為劉氏左袒}= 劉氏に対して味方をしない。
といふことに、なるものの、
③ 不為劉氏左袒    = 劉氏に対して味方をしない。
であることに関しては、「間違ひ」無い。
従って、
(07)(09)(10)により、
(11)
① 不為劉氏左袒。
は、
③ 不・為・劉氏・左袒。
といふ風に、「区切る」ことが、出来き、
③ 不・為・劉氏・左袒。
は、
③ 不・為(劉氏)左袒。
といふ風に、「区切る」ことが、出来き、
③ 不・為(劉氏)左袒。
は、
③ 不{為(劉氏)左袒}。
といふ風に、「区切る」ことが、出来る。
然るに、
(12)
漢文は「ヲ・ニ・ト・ヨリ・ヨリモ」の送りがなをつけて返る場合が多いが、これらにかかわらず、訓読の際に下から必ず返って読む特別の文字がある。これを「返読文字」という(漢文の基礎、鳥羽田重直、1985年、22頁)。これらはいつでも返読するのではないことも留意する必要がある(漢文早わかり、志村和久、1982年、42頁)。
とのことであるが、
③ 不{為(劉氏)左袒}。
に於いて、
③ 不  為
は、「返読文字」である。
従って、
(13)
③ 不{為(劉氏)左袒}。
ではなく、仮に、
③ 不{為(劉氏)}左袒。
であるならば、
① 不 為 劉氏 左袒 =
③ 不{為(劉氏)}左袒 ⇒
③ {(劉氏)為}不左袒 =
③ 劉氏の為なら不、左袒す(劉氏に対してではなく、味方をする)。
といふ風に、「返読」される。
従って、
(14)
③ 不  為
が、「返読文字」であって、尚且つ、
④ 不為劉氏而左袒。
ではなく、
① 不為劉氏左袒。
の「意味」が、
① 不為劉氏左袒 =
③ 劉氏の為に左袒せ不(劉氏に対して味方をしない)。
である以上、
① 不  為  劉氏  左袒 =
③ 不{為(劉氏)左袒}⇒
③ {(劉氏)為左袒}不=
③ 劉氏の為に左袒せ不(劉氏に対して味方をしない)。
でなければ、ならない。
(15)
このことは、
① -2+3×4
の「意味」が
① -2+3×4=-20
である以上、
① -2+3×4
といふ「文」は、
③ -{(2+3)×4}=-20
でなければならない。といふことに、似てゐて、アナロジーが、成立する。
従って、
(16)
① 不為劉氏左袒。
といふ「白文」が、
① 不為劉氏左袒 = 劉氏に対して味方をしない。
といふ「意味」であるならば、
① 不  為  劉氏 左袒 =
③ 不{為(劉氏)左袒}⇒
③ {(劉氏)為左袒}不=
③ 劉氏の為に左袒せ不(劉氏に対して味方をしない)。
でなければ、ならない。
然るに、
(17)
「翻訳サイト」によると、
③ 劉氏に対して味方をしない。
といふ日本語は、
③ 對劉先生不夥伴。
といふ「意味」であるとのことであるが、実際に、さうであるとする。
従って、
(16)(17)により、
(18)
① 不為劉氏左袒。
といふ「白文」が、
③ 不為劉氏左袒 = 劉氏の為に左袒せ不(對劉先生不夥伴)。
といふ「意味」であるならば、
③ 不  為
が、「返読文字」であるが故に、
① 不為劉氏左袒。
といふ「白文」は、
③ 不{為(劉氏)左袒}
といふ「構造」をしてゐることになり、さうでなければ、
③ 不  為
が、「返読文字」である。といふ事実と、「矛盾」する。
然るに、
(19)
③ 不{為(劉氏)左袒}
といふことは、
③ 不為劉氏左袒。
に付く「返り点」が、
③ 下 二 一 上。
である。といふこと、他ならない。
従って、
(18)(19)により、
(20)
訓読とは「文法構造の把握」であり、訓点はそうした施訓者の理解をそのまま示すものである(続訓読論、川島優子 他、2010年、334頁)。
