2016年6月26日日曜日

誰が先生か。象がゐる。鼻は象が長い。マリリンモンローが結婚。吾輩は猫である。日が暮れる時。

―「06月25日の記事」を書き直します。―
(01)
Definition of exclusive proposition
: a proposition in logic whose predicate is asserted to apply to its subject and no other <“none but the brave deserves the fair” is a simple exclusive proposition>(Maccriam Webstar).
従って、
(01)により、
(02)
① AはBであって、A以外はBでない。
といふ「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」とする。
然るに、
(03)
① BはAである。⇔
① A以外はBでない。
は、「対偶」である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① AはBであって、BはAである(A以外はBでない)。
といふ「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」とする。
然るに、
(05)
① AはBである。⇔
① AはBであって、BはAである。
であるならば、
① 逆は必ずしも真ならず(The opposite is not always true)。
といふことには、ならない。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① AはBである。
と言ふ場合は、
② 逆が真でない場合として、
② AはBであるが、BはAはない
① 逆も真である場合として、
① AはBであって、BはAである(A以外はBでない)。
といふ、「二通り」が有る。
然るに、
(07)
「論語」といふ世界にあって、
{先生}={孔子}
{弟子}={顏淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓、宰我、子貢、冉有、季路、子游、子夏、他、約三千人。}
である。
従って、
(06)(07)により、
(08)
「論語」といふ世界にあって、
① 孔子は先生である。
といふことは、
① 先生は孔子である(孔子以外は先生ではない)。
といふことに、他ならない。
従って、
(09)
「論語」といふ世界にあって、
① 誰が先生か。
と言へば、
① 孔子が先生である。
然るに、
(10)
① 誰が先生か。
といふ「日本語」に対して、
① 誰は先生か。
といふ「日本語」は、絶対に有り得ない。
従って、
(06)~(10)により、
(11)
Q:誰が先生か。
A:孔子が先生である。
といふことは、
A:孔子が先生である。
といふ「日本語」が、「排他的命題」である。
といふことを、意味してゐる。
然るに、
(12)
① 子為誰(子は誰となす)。
① 誰為先生(誰をか先生となす)。
といふ「漢文」を、「そのままの順」で、「英語」に置き換へると、
① You are who.
Who is teacher.
然るに、
(13)
漢語としての「通常の語順」を変えて、「目的語の疑問詞」を「前置」することは、疑問文において、その疑問の中心になっている「疑問詞」を、特に「強調」したものにちがいない。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、334・5頁)
cf.
WH移動(疑問文)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
① 子為(あなたは誰か)。
に対する、
為先生(誰が先生か)。
の場合は、
①「疑問詞(誰)」を「前置」する所の、「強調形」である。
然るに、
(15)
① 誰が先生か。
① 誰は先生か*
に於いて、
① 誰が の「」は、「濁音」であって、
① 誰は の「は」は、「清音」である。
然るに、
(16)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます。
(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)
従って、
(15)(16)により、
(17)
① 誰が先生か。
① 誰は先生か*
に於いて、
① 誰は に対する、
① 誰が は、「濁音による、強調形」である。
従って、
(14)(17)により、
(18)
① 誰為先生。
① 誰が先生か。
に於いて、
① 誰為 は、「前置」による「強調形」であって、
① 誰 は、「濁音」による「強調形」である。
然るに、
(19)
① これは、私のです。
① This is mine.
と言ふ場合に、
① 私の(mine)
を「強く発音(強調)」すると、
① これは、私のものであって、
① 私以外の、ものではない。
① This is mine, not yours.
といふ「意味」になる。
従って、
(19)により、
(20)
「強調形」は、必然的に、「排他的命題」を主張する。
従って、
(18)(20)により、
(21)
① 誰が は、「濁音」による「強調形」であって、「強調形」は、必然的に、「排他的命題」を主張する。
従って、
(04)(21)により、
(22)
① AがBである=
① AはBであって、BはAである(A以外はBでない)。
といふ「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」とする。
然るに、
(23)
② CはBである。
② AもBである。
とすれば、
② A以外の、CもBである。
従って、
(22)(23)により、
(24)
① AがBである。
② AもBである。
に於いて、
①と②は、「矛盾」する。
従って、
(22)(24)により、
(25)
② 人間は動物である。
② 人間も動物である。
といふ「命題」が、「真(本当)」であるならば、
① 人間が動物である。
① 動物は人間である。
① 人間以外は動物ではない。
といふ「命題」は、「偽(ウソ)」でなければ、ならない。
然るに、
(26)
② 人間は動物である。
② 人間も動物である。
いふ「命題」は、「真(本当)」であって、
① 人間が動物である。
① 動物は人間である。
① 人間以外は動物ではない。
といふ「命題」は、「偽(ウソ)」である。
然るに、
(27)
①{桜と、電車と、人間と、テレビと、スマホ}といふ、
①{それ}に限って言へば、
① 人間が動物である。
① 動物は人間である。
① 人間以外は動物ではない。
といふ「命題」は、「真(本当)」である。
従って、
(28)
① 人間が動物である。
① 動物は人間である。
① 人間以外は動物ではない。
といふ「命題」が、「偽(ウソ)」である。
とされる「理由」は、
①{桜と、電車と、人間と、テレビ、スマホ}といふ、
①{それ}を「想定」してゐないが、ためである。
然るに、
(29)
②{地球}に、ゾウといふ動物は存在するし、
②{地球}に、ゾウ以外の動物も存在する。
(30)
②{井之頭動物園}に、ゾウはゐなくとも、
②{井之頭動物園}に、ゾウ以外の動物は存在する。
従って、
(29)(30)により、
(31)
②{地球、井之頭動物園}といふ{場所}を「想定」する限り、
② ゾウは動物である。
② ゾウも動物である。
といふ「命題」は「真(本当)」であって、
② ゾウが動物である。
② 動物はゾウである。
② ゾウ以外は動物ではない。
といふ「命題」は「偽(ウソ)」である。
従って、
(31)により、
(32)
② ゾウがゐる=
② ゐるのはゾウであって、
② ゾウ以外はゐない。
と言へるためには、
②{今、目の前に}ゾウがゐる。
②{今、目の前に}ゐるのはゾウである。
②{今、目の前に}ゾウ以外はゐない。
といふ風に、
②{時間と場所}を限定する、必要がある。
従って、
(29)(30)(32)により、
(33)
②{地球上に、}  ゾウはゐる。
②{その動物園に、}ゾウはゐますか?
②{ほら、あそこに}ゾウがゐるよ。
といふ、ことになる。
然るに、
(34)
②{ゾウの集合}は、
②{世界中にゐる、ゾウの全体}である。
従って、
(33)(34)により、
(35)
② ゾウがゐるよ。
に於ける、
② ゾウ が、{ゾウといふ集合の要素}である。
のに対して、
③ ゾウは鼻が長い。
③ ゾウは動物である。
に於ける、
③ ゾウ は、{ゾウといふ動物の集合}である。
然るに、
(36)
④{ゾウ、キリン、カバ}といふ{動物の集合}に於いて、
に於いて、
④ ゾウ  の鼻は長い。
④ キリンの鼻は長くない。
④ カバ  の鼻も長くない。
④ キリンの首は長い。
④ ゾウ  の首は長くない。
④ カバ  の首も長くない。
従って、
(36)により、
(37)
④{ゾウ、キリン、カバ}
に於いて、
④ 鼻は、ゾウ  が長く(、ゾウ以外 の鼻は長くない)。
④ 首は、キリンが長く(、キリン以外の首は長くない)。
④ ゾウ  が、鼻が長く(、ゾウ以外 の鼻は長くない)。
④ キリンが、首が長く(、キリン以外の首は長くない)。
従って、
(37)により、
(38)
④ 鼻は、ゾウ  長い。
④ 首は、キリン長い。
④ ゾウ 、鼻長い。
④ キリン、首長い。
と言ふのであれば、
④{鼻}={ゾウの鼻、キリンの鼻、カバの鼻
④{首}={キリンの首、ゾウの首、カバの首
といふ、ことになる。
従って、
(38)により、
(39)
④ 鼻は、ゾウ  が長い。
④ 首は、キリンが長い。
④ ゾウ が、鼻が長い。
④ キリンが、首が長い。
と言ふのであれば、この場合は、
③{ゾウ}
といふ{集合}ではなく、
④{ゾウ、キリン}
④{ゾウ、キリン、カバ}
といふ{集合}を「意識」してゐる。
従って、
(39)により、
(40)
③ ゾウは、鼻が長い。
と言ふ場合は、
③{ゾウ}といふ{集合}だけを「意識」してゐて、
④{ゾウ、キリン、カバ、ライオン、シマウマ、ティラノサウルス}といふ{集合}を、「意識」してゐない。
