2016年7月30日土曜日

「漢文」に於ける、「倒置」による「強調」。

(01)
① 学囗=囗を学ぶ。
であれば、「漢文の語順」として「普通」である。
従って、
(01)により、
(02)
② 囗学=囗を学ぶ。
であれば、「漢文の語順」としては「異常」である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
② 囗学=囗を学ぶ。
に於いて、
② 囗
は、「目立つ」ことになる。
然るに、
(04)
「強調」とは、「その部分」を、「他の部分」よりも、「目立たせる」ことに、他ならない。
従って、
(03)(04)により、
(05)
② 囗学=囗を学ぶ。
に於いて、
② 囗
は、「high light(強調)」を、受けることになる。
従って、
(05)により、
(06)
① 学小而遺大。
ではない所の、
② 小学而大遺。
に於いて、
② 小  大
は、「high light(強調)」を、受けることになる。
従って、
(07)
③ 小学而大遺=小をば学んで大をば遺る(韓愈、師説)。
に対して、
⑭ 小学而大遺 「学小而遺大」とすべきところを意味を強めるために倒置した(三省堂、明解古典学習シリーズ20、1973年、54頁)。
といふ、ことになる。
然るに、
(08)
① I said fifteen, not fifty.
と言ふ場合は、
① fifteen の、
①   teen を「強調(強く発音)」する。
従って、
(08)により、
(09)
① 私が言ったのは、
①{15、50}
の内の、
①{15}であって、
①{50}ではない。
と言ふ場合は、
①{15}を、「強調」する。
然るに、
(10)
① AはBであって、A以外はBでない。
といふ「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
従って、
(08)(09)(10)により、
(11)
① What I said is fifteen, not fifty.
① 私は15と言ったのであって、50とは言ってゐない。
といふ場合がさうであるやうに、
①「強調」は、「排他的命題」を主張する。
従って、
(06)(07)(11)により、
(12)
③{小、大}
であるとして、
③ 小学而大遺。
といふ「強調形」は、
③ 小を学んで(大を学ばない)、大を忘れて(小を忘れない)。
といふ、「排他的命題」である。
従って、
(12)により、
(13)
④ 誰毀誰誉=誰をか毀り、誰をか誉めん(論語、衛霊公)。
の場合も、
④ 誰かを毀り(その誰か以外は毀しら)、誰かを誉め(その誰か以外は誉めない)としたら、その誰かとは、誰か。
といふ、「排他的命題」である。
然るに、
(14)
 前置による強調
 疑問詞と指示詞の前置
 動詞についての目的語は、その動詞の後に置かれるのが、漢語における基本構造としての単語の配列のしかたである。また、漢語における介詞は、ほとんど、動詞から発達したものであって、その目的語も、その介詞の後に置かれるのが、通則であるということができる。しかし、古代漢語においては、それらの目的語が疑問詞である場合には、いずれも、その動詞・介詞の前におかれている。このように、漢語としての通常の語順を変えて、目的語の疑問詞を前置きすることは、疑問文において、その疑問の中心になっている疑問詞を、特に強調したものにちがいない。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、334・5頁)
従って、
(07)(13)(14)により、
(15)
③ 小学而大遺。
といふ「倒置」は、「例外(イレギュラー)」であって、
④ 誰毀誰誉。
といふ「疑問詞の倒置」は、この方が、「正則(レギュラー)」である。
然るに、
(16)
④「正則(レギュラー)」であるとしても、
④ 誰毀誰誉=誰をか毀り、誰をか誉めん。
が、「排他的命題」であることには、「変はり」がない。
(17)
Whose book is this ?
であらうと、
⑤ Is this whose book ?
でなからうと、
⑤ この本はのものですか。
誰がこの本の所有者ですか。
といふ「疑問文」は、「排他的命題」である。
平成28年07月30日、毛利太。

2016年7月29日金曜日

小をば(は)学んで大をば(は)忘る。「対格」の強調。

(01)
「(お婆さんではなく、)お爺さんが川へ洗濯に行きました。」に於ける「が」と「は」に関しては、
「07月12日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_12.html)」をお読み下さい。
(02)
「(他ならぬ)あのチャップリンが大往生」に於ける「が」に関しては、
「07月14日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_14.html)」をお読み下さい。
(03)
「鼻はゾウが長く、首はキリンが長い。東京には空が無い。」に於ける「が」と「は」に関しては、
「07月17日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_17.html)」をお読み下さい。
(04)
「仮言命題(仮定条件)」に於ける「が」に関しては、
「07月24日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_24.html)」をお読み下さい。
(05)
「うなぎ(チキン)文」に於ける、「は」と「が」に関しては、
「07月25日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_25.html)」をお読み下さい。
(06)
① I said fifteen, not fifty.
と言ふ場合は、
① fifteen の、
①   teen を「強調(強く発音)」する。
従って、
(06)により、
(07)
① 私が言ったのは、
①{15、50}
の内の、
①{15}であって、
①{50}ではない。
と言ふ場合は、
①{15}を、「強調」する。
然るに、
(08)
① AはBであって、A以外はBでない。
といふ「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
① What I said is fifteen, not fifty.
① 私は15と言ったのであって、50とは言ってゐない。
といふ場合がさうであるやうに、
①「強調」は、「排他的命題」を主張する。
然るに、
(10)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
然るに、
(11)
①「A」 の「が」は「濁音」であって、
②「Aは」 の「は」は「清音」である。
従って、
(10)(11)により、
(12)
①「濁音」を含む「A」の方が、
②「清音」を含む「Aは」よりも、「心理的な音量」が「大きい」。
(12)により、
(13)
① Aが
② Aは
に於いて、
① は、② に対する、「強調形」である。
(09)(13)により、
(14)
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① AがBである=
① AはBであって、A以外はBでない。
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
然るに、
(15)
(BならばAである。)⇔
(Bであって、Aでない)といふことはない。⇔
(Aでなくて、Bである)といふことはない。⇔
(AでないならばBでない。)
従って、
(16)
(BならばAである。)   といふ「命題」は、その「対偶」である所の、
(AでないならばBでない。)といふ「命題」に等しい。
cf.
(B→A)=~(B&~A)=~(~A&B)={~(~A)∨~B}=(~A→~B)
従って、
(16)により、
(17)
(BならばAである。)   =(BはAである。)  といふ「命題」は、
(AでないならばBでない。)=(A以外はBでない。)といふ「命題」に等しい。
従って、
(14)(17)により、
(18)
② AはBである。
といふ「日本語」に対する、
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① AがBである=
① AはBであって、A以外はBでない(BはAである)。
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
(19)
「国文法」でいふ「格助詞」の「格」とは、「ラテン語やギリシャ語」でいふ「格(case)」のことを言ふ。
然るに、
(20)
1.主格 これは動詞の主語としてつかわれ、日本語の「は」、「が」(従属節では「の」までもはいる)に当る。
2.属格 これは所有する人、あるいは物を示す。「誰の」、「何の」の「の」に当る。
3.与格と対格 「誰に」、「何を」等の「に」に当るものが「与格」で、「を」に当るものが、対格である。
4.奪格 このつかい方は非常に多い。ここでは一つだけ挙げておく。「何で」、「何をつかって」等、手段、方法を表わすのに奪格をつかう。
(村松正俊、ラテン語四週間、1961年、18頁)
従って、
(19)(20)により、
(21)
「ラテン語」から見れば、
1.「は」は、「主格助詞」。
1.「が」も、「主格助詞」。
2.「の」は、「属格助詞」。
3.「に」は、「与格助詞」。
3.「を」は、「対格助詞」。
4.「で」は、「奪格助詞」。
である。
然るに、
(22)
1.「は」については、「ぞ・なむ・や・か・こそ」と同じく、「係助詞」であるため、
1.「は」は、「主格助詞」そのもの。ではない。
加へて、
(23)
1.「が」についても、本来は、「の」と同じく、「属格」であるため、
1.「が」も、「主格助詞」そのもの。でない。
加へて、
(24)
① チキンは食べたくない。
② ウナギが食べたい。
に於いて、
① チキンは は、「3.対格」。
② ウナギが も、「3.対格」。
である。
従って、
(21)~(24)により、
(25)
1.「は」は、「 係 ・主格・対格助詞」。
1.「が」は、「主格・属格・対格助詞」。
2.「の」は、「属格助詞」。
3.「に」は、「与格助詞」。
3.「を」は、「対格助詞」。
である。
然るに、
(26)
(1)格助詞 体言または体言に準ずるものついて文節をつくる。
(3)係助詞 種々の語について、特別な意味を添える。
(代々木ゼミ方式 受験国文法、1980年、139・140頁改)
従って、
(26)により、
(27)
③ には=格助詞+は(係助詞)。
④ とは=格助詞+は(係助詞)。
⑤ では=格助詞+は(係助詞)。
といふ「接続」に対して、
③ にが=格助詞+(格助詞)。
④ とが=格助詞+(格助詞)。
⑤ でが=格助詞+(格助詞)。
といふ「接続」は、有り得ない。
然るに、
(28)
⑥ 小を学んで大を遺る。
(重要漢文単語文例精解―入試文例数1000、1968年、6頁)
(29)
名をば―「」は、係助詞「は」の濁音化したもので、強意。係助詞「は」が、格助詞「を」の下につくときには、「ば」と濁音となる。
(日栄社、文法解説 竹取物語・伊勢物語、1973年、12頁)
従って、
(28)(29)により、
(30)
③ には=格助詞+は(係助詞)。
④ とは=格助詞+は(係助詞)。
⑤ では=格助詞+は(係助詞)。
だけでなく、
⑥ をば=格助詞+ば(係助詞)。
といふ「言ひかた」も有って、尚且つ、
⑥ 小を+ば(濁音)
⑥ 大を+ば(濁音)
に於いて、
⑥「」は、係助詞「は」の濁音化したもので、「強意」を表す。
然るに、
(31)
⑭ 小学而大遺 「学小而遺大」とすべきところを意味を強めるために倒置した。
(三省堂、明解古典学習シリーズ20、1973年、54頁)
従って、
(31)により、
(32)
⑭ 学小而遺大。
といふ「語順」に対する、
⑭ 小学而大遺。
といふ「語順」は、「倒置」による「強調」である。
従って、
(12)(30)(32)により、
(33)
⑭ 小学 =「倒置」による「強調形」。
⑭ 大学 =「倒置」による「強調形」。
⑥ 小をば=「濁音」による「強調形」。
⑥ 大をば=「濁音」による「強調形」。
である。
然るに、
(09)により、
(34)
⑭ 小学而大遺。
⑥ 小をば学んで大をば遺る。
は、「排他的命題」である。
従って、
(14)(34)により、
(35)
⑥ 小をば学んで、
⑥ 大をば遺る=
⑥ 小を学んで(小以外は学ばない)、
⑥ 大を遺れて(大以外を忘れない)。
といふ、ことになる。
然るに、
(36)
⑥{小、大}であれば、
⑥{小以外}=大
⑥{大以外}=小
である。
従って、
(35)(36)により、
(37)
⑥ 小をば学んで、
⑥ 大をば遺る=
⑥ 小を学んで(大を学ばない)、
⑥ 大を遺れて(小を忘れない)。
といふ、「意味」になる。
従って、
(38)
⑦ 小を学ぶ=小を学ぶ。
に対して、
⑥ 小をば学ぶ=小を学んで(大を学ばない)。
といふ、「意味になる。
平成28年07月29日、毛利太。
―「関連記事」―
Aこそ(が)Bである。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/08/blog-post.html

