(01)
AB{の[前〔に(在り)〕]}⇒
A{[〔(在り)に〕前]の}B。
然るに、
(02)
A=A
B=B
の=of
前=front
に=in
在り=is
従って、
(01)(02)により、
(03)
AB{の[前〔に(在り)〕]}⇒
A{[〔(在り)に〕前]の}B=
A{[〔(is)in〕front]of}B.
従って、
(03)により、
(04)
{[〔( )〕]}
といふ「括弧」を介して、
① A、Bの前に在り。
といふ日本語の「語順」と、
② A is in front of B.
といふ英語の「語順」は、「等しい」。
(05)
悪〔称(人之悪)者〕⇒
〔(人之悪)称者〕悪。
然るに、
(06)
悪=悪む (終止形)
称=称する(連体形)
人=人(名詞)
之=の(助詞)
悪=悪(名詞)
者=者(名詞)
を= を(助詞)
従って、
(05)(06)により、
(07)
悪〔称(人之悪)者〕⇒
〔(人之悪)称者〕悪=
〔(人の悪を)称する者を〕悪む。
従って、
(04)(07)により、
(08)
{[〔( )〕]}
といふ「括弧」を介して、
① A、Bの前に在り。
といふ日本語の「語順」と、
② A is in front of B.
といふ、英語の「語順」が、「等しい」やうに、
〔( )〕
といふ「括弧」を介して、
③ 悪称人之悪者。
といふ「論語」の「語順」と、
④ 人の悪を称する者を悪む。
といふ「訓読」の「語順」は、「等しい」。
然るに、
(09)
「返り点に対する括弧の用法3(www9.ocn.ne.jp/~kannbunn)」に於いて確認した通り、
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
といふ「括弧」で「変換」出来る、「漢文・訓読」は、
① レ
② 一 二 三 四 ・・・・
③ 上 下 中
④ 甲 乙 丙 丁 ・・・・
⑤ 天 地 人
といふ「返り点」であっても、「変換可能」であり、逆も、正しい。
然るに、
(10)
寡聞にして、「返り点」を打つことが出来ない「漢文(文言文)」を知らない。
従って、
(01)~(10)により、
(11)
「漢文」の「語順」と、
「訓読」の「語順」は、
「括弧(返り点)」を介して、「等しい」。
然るに、
(12)
「続訓読論(川島優子 他)、2010年、312頁」によると、
只菅要纏騒擾我 ヒタスラ 我ガ ヤツカイニナル 『唐話纂要』
といふ「白話文(18世紀?の口語)」の「返り点」は、
下 二 上 一
であるものの、この場合は、
「一二点」の間に、「上点」が在るため、
下 二 上 一 =〔( 〕)
といふ「返り点(括弧)」は、有り得ない。
加へて、
(14)
「続訓読論(川島優子 他)、2010年、330頁」によると、
端的看不出這婆子的本事来(端的に這の婆子の本事を看出し来たらず)
といふ「白話文」の「返り点(括弧)」は、
端的看2不5出這3婆子的本事1来4
すなはち、
二 五 三 一 四
であるものの、「返り点に対する括弧の用法」に於いて確認した通り、
2 五 三 1 四
といふ「返り点(括弧)」は、有り得ない。
すなはち、
(15)
端的看2不5出3這婆子的本事1来4 =
端的看(不[出〔這婆子的本事)来〕]⇒
端的([〔這婆子的本事)看来〕出]不=
端的に這の婆子の本事を看出し来たら不。
に於いて、
2 五 三 1 四 =([〔 )〕]
といふ「返り点(括弧)」は、有り得ない。
然るに、
(16)
「2013/05/18」の記事でも書いたやうに、
{[〔( )〕]}を、
({[〔({[〔( )〕]})〕]})といふ風に「拡張」した上で、
During the past seventy five years since Japan’s closed doors were opened,the Japanese have been described in the most fantastic series of ‘but also’s’ever used for any nation of the world. When a serious observer is writing about peoples other than the Japanese and says they are unprecedently polite, he isn’t likely to add,‘But also insolent and overbearing.
に対して、
{[〔( )〕]}
({[〔({[〔( )〕]})〕]})
〔({[〔( )〕]})〔( )〕
[〔( )〕]
といふ「括弧」を、加へると、
(17)
During{the past seventy five years[since〔Japan’s closed doors were(opend,)〕]}The Japanese have(been{described[in〔the mos t fantastic series of ‘but also’s’(ever used{for[any nation 〔of(the world)〕]})〕]}). When〔a serious observer is(writing{about[peoples〔other than(the Japanese)〕]})and says〔they are(unprecedently polite)〕〕, he isn’t [likely〔to add,(‘But also insolent and overbearing.’ )〕]
を、「変換」すると、
(18)
{[〔Japan’s closed doors(opened,)were〕since]the past seventy five years}During.The Japanese ({[〔({[〔(the world)of〕any nation]for}ever used)the most fantastic series of ‘but also’s’〕in]described}been) have.〔a serious observer({[〔(the Japanese)other than〕peoples]about}writing)is〕and 〔they (unprecedently polite)are〕says〕When, he [〔(‘But alsoinsolent and overbearing.’ )to add,〕likely]isn’t.