従って、
(22)(40)により、
(41)
③ ゾウは鼻が長い。
といふ「日本語」は、
③{ゾウ}といふ{集合}だけ「意識」した上で、
③ ゾウは、鼻が長い=
③ ゾウは、鼻は長く、
③ ゾウは、鼻以外は長くない。
といふ風に、述べてゐる。
従って、
(41)により、
(42)
ワタシ(日本人)が、今、
③ ゾウは
と言へば、その時点で、
ワタシ(日本人)が、
③{ゾウ}だけを「意識」してゐる。
といふことを、
アナタ(日本人)は、「知ってゐる」。
然るに、
(43)
③ ゾウは鼻は長い。
といふことと、
③ ゾウは牙も長い。
といふことは、「矛盾」しない。
従って、
(44)
③ ゾウは、鼻だけが、とても長い。
といふ風にだけ、言ひたいのであれば、
③ ゾウは鼻は長い。
とは言はずに、
③ ゾウは鼻が長い。
といふ風に、言ふべきである。
(45)
⑤ ガロアには時間が無い=
⑤ ガロアには、時間は無く、
⑤ ガロアには、時間以外ならば(特には)不足は無い。
といふ「意味」である。
(46)
「他ならぬ」の「ぬ」は、「ず」の「連体形」である。
cf.
ず ず ず ぬ ね ○
従って、
(47)
「他ならぬ」=「~以外でない所の」は、「排他的命題の、連体形」である。
従って、
(22)(47)により、
(48)
⑥ Aが=(他ならぬ)Aが
であることも、可能である。
然るに、
(49)
 マリリンモンローがディマジオと結婚!
のような見出しが女性週刊誌を賑わすのは、ガによってその上の体言を未知扱いにし、まったく驚いた、新しい情報だぞ!と読者に迫る手法である(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、41頁)。
従って、
(48)(49)により、
(50)
⑥ マリリンモンロー結婚。
といふ「言ひ方」は、
⑥(他ならぬ)マリリンモンローが結婚。
といふ「意味」に、「解釈」することも、可能である。
従って、
(51)
 既知(旧情報)
 未知(新情報)
であるとは、限らない。
cf.
会話の中や文脈で、主格となる名詞が未知(=新情報)の場合は「が」を使って表し、既知(=旧情報)の場合は「は」を使って表すという基準である(「が」の使い分け - 日本語教師のページ 用語検索マンボウ)。
(52)
 吾輩は猫である。
がある。「吾輩は」といふ発言は檀上の人が聴衆に演説する口調である。自分の姿が檀上にあって、相手も見て知っている場合に使う(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、25頁)。
然るに、
(53)
電話で話す場合は、「相手も見て知っている」とは言へない。にも拘はらず、初めて電話をする相手に対して、
 もしもし、私が大野です。
とは、言はない。
(54)
⑦ I am a cat=
⑦ 吾輩は猫である。
といふのは、
⑦ 吾輩は{猫}といふ{集合}の{一つの要素}である。
といふ「意味」である。
然るに、
(55)
⑦ I am a cat.
ではなく、
⑦ I am the cat.
であれば、
⑦ I=the cat
⑦ The cat=I
である。
従って、
(22)(55)により、
(56)
⑦ 吾輩がその猫(the cat)である=
⑦ 吾輩はその猫(the cat)であって、
⑦ その猫(the cat)は我輩である=
⑦ 吾輩以外にその猫(the cat)はいない。
といふ、ことになる。
従って、
(54)(55)(56)により、
(57)
⑦ 吾輩猫である。名前はまだ無い。
であって、
⑦ 吾輩猫である。名前はまだ無い。
でない「理由」は、
⑦ I am a cat.
であって、
⑦ I am the cat.
ではないからである。
然るに、
(29)~(32)により、
(58)
⑧ 猫がゐる=
⑧ ゐるのは猫であって、
⑧ 猫以外はゐない。
と言へるためには、
⑧(今、目の前に)猫がゐる。
⑧(今、目の前に)ゐるのは猫である。
⑧(今、目の前に)猫以外はゐない。
といふ、「意味」でなければならない。
従って、
(59)
⑧ There is a cat in the garden.
といふ「英語」は、普通は、
⑧ 庭に猫がゐる。
といふ「日本語」に、対応し、
⑧ 庭に猫はゐる。
といふ「日本語」には、対応しない。
(60)
⑧ 庭に猫がゐる=
⑧ 庭に猫はゐる(が、猫以外は、ゐない)。
に対して、
⑧ 庭に猫はゐる=
⑧ 庭に猫はゐる。
従って、
(60)により、
(61)
⑧ 庭に猫はゐる=
⑧ 庭に猫はゐる(が、猫以外は、ゐるか、いないか分からない)。
従って、
(60)(61)により、
(62)
⑧ 猫以外は、ゐるか、いないか分からない。
といふことを、言ひたい場合は、
⑧ 庭に、猫はゐる。
といふ風に、言ふことになる。
(63)
【1】[が][の]
(1) 主語を示す。
 日の暮るるとき。 汝がさりし日。
(2) 連体修飾語を作る。
 夏草や兵どもの夢のあと。(芭蕉)
(3) 体言の代用をする。
 薬は、唐のはめでたし。 [訳]薬は中国のものがすばらしい。
 この歌、人麻呂がなり。 [訳]この歌は、人麻呂の歌である。
(4) 同格を示す。
 白き鳥の、嘴と足と赤き、水の上に遊びつつ魚を食ふ。(伊勢物語)
[訳]白い鳥で、口ばしと足が赤いのが、水の上を遊びながら魚を食べる。
(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、154頁改)
【26】[は]
他と区別して述べる意を表す。
 草の花はなでしこ。(徒然草)
[訳]草花は、なでしこがよい。
(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、194頁改)
従って、
(63)により、
(64)
⑨ 日が暮れる(現代文)。
に相当する、
⑨ 日の暮る(古文)。
⑨ 日が暮る(古文)。
といふ「日本語」は無く、その代はりに、
⑨ 日が暮れるとき(現代文)。
に相当する、
⑨ 日の暮るるとき(古文)。
⑨ 日が暮るるとき(古文)。
といふ「日本語」が、有った。
然るに、
(65)
⑨ 日が暮るるとき(古文)。
といふ「日本語」と、
⑨ 父が晩酌するとき(現代文)。
といふ「日本語」は、「並列・可能」である。
従って、
(64)(65)により、
(66)
主格が文末まで係るときは「は」を用いて、節の中だけにしか係らないときは「が」を用いるということを基準にして使い分ける方法がある。
 ・父が晩酌をするとき、つきあう。
 ・父は晩酌をするとき、冷や奴を食べる。
(「が」の使い分け - 日本語教師のページ 用語検索マンボウ)
に於ける、
⑨ 父が晩酌するとき(現代文)。
⑨ 父が晩酌するとき、つきあう(現代文)。
といふ「現代文」は、
⑨ 日が暮るるとき(古文)。
といふ「古文」から「派生」したと、すべきである。
(67)
⑩ 春はあけぼの。 
これだけで、春はあけぼのに限るとか、春のながめはあけぼのが第一だ、というような気持ちを言外にこめた、いわゆる体言止めの完全な文となっている(三省堂、新明解古典シリーズ4、1990年、3頁改)。
従って、
(67)により、
(68)
⑩ 春はあけぼの(古文)。
といふ「日本語」に加へて、
⑩ 春はたそかれ(古文)。
⑩ 春は日の暮るるとき(古文)。
といふ「日本語」は有り得た、はずである。
然るに、
(67)(68)により、
(69)
⑩ 春は日の暮るるとき(古文)。
⑩ 春は日が暮るるとき(古文)。
といふ「日本語」と、
⑩ 春は日が暮れるとき(現代文)。
といふ「日本語」は、「並列・可能」である。
然るに、
(70)
⑩ 春は日が暮るるとき(古文)。
といふ「日本語」と、
⑩ 父は日が暮るるとき(古文)。
⑩ 父は晩酌をするとき(現代文)。
といふ「日本語」は、「並列・可能」である。
従って、
(67)~(70)により、
(71)
⑩ 春は日が暮れるとき(現代文)。
⑩ 父は晩酌をするとき(現代文)。
⑩ 父は晩酌をするとき、冷や奴を食べる(現代文)。
といふ「現代文」は、
⑩ 春はたそかれ(古文)。
⑩ 春は日の暮るるとき(古文)。
⑩ 春は日が暮るるとき(古文)。
といふ「古文」から「派生」したと、すべきである。
(72)
⑩ 父は晩酌をするとき、冷や奴を食べる(現代文)。
⑩ 晩酌をするとき、父は冷や奴を食べる(現代文)。
に於ける、
⑩ 晩酌をするとき、
は、「副詞句」である。
従って、
(72)により、
(73)
⑩ 父は晩酌をするとき、冷や奴を食べる(現代文)。
⑩ 晩酌をするとき、父は冷や奴を食べる(現代文)。
に於いて、
⑩ 父は の、「述語」は、「文末」の、
⑩ 食べる。 である。
然るに、
(74)
⑨ 父が晩酌するとき、私もつきあう(現代文)。
に於いて、
⑨ 父が の、「述語」は、「文中」の、
⑩ 晩酌する。 である。
(75)
⑨ 日の暮るるとき(古文)。
⑨ 日が暮れるとき(現代文)。
は、二つとも、
⑨ 体言+格助詞+連体形+体言。
⑨ 体言+格助詞+連体形+体言。
である。
(76)
⑨ 我が書きし本(古文)。
⑨ 私が書いた本(現代文)。
も、二つとも、
⑨ 体言+格助詞+連体形+体言。
⑨ 体言+格助詞+連体形+体言。
である。
然るに、
(77)
この場合の、
⑨ 我が(古文)。
⑨ 私が(現代文)。
は、二つとも、
⑨ 我が=My
⑨ 私が=My
である。
cf.
我が国=My country.
我が家=Our house is very fine house.
我らが祖国=Our country.
然るに、
(78)
⑨ 私は≠My
であって、
⑨ 私は=I
である。
従って、
(76)(77)(78)により、
(79)
⑨ 我が書きし本(古文)。
⑨ 私が書いた本(現代文)。
に対して、
⑨ 我は書きし本(古文)。
⑨ 私は書いた本(現代文)。
といふ「日本語」は、存在しない。
平成28年06月26日、毛利太。
―「関連記事」―
「は」と「が」:「強調形」と「排他的命題」と「対偶」と「仮言命題」。http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_4.html