といふ、ことになる。
平成25年12月12日、毛利太。

2013年12月11日水曜日

数学の括弧と、返り点の括弧。

(01)
「掛け算が先」であるため、「括弧」が無い場合は、
-2+3×4=
-2+12=
10
然るに、
(02)
-{(2+3)×4}=
-{5×4}=
-{20}=
-20
従って、
(03)
-{(2+3)×4}=-20
といふ「数式」は、
① 2+3=5
② 5×4=20
③ -1×20
④ -20
といふ「順番」で、「括弧の中が先」に、「計算」される。
従って、
(04)
-2+3×4=+10
ではなく、
-2+3×4=-20
であるならば、
-2+3×4=-20
に於いて、
 {(   )  }
といふ「括弧」が、「省略」されてゐる。
然るに、
(05)
不  為  劉氏  左袒 =
不{為(劉氏)左袒}⇒
{(劉氏)為左袒}不=
劉氏の為に左袒せ不(劉氏の為に左の片肌を脱がない)。
従って、
(06)
不{為(劉氏)左袒}=
劉氏の為に左袒せ不(劉氏の為に左の片肌を脱がない)。
といふ「漢文」は、
① 劉氏の
② 為に、
③ 左袒せ
④ 不。
といふ「順番」で、「括弧の中が先」に、「訓読」される。
従って、
(07)
不 為 劉氏 左袒。
といふ「漢文」が、
不 為 劉氏 左袒 =
劉氏の為に左の片肌を脱がない(劉氏に対して、味方をしない)。
といふ「意味」であるならば、
不 為 劉氏 左袒。 
に於いて、
   {   (       )      }
といふ「括弧」が、「省略」されてゐる。
従って、
(01)~(07)により、
(08)
「括弧の中が先」に、・・・・・。
といふ点に於いて、
-{(2+3)×4}
不{為(劉氏)左袒}
に於ける、
 { (  ) }
といふ「括弧」は、基本的に、「同じ括弧」である。
然るに、
(09)
訓読とは「文法構造の把握」であり、訓点はそうした施訓者の理解をそのまま示すものである(続訓読論、
川島優子 他、2010年、334頁)。
従って、
(05)(07)(09)により、
(10)
不 為 劉氏 左袒 = 劉氏に対して、味方をしない。
といふ「解釈」が、「誤り」ではなく、尚且つ、
訓読とは「文法構造の把握」である。
といふ「理解」が、「正しい」。のであれば、
「文法構造」として、
不  為  劉氏  左袒 =
不{為(劉氏)左袒}。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(10)により、
(11)
不  為  劉氏  左袒。
といふ「漢文」には、「目には見えない形」で、
不{為(劉氏)左袒}。
といふ「構造」が有る。といふことに、なる。
(12)
不 為 劉氏 左袒。
といふ「漢文」が、
   為 劉氏 左袒 =
「劉氏の為に左の片肌を脱ぐ(劉氏に対して、味方をする)」。
といふ「文の全体」を、「否定」してゐる。のであれば、
少なくとも、
不{為 劉氏 左袒}。
といふ「構造」は、有る。はずである。
従って、
(13)
「目には見えない形」を、「深層構造(deep structure )」と呼ぶならば、
不  為  劉氏  左袒。
といふ「漢文」には、
不{為(劉氏)左袒}。
といふ「深層構造(deep structure )」が有る。といふ、ことになる?
cf.
1.深層構造
 《 deep structure 》チョムスキーによって設定された変形生成文法理論の基本概念の一。現実の発話の基底にあって文の意味を規定すると想定され、表層構造よりいっそう抽象的な構
造。変形規則を適用することによって表層構造が導き出され、異 ...