を、「日本語」に置き換えると、
(19)
{[〔日本の閉ざされたドアが(開か)れて〕から]過去七十五年の}間、 日本人は({[〔({[〔(世界)の〕どの国民]に対しても}これまでに使われた中では)最も途方もない、一連の『だが一方で』の句〕で以て]描写}されて)きた。〔真剣に観察する人が({[〔(日本人)以外の〕国民に]ついて}書いて)いて〕、そして〔彼らは(ほかに例を見ないほどど礼儀正しい)です〕と書く〕際に、その彼が[〔(『だが、無礼で横暴だ』と)付け加えることは〕有りそうに]ない。
の「括弧」を除くと、
(20)
日本の閉ざされたドアが開かれてから過去七十五年の間、日本人は、世界のどの国民に対しても、これまでに使われた中では最も途方もない、一連の『だが一方で』の句で以て、描写されてきた。真剣に観察する人が日本人以外の国民について書いていて、そして彼らはほかに例を見ないほど礼儀正しいです。と書く際に、その彼が、『だが、無礼で横暴だ』と付け加えることは有りそうにない。
という風に、「変換」出来る。
然るに、
(21)
その一方で、
Who(Are〔You)〕 ⇒(〔You) Who〕Are.
誰(である〔あなたは)〕⇒(〔あなたは)誰〕である。
の場合は、
2(3〔1)〕⇒(〔1)2〕3
であるため、
二 三 一 = (〔 )〕
といふ「返り点(括弧)」は、有り得ない。
従って、
(16)(21)により、
(22)
During the past seventy five years since Japan’s closed doors were opened,the Japanese have been described in the most fantastic series of ‘but also’s’ever used for any nation of the world. When a serious observer is writing about peoples other than the Japanese and says they are unprecedently polite, he isn’t likely to add,‘But also insolent and overbearing.
のやうな「複雑な英文」に対しては、「括弧(返り点)」を、付けることが出来る一方で、
Who Are You ?
のやうな「単純な英文」に対しては、「括弧(返り点)」を、付けることが出来ない。
従って、
(22)により、
(23)
「単純な文」であれば、「括弧(返り点)」を、付けることが出来、
「複雑な文」には、「括弧(返り点)」を、付けることが出来ない。
といふわけではなく、
During the past seventy five years since Japan’s closed doors were opened,the Japanese have been described in the most fantastic series of ‘but also’s’ever used for any nation of the world. When a serious observer is writing about peoples other than the Japanese and says they are unprecedently polite, he isn’t likely to add,‘But also insolent and overbearing.
日本の閉ざされたドアが開かれてから過去七十五年の間、日本人は、世界のどの国民に対しても、これまでに使われた中では最も途方もない、一連の『だが一方で』の句で以て、描写されてきた。真剣に観察する人が日本人以外の国民について書いていて、そして彼らはほかに例を見ないほど礼儀正しいです。と書く際に、その彼が、『だが、無礼で横暴だ』と付け加えることは有りそうにない。
のやうな「複雑な文」であっても、
「語順A」と、
「語順B」が、
「括弧(返り点)」を介して、「等しい」。のであれば、その時に限って、
「括弧(返り点)」を介して、
「語順A」 ⇔ 「語順B」
といふ「変換」が、可能になる。と、すべきである。
従って、
(24)
「白話」と、
「訓読」が、
「括弧(返り点)」を介して、「等しい」。のであれば、
「括弧(返り点)」を介して、
「白話」 ⇔ 「訓読」
といふ「変換」が、可能になり、
「括弧(返り点)」を介して、「等しくない」。のであれば、
「括弧(返り点)」を介して、
「白話」 ⇔ 「訓読」
といふ「変換」が、可能にはならない。と、すべきである。
従って、
(25)
簡潔を旨とした文言文とは異なり、話し言葉に基づく白話文は、本来訓読には適していない(続訓読論、
川島優子 他、2010年、330頁)。
といふ場合も、「簡潔・複雑」といふことではなく、
「白話」と、
「訓読」が、
「括弧(返り点)」を介して、「等しくない」。が故に、
端的看2不5出3這婆子的本事1来4(二 五 三 一 四)
のやうな、「返り点」とは言へない「点」しか打てず、その「結果」として、
端的看2不5出3這婆子的本事1来4(二 五 三 一 四)
では「読みにくい」ため、勢ひ、「点」を打つことが無くなって行った。
といふ風に、思はれる。
(26)
さて、こうした「中国の小説」のほとんどは、「白話」つまり当時の口語体で書かれている。白話体の文章は、当時の日本人にとってはなじみのないものであった。伝統的な文言文とはことなり、白話で書かれた文章は訓読にも適さない。―中略、― しかし、江戸時代の日本人たちは、この新しい文体の小説に夢中になった(続訓読論、川島優子 他、2010年、311・12頁)。
(27)
孝莫大於厳父、厳父莫大於配天⇒
孝莫{大[於〔厳(父)〕]}、厳(父)莫{大[於〔配(天)〕]}⇒
孝{[〔(父)厳〕於]大}莫、(父)厳{[〔(天)配〕於]大}莫=
孝は父を厳ぶ於り大は莫く、父を厳ぶは天に配する於りも大なるは莫し。
(28)
というところが、白話訳では「孝的勾當都無大似父親的、敬父親的勾當便似敬天一般」となっている。両者の違いは一目瞭然であろう(続訓読論、川島優子 他、2010年、311・12頁)。
然るに、
(29)
孝莫大於厳父、厳父莫大於配天(文言文)。
に対する、
孝的勾當都無大似父親的、敬父親的勾當便似敬天一般(白話)。
は、文字通り、「完全に、異なっている」。
(30)
孝的勾當都無大似父親的、敬父親的勾當便似敬天一般(白話)。
は、100%、「漢文」ではない。
(31)
孝的勾當都無大似父親的、敬父親的勾當便似敬天一般(白話)。
が「漢文」であれば、
孝莫大於厳父、厳父莫大於配天(文言文)。
は、「日本語」である。
平成25年12月08日、毛利太。
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