2016年6月16日木曜日

「交換法則」と「漢文訓読」。

―「06月13日の記事」を書き直します。―
(01)
⑧ 60349=
⑧ 1+60348=
⑧ 1+12×{5029}=
⑧ 1+12×{2+5027}=
⑧ 1+12×{2+11×[457]}=
⑧ 1+12×{2+11×[287+170]}=
⑧ 1+12×{2+11×[7×〔41〕+170]}=
⑧ 1+12×{2+11×[7×〔35+6〕+170]}=
⑧ 1+12×{2+11×[7×〔5×(7)+6〕+10×(17)]}=
⑧ 1+12×{2+11×[7×〔5×(3+4)+6〕+10×(8+9)]}
(02)
⑧ 60349=
⑧ 1+60348=
⑧ 1+{5029}×12=
⑧ 1+{2+5027}×12=
⑧ 1+{2+[457]×11}×12=
⑧ 1+{2+[287+170]×11}×12=
⑧ 1+{2+[〔41〕×7+170]×11}×12=
⑧ 1+{2+[〔35+6〕×7+170]×11}×12=
⑧ 1+{2+[〔(7)×5+6〕×7+(17)×10]×11}×12=
⑧ 1+{2+[〔(3+4)×5+6〕×7+(8+9)×10]×11}×12
従って、
(01)(02)により、
(03)
⑧ 1+12×{2+11×[7×〔5×(3+4)+6〕+10×(8+9)]}=
⑧ 1+{2+[〔(3+4)×5+6〕×7+(8+9)×10]×11}×12。
cf.
交換法則(こうかんほうそく、英: Commutative property) は数学における法則の一つ。可換則(かかんそく)ともいう(ウィキペディア)。
従って、
(04)
「16進数」であれば、
⑧ 1+C×{2+B×[7×〔5×(3+4)+6〕+A×(8+9)]}=
⑧ 1+{2+[〔(3+4)×5+6〕×7+(8+9)×A]×B}×C。
である。
然るに、
(05)
【問題】  次の式を展開しなさい。
(ア)8(y-5) (イ)-3(x+2) (ウ)(3a+b)6a
従って、
(04)(05)により、
(06)
⑧ 1+C{2+B[7〔5(3+4)+6〕+A(8+9)]}=
⑧ 1+{2+[〔(3+4)5+6〕7+(8+9)A]B}C。
である。
従って、
(07)
⑧ 我 不 必 求 以 解 英 文 法 解 漢 文=
⑧ 1 C 2 B 7 5 3 4 6 A 8 9。
であるとして、
⑧ 我+不{必+求[以〔解(英+文)+法〕+解(漢+文)]}=
⑧ 我+{必+[〔(英+文)解+法〕以+(漢+文)解]求}不。
である。
従って、
(08)
「+」を「省略」すると、
⑧ 我不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}=
⑧ 我{必[〔(英文)解法〕以(漢文)解]求}不。
である。
然るに、
(09)
⑧ 我不必求以解英文法解漢文。
であれば、
⑧ 我不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}。
といふ「括弧」による、
解( )⇒( )解
以〔 〕⇒〔 〕以
解( )⇒( )解
求[ ]⇒[ ]求
不{ }⇒{ }不
といふ「並び替へ(ソート)」によって、
⑧ 我不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}=
⑧ 1C{2B[7〔5(34)6〕A(89)]}⇒
⑧ 1{2[〔(34)56〕7(89)A]B}C=
⑧ 我{必[〔(英文)解法〕以(漢文)解]求}不=
⑧ 我{必ずしも[〔(英文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
然るに、
(10)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、二九六頁)
従って、
(09)(10)により、
(11)
⑧ 我不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}。
に於いて、
⑧   {  [ 〔 (  ) 〕 (  )]}
といふ「括弧」は、「補足構造」を表してゐる。
然るに、
(12)
① 読×(書)。
② 聞×(鳥+啼)。
③ 聞×〔鳥+啼×(梅+樹)〕。
④ 聞×〔鳥+啼×(梅+樹)+声〕。
⑤ 如×〔揮×(快+刀)+断×(乱麻)〕。
⑥ 欲×[得×〔備×(学+徳)+者〕+友×(之)]。
⑦ 求×[以×〔解×(英文)+法〕+解×(漢文)]。
⑧ 我+不×{必+求×[以×〔解×(英+文)+法〕+解×(漢+文)]}。
⑨ 人+有×〈喜×{与×[不×〔如×(己)〕+者]+為×(友)}+心〉。
⑩ 取‐捨‐選‐択×(書+物)。
① (書)×読。
② (鳥+啼)×聞。
③ 〔鳥+(梅+樹)×啼〕×聞。
④ 〔鳥+(梅+樹)×啼+声〕×聞。
⑤ 〔(快+刀)×揮+(乱麻)×断〕×如。
⑥ [〔(学+徳)×備+者〕×得+(之)×友]×欲。
⑦ [〔(英文)×解+法〕×以+(漢文)×解]×求。
⑧ 我+{必+[〔(英+文)×解+法〕×以+(漢+文)×解]×求}×不。
⑨ 人+〈{[〔(己)×如〕×不+者]×与+(友)×為}×喜+心〉×有。
⑩ (書+物)×取‐捨‐選‐択。
は、「交換法則」である。
従って、
(13)
① 読(書)。
② 聞(鳥啼)。
③ 聞〔鳥啼(梅樹)〕。
④ 聞〔鳥啼(梅樹)声〕。
⑤ 如〔揮(快刀)断(乱麻)〕。
⑥ 欲[得〔備(学徳)者〕友(之)]。
⑦ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]。
⑧ 我不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}。
⑨ 人有〈喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}心〉。
⑩ 取‐捨‐選‐択(書物)。
① (書)読。
② (鳥啼)聞。
③ 〔鳥(梅樹)啼〕聞。
④ 〔鳥(梅樹)啼声〕聞。
⑤ 〔(快刀)揮(乱麻)断〕如。
⑥ [〔(学徳)備者〕得(之)友]欲。
⑦ [〔(英文)解法〕以(漢文)解]求。
⑧ 我{必[〔(英文)解法〕以(漢文)解]求}不。
⑨ 人〈{[〔(己)如〕不者]与(友)為}喜心〉有。
⑩ 取‐捨‐選‐択(書物)。
は、「交換法則」である。
従って、
(14)
① 読(書)。
② 聞(鳥啼)。
③ 聞〔鳥啼(梅樹)〕。
④ 聞〔鳥啼(梅樹)声〕。
⑤ 如〔揮(快刀)断(乱麻)〕。
⑥ 欲[得〔備(学徳)者〕而友(之)]。
⑦ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]。
⑧ 我不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}。
⑨ 人有〈喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}之心〉。
⑩ 取‐捨‐選‐択(書物)。
① (書)読。
② (鳥啼)聞。
③ 〔鳥(梅樹)啼〕聞。
④ 〔鳥(梅樹)啼声〕聞。
⑤ 〔(快刀)揮(乱麻)断〕如。
⑥ [〔(学徳)備者〕得(之)友]欲。
⑦ [〔(英文)解法〕以(漢文)解]求。
⑧ 我{必[〔(英文)解法〕以(漢文)解]求}不。
⑨ 人〈{[〔(己)如〕不者]与(友)為}喜之心〉有。
といふ「交換法則」が、成り立たない場合は、
① (書を)読む。
② (鳥の啼くを)聞く。
③ 〔鳥の(梅樹に)啼くを〕聞く。
④ 〔鳥の(梅樹に)啼く声を〕聞く。
⑤ 〔(快刀を)揮って(乱麻を)断つが〕如し。
⑥ [(学徳を)備ふる者を得而(之を)友とせんと]欲す。
⑦ [(英文を)解するを法以て(漢文を)解せんことを]求む。
⑧ 我{必ずしも[〔(英文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
⑨ 人に〈{[〔(己に)如か〕不る者]与(友と)為るを}喜ぶの心〉有り。は「交換法則」である。
といふ「漢文訓読」も、成立しない。
(15)
② 聞×(鳥+啼)。
③ 聞×〔鳥+啼×(梅+樹)〕。
④ 聞×〔鳥+啼×(梅+樹)+声〕。
⑧ 我+不×{必+求×[以×〔解×(英+文)+法〕+解×(漢+文)]}。
⑨ 人+有×〈喜×{与×[不×〔如×(己)〕+者]+為×(友)}+心〉。
に於いて、
② 鳥+
③ 鳥+
④ 鳥+
⑧ 我+
⑨ 人+
は、「主語」である。
然るに、
(16)
⑧ 我+不×{必+求×[以×〔解×(英+文)+法〕+解×(漢+文)]}。
であれば、
⑧ 我+ は、
⑧ 不× といふ「叙述語」を、「修飾」し、
⑧ 不× といふ「叙述語」は、
⑧ {必+求×[以×〔解×(英+文)+法〕+解×(漢+文)]}に、係ってゐる。
従って、
(16)により、
(17)
⑧ 我+不×{必+求×[以×〔解×(英+文)+法〕+解×(漢+文)]}。
に於いて、
⑧ 我+ は、
⑧ 不×{必+求×[以×〔解×(英+文)+法〕+解×(漢+文)]}。に、係ってゐる。
従って、
(18)
⑪ 我+ 聞×〔鳥+啼×(梅+樹)〕。
であれば、
⑪ 我+ は、
⑪ 聞×〔鳥+啼×(梅+樹)〕。に係ってゐて、
⑪ 鳥+ は、
⑪ 啼×(梅+樹)に、係ってゐる。
(19)
③ 梅+樹
に於いて、
③ 梅+ は、
③「連体修飾語」である。
(20)
④ 鳥+啼×(梅+樹)+声
に於いて、
④ 鳥+啼×(梅+樹)+ は、
④「連体修飾節」である。
然るに、
(21)
④ 啼×(梅+樹)+声
であっても、
④ 鳥+ 等が、「省略」されてゐるはずなので、
④ 啼×(梅+樹)+ も、「句」ではなく、「節」である。
(22)
⑥ 欲×[得×〔備×(学+徳)+者〕+友×(之)]。
に於いて、
⑥ +友×(之) の「+」は、「而(接続詞)」である。
従って、
(23)
⑥ 欲[得〔備(学徳)者〕友(之)]。
の場合は、
⑥ 欲[得〔備(学徳)者〕+友(之)]。
⑥ 欲[得〔備(学徳)者〕而友(之)]。
である。
(24)
⑧ 我+不×{必+求×[以×〔解×(英+文)+法〕+解×(漢+文)]}。
に於いて、
⑧ 必+ は、「連用修飾語」であって、
⑧ 解×(英+文)+ は、「連体修飾節」であって、
⑧ 必+求×[以×〔解×(英+文)+法〕+ は、「連用修飾節」である。
(25)
⑨ 人+有×〈喜×{与×[不×〔如×(己)〕+者]+為×(友)}+心〉。
に於いて、
⑨ 喜×{与×[不×〔如×(己)〕+者]+為×(友)}+ は、「連体修飾節」である。
平成28年06月16日、毛利太。
―「関連記事」―
『括弧・返り点』の研究(Ⅱ)。http://kannbunn.blogspot.com/2016/04/blog-post_24.html