 デジタル大辞泉
平成25年12月11日、毛利太。

2013年12月8日日曜日

白話文(口語)と、「返り点(括弧)」

(01)
AB{の[前〔に(在り)〕]}⇒
A{[〔(在り)に〕前]の}B。
然るに、
(02)
 A=A
 B=B
 の=of
 前=front
 に=in
在り=is
従って、
(01)(02)により、
(03)
AB{の[前〔に(在り)〕]}⇒
A{[〔(在り)に〕前]の}B=
A{[〔(is)in〕front]of}B.
従って、
(03)により、
(04)
{[〔( )〕]}
といふ「括弧」を介して、
① A、Bの前に在り。
といふ日本語の「語順」と、
② A is in front of B.
といふ英語の「語順」は、「等しい」。
(05)
悪〔称(人之悪)者〕⇒
〔(人之悪)称者〕悪。
然るに、
(06)
悪=悪む   (終止形)
称=称する(連体形)
人=人(名詞)
之=の(助詞)
悪=悪(名詞)
者=者(名詞)
を= を(助詞)
従って、
(05)(06)により、
(07)
悪〔称(人之悪)者〕⇒
〔(人之悪)称者〕悪=
〔(人の悪を)称する者を〕悪む。
従って、
(04)(07)により、
(08)
{[〔( )〕]}
といふ「括弧」を介して、
① A、Bの前に在り。
といふ日本語の「語順」と、
② A is in front of B.
といふ、英語の「語順」が、「等しい」やうに、
〔( )〕
といふ「括弧」を介して、
③ 悪称人之悪者。
といふ「論語」の「語順」と、
④ 人の悪を称する者を悪む。
といふ「訓読」の「語順」は、「等しい」。
然るに、
(09)
「返り点に対する括弧の用法3(www9.ocn.ne.jp/~kannbunn)」に於いて確認した通り、
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
といふ「括弧」で「変換」出来る、「漢文・訓読」は、
① レ
② 一 二 三 四 ・・・・
③ 上 下 中
④ 甲 乙 丙 丁 ・・・・
⑤ 天 地 人
といふ「返り点」であっても、「変換可能」であり、逆も、正しい。
然るに、
(10)
寡聞にして、「返り点」を打つことが出来ない「漢文(文言文)」を知らない。
従って、
(01)~(10)により、
(11)
「漢文」の「語順」と、
「訓読」の「語順」は、
「括弧(返り点)」を介して、「等しい」。
然るに、
(12)
「続訓読論(川島優子 他)、2010年、312頁」によると、
只菅要纏騒擾我 ヒタスラ 我ガ ヤツカイニナル 『唐話纂要』
といふ「白話文(18世紀?の口語)」の「返り点」は、
下 二 上 一
であるものの、この場合は、
「一二点」の間に、「上点」が在るため、
下 二 上 一 =〔( 〕)
といふ「返り点(括弧)」は、有り得ない。
加へて、
(14)
「続訓読論(川島優子 他)、2010年、330頁」によると、
端的看不出這婆子的本事来(端的に這の婆子の本事を看出し来たらず)
といふ「白話文」の「返り点(括弧)」は、
端的看2不5出這3婆子的本事1来4
すなはち、
二 五 三 一 四
であるものの、「返り点に対する括弧の用法」に於いて確認した通り、
2 五 三 1 四
といふ「返り点(括弧)」は、有り得ない。
すなはち、
(15)
端的看2不5出3這婆子的本事1来4 =
端的看(不[出〔這婆子的本事)来〕]⇒
端的([〔這婆子的本事)看来〕出]不=
端的に這の婆子の本事を看出し来たら不。
に於いて、
2 五 三 1 四 =([〔 )〕]
といふ「返り点(括弧)」は、有り得ない。
然るに、
(16)
「2013/05/18」の記事でも書いたやうに、
     {[〔( )〕]}を、
({[〔({[〔( )〕]})〕]})といふ風に「拡張」した上で、
During  the  past  seventy  five  years  since  Japan’s  closed  doors  were  opened,the Japanese  have been  described  in  the  most  fantastic  series  of ‘but also’s’ever used  for any  nation  of  the  world.  When  a  serious  observer  is  writing  about  peoples other  than  the Japanese  and   says  they  are  unprecedently polite, he isn’t  likely  to  add,‘But  also  insolent  and  overbearing.