2016年7月25日月曜日

「うなぎ(チキン)文」に於ける、「は」と「が」。

(01)
「(お婆さんではなく、)お爺さんが川へ洗濯に行きました。」に於ける「が」と「は」に関しては、
「07月12日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_12.html)」をお読み下さい。
(02)
「(他ならぬ)あのチャップリンが大往生」に於ける「が」に関しては、
「07月14日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_14.html)」をお読み下さい。
(03)
「鼻はゾウが長く、首はキリンが長い。東京には空が無い。」に於ける「が」と「は」に関しては、
「07月17日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_17.html)」をお読み下さい。
(04)
「仮言命題(仮定条件)」に於ける「が」に関しては、
「07月24日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_24.html)」をお読み下さい。
(05)
「前提」を、共有する必要があるため、「(06)~(20)」を、繰り返します。
(06)
① I said fifteen, not fifty.
と言ふ場合は、
① fifteen の、
①   teen を「強調(強く発音)」する。
従って、
(06)により、
(07)
① 私が言ったのは、
①{15、50}
の内の、
①{15}であって、
①{50}ではない。
と言ふ場合は、
①{15}を、「強調」する。
然るに、
(08)
① AはBであって、A以外はBでない
といふ「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
① What I said is fifteen, not fifty.
① 私は15と言ったのであって、50とは言ってゐない。
といふ場合がさうであるやうに、
①「強調」は、「排他的命題」を主張する。
然るに、
(10)
①「Aが」 の「」は「濁音」であって、
②「Aは」 の「は」は「清音」である。
然るに、
(11)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
とあるやうに、
①「濁音」である「~」の方が、
②「清音」である「~は」よりも、「心理的な音量」が「大きい」。
従って、
(06)~(11)により、
(12)
② AはBである。
といふ「日本語」に対する、
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① AがBである=
① AはBであって、A以外はBでない。
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
然るに、
(13)
(BならばAである。)⇔
(Bであって、Aでない)といふことはない。⇔
(Aでなくて、Bである)といふことはない。⇔
(AでないならばBでない。)
従って、
(14)
(BならばAである。)   といふ「命題」は、その「対偶」である所の、
(AでないならばBでない。)といふ「命題」に等しい。
cf.
(B→A)=~(B&~A)=~(~A&B)={~(~A)∨~B}=(~A→~B)
従って、
(14)により、
(15)
(BならばAである。)   =(BはAである。)  といふ「命題」は、
(AでないならばBでない。)=(A以外はBでない。)といふ「命題」に等しい。
従って、
(12)(15)により、
(16)
② AはBである。
といふ「日本語」に対する、
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① ABである=
① AはBであって、A以外はBでないはAである)。
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
(17)
の 私話したは誤りです(橋本博士はこれを準體助詞として助詞の中に入れられたが、形式名詞と考へるのが適當であらう。佐久間博士は代名助詞とされる。)(時枝誠記、日本文法 口語編、1978年、78頁)
従って、
(18)
③ 私話したは誤りです。
③ 私食べたいはチキンです。
に於いて、
は、「名詞」である。
然るに、
(19)
【1】[][の]
(1) 主語を示す。
 日の暮るるとき。 汝さりし日。   
(2) 連体修飾語を作る。
 夏草や兵どもの夢のあと。(芭蕉)
(3) 体言代用をする。
 薬は、唐はめでたし。 [訳]薬は中国のものがすばらしい。
 この歌、人麻呂がなり。 [訳]この歌は、人麻呂の歌である。
(4) 同格を示す。
 白き鳥の、嘴と足と赤き、水の上に遊びつつ魚を食ふ。(伊勢物語)
[訳]白い鳥で、口ばしと足が赤いのが、水の上を遊びながら魚を食べる。
(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、154頁改)
従って、
(18)(19)により、
(20)
③ 私食べたいはチキンです。
といふ「言ひ方」は、
③ 汝さりしは去年なりき。
と同じく、
③ 名詞+(格助詞)+連体形+名詞+助動詞。
である。
従って、
(20)により、
(21)
③ 私食べたいはチキンです。
に対して、
③ 私食べたいはチキンです。
といふ「日本語」は有り得ない。
然るに、
(22)
「日本語」の場合は、「言はなくとも分ること」は、「省略」するのが「原則」であるため、
③ 私(が食べたいの)チキンです。
と言ひたい場合は、
③ 私チキンです。
と言ふ。
従って、
(23)
③ 私チキンです。
といふ「日本語」は、
③ What I want to eat is chicken.
といふ「意味」であって、
④ I am a chicken.
といふ「意味」ではない。
然るに、
(24)
「が」「は」を比べた中で、「私がチキンです」「私はチキンです」の例文がしばしば問題となる。どちらも日本語としてはごく普通の文である。それを問題にするのは、前にも記したように、アメリカに渡った野球選手の一人がレストランで、「I am chicken」と言ったという話があったりしたからである。「I am chicken」はおかしな英語なのであろう(あり得る英語であるという意見もあるそうであうるが、確かなことをいうだけの力はない)。 (山口明穂、日本語の論理 言葉に現れる思想、2004年、170頁)
従って、
(23)(24)により、
(25)
アメリカに渡った野球選手の一人がレストランで、「I am chicken」と言ったのは、
③ What I want to eat is chicken.
③ 私(が食べたいの)チキンです。
といふ「意味」での、
③ 私チキンです。
であって、
④ I am a chicken.
といふ「意味」ではない。
然るに、
(26)
④ 私学生です。
の場合は、
④ I am a student.
といふ「意味」である。
従って、
(25)(26)により、
(27)
③ 私は・・・です。
④ 私は・・・です。
といふ「形」だけからは、
③=④
であるのか、
③≠④
であるのか、分らない。
然るに、
(28)
⑤ どちらチキンですか。
⑥ チキンどちらですか。
の場合は、明らかに、
⑤ どちらチキン(を注文したの)ですか。
⑥ チキン(を注文したの)どちらですか。
といふ「意味」である。
然るに、
(29)
⑤ どちらチキンですか。
⑥ チキンどちらですか。
の場合は、
⑤ ABであるか。
⑥ BAであるか。
といふ「形」をしてゐる。
従って、
(16)(29)により、
(30)
⑤ どちらチキン(を注文したの)ですか。
⑥ チキン(を注文したの)どちらですか。
といふ「日本語」は、
① ABである=
① AはBであって、A以外はBでないはAである)。
であるため、
⑤ どちらチキンですか。
⑥ チキンどちらですか。
といふ「疑問文」は、「排他的命題」である。
従って、
(31)
⑤ 私チキンを注文した=
⑤ 私はチキンを注文し、私以外はチキンを注文してゐない(チキンを注文したの私である)。
といふ「事実」が有る場合は、
⑤ どちらチキン(を注文したの)ですか。
⑥ チキン(を注文したの)どちらですか。
といふ「質問」に対して、
⑤ 私チキン(を注文した者)です。
⑥ チキン(を注文した者)私です。
といふ「意味」で、
⑤ 私チキンです。
⑥ チキン私です。
といふ風に、「答へ」ることになる。
平成28年07月25日、毛利太。
―「関連記事」―
(a)小をば(は)学んで大をば(は)忘る。「対格」の強調。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_29.html
(b)Aこそ(が)Bである。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/08/blog-post.html