2016年6月15日水曜日

「句読点」と「括弧」と「分配法則」。

―「06月13日の記事」を書き換へます。―
(01)
「分配法則」により、
①(A&B)∨(A&C)
② A&(B∨C)
④(A∨B)&(A∨C)
⑤ A∨(B&C)
に於いて、
①=② であって、
④=⑤ である。
然るに、
(02)
② A&(B∨C)
③(A&B)∨C
⑤ A∨(B&C)
⑥(A∨B)&C
に於いて、
② 0&(0∨1)=0&1=0
③(0&0)∨1 =0∨1=1
⑤ 1∨(1&0)=1∨0=1
⑥(1∨1)&0 =1&0=0
である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
①(A&B)∨(A&C)
② A&(B∨C)
③(A&B)∨C
④(A∨B)&(A∨C)
⑤ A∨(B&C)
⑥(A∨B)&C
に於いて、
①=② であって、
④=⑤ であるが、
①≠③ であって、
④≠⑥ である。
然るに、
(04)
& = と(そして)
∨ = か(または)
である。
従って、
(03)(04)により、
(05)
①(AとB)か(AとC)
② Aと(BかC)
③(AとB)かC
④(AかB)と(AかC)
⑤ Aか(BとC)
⑥(AかB)とC
に於いて、
①=② であって、
④=⑤ であるが、
①≠③ であって、
④≠⑥ である。
然るに、
(06)
① AとBか、AとC。
② Aと、BかC。
③ AとBか、C。
④ AかBと、AかC。
⑤ Aか、BとC。
⑥ AかBと、C。
とする。
然るに、
(07)
①「AとBか、AとC」が必要である。
といふのであれば、すなはち、
①「AとB」か、
①「AとC」が、必要である。
といふのであれば、いづれにせよ、
①「A」は必要である。が、
①「BとC」は、どちら一方が、無くとも、構はない。
然るに、
(08)
②「Aと、BかC」が必要である。
といふのであれば、すなはち、
②「A」と、
②「BかC」が必要である。
といふのであれば、いづれにせよ、
②「A」は必要である。が、
①「BとC」は、どちら一方が、無くとも、構はない。
然るに、
(09)
③「AとBか、C」が必要である。
といふのであれば、すなはち、
③「AとB」か、
③「C」が必要である。
といふのであれば、
③「C」が有れば、「AとB」は、不要、それ故、
③「A」は無くとも良い。
従って、
(07)(08)(09)により、
(10)
①「A」は必要である。
②「A」は必要である。
③「A」は無くとも良い。
従って、
(10)により、
(11)
① AとBか、AとC。
② Aと、BかC。
③ AとBか、C。
に於いて、
①=② であるが、
①≠③ である。
(12)
④「AかBと、AかC」が必要である。
といふのであれば、すなはち、
④「AかB」が必要であり、
④「AかC」が必要である。
といふのであれば、
④「A」が有れば、「B」は、無くとも良い。
④「A」が有れば、「C」は、無くとも良い。
然るに、
(13)
⑤「Aか、BとC」が必要である。
といふのであれば、すなはち、
⑤「A」か、
⑤「BとC」が必要である。
といふのであれば、
⑤「A」が有れば、「B」は、無くとも良い。
⑤「A」が有れば、「C」は、無くとも良い。
然るに、
(14)
⑥「AかBと、C」が必要である。
といふのであれば、すなはち、
⑥「AかB」と、
⑥「C」が必要である。
といふのであれば、
⑥「A」が有っても、「C」は、必要であり、
⑥「B」が有っても、「C」は、必要である。
従って、
(12)(13)(14)により、
(15)
④「A」が有れば、 「C」は、無くとも良い。
⑤「A」が有れば、 「C」は、無くとも良い。
⑥「A」が有っても、「C」は、必要である。
従って、
(15)により、
(16)
④ AかBと、AかC。
⑤ Aか、BとC。
⑥ AかBと、C。
に於いて、
④=⑤ であるが、
④≠⑥ である。
従って、
(11)(16)により、
(17)
① AとBか、AとC。
② Aと、BかC。
③ AとBか、C。
④ AかBと、AかC。
⑤ Aか、BとC。
⑥ AかBと、C。
に於いて
①=② であって、
④=⑤ であるが、
①≠③ であって、
④≠⑥ である。
従って、
(05)(17)により、
(18)
「論理学の教科書」が「正しい」とすれば、
①(AとB)か(AとC)
② Aと(BかC)
③(AとB)かC
④(AかB)と(AかC)
⑤ Aか(BとC)
⑥(AかB)とC
に於いて、
①=② であって、
④=⑤ であるが、
①≠③ であって、
④≠⑥ である。
「日本語」が「論理的」であるとすれば、
① AとBか、AとC。
② Aと、BかC。
③ AとBか、C。
④ AかBと、AかC。
⑤ Aか、BとC。
⑥ AかBと、C。
に於いて、
①=② であって、
④=⑤ であるが、
①≠③ であって、
④≠⑥ である。
従って、
(18)により、
(19)
①(AとB)か(AとC)
② Aと(BかC)
③(AとB)かC
④(AかB)と(AかC)
⑤ Aか(BとC)
⑥(AかB)とC
といふ「論理式」は、
① AとBか、AとC。
② Aと、BかC。
③ AとBか、C。
④ AかBと、AかC。
⑤ Aか、BとC。
⑥ AかBと、C。
といふ「日本語」に等しい。
従って、
(19)により、
(20)
① AとBか、AとC。
② Aと、BかC。
③ AとBか、C。
④ AかBと、AかC。
⑤ Aか、BとC。
⑥ AかBと、C。
に於ける、
①     、   。
②   、   。
③     、 。
④     、   。
⑤   、   。
⑥     、 。
といふ「句読点」は、
①(AとB)か(AとC)
② Aと(BかC)
③(AとB)かC
④(AかB)と(AかC)
⑤ Aか(BとC)
⑥(AかB)とC
に於ける、
①(   ) (   )
②   (   )
③(   )
④(   ) (   )
⑤   (   )
⑥(   )
といふ「括弧」に相当する。
然るに、
(21)
近代に入って活字の使用が増え始めると、明治20年代から明治30年代以降、日本語での句読点の使用が徐々に現れはじめた(ウィキペディア)。
江戸時代以前の文献では見られないため、明治維新辺りの時期に輸入されたものと想像されるが、日本語には鉤括弧が先にあったとする説もある(鉤括弧参照)。詳細は不明(ウィキペディア)。
従って、
(21)により、
(22)
① AとBか、AとC。
② Aと、BかC。
③ AとBか、C。
④ AかBと、AかC。
⑤ Aか、BとC。
⑥ AかBと、C。
①(AとB)か(AとC)
② Aと(BかC)
③(AとB)かC
④(AかB)と(AかC)
⑤ Aか(BとC)
⑥(AかB)とC
に於ける、
①     、   。
②   、   。
③     、 。
④     、   。
⑤   、   。
⑥     、 。
①(   ) (   )
②   (   )
③(   )
④(   ) (   )
⑤   (   )
⑥(   )
といふ「句読点・括弧」は、「昔は無かった」。
しかしながら、
(23)
① AとBか AとC
④ AかBと AかC
に於いて、
①「AとB」は「一つのまとまり」、「AとC」も「一つのまとまり」。
④「AかB」は「一つのまとまり」、「AかC」も「一つのまとまり」。
といふ「意識」を持つことは、「昔から有った」と、すべきである。
然るに、
(24)
例へば、
⑦ 7〔3(1+2)+6(4+5)〕
⑦ 如〔揮(快 刀) 断(乱 麻)〕
といふ「括弧」が示す、「〔まとまり〕と、〔まとまり〕の中の(まとまり)」を、「句読点」で、表すことは、出来ない。
従って、
(23)(24)により、
(25)
① AとB か、AとC。
④ AとB か、AとC。
に於ける、
①      、   。
④      、   。
といふ「句読点」と、
①(   ) (   )
④(   ) (   )
といふ「括弧」の場合は、「等しい」ものの、「括弧」と「句読点」は、「同じ」ではない。
(26)
⑦ 7〔3(1+2)+6(4+5)〕=
⑦ 〔(1+2)3+(4+5)6〕7。
⑦ 如〔揮(快 刀) 断(乱 麻)〕=
⑦〔(快 刀)揮  (乱 麻)断〕如。
といふ「括弧」は、我々が持ってゐる、「まとまりと、まとまりの中の、まとまり」といふ「意識」を、表はしてゐる。
従って、
(27)
我々人類が、「文の中の、まとまりと、まとまりの中の、まとまり」といふ「意識」を持つやうになった時点で、「括弧」は、存在する。
平成28年06月15日、毛利太。
―「関連記事」―
「括弧(句読点)」は必ずあります。http://kannbunn.blogspot.com/2016/06/blog-post_3.html