に対して、
{[〔( )〕]}
({[〔({[〔( )〕]})〕]})
〔({[〔( )〕]})〔( )〕
 [〔( )〕]
といふ「括弧」を、加へると、
(17)
During{the  past  seventy  five  years[since〔Japan’s  closed  doors  were(opend,)〕]}The Japanese  have(been{described[in〔the   mos t fantastic  series  of ‘but also’s’(ever  used{for[any   nation 〔of(the  world)〕]})〕]}). When〔a  serious  observer  is(writing{about[peoples〔other  than(the  Japanese)〕]})and  says〔they are(unprecedently polite)〕〕, he isn’t [likely〔to add,(‘But also insolent  and  overbearing.’ )〕]
を、「変換」すると、
(18)
{[〔Japan’s  closed  doors(opened,)were〕since]the  past  seventy  five  years}During.The Japanese ({[〔({[〔(the world)of〕any  nation]for}ever  used)the  most  fantastic  series of ‘but also’s’〕in]described}been) have.〔a  serious  observer({[〔(the  Japanese)other  than〕peoples]about}writing)is〕and  〔they (unprecedently polite)are〕says〕When, he [〔(‘But alsoinsolent  and  overbearing.’ )to add,〕likely]isn’t.
を、「日本語」に置き換えると、
(19)
{[〔日本の閉ざされたドアが(開か)れて〕から]過去七十五年の}間、 日本人は({[〔({[〔(世界)の〕どの国民]に対しても}これまでに使われた中では)最も途方もない、一連の『だが一方で』の句〕で以て]描写}されて)きた。〔真剣に観察する人が({[〔(日本人)以外の〕国民に]ついて}書いて)いて〕、そして〔彼らは(ほかに例を見ないほどど礼儀正しい)です〕と書く〕際に、その彼が[〔(『だが、無礼で横暴だ』と)付け加えることは〕有りそうに]ない。
の「括弧」を除くと、
(20)
日本の閉ざされたドアが開かれてから過去七十五年の間、日本人は、世界のどの国民に対しても、これまでに使われた中では最も途方もない、一連の『だが一方で』の句で以て、描写されてきた。真剣に観察する人が日本人以外の国民について書いていて、そして彼らはほかに例を見ないほど礼儀正しいです。と書く際に、その彼が、『だが、無礼で横暴だ』と付け加えることは有りそうにない。
という風に、「変換」出来る。
然るに、
(21)
その一方で、
Who(Are〔You)〕      ⇒(〔You) Who〕Are.
誰(である〔あなたは)〕⇒(〔あなたは)誰〕である。
の場合は、
2(3〔1)〕⇒(〔1)2〕3
であるため、
二 三 一 = (〔 )〕
といふ「返り点(括弧)」は、有り得ない。
従って、
(16)(21)により、
(22)
During  the  past  seventy  five  years  since  Japan’s  closed  doors  were  opened,the Japanese  have been  described  in  the  most  fantastic  series  of ‘but also’s’ever used  for any  nation  of  the  world.  When  a  serious  observer  is  writing  about  peoples other  than  the Japanese  and   says  they  are  unprecedently polite, he isn’t  likely  to  add,‘But  also  insolent  and  overbearing.
のやうな「複雑な英文」に対しては、「括弧(返り点)」を、付けることが出来る一方で、
Who Are You ?