2016年7月24日日曜日

「仮言命題(仮定条件)」に於ける「が」。

―「07月20日の記事」を書き換へます。―
(01)
「(お婆さんではなく、)お爺さんが川へ洗濯に行きました。」に於ける「が」と「は」に関しては、
「07月12日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_12.html)」をお読み下さい。
(02)
「(他ならぬ)あのチャップリンが大往生」に於ける「が」に関しては、
「07月14日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_14.html)」をお読み下さい。
(03)
「鼻はゾウが長く、首はキリンが長い。東京には空が無い。」に於ける「が」と「は」に関しては、
「07月17日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_17.html)」をお読み下さい。
(04)
「前提」を、共有する必要があるため、「(05)~(15)」を、繰り返します。
(05)
① I said fifteen, not fifty.
と言ふ場合は、
① fifteen の、
①   teen を「強調(強く発音)」する。
従って、
(05)により、
(06)
① 私が言ったのは、
①{15、50}
の内の、
①{15}であって、
①{50}ではない。
と言ふ場合は、
①{15}を、「強調」する。
然るに、
(07)
① AはBであって、A以外はBでない
といふ「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
① What I said is fifteen, not fifty.
① 私は15と言ったのであって、50とは言ってゐない
といふ場合がさうであるやうに、
①「強調」は、「排他的命題」を主張する。
然るに、
(09)
①「Aが」 の「」は「濁音」であって、
②「Aは」 の「は」は「清音」である。
然るに、
(10)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
とあるやうに、
①「濁音」である「~」の方が、
②「清音」である「~は」よりも、「心理的な音量」が「大きい」。
従って、
(05)~(10)により、
(11)
② AはBである。
といふ「日本語」に対する、
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① ABである=
① AはBであって、A以外はBでない
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
然るに、
(12)
(BならばAである。)⇔
(Bであって、Aでない)といふことはない。⇔
(Aでなくて、Bである)といふことはない。⇔
(AでないならばBでない。)
従って、
(13)
(BならばAである。)   といふ「命題」は、その「対偶」である所の、
(AでないならばBでない。)といふ「命題」に等しい。
cf.
(B→A)=~(B&~A)=~(~A&B)={~(~A)∨~B}=(~A→~B)
従って、
(13)により、
(14)
(BならばAである。)   =(BはAである。)  といふ「命題」は、
(AでないならばBでない。)=(A以外はBでない。)といふ「命題」に等しい。
従って、
(11)(14)により、
(15)
② AはBである。
といふ「日本語」に対する、
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① ABである=
① AはBであって、A以外はBでないはAである)。
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
(16)
① xが犬ならば、xは動物である。xは犬である。故に、xは動物である。
② xが犬ならば、xは動物である。猿は犬ではない。故に、猿は動物ではない。
③ xが犬ならば、xは動物である。雉は動物である。故に、雉は犬である。
に於いて、
② 猿は動物ではない。
③ 雉は犬である。
は、明らかに、「マチガイ」である。
然るに、
(17)
④ xが犬ならば、xは動物である。xは動物ではない。しかし、xは犬である。
とするならば、
④ xといふ犬は、動物ではないのに、動物である。
といふ、ことになり、「矛盾」する。
従って、
(17)により、
(18)
④ xが犬ならば、xは動物である。xは動物ではない。故に、xは犬でない。
といふ「推論」は、「タダシイ」。
従って、
(16)(18)により、
(19)
① PならばQである。
といふ「仮言命題」は、
① Pである場合は、Qである。
④ Qでない場合は、Pでない。
といふ風に、「言ってはゐる」ものの、その一方で、
② Pでない場合
③ Qである場合
に関しては、「何も言ってゐない」。
従って、
(19)により、
(20)
① If it is fine tomorrow, I will go fishing.
といふ「仮言命題」は、
② 明日以外が晴れる場合
に関しては、「何も言っていない」。
然るに、
(21)
① If it is fine tomorrow, I will go fishing.
に於いて、
①               tomorrow
を「強調」するならば、
②(明日以外ではなく)明日晴れならば、釣りに行く。
といふ「意味」になる。
然るに、
(10)により、
(22)
①「濁音」である「~」の方が、
②「清音」である「~は」よりも、「心理的な音量」が「大きい」。
従って、
(21)(22)により、
(23)
① 明日は休日なので、
② 明日晴れならば、釣りに行く。
とは言はずに、
① 明日は休日なので、
② 明日晴れならば、釣りに行く。
とい言ふのであれば、
②(明日以外ではなく
といふ「意味」を、「言外」に含んでゐる。
従って、
(23)により、
(24)
③ 彼はさうするのであれば、私もさうしたい。
とは言はずに、
③ 彼さうするのであれば、私もさうしたい。
といふのであれば、
③(なら)彼が
といふ「意味」が、「言外」に含まれてゐる。
(25)
 私話したは誤です(橋本博士はこれを準體助詞として助詞の中に入れられたが、形式名詞と考へるのが適當であらう。佐久間博士は代名助詞とされる。)(時枝誠記、日本文法 口語編、1978年、78頁)
従って、
(26)
③ 彼さうするであれば、私もさうしたい。
に於いて、
は、「名詞」である。
然るに、
(27)
【1】[][の]
(1) 主語を示す。
 日の暮るるとき。 汝さりし日。   
(2) 連体修飾語を作る。
 夏草や兵どもの夢のあと。(芭蕉)
(3) 体言代用をする。
 薬は、唐はめでたし。 [訳]薬は中国のものがすばらしい。
 この歌、人麻呂がなり。 [訳]この歌は、人麻呂の歌である。
(4) 同格を示す。
 白き鳥の、嘴と足と赤き、水の上に遊びつつ魚を食ふ。(伊勢物語)
[訳]白い鳥で、口ばしと足が赤いのが、水の上を遊びながら魚を食べる。
(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、154頁改)
従って、
(26)(27)により、
(28)
③ 彼がさうする
といふ「日本語」は、
③ 汝さりし日
③ 彼言ふ(こと)には、
と同じく、
③ 名詞+(格助詞)+連体形+名詞
である。
従って、
(26)(28)により、
(34)
③ 彼さうするであれば、
に対して、
③ 彼さうするであれば、
といふ「言ひ方」自体が、「日本語」として有り得ない。
(35)
④ 明日は物忌みなるを、門強く鎖せよ(古文)。
④ 明日は物忌みなので、門をしっかり閉めなさい(現代文)。
従って、
(36)
④ 明日は休日なるを、釣りに行かむ(古文)。
④ 明日休日なので、釣りに行こう(現代文)。
である。
(37)
④{明日、明後日、明々後日、四日後、五日後}
に於いて、
④{明後日}が、「休日」である場合は、
④ いつ、釣りに行こうか。
④ 明後日休日なので、明後日釣りに行こう。
である。
平成28年07月24日、毛利太。
―「関連記事」―
(a)「ウナギ(チキン)文」に於ける、「は」と「が」。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/01-httpkannbunn_25.html
(b)小をば(は)学んで大をば(は)忘る。「対格」の強調。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_29.html
(c)Aこそ(が)Bである。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/08/blog-post.html

2016年7月17日日曜日

鼻はゾウが長く、首はキリンが長い。東京には空が無い。

(01)
「(お婆さんではなく、)お爺さんが川へ洗濯に行きました。」に於ける「が」と「は」に関しては、
「07月12日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_12.html)」をお読み下さい。
(02)
「(他ならぬ)あのチャップリンが大往生」に於ける「が」に関しては、
「07月14日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_14.html)」をお読み下さい。
(03)
以下の、(04)~(14)に関しては、「確認」のための、「繰り返し」になります。
(04)
① I said fifteen, not fifty.
と言ふ場合は、
① fifteen の、
①   teen を「強調(強く発音)」する。
従って、
(04)により、
(05)
① 私が言ったのは、
①{15、50}
の内の、
①{15}であって、
①{50}ではない。
と言ふ場合は、
①{15}を、「強調」する。
然るに、
(06)
① AはBであって、A以外はBでない
といふ「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
① What I said is fifteen, not fifty.
① 私は15と言ったのであって、50とは言ってゐない。
といふ場合がさうであるやうに、
①「強調」は、「排他的命題」を主張する。
然るに、
(08)
①「Aが」 の「」は「濁音」であって、
②「Aは」 の「は」は「清音」である。
然るに、
(09)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
とあるやうに、
①「濁音」である「~が」の方が、
②「清音」である「~は」よりも、「心理的な音量」が「大きい」。
従って、
(03)~(09)により、
(10)
② AはBである。
といふ「日本語」に対する、
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① AがBである=
① AはBであって、A以外はBでない。
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
然るに、
(11)
(BならばAである。)⇔
(Bであって、Aでない)といふことはない。⇔
(Aでなくて、Bである)といふことはない。⇔
(AでないならばBでない。)
従って、
(12)
(BならばAである。)   といふ「命題」は、その「対偶」である所の、
(AでないならばBでない。)といふ「命題」に等しい。
cf.
(B→A)=~(B&~A)=~(~A&B)={~(~A)∨~B}=(~A→~B)
従って、
(12)により、
(13)
(BならばAである。)   =(BはAである。)  といふ「命題」は、
(AでないならばBでない。)=(A以外はBでない。)といふ「命題」に等しい。
従って、
(10)(13)により、
(14)
② AはBである。
といふ「日本語」に対する、
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① AがBである=
① AはBであって、A以外はBでない(BはAである)。
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
然るに、
(15)
③{ゾウ、キリン、カバ}
に於いて、
③ 鼻は、ゾウ 以外は、長くなく、
③ 首は、キリン以外は、長くなく、
③ 口は、カバ 以外は、大きくない。
従って、
(14)(15)により、
(16)
③{ゾウ、キリン、カバ}
に於いて、
③ ゾウが、 鼻が長く、
③ キリンが、首が長く、
③ カバが、 口が大きい。
は、「排他的命題」である。
従って、
(17)
③{ゾウ、キリン、カバ}
に於いて、
③ ゾウ の鼻が、長く、
③ キリンの首が、長く、
③ カバ の口が、大きい。
は、「排他的命題」である。
従って、
(18)
③{ゾウ、キリン、カバ}
に於いて、
③ 鼻は、ゾウ が長く、
③ 首は、キリンが長く、
③ 口は、カバ が大きい。
は、「排他的命題」である。
然るに、
(19)
右のやうに、
③{ゾウ、キリン、カバ}
といふ「集合」を「意識」する場合は、
③ 鼻は、ゾウが長い。
である一方で、
④{(ゾウの)鼻、(ゾウの)耳、(ゾウの)口}
といふ「集合」を「意識」する場合は、
④ ゾウは、鼻が長い。
である。
(20)
③{ジョン、ポール、ジョージ、リンゴ}
といふ「集合」を「意識」する場合は、
③ ベースは、ポールが上手い。
である一方で、
④{(ポールの)べース、(ポールの)ギター、(ポールの)ドラムス}
といふ「集合」を「意識」する場合は、
④ ポールは、ベースが上手い。
である。
然るに、
(21)
③{ジョン、ポール、ジョージ、リンゴ}
ではなく、
④{(ポールの)べース、(ポールの)ギター、(ポールの)ドラムス}
といふ「集合」を「意識」するといふことは、
④{ポール}
といふ「集合」だけを、「意識」してゐる
従って、
(14)(20)(21)により、
(22)
④ ゾウは、鼻が長い。
④ ポールは、ベースが上手い。
のやうな、
④ Aは、BがCである。
の場合は、
④{A}といふ「集合」だけを、「意識」して、
④ BはCであり、(相対的に)B以外はCではない。
といふ風に、述べてゐる。
然るに、
(23)
⑤ BもCである。⇔
⑤ BはCであり、B以外もCである。
(24)
⑥ BはCである。⇔
⑥ BはCである。
従って、
(14)(23)(24)により、
(25)
④ BがCである。⇔ BはCであり、B以外はCでない。
⑤ BもCである。⇔ BはCであり、B以外Cである。
⑥ BはCである。⇔ BはCである。
従って、
(25)により、
(26)
④ ゾウは、鼻が長い。
とは言はずに、敢へて、
⑥ ゾウは、鼻は長い。
と言ふ場合は、
⑤ 鼻以外も長い。  
④ 鼻以外は長くない。
に於いて、
⑤ であるのか、
④ であるのかが、「判別」出来ない。
従って、
(27)
④ ゾウは、鼻が長い。
といふことが、「最も言ひたいこと」であるからこそ、
④ ゾウは、鼻が長く(、鼻以外はさうでもない)。
と言ふ場合に、敢へて、
⑥ ゾウは、鼻は長い。
といふ風に、言ふべきではない。
従って、
(26)(27)により、
(28)
⑦ 東京には空が無い。
といふことが、その時点に於ける、「最も言ひたいこと」であるならば、敢へて、
⑦ 東京には空も無い。
⑦ 東京には空は無い。
と言べきではない。
従って、
(22)(28)により、
(29)
⑦ 東京には空が無い。
と言ふ場合は、
⑦{東京}だけを「意識」してゐるものの、敢へて、
⑦ 空も無い。
⑦ 空は無い。
と言ふ「必要性」が無かったが故に、
⑦ 空が無い。
といふ「言ひ方」が、選ばれた。とすべきである。
平成28年07月17日、毛利太。
―「関連記事」―
(a)「仮言命題」の「前件」に於ける「が」。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_24.html
(b)「ウナギ(チキン)文」に於ける、「は」と「が」。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/01-httpkannbunn_25.html
(c)小をば(は)学んで大をば(は)忘る。「対格」の強調。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_29.html
(d)Aこそ(が)Bである。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/08/blog-post.html