2016年6月7日火曜日

「白文訓読」法(読書は看書に如かず)。

―「白文」を読む方法を、具体的に、説明します。―
(01)
「返り点や、送り仮名がついていない漢文」、すなはち、中国人が言ふ所の「文言文(文語体)」を「白文」とする。
然るに、
(02)
文語体と口語体の区別は、もし簡便な基準を探すとなれば、それは耳で聞いてわかるのが口語体で、目で見なければわからないのが文語体だ、といえる。(「開明文言読本」開明書店、1948、導言)呂叔湘氏は人も知る「中國文法要略」(商務印書館、1942)の著者であり、解放後は中國科学院言語研究所長を勤めている超一流の言語学者であり、文化人である(牛島徳次、中國語の学び方、1977年、60頁)。
然るに、
(03)
「目で見なければわからないのが文語体だ、といえる。」といふのであれば、
① 有備無患。
② 聞鳥啼。
③ 聞鳥啼梅樹。
④ 聞鳥啼梅樹声。
⑤ 如揮快刀断乱麻。
⑥ 欲得備学徳者友之。
⑦ 求以解英文法解漢文。
⑧ 我不必求以解英文法解漢文。
⑨ 人有喜与不如己者為友之心。
⑩ 取捨選択書物。
といふ「漢文」を、
① Yǒubèiwúhuàn.
② Wén niǎo tí.
③ Wén niǎo tí méi shù.
④ Wén niǎo tí méi shù shēng.
⑤ Rú huī kuàidāo duàn luànmá.
⑥ Yù dé bèi xuédé zhě yǒuzhī.
⑦ Qiú yǐ jiě yīngwén fǎ jiě hànwén.
⑧ Wǒ bùbì qiú yǐ jiě yīngwén fǎ jiě hànwén.
⑨ Rén yǒuxǐ yǔ bùrú jǐ zhě wéi yǒuzhī xīn.
⑩ Qǔshě xuǎnzé shūwù.
といふ風に、「千遍、声に出して読んでゐる間」であっても、結局は、「目で見て、理解してゐる。」といふことになる。
然るに、
(04)
「目で見て、理解してゐる。」といふのであれば、
書を読むは書に看るに如かず(音読は看書よりも劣ってゐる)。」といふことになる。
然るに、
(05)
徂徠は「題言十則」のなかで以下のように述べている。
中華の人多く言へり、「読書、読書」と。予は便ち謂へり、書を読むは書を看るに如かず、と。此れ中華と此の方との語言同じからざるに縁りて、故に此の方は耳口の二者、皆な力を得ず、唯だ一双の眼のみ、三千世界の人を合はせて、総て殊なること有ること莫し。
ここでの「読書」は、文脈からして音読であろう(勉誠出版、「訓読」論、2008年、27・244頁)。
従って、
(04)(05)により、
(06)
荻生徂徠は、「(三千世界の人類である限り、)音読は、目読(黙読)よりも劣ってゐる。」といふ風に、述べてゐる。
然るに、
(07)
漢文は読む前に見ることが大切。パズルなんだから。パッと見る、そしてフィーリングというか、造形的センスというか、そこに美的な配列があることを見てとってほしい。そこからパズルゲームが始まる(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、323頁)。
従って、
(08)
二畳庵主人も、「漢文は読むよりも、見ることが大切である。」といふ風に、述べてゐる。
然るに、
(09)
徂徠は、書を千遍読めば意味はおのずとわかる(「読書千遍、其義自見」)とはどういうことか、幼時にはわからなかったと云う。意味がわからないのに読めるはずがなく、読めればわかっているはずだと思ったからである(勉誠出版、続「訓読」論、2010年、17頁)。
従って、
(08)(09)により、
(10)
「漢文は読むよりも、見ることが大切である。」とは言っても、
① 有備無患。
② 聞鳥啼。
③ 聞鳥啼梅樹。
④ 聞鳥啼梅樹声。
⑤ 如揮快刀断乱麻。
⑥ 欲得備学徳者友之。
⑦ 求以解英文法解漢文。
⑧ 我不必求以解英文法解漢文。
⑨ 人有喜与不如己者為友之心。
⑩ 取捨選択書物。
といふ「漢文の意味」が分からなければ、固より、
① 備へ有れば患ひ無し。
② 鳥の啼くを聞く。
③ 鳥の梅樹に啼くを聞く。
④ 鳥の梅樹に啼く声を聞く。
⑤ 快刀を揮って乱麻を断つが如し。
⑥ 学徳を備ふる者を得て之を友とせんと欲す。
⑦ 英文を解するを法以て漢文を解せんことを求む。
⑧ 我必ずしも英文を解する法を以て漢文を解せんことを求めず。
⑨ 人に己に如かざる者と友と為るを喜ぶの心有り。
⑩ 書物を取‐捨‐選‐択す。
といふ風には、読めない。
然るに、
(11)