のやうな「単純な英文」に対しては、「括弧(返り点)」を、付けることが出来ない。
従って、
(22)により、
(23)
「単純な文」であれば、「括弧(返り点)」を、付けることが出来、
「複雑な文」には、「括弧(返り点)」を、付けることが出来ない。
といふわけではなく、
During  the  past  seventy  five  years  since  Japan’s  closed  doors  were  opened,the Japanese  have been  described  in  the  most  fantastic  series  of ‘but also’s’ever used  for any  nation  of  the  world.  When  a  serious  observer  is  writing  about  peoples other  than  the Japanese  and   says  they  are  unprecedently polite, he isn’t  likely  to  add,‘But  also  insolent  and  overbearing.
日本の閉ざされたドアが開かれてから過去七十五年の間、日本人は、世界のどの国民に対しても、これまでに使われた中では最も途方もない、一連の『だが一方で』の句で以て、描写されてきた。真剣に観察する人が日本人以外の国民について書いていて、そして彼らはほかに例を見ないほど礼儀正しいです。と書く際に、その彼が、『だが、無礼で横暴だ』と付け加えることは有りそうにない。
のやうな「複雑な文」であっても、
「語順A」と、
「語順B」が、
「括弧(返り点)」を介して、「等しい」。のであれば、その時に限って、
「括弧(返り点)」を介して、
「語順A」 ⇔ 「語順B」
といふ「変換」が、可能になる。と、すべきである。
従って、
(24)
「白話」と、
「訓読」が、
「括弧(返り点)」を介して、「等しい」。のであれば、
「括弧(返り点)」を介して、
「白話」 ⇔ 「訓読」
といふ「変換」が、可能になり、
「括弧(返り点)」を介して、「等しくない」。のであれば、
「括弧(返り点)」を介して、
「白話」 ⇔ 「訓読」
といふ「変換」が、可能にはならない。と、すべきである。
従って、
(25)
簡潔を旨とした文言文とは異なり、話し言葉に基づく白話文は、本来訓読には適していない(続訓読論、
川島優子 他、2010年、330頁)。
といふ場合も、「簡潔・複雑」といふことではなく、
「白話」と、
「訓読」が、
「括弧(返り点)」を介して、「等しくない」。が故に、
端的看2不5出3這婆子的本事1来4(二 五 三 一 四)
のやうな、「返り点」とは言へない「点」しか打てず、その「結果」として、
端的看2不5出3這婆子的本事1来4(二 五 三 一 四)
では「読みにくい」ため、勢ひ、「点」を打つことが無くなって行った。
といふ風に、思はれる。
(26)
さて、こうした「中国の小説」のほとんどは、「白話」つまり当時の口語体で書かれている。白話体の文章は、当時の日本人にとってはなじみのないものであった。伝統的な文言文とはことなり、白話で書かれた文章は訓読にも適さない。―中略、― しかし、江戸時代の日本人たちは、この新しい文体の小説に夢中になった(続訓読論、川島優子 他、2010年、311・12頁)。
(27)
孝莫大於厳父、厳父莫大於配天⇒
孝莫{大[於〔厳(父)〕]}、厳(父)莫{大[於〔配(天)〕]}⇒
孝{[〔(父)厳〕於]大}莫、(父)厳{[〔(天)配〕於]大}莫=
孝は父を厳ぶ於り大は莫く、父を厳ぶは天に配する於りも大なるは莫し。
(28)
というところが、白話訳では「孝的勾當都無大似父親的、敬父親的勾當便似敬天一般」となっている。両者の違いは一目瞭然であろう(続訓読論、川島優子 他、2010年、311・12頁)。
然るに、
(29)
孝莫大於厳父、厳父莫大於配天(文言文)。
に対する、
孝的勾當都無大似父親的、敬父親的勾當便似敬天一般(白話)。
は、文字通り、「完全に、異なっている」。
(30)
孝的勾當都無大似父親的、敬父親的勾當便似敬天一般(白話)。
は、100%、「漢文」ではない。
(31)
孝的勾當都無大似父親的、敬父親的勾當便似敬天一般(白話)。
が「漢文」であれば、
孝莫大於厳父、厳父莫大於配天(文言文)。
は、「日本語」である。

平成25年12月08日、毛利太。