2016年7月16日土曜日

「漢文の多重否定」:「漢文」は「論理(学)的な言語」である。

(01)
① B<A と書いて。
① Bは必ずAに及ばない。
と読むことにする。
(02)
③ A<B と書いて、
③ Aであっても、Bに及ばない者はゐる。
と読むことにする。
然るに、
(03)
① B<A と、
③ A<B は、「矛盾」する。
然るに、
(04)
③ A<B の「否定」を、
② ~(A<B)=(A≧B)
とはせずに、この場合は、
② ~(A<B)=(A>B)=(B<A)
とする。
然るに、
(05)
③ Aであっても、Bに及ばない者はゐる。
の「否定」は、
② Aであって、Bに及ばない者はゐない
である。
従って、
(01)~(05)により、
(06)
① Bは、必ず、Aに及ばない。
② Aであって、Bに及ばない者はゐない
に於いて、
①=② である。
然るに、
(07)
① Bは、必ず、Aに及ばない。
② Aであって、Bに及ばない者はゐない。
を、「漢文」で書くと、
① B必不如A。
② 無A不如B。
である。
然るに、
(08)
①  B必不如A(一重否定)。
②  無A不如B(二重否定)。
の「否定」は、それぞれ、
③ B不必不如A(二重否定)。
④ 非無A不如B(三重否定)。
である。
従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
①  B必不如A(一重否定)。
②  無A不如B(二重否定)。
③ B不必不如A(二重否定)。
④ 非無A不如B(三重否定)。
に於いて、
①=② であって、
③=④ であって、尚且つ、
①=② と、
③=④ は、「矛盾」する。
然るに、
(10)
① B必不如A=
① B必不〔如(A)〕⇒
① B必〔(A)如〕不=
① Bは必ず〔(Aに)如か〕不=
① Bは必ず〔(Aに)及ば〕ない。
(11)
② 無A不如B=
② 無[A不〔如(B)〕]⇒
② [A〔(B)如〕不]無=
② [Aにして〔(Bに)如か〕不るは]無し=
② [Aであって〔(Bに)及ば〕ないものは]ゐない。
(12)
③ B不必不如A=
③ B不[必不〔如(A)〕]⇒
③ B[必〔(A)如〕不]不=
③ Bは[必ずしも〔(Aに)如か〕不んばあら]不=
③ Bは[必ずしも〔(Aに)及ば〕ないといふことでは]ない。
(13)
④ 非無A不如B=
④ 非{無[A不〔如(B)〕]}⇒
④ {[A〔(B)如〕不]無}非==
④ {[Aにして〔(Bに)如か〕不るは]無きに}非ず=
④ {[Aであって〔(Bに)及ば〕ないものは]いない}といふわけではない。
従って、
(09)~(13)により、
(14)
①    生徒は必ず〔(教師に)及ば〕ない。
②  [教師であって〔(生徒に)及ば〕ないものは]ゐない。
③ 生徒は[必ずしも〔(教師に)及ば〕ない]といふことではない。
④ {[教師であって〔(生徒に)及ば〕ないものは]いない}といふわけではない。
に於いて、
①=② であって、
③=④ であって、尚且つ、
①=② と、
③=④ は、「矛盾」する。
然るに、
(15)
① 生徒は必ず、教師に及ばない。
といふことは、
① 生徒であって、教師に及ぶものはゐない。
といふことであって、
① 生徒であって、教師に及ぶものはゐない。
といふことは、
② 教師であって、生徒に及ばないものはゐない。
といふことに、「等しい」。
然るに、
(16)
③ 生徒は、必ずしも、教師に及ばない。といふことではない。
といふことは、要するに、
③ ある生徒は、教師を超えてゐる。
といふことであり、
③ ある生徒は、教師を超えてゐる。
といふことは、
④ 教師であって、生徒に及ばないものがゐる。
といふことに、「等しい」。
然るに、
(17)
① 生徒は、必ず教師に及ばない。
といふことと、
④ 教師であって、生徒に及ばないものがゐる。
といふことは、「矛盾」する。
然るに、
(18)
④ 教師であって、生徒に及ばないものはいない。といふわけではない。
といふことは、要するに、
④ 教師であって、生徒に及ばないものがゐる。
といふことであり、
④ 教師であって、生徒に及ばないものがゐる。
といふことと、
② 教師であって、生徒に及ばないものはゐない
といふことは、「矛盾」そのものである。
従って、
(15)~(18)により、
(19)
①    生徒は必ず〔(教師に)及ば〕ない。
②  [教師であって〔(生徒に)及ば〕ないものは]ゐない。
③ 生徒は[必ずしも〔(教師に)及ば〕ないといふことでは]ない。
④ {[教師であって〔(生徒に)及ば〕ないものは]いない}といふわけではない。
に於いて、
①=② であって、
③=④ であって、尚且つ、
①=② と、
③=④ は、「矛盾」する。
従って、
(09)(19)により、
(20)
①    B必不〔如(A)〕
②   無[A不〔如(B)〕]
③  B不[必不〔如(A)〕]
④ 非{無[A不〔如(B)〕]}
に於いて、具体的には、
①    生徒は必ず〔(教師に)及ば〕ない。
②  [教師であって〔(生徒に)及ば〕ないものは]ゐない。
③ 生徒は[必ずしも〔(教師に)及ば〕ないといふことでは]ない。
④ {[教師であって〔(生徒に)及ば〕ないものは]いない}といふわけではない。
といふ「訓読」に於いて、
①=② であって、
③=④ であって、尚且つ、
①=② と、
③=④ は、「矛盾」する。
然るに、
(21)
①    B必不〔如(A)〕
②   無[A不〔如(B)〕]
③  B不[必不〔如(A)〕]
④ 非{無[A不〔如(B)〕]}
に於いて、
非=¬
無=Φ
不=~
必=N
如=G
A=A
B=B
とすると、
①    BN~〔G(A)〕
②   Φ[A~〔G(B)〕]
③  B~[N~〔G(A)〕]
④ ¬{Φ[A~〔G(B)〕]}
となるものの、これらの「式」は、何やら、「論理学的」である。
然るに、
(22)
①    BN~〔G(A)〕
②   Φ[A~〔G(B)〕]
③  B~[N~〔G(A)〕]
④ ¬{Φ[A~〔G(B)〕]}
といふ「論理式」と、
①    B必不〔如(A)〕
②   無[A不〔如(B)〕]
③  B不[必不〔如(A)〕]
④ 非{無[A不〔如(B)〕]}
といふ「論理式」の間に、「本質的な違ひ」はない。
従って、
(23)
「漢文」は、実に、「論理(学)的な言語」である。
然るに、
(24)
④ ¬{Φ[A~〔G(B)〕]}
といふ「命題」は、
④ It is not true that no A is inferior to B.
といふ「英語」に「等しい」。
然るに、
(25)
④ It is not true that no A is inferior to B.
といふ「英語」は、たとへ「論理的」であっても、「論理学的」であるとは、思へない。
然るに、
(26)
④ No A is inferior to B.⇔
④ Aであって、Bよりも劣るAは存在しない。
従って、
(27)
④ It is not true that no A is inferior to B.⇔
④ Aであって、Bよりも劣るAは存在しない。といふことは本当ではない。
であるものの、
④ 非{無[A不〔如(B)〕]}
といふ「漢文」は、
④ Aであって、Bよりも劣るAは存在しない。といふことは本当ではない。
といふ、「意味」である。
従って、
(28)
④ 非{無[師不〔如(弟子)〕]}
といふ「漢文」は、
④ 師匠であって、弟子よりも劣る師匠は存在しない。といふことは本当ではない。
といふ、「意味」である。
従って、
(29)
④ 非{無[師不〔如(弟子)〕]}
といふ「漢文」は、
④ 師匠であっても、弟子よりも、劣ってゐる場合がある。
といふ、「意味」である。
然るに、
(30)
④ 師匠であっても、弟子よりも、劣ってゐる場合がある。
といふことは、
③ 弟子は必ずしも師に及ばないというわけではななく(、弟子の方が優れてゐる場合もある)。
といふことに、他ならない。
従って、
(31)
④ 非{無[師不〔如(弟子)〕]}
といふ「漢文」は、
③ 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
③ 弟子[必〔(師)如〕不]不=
③ 弟子は[必ずしも〔(師に)如か〕ずんば]あらず=
③ 弟子は必ずしも師に及ばないというわけではななく(、弟子の方が優れてゐる場合もある)。
といふ「漢文(韓愈、師説)」に等しい。
平成28年07月16日、毛利太。