従って、
(11)により、
(12)
⑧ 我不必求以解英文法解漢文。
であれば、
⑧ 我不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}
といふ「括弧」による、
解( )⇒( )解
以〔 〕⇒〔 〕以
解( )⇒( )解
求[ ]⇒[ ]求
不{ }⇒{ }不
といふ「並び替へ(ソート)」によって、
⑧ 我不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}=
⑧ 1C{2B[7〔5(34)6〕A(89)]}⇒
⑧ 1{2[〔(34)56〕7(89)A]B}C=
⑧ 我{必[〔(英文)解法〕以(漢文)解]求}不=
⑧ 我{必ずしも[〔(英文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
① 有(備)無(患)。
② 聞(鳥啼)。
③ 聞〔鳥啼(梅樹)〕。
④ 聞〔鳥啼(梅樹)声〕。
⑤ 如〔揮(快刀)断(乱麻)〕。
⑥ 欲[得〔備(学徳)者〕友(之)]。
⑦ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]。
⑧ 我不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}。
⑨ 人有〈喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}之心〉。
⑩ 取‐捨‐選‐択(書物)。
といふ「漢文」に対して、
① (備へ)有れば(患ひ)無し。
② (鳥の啼くを)聞く。
③ 〔鳥の(梅樹に)啼くを〕聞く。
④ 〔鳥の(梅樹に)啼く声を〕聞く。
⑤ 〔(快刀を)揮って(乱麻を)断つが〕如し。
⑥ [(学徳を)備ふる者を得て(之を)友とせんと]欲す。
⑦ [(英文を)解するを法以て(漢文を)解せんことを]求む。
⑧ 我{必ずしも[〔(英文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
⑨ 人に〈{[〔(己に)如か〕不る者]与(友と)為るを}喜ぶの心〉有り。
⑩ (書物を)取‐捨‐選‐択す。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
然るに、
(14)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた(原田種成、私の漢文講義、1995年、56頁)。
従って、
(13)(14)により、
(15)
⑦ 欲 は[得備学徳者友之]に係ってゐて、
⑦ 得 は〔備学徳者〕に係ってゐて、
⑦ 備 は(学徳)に係ってゐて、
⑦ 友 は(之)に係ってゐる。
といふ「管到(補足構造)」が、分からなければ、
⑦ 欲得備学徳者友之。
といふ「漢文」は、日本人であっても、中国人であっても、「理解」出来ない。
従って、
(10)(12)(15)により、
(16)
① 有備無患。
② 聞鳥啼。
③ 聞鳥啼梅樹。
④ 聞鳥啼梅樹声。
⑤ 如揮快刀断乱麻。
⑥ 欲得備学徳者友之。
⑦ 求以解英文法解漢文。
⑧ 我不必求以解英文法解漢文。
⑨ 人有喜与不如己者為友之心。
⑩ 取捨選択書物。
といふ「白文」の中の、例へば、
⑦ 欲得備学徳者友之。
といふ「漢文の意味」が分からずに、「訓読」のしようが無い場合は、
⑦ 欲 は[何処までに]係ってゐて、
⑦ 得 は〔何処までに〕係ってゐて、
⑦ 備 は(何処までに)係ってゐて、
⑦ 友 は(何処までに)係ってゐる。
のか、といふことを、考へれば良い。
然るに、
(17)
漢文の基本構造
(一)主述関係 主語 ―述語
(二)修飾関係 修飾語―被修飾語
(三)補足関係 叙述語―補足語
(四)並列関係 並列語―並列語
(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、281~3頁、抜粋)
(18)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、二九六頁)。
従って、
(17)(18)により、
(19)
(一)主述関係 主語 ―述語
(二)修飾関係 修飾語―被修飾語
(三)補足関係 叙述語―補足語
(四)並列関係 並列語―並列語
といふ四つの内の、
(三)補足構造 叙述語―補足語
に関して「漢語における語順は、国語と大きく違っている」。
然るに、
(20)
例へば、
燕雀安知鴻鵠之志哉(燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや)。
であれば、
燕雀 は、(四)並列関係。
鴻鵠 も、(四)並列関係。
である一方で、
燕雀   は、(一)主語。
鴻鵠之  は、(二)修飾語。
鴻鵠之志 は、(三)補足語。
である。
従って、
(19)(20)により、
(21)
(四)並列関係 並列語―並列語
の場合は、その一方で、
(一)主述関係 主語 ―述語   であって、
(二)修飾関係 修飾語―被修飾語 であって、
(三)補足関係 叙述語―補足語  である。
従って、
(19)(21)により、
(22)
(一)主述関係 主語 ―述語
(二)修飾関係 修飾語―被修飾語
(三)補足関係 叙述語―補足語
に於いて、
(三)補足関係 叙述語―補足語 だけが、国語とは全く反対である。
然るに、
(23)
⑧ 我不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}。
に於いて、
⑧ 我=主語
⑧ 常=修飾語(副詞)
⑧ 者=被修飾語(体言)
である。
従って、
(12)(22)(23)により、
(24)
⑧ 我不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}。
といふ「漢文」から、
⑧ 我=主語
⑧ 常=修飾語(副詞)
⑧ 者=被修飾語(体言)
といふ「三つ」を除いても、
⑧ _不{_求[以〔解(英文)_〕解(漢文)]}。
といふ風に、
⑧ { [  ( ) ( ) ] }
といふ「括弧」自体は、「不変」である。
cf.
⑧ 不求以解英文解漢文=
⑧ 不{求[以〔解(英文)〕解(漢文)]}⇒
⑧ {[〔(英文)解〕以(漢文)解]求}不=
⑧ {[〔(英文を)解することを〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
それ故、
(12)(24)により、
(25)
⑧ 我不必求以解英文法解漢文。
といふ「白文」を「訓読」する際の「語順」が知りたいのであれば、
⑧ 我不必求以解英文法解漢文。
といふ「白文」から、
⑧ 我=主語
⑧ 常=修飾語(副詞)
⑧ 者=被修飾語(体言)
を除いて、
⑧ _不_求以解英文_解漢文。
とする。
(26)
⑧ _不_求以解英文_解漢文。
に於いて、
⑧ 不 は{何処までに}係ってゐて、
⑧ 欲 は[何処までに]係ってゐて、
⑧ 解 は(何処までに)係ってゐて、
⑧ 解 は(何処までに)係ってゐる。
のかといふ「パズル」を、解いて、
⑧ _不{_求[以〔解(英文)_〕解(漢文)]}。
とする。
cf.
カールグレン曰く「漢語においては、文法的な分析は、あまり役に立たず、実際に役立つは、広い読書を通じて習得した経験、つまり、中国人がどのようして文をつくりあげているかということに対する感覚が、唯一のものである。漢語の文の意味を理解するためには、豊富な直観が、必要である」(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、293頁改)。
(27)
⑧ _不{_求[以〔解(英文)_〕解(漢文)]}。
に対して、
⑧ 我=主語
⑧ 常=修飾語(副詞)
⑧ 者=被修飾語(体言)
といふ三つを、「元に戻して」、
⑧ 我不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}。
とする。
(28)
⑧ 我不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}
に対して、
解( )⇒( )解
以〔 〕⇒〔 〕以
解( )⇒( )解
求[ ]⇒[ ]求
不{ }⇒{ }不
といふ「並び替へ(ソート)」を行い、
⑧ 我{必[〔(英文)解法〕以(漢文)解]求}不。
とする。
(29)
⑧ 我{必[〔(英文)解法〕以(漢文)解]求}不。
といふ「語順」に基づき、
⑧ 我{必ずしも[〔(英文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ風に、「訓読」する。
従って、
(26)~(29)により、
(30)
⑧ 我不必求以解英文法解漢文。
といふ「白文」を「訓読」する際の「語順」が知りたいのであれば、
(一)主述関係 主語 ―述語
(二)修飾関係 修飾語―被修飾語
(三)補足関係 叙述語―補足語
に於いて、
(三)補足関係 叙述語―補足語 だけが、国語とは全く反対である。
といふことに、「注目」して、
⑧ 不 は{何処までに}係ってゐて、
⑧ 欲 は[何処までに]係ってゐて、
⑧ 以 は〔何処までに〕係ってゐて、
⑧ 解 は(何処までに)係ってゐて、
⑧ 解 は(何処までに)係ってゐる。
のか、といふことを、考へれば良い。
然るに、
(31)
⑨ 人有喜与不如己者為友之心。
に於いて、
⑨ 人 は「(一)主語」である。
(32)
⑨ _有喜与不如己者為友之心。
に於いて、
⑨ 有 は「(三)叙述語」である。
従って、
(30)(31)(32)により、
(33)
⑨ 人有喜与不如己者為友之心。
といふ「白文の意味」が分からずに、「訓読」のしようが無い場合は、最初に、
⑨ 有 は「何処までに」係ってゐる。
のか、といふことを、考へれば良い。
然るに、
(34)
⑨ 人有(喜与不如己者)
であれば、
⑨ 為友之心。
⑨ 友と為るの心。
の「説明」が付かない。
加へて、
(35)
⑨ 人有(与不如己者)
であって、
⑨ 人有(与不如己者)
ではないため、
⑨ 己に如かざる者と喜ぶ者有り。
とは、読めない。
然るに、
(36)
⑨ 人有(喜与不如己者為友之心)。
であれば、
⑨ 与[不〔如(己)〕者]為(友)
であり、それ故、
⑨ 人有〈喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}之心〉⇒
⑨ 人〈{[〔(己)如〕不者]与(友)為}喜之心〉有=
⑨ 人に〈{[〔(己に)如か〕不る者]与(友と)為るを}喜ぶ之心〉有り。
といふ風に、「訓読」することになる。
従って、
(16)~(36)により、
(37)
① 有備無患。
② 聞鳥啼。
③ 聞鳥啼梅樹。
④ 聞鳥啼梅樹声。
⑤ 如揮快刀断乱麻。
⑥ 欲得備学徳者友之。
⑦ 求以解英文法解漢文。
⑧ 我不必求以解英文法解漢文。
⑨ 人有喜与不如己者為友之心。
⑩ 取捨選択書物。
といふ「漢文の意味」が分からずに、「訓読」のしようが無い場合は、
(一)主述関係 主語 ―述語
(二)修飾関係 修飾語―被修飾語
(三)補足関係 叙述語―補足語
に於いて、
(三)補足関係 叙述語―補足語 だけが、国語とは全く反対である。
といふことに、「注目」して、「どの漢字」が、「どの漢字に係ってゐるのか」といふことを、考へれば良い。
然るに、
(38)
① (備へ)有れば(患ひ)無し。
② (鳥の啼くを)聞く。
③ 〔鳥の(梅樹に)啼くを〕聞く。
④ 〔鳥の(梅樹に)啼く声を〕聞く。
⑤ 〔(快刀を)揮って(乱麻を)断つが〕如し。
⑥ [(学徳を)備ふる者を得て(之を)友とせんと]欲す。
⑦ [(英文を)解するを法以て(漢文を)解せんことを]求む。
⑧ 我{必ずしも[〔(英文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不。
⑨ 人に〈{[〔(己に)如か〕不る者]与(友と)為るを}喜ぶの心〉有り。
⑩ (書物を)取‐捨‐選‐択す。
であって、尚且つ、
(三)補足関係 叙述語―補足語 だけが、漢文と日本語は、全く反対である。
といふことは、
① 有(備)無(患)。
② 聞(鳥啼)。
③ 聞〔鳥啼(梅樹)〕。
④ 聞〔鳥啼(梅樹)声〕。
⑤ 如〔揮(快刀)断(乱麻)〕。
⑥ 欲[得〔備(学徳)者〕友(之)]。
⑦ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]。
⑧ 我不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}。
⑨ 人有〈喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}之心〉。
⑩ 取‐捨‐選‐択(書物)。
に於ける、「括弧」は、「漢文の補足構造」を表はしてゐる。
然るに、
(39)
① 有備無患。
② 聞鳥啼。
③ 聞鳥啼梅樹。
④ 聞鳥啼梅樹声。
⑤ 如揮快刀断乱麻。
⑥ 欲得備学徳者友之。
⑦ 求以解英文法解漢文。
⑧ 我不必求以解英文法解漢文。
⑨ 人有喜与不如己者為友之心。
⑩ 取捨選択書物。
に対して、「返り点」がついてゐる場合は、そのまま、
① 有(備)無(患)。
② 聞(鳥啼)。
③ 聞〔鳥啼(梅樹)〕。
④ 聞〔鳥啼(梅樹)声〕。
⑤ 如〔揮(快刀)断(乱麻)〕。
⑥ 欲[得〔備(学徳)者〕友(之)]。
⑦ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]。
⑧ 我不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}。
⑨ 人有〈喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}之心〉。
といふ「補足構造」を知ることが、出来る。
cf.

然るに、
(40)
① 有備無患。
② 聞鳥啼。
③ 聞鳥啼梅樹。
④ 聞鳥啼梅樹声。
⑤ 如揮快刀断乱麻。
⑥ 欲得備学徳者友之。
⑦ 求以解英文法解漢文。
⑧ 我不必求以解英文法解漢文。
⑨ 人有喜与不如己者為友之心。
⑩ 取捨選択書物。
といふ「例文」は、⑧を除いて、「漢文の基礎(旺文社、1973年)、漢文ミニマム攻略法(旺文社、1992年)」からの「引用」である。
従って、
(41)
アメリカやスウェーデンやウクライナやラトビアで、「中国語」で「漢文」で学んでゐる方たちであっても、「日本の漢文の受験参考書」を入手すれば、
① 有(備)無(患)。
② 聞(鳥啼)。
③ 聞〔鳥啼(梅樹)〕。
④ 聞〔鳥啼(梅樹)声〕。
⑤ 如〔揮(快刀)断(乱麻)〕。
⑥ 欲[得〔備(学徳)者〕友(之)]。
⑦ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]。
⑧ 我不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}。
⑨ 人有〈喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}之心〉。
⑩ 取‐捨‐選‐択(書物)。
といった「漢文の補足構造」を、知ることが出来る。
然るに、
(42)
① ユウビムカン。
② ブンチョウテイ。
③ ブンチョウテイバイジュ。
④ ブンチョウテイバイジュセイ。
⑤ ジョキカイタウタンランマ。
⑥ ヨクトクビガクトクシャイウシ。
⑦ キュウイカイエイブンホウカイカンブン。
⑧ ガフヒツキュウイカイエイブンホウカイカンブン。
⑨ ジンユウキヨフジョキシャイユウシシン。
⑩ シュシャセンタクショモツ。
といふ風に「音読み」するだけなら、小学生であっても、可能である。
然るに、
(43)
① Yǒubèiwúhuàn.
② Wén niǎo tí.
③ Wén niǎo tí méi shù.
④ Wén niǎo tí méi shù shēng.
⑤ Rú huī kuàidāo duàn luànmá.
⑥ Yù dé bèi xuédé zhě yǒuzhī.
⑦ Qiú yǐ jiě yīngwén fǎ jiě hànwén.
⑧ Wǒ bùbì qiú yǐ jiě yīngwén fǎ jiě hànwén.
⑨ Rén yǒuxǐ yǔ bùrú jǐ zhě wéi yǒuzhī xīn.
⑩ Qǔshě xuǎnzé shūwù.
といふ風に、読んだとしても、「漢文の補足構造」は、知ることが出来ない。
然るに、
(44)
「日本漢字音」も中国語の一方言音と見なすことができるでしょうか? 倉石武四郎博士は、日本漢字音は日本語の一種であり、声調もないから、そんなもので音読しても無意味だと決め付けておられます(『支那語教育の理論と実際』、243ページ)〔WEBサイト:日本漢文の世界〕。
との、ことである。
然るに、
(45)
しかし、四声をふくめた漢字音を正確におぼえることは、まったく難中の難であった。これを学生に強制したことは、今からおもっても、あいすまぬことであった(倉石武四郎、中国語五十年、1973年、141頁)。
従って、
(46)
英語もロクに読めない私としては、飽く迄も、趣味で「漢文」を独学するために、わざわざ「中国語(中華人民共和国語)」を学ぶ気には、到底、なれない。
平成28年06月07日、毛利太。
―「関連記事」―
『括弧・返り点』の研究(Ⅱ)http://kannbunn.blogspot.com/2016/04/blog-post_24.html

2016年6月3日金曜日

「括弧(句読点)」は必ずあります。

(01)
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’という空所にいれて書くことにしよう(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、15頁改)。
ただし、
(02)
以下では、必要に応じて、
~(  )=(  )~
¬(  )=(  )¬
とする。
(03)
① 春はあけぼの これだけで、春はあけぼのに限るとか、春のながめはあけぼのが第一だ、というような気持ちを言外にこめた、
いわゆる体言止めの完全な文となっている(三省堂、新明解古典シリーズ4、1990年、3頁)。
従って、
(03)により、
(04)
① AならばB。
は、「体言止め」である。
従って、
(04)により、
(05)
① AならばB、でない。
に於いて、
① AならばB、
は、「体言止め」である。
従って、
(05)により、
(06)
① AならばB、でない。
① AならばBである。でない。
① AならばBである。といふことはない。
といふ「三つ日本語」は、等しい。
然るに、
(07)
① AならばB、でない。
といふことは、
① AならばB
が、「一つのまとまり」である。
といふことを、「意味」してゐる。
然るに、
(08)
①(AならばB)でない。
といふことは、
① AならばB
が、「一つのまとまり」である。
といふことを、「意味」してゐる。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① AならばB
が、「一つのまとまり」である。
といふ「意味」に於いて、
① AならばB、でない。
①(AならばB)でない。
といふ「二つ」は、等しい。
然るに、
(10)
② Aならば、Bでない。
といふことは、
②            Bでない
が、「一つのまとまり」である。
といふことを、「意味」してゐる。
然るに、
(11)
② Aならば(Bでない)。
といふことは、
②            Bでない
が、「一つのまとまり」である。
といふことを、「意味」してゐる。
従って、
(10)(11)により、
(12)
②            Bでない。
が、「一つのまとまり」である。
といふ「意味」に於いて、
② Aならば、Bでない。
② Aならば(Bでない)。
といふ「二つ」は、等しい。
然るに、
(13)
A = A
→ = ならば
B = B
従って、
(01)(02)(09)(12)(13)により、
(14)
① AならばB、でない。
①(AならばB)でない。
①(A → B)~
といふ「三つ」は、等しく、
② Aならば、Bでない。
② Aならば(Bでない)。
② A →  B~
といふ「三つ」は、等しい。
従って、
(01)(02)(14)により、
(15)
① AならばB、でない。
① ¬(A → B)
といふ「二つ」は、等しく、
② Aならば、Bでない。
② A → ¬B
といふ「二つ」は、等しい。
従って、
(15)により、
(16)
 AならばBでない。
この文は、2つの解釈があります。ひとつは「(AならばB)でない」。数文であらわすと、¬(A→B)です。もうひとつは「Aならば(Bでない)」。数文であらわすと、A→¬Bとなります。この2つはまったく異なる意味をもちますが、和文であらわそうとすると、どちらも同じ文になってしまうのです。
和文の否定は文の最後尾につきます。「~ではない」という形式です。すると、直前の語を否定しているのか、文全体を否定しているのか、別の語や句読点を補わない限り区別がつかなくなります(新井紀子、数学は言葉、2009年、123頁)。
といふ、新井先生の「説明」は、正しい。
従って、
(16)により、
(17)
① AならばB、でない。
といふ「日本語」は、
①(A → B)~
① ¬(A → B)
といふ「形」をしてゐる。
従って、
(17)により、
(18)
① AならばB、でない。
①(A → B)~
といふ「日本語」に、「括弧」は有ります。
(19)
無 ―― 不・・・・・
――トシテ・・・・・(セ)ザルハナシ
(参考)無書不読・・・どんな本でも読む。
(多久弘一、多久の漢文公式110、1988年、27頁)
従って、
(19)により、
(20)
③ 無書不読=
③ 無〔書不(読)〕⇒
③ 〔書(読)不〕無=
③ 〔書として(読ま)不るは〕無し=
③ どんな本でも読まないものは無い。
然るに、
(21)
④ 無書、不読=
④ 無(書)不(読)⇒
④ (書)無(読)不=
④ (書)無く(読)ず=
④ 本が無いので、読まない。
然るに、
(22)
③ 無書不読。
に於いて、「」を打つとすれば、
④ 無書不読。
とするより、他はない。
従って、
(20)(21)(22)により、
(23)
③ 無書不読。
といふ「漢文」を、
③ 無書不読=
③ どんな本でも読まないものは無い。
といふ風に、理解する。といふことは、
③ 無書不読=
④ 無書、不読=
④ 本が無いので、読まない。
ではない。といふ風に、理解してゐる。
といふことを、意味してゐる。
然るに、
(22)により、
(24)
③ 無書不読=
④ 無書、不読。
ではない。といふ風に、理解してゐる。
といふことは、
③ 無書不読。
に於ける、
③ 無 が、
③  書不読 に係ってゐる。
といふ風に、理解してゐる。
といふことを、意味してゐる。
然るに、
(25)
③ 無書不読。
に於ける、
③ 無 が、
③  書不読 に係ってゐる。
といふ風に、理解してゐる。
といふことは、
③ 無書不読。
に於いて、
③  書不読
が、「一つのまとまり」である。
といふ風に、理解してゐる。
といふことを、意味してゐる。
然るに、
(26)
③ 無書不読。
に於いて、
③  書不読
が、「一つのまとまり」である。
といふ風に、理解してゐる。
といふことは、
③ 無〔書不読〕。
といふ風に、理解してゐる。
といふことを、意味してゐる。
従って、
(26)により、
(27)
③ 無書不読。
③ 無〔書不(読)〕。
といふ「漢文」に、「括弧」は有ります。
従って、
(18)(27)により、
(28)
「句読点」を考慮する限り、
① AならばB、でない。
③ 無書不読。
に於いて、「括弧」は有ります。
平成28年06月03日、毛利太。
―「関連記事」―
「括弧」と「句読点」と「分配則」。http://kannbunn.blogspot.com/2016/06/blog-post_15.html