2016年7月14日木曜日

「が」と「は」と「の」:「排他的命題」(07月14日)。

(01)
「誰が先生か。象がゐる。鼻はゾウが長い。キリンが首が長い。吾輩は猫である。庭に猫はゐる。」に於ける「が」と「は」に関しては、
「06月26日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/06/blog-post_26.html)」をお読み下さい。
(02)
「お婆さん山へ芝刈りに、お爺さん川へ洗濯に行きました。」に於ける「が」と「は」に関しては、
「07月12日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_12.html)」をお読み下さい。
(03)
① I said fifteen, not fifty.
と言ふ場合は、
① fifteen の、
①   teen を「強調(強く発音)」する。
(04)
① 私は15と言ったのであって、50とは言ってゐない。
と言ふ場合は、
①   15 を「強調(強く発音)」する。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 私が言ったのは、
①{15、50}
の内の、
①{15}であって、
①{50}ではない。
と言ふ場合は、
①{15}を、「強調」する。
然るに、
(06)
① AはBであって、A以外はBでない。
といふ「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
① What I said is fifteen, not fifty.
① 私は15と言ったのであって、50とは言ってゐない。
がさうであるやうに、
①「強調」は、「排他的命題」を主張する。
然るに、
(08)
①「Aが」 の「」は「濁音」であって、
②「Aは」 の「は」は「清音」である。
然るに、
(09)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
とあるやうに、
①「濁音」である「~が」の方が、
②「清音」である「~は」よりも、「心理的な音量」が「大きい」。
従って、
(03)~(09)により、
(10)
② AはBである。
といふ「日本語」に対する、
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① AがBである=
① AはBであって、A以外はBでない。
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
然るに、
(11)
(BならばAである。)⇔
(Bであって、Aでない)といふことはない。⇔
(Aでなくて、Bである)といふことはない。⇔
(AでないならばBでない。)
従って、
(12)
(BならばAである。)   といふ「命題」は、その「対偶」である所の、
(AでないならばBでない。)といふ「命題」に等しい。
cf.
(B→A)=~(B&~A)=~(~A&B)={~(~A)∨~B}=(~A→~B)
従って、
(12)により、
(13)
(BならばAである。)   =(BはAである。)  といふ「命題」は、
(AでないならばBでない。)=(A以外はBでない。)といふ「命題」に等しい。
従って、
(10)(13)により、
(14)
② AはBである。
といふ「日本語」に対する、
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① AがBである=
① AはBであって、A以外はBでない(BはAである)。
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
然るに、
(15)
【1】[が][の]
(2) 連体修飾語を作る。
 夏草や兵どもが夢のあと。
 夏草や兵どもの夢のあと。
(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、154頁改)
然るに、
(16)
③「Aが」 の「が」は「濁音」であって、
④「Aの」 の「」は「清音」である。
従って、
(08)(09)(10)(16)により、
(17)
④ AのB
といふ「古文」に対する、
③ AがB
といふ「古文」は、
③ AがB=
③ A(以外ではない所)のB。
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
然るに、
(18)
ほか【外・他】③ それをのぞいたもの.それ以外 other than this.
(旺文社、英訳つき国語総合辞典、1990年、1259頁)
(19)
(8)断定の助動詞(なり・たり)
[なり]
なら なり なり なる なれ なれ
   に
(代々木ライブラリー、受験国文法、1980年、125頁)
(20)
 1、「ぬ」の識別法
(1)未然形に接続する。打消しの助動詞「ず」の連体形。
(永山勇、識別法中心 国文法の総整理、2000年、32頁)
(18)(19)(20)により、
(21)
③(他ならぬ)=(~以外ではない所の)
といふ、ことになる。
従って、
(17)(21)により、
(22)
③ AがB
といふ「古文」は、
③ AがB=
③(他ならぬ)AのB=
③ A(以外ではない所)のB。
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
然るに、
(23)
③{A、B、C}
に於いて、
③{他ならぬA}={(B、C)以外である所のA}
③{他ならぬB}={(A、C)以外である所のB}
③{他ならぬC}={(A、B)以外である所のC}
である。
従って、
(24)
③{加佐、佐太、多名}
に於いて、
③{他ならぬ佐太}={(加佐、多名)以外である所の佐太}
である。
然るに、
(25)
④ サッタ≠カサ(サッタとカサは、等しくない。)
④ サッタ≠タナ(サッタとタナは、等しくない。)
③ サッタ≒サタ(サッタとサタは、ほぼ等しい。)
従って、
(24)(25)により、
(26)
③{他ならぬサタ}={(サッタと音が通じる所の)他ならぬサタ}
である。
然るに、
(27)
仏教の説話をふまえて薩埵ならぬ「さたが衣を脱ぎかけるかな」と歌をつけてかえした(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、163頁)。
その女房は、水干を直しもせずに投げ返した。直せといったほころび目に歌が書いて結びつけられてある。その歌には、
われが身は竹の林にあらねどもさたが衣を脱ぎかくるかな。
と書いてあった。この歌は、故事をふまえてつくられている。薩埵太子が、餓えた虎に自分の身をあたえて虎を救ったという仏教の有名な話がある。太子は自分の衣を竹の林に脱ぎかけ、虎の前におのが身を食わせたという。
 説教を聞いてその説話を知っていた女房は、「薩埵」と、「佐太」との音がかようところから、その故事をふまえ、「自分の身は、あの薩埵太子が衣を脱いでかけたという竹の林でもないのに、佐太が衣を脱いでかけてくること」という、この歌を作った(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、162頁)。
従って、
(25)(26)(27)により、
(28)
③ その女房が、水干を直しもせずに投げ返した相手の{名前}が、
④{アカ、カサ、タナ、ナハ、ハマ、マヤ、ヤラ}ではない所の、
③{サタ}であるからこそ、
われが身は竹の林にあらねどもサタ(≒薩埵)衣を脱ぎかくるかな。
といふ「歌」は、成立する。
従って、
(22)(27)(28)により、
(29)
③ さた衣=(なら)さたの衣。
③(なら)さたの衣=あの薩埵太子に音が通じる所の(他ならぬ)サタの衣。
といふ、ことになる。
然るに、
(30)
あの(連体)② 自分も相手も了解していることを指す語。
(旺文社、英訳つき国語総合辞典、1990年、29頁)
従って、
(28)(29)(30)により、
(31)
③ さた衣=(私もあなたも知ってゐる所の、他ならぬ、あの)さたの衣。
といふ、ことになる。
然るに、
(32)
④ 佐太の(連体修飾語)衣を
③ 佐太が(連体修飾語)衣を
である以上、「古文」としての、
③ 佐太(主語)が衣を脱ぎかける。
といふ「識別」は、「マチガイ」である。
然るに、
(33)
③ 佐太が衣を脱ぎかける。
といふ「古文」を、「現代語」として、
③ 佐太(主語)が衣を脱ぎかける。
といふ風に、「誤解」する場合であっても、
③ われが身は竹の林にあらねども佐太衣を脱ぎかくるかな。⇒
③ 私の体は竹の林ではないのに(なら)佐太(主語)が衣を脱ぎかける。
となるため、
③(なら)佐太
といふ「意味」は、「保存」される。
従って、
(33)により、
(34)
⑤ チャップリン大往生。
といふ「日本語」を、「古文」として「識別」すると、
⑤ チャップリンが大往生=
⑤(私もあなたも知ってゐる所の、なら、あの)チャップリン大往生。
といふ、ことになり、
⑤ チャップリン大往生。
といふ「日本語」を、「現代文」として「識別」すると、
⑤ チャップリン大往生=
⑤(私もあなたも知ってゐる所の、なら、あの)チャップリン大往生した。
といふ、ことになる。
然るに、
(35)
 あのチャップリン大往生。
のような場合、「あの」がついている以上、未知とはいえないという議論も有りうるが、むしろ既知のものを未知扱いすることによって、驚異を表す表現なのである(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、41頁)。
然るに、
(36)
⑤ あのチャップリン大往生。
といふ「日本語」が、「週刊誌や新聞の見出し」であるならば、
⑤ チャップリンが大往生=
⑤(私もあなたも知ってゐる所の、なら、あの)チャップリン大往生した。
といふ「意味」である。
従って、
(37)
むしろ既知のものを未知扱いすることによって、驚異を表す表現なのである。
といふ「説明」は、受け入れがたい。
(38)
あの(既知)チャップリン(未知)大往生。
であれば、
⑤(知)&(知)
による、「矛盾」である。
(39)
 マリリンモンローがディマジオと結婚!
のような見出しが女性週刊誌を賑わすのは、ガによってその上の体言を未知扱いにし、まったく驚いた、新しい情報だぞ!と読者に迫る手法である(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、41頁)。
然るに、
(40)
⑥(私もあなたも知ってゐる所の、なら)マリリンモンロー結婚した。
からこそ、「記事」になることは、言ふまでもない。
従って、
(14)(22)(36)(40)により、
(41)
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① AがBである=
① AはBであって、A以外はBでない(BはAである)。
といふ「意味」である所の、「排他的命題(Ⅰ)」であって、
③ AがBである。
といふ「日本語」は、
③(他ならぬ)AがBである。
といふ「意味」である所の、「排他的命題(Ⅱ)」である。
(42)
⑦{早い方、遅い方}
に於いて、
⑦ どうせ休むなら、早い方いい=
⑦{早い方}は良く、{遅い方}は良くない
従って、
(43)
どうせ休むなら、早い方がいいね(明暗十六)。
近づかない方がいい(明暗十二)。
の場合は、「排他的命題(Ⅰ)」である。
(44)
⑧「AはBである」が、「CやDはBでない」。
の場合は、
⑧{A、C、D}
に於いて、
⑧「AはBである」以外は、「_はBである」ではない。
といふ「意味」である。
従って、
(44)により、
(45)
⑧ 太郎は男性である、花子は男性ではない。
に於ける、
⑧ が(接続助詞)は、「排他的命題(Ⅰ)」を表わしてゐる。
とすることも、一応は、可能である。
然るに、
(46)
⑨ 熊野の湛蔵、平家重恩の身なりしが、これも背きけり。
⑨ 熊野の湛蔵は平家から大恩を受けた(者)であったが、この者も平家に背いた。
従って、
(46)により、
⑨{熊野の湛蔵、その他}が平家に背いた。
といふ、ことになる。
(47)
⑨ 熊野の湛蔵、平家重恩の身なりし、これも背きけり。
に於ける、
⑧ が(接続助詞)は、「排他的命題(Ⅰ)」を表はしてはいない。
(48)
2を除くすべての素数は奇数であり、特に奇素数と呼ぶ(ウィキペディア)。
従って、
(49)
2以外の素数は、全て奇素数である。
(50)
⑩ 2が素数であるならば、偶素数は存在する。
といふ「仮言命題」は、
⑩ 3が素数であるならば、偶素数は存在する。
⑩ 5が素数であるならば、偶素数は存在する。
⑩ 7が素数であるならば、偶素数は存在する。
といふ「仮言命題」に置き換へることが、出来ない。
従って、
(50)により、
(51)
⑩ 2が素数であるならば、偶素数は存在する。
といふ「仮言命題」に於いて、
⑩ 2が を、
⑩ 他の数に、置き換へることは、出来ない。
それ故、
(52)
⑩ 2が素数であるならば、偶素数は存在する。
といふ「仮言命題」は、
⑩(他ならぬ)2が素数であるならば、偶数の素数は存在する。
といふ「意味」である。
然るに、
(53)
⑩ AがBならば、Cである。
として、
⑩ D≠A ならば、
⑩ DがBならば、Cである。
といふ「仮言命題」は、「真(本当)」であるとは、限らない。
従って、
(54)
⑩ AがBならば、Cである。
といふ「仮言命題」は、固より、
⑩(他ならぬ)AがBならば、Cである。
といふ、「意味」である。
従って、
(52)(54)により、
(55)
⑩ 2素数であるならば、偶素数は存在する。
といふ「仮言命題」の、
⑩(他ならぬ)2素数であるならば、
といふ「前件」は、「排他的命題(Ⅱ)」である。
(56)
①「濁音」である「~が」の方が、
①「清音」である「~は」よりも、「心理的な音量」が「大きく」、尚且つ、
②「強調」は、「排他的命題」を、主張する。
③ A以外はBでない(~A→~B)⇔ BはAである(B→A)。
といふことは、「言はれてみなければ、気付かない」のが、「普通」である。
従って、
(57) ネットで調べても、「強調形・排他的命題」といふ「観点」から「が・は」を説明してゐる「サイト」は、ほとんど、無い。
cf.