2016年6月2日木曜日

日本語(論理学的)≧英語(論理学的)。

―「繰り返し」になるものの、―
(01)
① 春はあけぼの これだけで、春はあけぼのに限るとか、春のながめはあけぼのが第一だ、というような気持ちを言外にこめた、
いわゆる体言止め完全な文となっている(三省堂、新明解古典シリーズ4、1990年、3頁)。
然るに
(02)
① 今は昔。
① 我は海の子。
① 春はあけぼの。
のやうな「体言止め」こそが、「本来の日本語」である。
cf.
なり =に+あり
である=に+て+あり
従って、
(01(02)により、
(03)
① AならばB。
は、「体言止め」である。
従って、
(03)により、
(04)
① AならばB、でない。
に於いて、
① AならばB、
は、「体言止め」である。
従って、
(04)により、
(05)
① AならばB、でない。
① AならばBである。でない。
① AならばBである。といふことはない。
といふ「三つ日本語」は、等しい。
然るに、
(06)
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’という空所にいれて書くことにしよう;しかし、丸括弧はその内部の表述が連言でないかぎり削除しよう(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、15頁)。
ただし、
(07)
以下では、必要に応じて、
~(  )=(  )~
¬(  )=(  )¬
とする。
然るに、
(08)
A = A
→ = ならば
B = B
~ = でない
従って、
(05)~(08)により、
(09)
① AならばB、でない。
といふ「日本語」は、
①(A → B)~
といふ「論理式」に、等しい。
従って、
(08)(09)により、
(10)
①(A → B)~
といふ「論理式」の、「括弧」を、「句読点」に替へれば、それだけで、
①  AならばB、でない。
といふ「日本語」が、成立する。
cf.
③ A →  B ~
③ AならばBでない。
然るに、
(11)
② ¬(A→B)
といふ「論理式」は、
② It is not true that if it is A then it is B.
といふ「英語」に、相当する。
従って、
(12)
② ¬(   )
といふ「記号」を、
② It is not true that
といふ「英語」に、書き換へて、
②   A→B
といふ「論理式」を、
② if it is A then it is B、
といふ「英語」に、書き換へた「結果」が、
② It is not true that if it is A then it is B.
といふ「英語」である。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
① AならばB、でない。
② It is not true that if it is A then it is B.
に於いて、
①(A→B)~
② ¬(A→B)
といふ「論理式」に、「より近い形」をしてゐるのは、明らかに、
① AならばB、でない。
であって、
② It is not true that if it is A then it is B.
といふ、
② It+copula+否定+形容詞+that 補文.
ではない。
従って、
(13)により、
(14)
② It is not true that if it is A then it is B.
といふ「英語」よりも、
① AならばB、でない。
といふ「日本語」の方が、「論理(学)的」である。
(15)
3+4
 一方、逆ポーランド記法では、加算を表す演算子 + を、被演算子である 3 と 4 の後(右)に置いて、以下のよう記述する。
3 4 +
逆ポーランド記法による表現は日本語などSOV型の言語の文法とよく似ており、上式であれば「3 と 4 を加算する」とそのままの順序で読み下せる。逆ポーランド記法を使うForthの影響を受けているプログラミング言語Mindでは、上式を「3 と 4 とを 足す」と記述する(ウィキペディア)。
(16)
それは彼にちなんで逆ポーランド記法と呼ばれている。この記法は、単に日本語の構造に合致するというだけなく、一切のかっこを用いずに計算の方法を明示できるという利点をもつため、コンピューターでは実際にこの数式が利用されているほどである(大谷泰照、日本人にとって英語とは何か、2007年、30頁)。
従って、
(15)(16)により、
(17)
「コンピューター」といふ「論理機械」を「基準」にすれば、この場合も、「論理(学)的」なのは、「日本語」であって、「英語」ではない。
(18)
数式はたまたま15世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパにおいて、ヨーロッパの言語に象って作り出されたという歴史的偶然を反映したものであるにすぎない(大谷泰照、日本人にとって英語とは何か、2007年、30頁)。
従って、
(19)
「数学や論理学の記号」が「欧米起源」であるが故に、「数学や論理学の式」を、「英語で読む」方が、「日本語で読む」よりも理解しやすい。
といふことは、有り得ない、ことではない。
しかしながら、
(20)
そのことを以て、「英語」の方が「日本語」よりも「論理的」である。とするのは誤りであり、それ故、次のやうに、月本先生が述べてゐることは、正しい。
(21)
先日、数人の大学の先生と話をしているときに、ある先生が「うちの学生が、英語ができるようになったら、数学ができるようになった」と言った。これは、暗に、英語ができるようになった、だから数学ができるようになったと言いたいのである。言い換えれば、日本語では論理的に考えられないから、数学ができない、と言いたいのである。私は「またか」と思った。日本人は、この大学の先生のように、日本語は非論理的であり、論理的思考に向いていないと思い込んでいる人が多い(月本洋、日本語は論理的である、2009年、2頁)。
平成28月06月02日、毛利太。

「敢へて(動詞)」について。

(01)
① 無人不死=
① 無〔人不(死)〕⇒
① 〔人(死)不〕無=
① 〔人として(死せ)不るは〕無し=
① 人であって、死なないものはゐない。
然るに、
(02)
② 無人不死=
② 無[人〔不(死)〕]⇒
② [〔(死)不〕人]無=
② [〔(死せ)不る〕人]無し=
② 死なない人間はゐない。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 無〔人不(死)〕。
であっても、
② 無[人〔不(死)〕]。
であっても、「意味」としては、「同じこと」である。
然るに、
(04)
① 無人不死。
の場合は、
① 人不(死)=
① 人(死)不=
① 人(死せ)ず。
の「否定」である。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 無〔人不(死)〕。
であって、
② 無[人〔不(死)〕]。
ではない。
(06)
③ 沛公敢背項王=
③ 沛公敢背(項王)⇒
③ 沛公敢(項王)背=
③ 沛公敢へて(項王に)背く=
③ 沛公は敢へて項王を裏切る。
然るに、
(07)
あへて【敢へて】[副詞](動詞ハ下二「敢ふ」の連用形+接続助詞「て」)① しいて。すすんで。無理を押して。 
(三省堂、全訳読解古語辞典、2007年、50頁)
従って、
(06)(07)により、
(08)
③ 沛公敢背項王=
③ 主語+副詞+動詞+目的語(補足語)。
である。
従って、
(08)により、
(09)
④ 沛公不敢背項王=
④ 主語+否定+副詞+動詞+目的語(補足語)。
である。
従って、
(06)(09)により、
(10)
④ 沛公不敢背項王=
④ 沛公不〔敢背(項王)〕⇒
④ 沛公〔敢(項王)背〕不=
④ 沛公〔敢へて(項王に)背か〕不=
④ 沛公は、敢へて項王を裏切らない。
然るに、
(11)
あへて【敢へて】[副詞]① しいて。
ではなく、仮に、
あへて【敢へて】[動詞]①(意を)決して・・・する。
であるならば、
④ 沛公不敢背項王=
④ 主語+否定+動詞+動詞+目的語(補足語)。
である。
従って、
(11)により、
(12)
⑤ 沛公不敢背項王=
⑤ 沛公不[敢〔背(項王)〕]⇒
⑤ 沛公[〔(項王)背〕敢]不=
⑤ 沛公[〔(項王に)背くこと〕敢へてせ]不=
⑤ 沛公は、項王に背くことを「決してし」ない。
といふ、ことになる。
然るに、
(13)
⑥ 百獣之見我而敢不走乎=
⑥ 百獣の我を見て敢へて走らざらんや。
の場合は、「反語」である。
従って、
(13)により、
(14)
⑥ 敢不走乎=
⑥ 敢〔不(走)〕乎=
⑥ 〔(走)不〕敢乎=
⑥ 〔(走ら)不ること〕敢へてせんや。
の場合は、
⑥ 敢不走乎=
⑥ 不敢不走=
⑥ 不[敢〔不(走)〕]⇒
⑥ [〔(走)不〕敢]不=
⑥ [〔(走ら)不ること〕敢へてせ]不=
⑥ 逃げないことを「決して」しない=
⑥ 必ず、逃げるに決まってゐる。
といふ、「意味」になる。
従って、
(11)~(14)により、
(15)
 敢=(意を)決して・・・する。
不敢=(意を)決して・・・ない。
とすれば、分り易い。
然るに、
(16)
1 市販の問題集・参考書の類、教科書・教師用指導書の類では、「不敢」を「決して・・・ない」と訳している。
(江連隆、漢文語法ハンドブック、1997年、81頁)
従って、
(15)(16)により、
(17)
1 市販の問題集・参考書の類、教科書・教師用指導書の類は、
「不敢」は、「決して・・・・ない」と、すべきではなく、
「不敢」は、「決して・・・ない」と、すべきである。
平成28年06月02日、毛利太。