平成28年07月14日、毛利太。
―「関連記事」―
(a)鼻はゾウが長く、首はキリンが長い。東京には空が無い。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_17.html
(b)「仮言命題」の「前件」に於ける「が」。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_24.html
(c)「ウナギ(チキン)文」に於ける、「は」と「が」。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/01-httpkannbunn_25.html
(d)小をば(は)学んで大をば(は)忘る。「対格」の強調。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_29.html
(e)Aこそ(が)Bである。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/08/blog-post.html

2016年7月12日火曜日

(お婆さんではなく、)お爺さんが川へ洗濯に行きました。

(01)
「誰が先生か。象がゐる。鼻は象が長い。ガロアには時間がない。マリリンモンローが結婚。吾輩は猫である。庭に猫はゐる。日が暮れる時。」に於ける「が」と「は」に関しては、「06月26日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/06/blog-post_26.html)」をお読み下さい。
(02)
① I said fifteen, not fifty.
と言ふ場合は、
① fifteen の、
①   teen を「強調(強く発音)」する。
(03)
① 私は15と言ったのであって、50とは言ってゐない。
と言ふ場合は、
①   15 を「強調(強く発音)」する。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 私が言ったのは、
①{15、50}
の内の、
①{15}であって、
①{50}ではない。
と言ふ場合は、
①{15}を、「強調」する。
然るに、
(05)
① AはBであって、A以外はBでない
といふ「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
従って、
(02)~(05)により、
(06)
① What I said is fifteen, not fifty.
① 私は15と言ったのであって、50とは言ってゐない。
がさうであるやうに、
①「強調」は、「排他的命題」を主張する。
然るに、
(07)
①「Aが」 の「」は「濁音」であって、
②「Aは」 の「は」は「清音」である。
然るに、
(08)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
とあるやうに、
①「濁音」である「~が」の方が、
②「清音」である「~は」よりも、「心理的な音量」が「大きい」。
従って、
(02)~(08)により、
(09)
② AはBである。
といふ「日本語」に対する、
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① AがBである=
① AはBであって、A以外はBでない。
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
然るに、
(10)
(BならばAである。)⇔
(Bであって、Aでない)といふことはない。⇔
(Aでなくて、Bである)といふことはない。⇔
(AでないならばBでない。)
従って、
(11)
(BならばAである。)   といふ「命題」は、その「対偶」である所の、
(AでないならばBでない。)といふ「命題」に等しい。
cf.
(B→A)=~(B&~A)=~(~A&B)={~(~A)∨~B}=(~A→~B)
従って、
(11)により、
(12)
(BならばAである。)   =(BはAである。)  といふ「命題」は、
(AでないならばBでない。)=(A以外はBでない。)といふ「命題」に等しい。
従って、
(09)(12)により、
(13)
② AはBである。
といふ「日本語」に対する、
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① AがBである=
① AはBであって、A以外はBでない(BはAである)。
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
然るに、
(14)
(3)Elizabeth Windsor = the present queen of England.
  エリザベス・ウィンザーは現在のイングランドの女王である。
  ∃x(Qx&(∀y(Qy → y=x))&x=e))
(W・G・ライカン、言語哲学入門、2005年、19・26・27頁改)
従って、
(15)
③ ∃x(x=e&Qx&(∀y(x≠y → ~Qy)))⇔
③ エリザベス・ウィンザーはイングランドの女王であって、イングランドの女王はエリザベス・ウィンザーである。⇔
③ エリザベス・ウィンザーはイングランドの女王であって、エリザベス・ウィンザー以外はイングランドの女王ではない。
からと言って、必ず、
③ エリザベス・ウィンザーイングランドの女王である。
といふ風に、言ふわけではない。
然るに、
(16)
Q:誰イングランドの女王ですか。
といふ「質問」は、
Q:イングランドの女王を特定して下さい。
といふ、「意味」である。
然るに、
(17)
③ イングランドの女王=エリザベス・ウィンザー
といふ風に、「特定」されるのであれば、
③ エリザベス・ウィンザーは女王であって、エリザベス・ウィンザー以外にイングランドの女王はゐない
従って、
(15)(16)(17)により、
(18)
Q:誰イングランドの女王ですか。
A:エリザベス・ウィンザーイングランドの女王です。
であって、
A:エリザベス・ウィンザーはイングランドの女王です。
とは、言はない。
従って、
(14)(15)(18)により、
(19)
③ BはAである。
③ A以外はBでない。
といふことは、
③ AがBである。
と言ひ得るための、「必要条件」であって、「十分条件」ではない。
然るに、
(20)
④ 地球上には、象以外の動物、存在する。
といふことは、わざわざ、言はなくとも、「常識」である。
従って、
(21)
④ 象ゐる=
④ 象はゐるが、象以外はゐない
と言ふのであれば、
④(今、目の前に)象ゐる。
といふ「意味」になることは、「必然」である。
然るに、
(22)
④(今、目の前に)お爺さんとお婆さんゐる。
を「過去形」にすると、
⑥(昔、ある所に)お爺さんとお婆さんゐた。
従って、
(20)(21)(22)により、
(23)
⑥ 昔々、ある所に、お爺さんとお婆さんが住んでゐました。
⑥ Long,long ago there lived an old man and an old woman.
と言ふ場合は、
⑥ その時点の、その場所に、お爺さんとお婆さんだけが住んでゐて(、他の人間は住んでゐない)。
然るに、
(24)
⑥ The old man went to the mountain to gather wood, and the old woman went to the river to do the washing. ではなく、
⑦ The old woman went to the mountain to gather wood, and the old man went to the river to do the washing. であるならば、
この場合は、「誰もが知ってゐる、桃太郎の話」とは、「」である。
然るに、
(09)により、
(25)
⑦ お爺さん、川へ洗濯に行きました。
といふ「日本語」が、「排他的命題」であるならば、
⑦(お婆さんではなく)お爺さん、川へ洗濯に行きました。
といふ「意味」である。
従って、
(25)により、
(26)
⑦ The old woman went to the mountain to gather wood, and the old man went to the river to do the washing.
に於いて、
⑦「誰でも知ってゐる、桃太郎の話」とは、「」である。
といふことを、「確認」したいのであれば、
⑥ お婆さんは、山へ芝刈りに、お爺さん、川へ洗濯に行きました。
とは言はずに、
⑦ お婆さんは、山へ芝刈りに、お爺さん、川へ洗濯に行きました。
と言ふことは、「不自然」ではない。
従って、
(26)により、
(27)
⑥ お爺さんは、山へ芝刈りに、お婆さん、川へ洗濯に行きました。
の「英訳」が、
⑥ The old man went to the mountain to gather wood, and the old woman went to the river to do the washing.
である一方で、
⑦ The old woman went to the mountain to gather wood, and the old man went to the river to do the washing.
の「和訳」が、
⑥ お婆さんは、山へ芝刈りに、お爺さん、川へ洗濯に行きました。
であることは、少しも、「不自然」ではない。
従って、
(23)(27)により、
(28)
⑦ 昔々、ある所に、お爺さんとお婆さんが住んでゐました。お婆さんは、山へ芝刈りに、お爺さんが、川へ洗濯に行きました。
⑦ Long,long ago there lived an old man and an old woman. The old woman went to the mountain to gather wood, and the old man went to the river to do the washing.
に於いて、
⑦  an old man=お爺さん
the old man=お爺さん
である。
従って、
(29)
⑥ 昔々、ある所に、お爺さんとお婆さんが住んでゐました。お爺さんは、山へ芝刈りに、お婆さんは、川へ洗濯に行きました。
⑥ Long,long ago there lived an old man and an old woman. The old man went to the mountain to gather wood, and the old woman went to the river to do the washing.
に於いて、
⑥  an old man=お爺さん
The old man=お爺さん
であったとしても、
⑦  an old man=お爺さん
the old man=お爺さん
である。
従って、
(29)により、
(30)
(1)新情報か旧情報かによって使い分ける方法。
会話の中や文脈で、主格となる名詞が未知(=新情報)の場合は「」を使って表し、既知(=旧情報)の場合は「」を使って表す。(「が」の使い分け - 日本語教師のページ 用語検索マンボウ)
といふことには、ならない。
平成28年07月12日、毛利太。
―「関連記事」―
(a)「が」と「は」と「の」:「排他的命題」(07月14日)。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_14.html
(b)鼻はゾウが長く、首はキリンが長い。東京には空が無い。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_17.html
(c)「仮言命題」の「前件」に於ける「が」。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_24.html
(d)「ウナギ(チキン)文」に於ける、「は」と「が」。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/01-httpkannbunn_25.html
(e)小をば(は)学んで大をば(は)忘る。「対格」の強調。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_29.html
(f)Aこそ(が)Bである。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/08/blog-post.html

2016年7月6日水曜日

「返り点と、括弧の関係(最も重要な記事)」。

(01)
「返り点に対する「括弧」の用法。」の中で、「最も重要な記事」は、
「括弧・返り点」の研究(Ⅱ)。http://kannbunn.blogspot.com/2016/04/blogpost_24.html です。
ところが、
(02)
「最も重要な記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/04/blog-post_24.html)」は、
「正確」である一方で、いくぶん、「(複雑で)難しく」なってゐます。
そのため、
(03)
今回は、以下に於いて、「最も重要な記事(2016年4月24日、日曜日)」を、「精細ではなく」とも、「分りやすい」やうに、書き換へます。
(04)
以下で言ふ、「括弧」とは、一時的に、数学の式に於ける、
 ( )
{( )}
{( )( )}
と「同じもの」を言ふ。
(05)
以下で言ふ、「返り点」とは、一時的に、
一 二 三 ・ ・ ・ ・ ・
上 中 下
のことを言ふ。
(06)
上中下点(上・下、上・中・下)は、
必ず一二点をまたいで返る場合に用いる。数学の式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考える(原田種成、私の漢文講義、1995年、43頁改)。
といふ「規則」を、認めることにする。
(07)
① 3(12)。
に於いて、
① ( )の中を「先に読む」。
然るに、
(08)
① 3(12)。
に於いて、
① ( )の中を、「先に読む」。といふことは、
① 3(12)⇒
① (12)3。
といふ「倒置」を行った上で、「左から右へ読む」ことに、他ならない。
(09)
② 2(31)。
に於いて、
② ( )の中を「先に読む」。
然るに、
(10)
② 2(31)。
に於いて、
② ( )の中を、「先に読む」。といふことは、
② 2(31)⇒
② (31)2。
といふ「倒置」を行った上で、「左から右へ読む」ことに、他ならない。
然るに、
(11)
① 読漢文=
① 312=
① 3(12)⇒
① (12)3=
① (漢文)読=
① (漢文を)読む。
に対して、
② 文読漢=
② 231=
② 2(31)⇒
② (31)2=
② (読漢)文=
② (読む漢)文を。
である。
従って、
(08)(10)(11)により、
(12)
① ( )
といふ「括弧」を用ゐた、
① 学漢文=漢文を読む。
といふ「漢文訓読」は、「可能」であるが、
② ( )
といふ「括弧」を用ゐた、
② 文読漢=漢文を読む*
といふ「漢文訓読」は、「可能」ではない。
従って、
(11)(12)により、
(13)
① ( )
を用ゐて、
① 3>1<2。
といふ「順番」を、
① 1<2<3。
といふ「順番」に「並び替へる(ソート)」することは「可能」であるが、
② ( )
を用ゐて、
② 2<3>1。
といふ「順番」を、
② 1<2<3。
といふ「順番」に「並び替へる(ソート)」することは「可能」ではない。
然るに、
(14)
② 2( )⇒( )2
② 3{ }⇒{ }3
といふ「倒置」を、
② 文読漢=
② 231=
② 2(3{1)}。
に対して行ふと、
② 文読漢=
② 231=
② 2(3{1)}⇒
② ({1)2}3=
② ({漢)文}読=
② ({漢)文を}読む。
従って、
(14)により、
(15)
② ({ )}
を用ゐて、
② 2<3>1。
といふ「順番」を、
② 1<2<3。
といふ「順番」に「並び替へる(ソート)」することは「可能」である。
然るに、
(04)により、
(16)
② {( )}ではない所の、
② ( )}のやうな「それ」は、「括弧」ではない。
従って、
(13)(15)(16)により、
(17)
②「括弧」を用ゐて、
② 2<3>1。
といふ「順番」を、
② 1<2<3。
といふ「順番」に「並び替へる(ソート)」することは「可能」ではない。
然るに、
(18)

従って、
(18)により、
(19)
① 学漢文=漢文を読む。
といふ「漢文」であれば、「返り点」は、
① 二 一
であるのに対して、
② 文読漢=漢文を読む*
といふ「非文」であれば、「返り点」は、
② 二 三 一
である。
然るに、
(20)
「縦書き」であれば、「」から「」へ「返る点」こそが、「返り点」であって、
「横書き」であれば、「右」から「左」へ「返る点」こそが、「返り点」である。
然るに、
(21)
② 二 三 一
の場合は、
② 二 → 三
であるため、「(上)」から「(下)」へ、「返ってゐる」。
従って、
(19)(20)(21)により、
(22)
① 学漢文=漢文を読む。
に付く、
① 二 一
は、「返り点」であるが、
② 文読漢=漢文を読む*
に付く、
② 二 三 一
は、「返り点」ではない。
従って、
(22)により、
(23)
②「返り点」を用ゐて、
② 2<3>1。
といふ「順番」を、
② 1<2<3。
といふ「順番」に「並び替へる(ソート)」することは「可能」ではない。
従って、
(17)(23)により、
(24)
②「 括弧 」を用ゐても、
②「返り点」を用ゐても、
② 2<3>1。
といふ「順番」を、
② 1<2<3。
といふ「順番」に「並び替へる(ソート)」することは「可能」ではない。
(25)
③ 我不必学漢文学漢字=
③ 192534867=
③ 19{25(34)8(67)}。
に於いて、
③ 5( )⇒( )5
③ 8( )⇒( )5
③ 9{ }⇒{ }9
といふ「倒置」を行ふと、
③ 我不必読漢文学漢字=
③ 192534867=
③ 19{25(34)8(67)}⇒
③ 1{2(34)5(67)8}9=
③ 我{必(漢文)読(漢字)学}不=
③ 我{必ずしも(漢文を)読み(漢字を)学ば}不。
然るに、
(26)
③ 我下{必二(漢一)中(漢上)}。
において、
③ 二( )⇒( )二
③ 中( )⇒( )中
③ 下{ }⇒{ }下
といふ「倒置」を行ふと、
③ 我下{必二(漢一)中(漢上)}⇒
③ 我{必(漢一)二(漢上)中}下。
従って、
(26)により、
(27)
③ 我下{必二(漢一)中(漢上)}。
において、
③ 下=不
③ 二=読
③ 一=文
③ 中=学
③ 上=字
であるならば、
③ 我下{必二(漢一)中(漢上)}⇒
③ 我{必(漢文)読(漢字)学}不=
③ 我{必ずしも(漢文を)読み(漢字を)学ば}ず。
従って、
(25)(26)(27)により、
(28)
③ 我不必読漢文学漢字=
③ 我必ずしも漢文を読み漢字を学ばず。
といふ「漢文訓読」に付く「括弧・返り点」は、
③ { ( )( ) } であって、
③ 下 二 一 中  上 である。
然るに、
(29)
③ 我必読漢文学漢字=
③ 我必ずしも漢文を読み漢字を学ばず。
といふ「漢文」ではなく、
④ 我必読漢文学漢字=
④ 我必ずしも漢文を読み漢字を学ばず*
といふ「非文」を、想定する。
従って、
(27)(28)(29)により、
(30)
④   我=1
=不=9
④     必=2
④ 二=読=5
④   漢=3
④ 一=文=4
④ 中=学=8
④     漢=6
④ 上=字=7
ではなく、
④   我=1
④     必=2
④ 二=読=5
=不=9
④   漢=3
④ 一=文=4
④ 中=学=8
④     漢=6
④ 上=字=7
といふ「非文」を、想定する。
従って、
(31)
④ 二=読
=不
④ 一=文
である。
然るに、
(06)(31)により、
(32)
④ 二  一
といふ「それ」は、「上中下点(上・下、上・中・下)は、必ず一二点をまたいで返る場合に用いる。」といふ「規則」に抵触する。
従って、
(30)(31)(32)により、
(33)
 二 一 中 上
に対して、
④ 二  一 中 上
といふ「返り点」は、有り得ない。
然るに、
(34)
③ 下{二(一)中(上)}⇒
③ {(一)二(上)二}下。
に対して、
④ 二(下中(上)}⇒
④ (二(上)中}下。
である。
然るに、
(04)により、
(35)
③ { ( )( ) }ではない所の、
④ ( { )( ) }のやうな「それ」は、「括弧」ではない。
従って、
(29)(33)(35)により、
(36)
④「返り点」を用ゐても、
④「 括弧 」を用ゐても、
④ 125<9>3<4867。
といふ「順番」を、
④ 1<2<3<4<5<6<7<8<9。
といふ「順番」に「並び替へる(ソート)」することは「可能」ではない。
従って、
(24)(36)により、
(37)
②「 括弧 」を用ゐても、
②「返り点」を用ゐても、
② 2<3>1。
④ 125<9>3<4867。
といふ「順番」を、
② 1<2<3。
④ 1<2<3<4<5<6<7<8<9。
といふ「順番」に「並び替へる(ソート)」することは「可能」ではない。
従って、
(37)により、
(38)
⑤「与えられた順番」が、
⑤ N+1<N+A>N(NとAは自然数で、A≧2)
といふ「順番」を含んでゐる場合は、
②「 括弧 」を用ゐても、
②「返り点」を用ゐても、
⑤「与えられた順番」を、
⑤ 1<2<3<4<5<6<7<8<9。
といふ「順番」に「並び替へる(ソート)」することが、出来ない。
然るに、
(39)

二 一レ
下 上レ
乙 甲レ
地 天レ
一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・ ・ ・ ・ ・
上 中 下
甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
天 地 人
に於いて、

二 一レ
下 上レ
乙 甲レ
地 天レ
の場合は、
二 一 
下 中 上
丙 乙 甲
人 天 地
と、「同じ」ことである。
然るに、
(40)
一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・ ・ ・ ・ ・
上 中 下
甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
天 地 人
といふ「返り点」を、例へば、
⑥ 二 下 丙 人 中 乙 地 上 甲 天 一
<8<C><7<B><6<A>
といふ「形」ではなく、
⑦ B 8 5 2 1 4 3 7 6 A 9
⑦ 人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 地 天
といふ「形」で用ゐる限り、
N+1<N+A>N(NとAは自然数で、A≧2)
といふ「順番」は、表れない。
然るに、
(41)
一・二点をはさんで返るときは上・中・下点。上・中・下点をはさんで返る時は甲・乙点。甲・乙点をはさんで返る時は天・地(天・地・人)である(志村和久、漢文早わかり、1982年、20頁)。
従って、
(41)により、
(42)
⑦ B>8>5<2>1<4>3<7>6<A>9
⑦ 人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 地 天
に対して、
二 下 丙 人 中 乙 地 上 甲 天 一
<8<C><7<B><6<A>
のやうな、
⑤ N+1<N+A>N(NとAは自然数で、A≧2)
といふ「順番の、返り点」は有り得ない。
然るに、
(43)
( )
{ }
を、「拡大」して、
( )
〔 〕
[ ]
{ }
とするならば、
⑦ 人{丙[下〔二(一)中(上)〕乙(甲)]地(天)}⇒
⑦ {[〔(一)二(上)中〕下(甲)乙]丙(天)地}人=
⑦ 一 二 上 中 下 甲 乙 丙 天 地 人。
(44)
( )
〔 〕
[ ]
{ }
を、「拡大」して、
( )
〔 〕
[ ]
{ }
〈 〉
とするならば、
⑧ 人〈丙{下[三〔二(一)〕中(上)]乙(甲)}地(天)〉⇒
⑧ 〈{[〔(一)二〕三(上)中]下(甲)乙}丙(天)地〉人=
⑧ 一 二 三 上 中 下 甲 乙 丙 天 地 人。
従って、
(39)~(44)により、
(45)
( )
〔 〕
[ ]
{ }
といふ「括弧」と、

二 一レ
下 上レ
乙 甲レ
地 天レ
一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
上 中 下
甲 乙 丙 丁 戊 ・ ・ ・ ・ ・
天 地 人
といふ「返り点」の間に、「過不足」が生じない限り、
「括弧」 によって表すことが出来る「返読の順番の集合」は、
「返り点」によって表すことが出来る「返読の順番の集合」に等しい。
然るに、
(46)

二 一レ
下 上レ
乙 甲レ
地 天レ
一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
上 中 下
甲 乙 丙 丁 戊 ・ ・ ・ ・ ・
を「写した、結果」が、
( )
〔 〕
[ ]
{ }
であるとは、「考へ難い」。
従って、
(47)
( )
〔 〕
[ ]
{ }
を「写した、結果」が、

二 一レ
下 上レ
乙 甲レ
地 天レ
一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
上 中 下
甲 乙 丙 丁 戊 ・ ・ ・ ・ ・
であると、すべきである。
従って、
(48)
「括弧」を用ゐずに、「返り点」だけを「用ゐ続ける」ことは、「非理性的」である。
ただし、
(49)
( )
〔 〕
[ ]
{ }
に、「慣れてしまへば」、

二 一レ
下 上レ
乙 甲レ
地 天レ
一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
上 中 下
甲 乙 丙 丁 戊 ・ ・ ・ ・ ・
といふ「返り点」は、
( )
〔 〕
[ ]
{ }
のやうに、見えて来る。
それ故、
(50)
私自身は、「括弧」だけでなく、「返り点」も「得意」であり、尚且つ、「返り点」に対しては、「愛着」を感じてゐる。
平成27年07月06日、毛利太。

2016年7月4日月曜日

「は」と「が」:「強調形」と「排他的命題(Ⅰ&Ⅱ)」と「対偶」と「仮言命題」。

(01)
「誰が先生か。象がゐる。鼻は象が長い。ガロアには時間がない。マリリンモンローが結婚。吾輩は猫である。庭に猫はゐる。日が暮れる時。」に於ける「が」と「は」に関しては、「06月26日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/06/blog-post_26.html)」をお読み下さい。
(02)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
とあるやうに、
①「濁音」である「~」の方が、
①「清音」である「~は」よりも、「心理的な音量」が「大きい」。
従って、
(03)
① AはBである。の「Aは」に対する、
① ABである。の「A」は、「濁音による強調形」である。
然るに、
(04)
① I said fifteen, not fifty.
と言ふ場合は、
① fifteen の、
①   teen が「強調(強く発音)」される。
然るに、
(05)
① 私は15と言ったのであって、私は50とは言ってゐない。
のやうな、
① AはBであって、A以外はBでない
といふ「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」といふ。
従って、
(02)~(05)により、
(06)
① ABである。
といふ「日本語」は、
① AがBである。⇔
① AはBであって、A以外はBでない
といふ「意味」である所の、「排他的命題(濁音による強調形)」である。
然るに、
(07)
(AはBである。)⇔
(AであってBでない)といふことない。
(08)
(AであってBでない)といふことはない。⇔
(BでなくてAである)といふことはない。
(09)
(BでなくてAである)といふことはない。⇔
(B以外はAでない。)
従って、
(07)(08)(09)により、
(10)
(AはBである。)⇔
(B以外はAでない。)
従って、
(10)により、
(11)
(AはBである。)⇔(B以外はAでない。)
(BはAである。)⇔(A以外はBでない。)
であるものの、「このやうな関係」を、「対偶(Contraposition)」と言ふ。
従って、
(06)(11)により、
(12)
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① AがBである。⇔
① AはBであって、BはAである。⇔
① AはBであって、A以外はBではない。
といふ「意味」である所の、「排他的命題(濁音による強調形)」である。
従って、
(12)により、
(13)
① 私が大野です。
といふ「日本語」は、
① 私が大野です。⇔
① 私は大野であって、大野は私である。⇔
① 私は大野であって、私以外は大野ではない。
といふ「意味」である所の、「排他的命題(濁音による強調形)」である。
従って、
(13)により、
(14)
① どちらが大野さんですか。
といふ「質問」を受けて、
① 大野は私です。⇔
① 私以外は大野ではない。
といふ風に、言ひたい場合は、
① 私大野です。
と言ひ、
① 私は大野です。
とは、言はない。
(15)
① ABである。⇔
① AはBであって、A以外はBでない
に対して、
②  ABである。⇔
②(A以外ない所の)AがBである。
といふ場合も、「排他的命題」とし、
① を、「排他的命題(Ⅰ)」とし、
② を、「排他的命題(Ⅱ)」とする。
然るに、
(16)
ほか【外・他】③ それをのぞいたもの.それ以外 other than this.
(旺文社、英訳つき国語総合辞典、1990年、1259頁)
(17)
(8)断定の助動詞(なり・たり)
[なり]
なら なり なり なる なれ なれ
   に
(代々木ライブラリー、受験国文法、1980年、125頁)
(18)
 1、「ぬ」の識別法
(1)未然形に接続する。打消しの助動詞「ず」の連体形。
(永山勇、識別法中心 国文法の総整理、2000年、32頁)
(16)(17)(18)により、
(19)
②(なら)=(~以外ではない所の)
である。
従って、
(15)(19)により、
(20)
②  ABである。⇔
②(なら)AがBである。⇔
②(A以外ない所の)AがBである。
は、「排他的命題(Ⅱ)」である。
然るに、
(21)
 あのチャップリンが大往生。
のような場合、「あの」がついている以上、未知とはえいないという議論も有りうるが、むしろ既知のものを未知扱いすることによって、驚異を表す表現なのである。
(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、41頁)
に於ける、
 あのチャップリンが大往生。
といふ「日本語」は、
②(なら)あのチャップリン
といふ「意味」である。
従って、
(20)(21)により、
(22)
② あのチャップリンが大往生。
といふ「日本語」は、「排他的命題(Ⅱ)」である。
(23)
③ 明日晴れならば、釣りに行きます(現代文)。
③ If it is fine tomorrow, I will go fishing.
は、「仮定条件」であって、
③ 今日晴れなれば、釣りに行かむ(古文)。
③ 今日晴れなので、釣りに行こう(現代文)。
は、「確定条件」である。
然るに、
(24)
【9】[ば](未然形に付く場合、已然形につく場合、の二通りがある。)
・未然形に付き、順接の仮定条件を示す。
・已然形に付き、順接の確定条件を示す。
(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、167頁改)
従って、
(23)(24)により、
(25)
③ 都合悪い(未然形)ならば、会はずに返るだけだ(作例)。
に対して、
③ 都合 悪けれ (已然形)ば、会はずに返るだけだ(明暗)。
といふ「漱石の日本語」は、「古典文法」としては「ヲカシイ」のであって、このことが、「口語」には「已然形」が無くて、「仮定形」があるとされる「所以」である。
従って、
(26)
いづれにせよ、
③ 都合が悪い(未然形)ならば、
③ 都合が悪 けれ (仮定形)ば、
がさうであるやうに、「仮言命題」に於ける「仮定条件」の「主語」は、
③ Aは ではなく、
③ A である。
然るに、
(27)
④ AがBならばCである。
といふ「仮言命題」が「真(本当)」であるとして、
④ D≠A である場合は、
④ DがBならばCである。
といふ「仮言命題」は「真(本当)」であるとは、限らない。
然るに、
(28)
④ AがBならばCである。として、D=A であるならば、DがBならばCである。
といふ「仮言命題」は、「真(本当)」である。
然るに、
(29)
④ D=A である場合とは、
④ DA でない場合に、他ならない。
cf.
二重否定律(law of double negation)。
従って、
(28)(29)により、
(30)
④ AがBならばCである。として、D≠A でないならば、DがBならばCである。
といふ「仮言命題」は、「真(本当)」である。
然るに、
(31)
④ AがBならばCである。として、D=A であるならば、DがBならばCである。
といふことは、
④ AがBならばCである。として、A=A であるならば、AがBならばCである。
といふことに、他ならない。
従って、
(30)(31)により、
(32)
④ AがBならばCである。として、D≠A でないならば、DがBならばCである。
といふことは、
④ AがBならばCである。として、A≠A でないならば、AがBならばCである。
といふことに、他ならない。
然るに、
(33)
④ AA でないならば、
といふことは、
④ AがA以外ではないならば、
といふことに、他ならない。
従って、
(20)(33)により、
(34)
④ AA でないならば、
といふことは、
④(なら)Aならば、
④(A以外ない所の)Aならば、
といふことに、他ならない。
従って、
(20)(27)~(34)により、
(35)
④ AがBならばCである。
といふ「仮言命題」の、
④ ABならば
といふ「前件」は、「排他的命題(Ⅱ)」である。
(36)
2を除くすべての素数は奇数であり、特に奇素数と呼ぶ(ウィキペディア)。
従って、
(37)
以外の素数は、全て素数である。
(38)
④ 2素数であるならば、素数は存在する。
といふ「仮言命題」は、
④ 3が素数であるならば、偶素数は存在する。
④ 5が素数であるならば、偶素数は存在する。
④ 7が素数であるならば、偶素数は存在する。
といふ「仮言命題」に置き換へることが、出来ない。
従って、
(38)により、
(39)
④ 2素数であるならば、偶素数は存在する。
といふ「仮言命題」に於いて、
が を、
の数に、置き換へることは、出来ない
それ故、
(40)
④ 2素数であるならば、偶素数は存在する。
といふ「仮言命題」は、固より、
④(なら)2素数であるならば、偶数の素数は存在する。
といふ「意味」である。
従って、
(40)により、
(41)
④ 2が素数であるならば、偶素数は存在する。
といふ「仮言命題」の、
④ 2素数であるならば、
といふ「前件」は、「排他的命題(Ⅱ)」である。
従って、
(13)(14)(20)(21)(41)により、
(42)
① 私大野です。
といふ「日本語」は、「排他的命題(Ⅰ)」である。
② あのチャップリン大往生。
③ 明日晴れならば、釣りには行きます。
④ 2素数であるならば、偶素数は存在する。
といふ「日本語」は、「排他的命題(Ⅱ)」である。
(43)
(3)Elizabeth Windsor = the present queen of England.
  エリザベス・ウィンザーは現在のイングランドの女王である。
(3)の右辺にある名詞句は確定記述である。そこで、ラッセル流に言い換えてみよう。
現在イングランドの女王である人物が少なくともひとりいる。
かつ、現在イングランドの女王である人物はたかだかひとりである。
かつ、現在イングランドの女王であるものはそれが誰であれエリザベス・ウィンザーと同一人物である。
これを記号にすると次のようになる。
  ∃x(Qx&(∀y(Qy→y=x)&x=e))
(W・G・ライカン、言語哲学入門、2005年、19・26・27頁)
従って、
(12)(43)により、
(44)
⑤ エリザベス・ウィンザーは現在のイングランドの女王である。⇔
⑤ 現在のイングランドの女王はエリザベス・ウィンザーである。⇔
⑤ エリザベス・ウィンザー現在のイングランドの女王である。⇔
⑤ エリザベス・ウィンザーは現在のイングランドの女王であって、 エリザベス・ウィンザー以外は現在のイングランドの女王ではない。
従って、
(12)(43)(44)により、
(45)
⑤ ∃x(Qx&(∀y(Qy→y=x)&x=e))
といふ「論理式」が、「排他的命題(Ⅰ)」でないならば、「矛盾」する。
然るに、
(11)により、
(46)
⑤ ∀y(Qy→y=x)⇔
⑤ ∀y(xy→Qy)
は、「対偶」である。
従って、
(11)(43)(46)により、
(47)
⑤ ∃x(Qx&(∀y(Qy→y=x)&x=e))
⑤(xは現在のイングランドの女王であって、尚且つ、yが現在のイングランドの女王であるならば、yはxと同一人物である。といふことが、全てのyに於いて真であり、尚且つ、xはエリザベス・ウィンザーと同一人物である)といふ、さのやうなxが存在する。
といふ「論理式」は、
⑤ ∃x(x=e&Qx&(∀y(x≠y→~Qy)))
⑤ (xはエリザベス・ウィンザーと同一人物であって、尚且つ、xは現在のイングランドの女王であって、尚且つ、xがyと同一人物でないならば、yは現在のイングランドの女王ではない。といふことが、全てのyに於いて真である)といふ、さのやうなxが存在する。
といふ「論理式」に、等しい。
然るに、
(48)
⑤ xがyと同一人物でないならば、yは現在のイングランドの女王ではない。といふことが、全てのyに於いて真である。
といふことは、
⑤ x以外には、現在のイングランドの女王は存在しない。
といふことに、他ならない。
従って、
(43)~(48)により、
(49)
⑤ The present queen of England = Elizabeth Windsor.
⑤ Elizabeth Windsor = the present queen of England.
といふ「意味」である所の、
⑤ ∃x(Qx&(∀y(Qy→y=x)&x=e))
⑤ ∃x(x=e&Qx&(∀y(x≠y→~Qy)))
といふ「論理式」は、確かに、「排他的命題(Ⅰ)」である。
然るに、
(35)により、
(50)
⑤ y現在のイングランドの女王であるならば、
⑤ xyと同一人物でないならば、
といふ「日本語」は、「排他的命題(Ⅱ)」である。
(51)
⑥「AはBである」が、「CやDはBでない」。
の場合は、
⑥{A、C、D}
に於いて、
⑥「AはBである」以外は、「_はBである」ではない
といふ「意味」である。
従って、
(51)により、
(52)
⑥ 太郎は男性である、花子は男性ではない。
に於ける、
⑥ が(接続助詞)は、「排他的命題(Ⅰ)」である(?)。
平成28年07月04日、毛利太。