2016年7月14日木曜日

「が」と「は」と「の」:「排他的命題」(07月14日)。

(01)
「誰が先生か。象がゐる。鼻はゾウが長い。キリンが首が長い。吾輩は猫である。庭に猫はゐる。」に於ける「が」と「は」に関しては、
「06月26日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/06/blog-post_26.html)」をお読み下さい。
(02)
「お婆さん山へ芝刈りに、お爺さん川へ洗濯に行きました。」に於ける「が」と「は」に関しては、
「07月12日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_12.html)」をお読み下さい。
(03)
① I said fifteen, not fifty.
と言ふ場合は、
① fifteen の、
①   teen を「強調(強く発音)」する。
(04)
① 私は15と言ったのであって、50とは言ってゐない。
と言ふ場合は、
①   15 を「強調(強く発音)」する。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 私が言ったのは、
①{15、50}
の内の、
①{15}であって、
①{50}ではない。
と言ふ場合は、
①{15}を、「強調」する。
然るに、
(06)
① AはBであって、A以外はBでない。
といふ「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
① What I said is fifteen, not fifty.
① 私は15と言ったのであって、50とは言ってゐない。
がさうであるやうに、
①「強調」は、「排他的命題」を主張する。
然るに、
(08)
①「Aが」 の「」は「濁音」であって、
②「Aは」 の「は」は「清音」である。
然るに、
(09)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
とあるやうに、
①「濁音」である「~が」の方が、
②「清音」である「~は」よりも、「心理的な音量」が「大きい」。
従って、
(03)~(09)により、
(10)
② AはBである。
といふ「日本語」に対する、
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① AがBである=
① AはBであって、A以外はBでない。
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
然るに、
(11)
(BならばAである。)⇔
(Bであって、Aでない)といふことはない。⇔
(Aでなくて、Bである)といふことはない。⇔
(AでないならばBでない。)
従って、
(12)
(BならばAである。)   といふ「命題」は、その「対偶」である所の、
(AでないならばBでない。)といふ「命題」に等しい。
cf.
(B→A)=~(B&~A)=~(~A&B)={~(~A)∨~B}=(~A→~B)
従って、
(12)により、
(13)
(BならばAである。)   =(BはAである。)  といふ「命題」は、
(AでないならばBでない。)=(A以外はBでない。)といふ「命題」に等しい。
従って、
(10)(13)により、
(14)
② AはBである。
といふ「日本語」に対する、
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① AがBである=
① AはBであって、A以外はBでない(BはAである)。
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
然るに、
(15)
【1】[が][の]
(2) 連体修飾語を作る。
 夏草や兵どもが夢のあと。
 夏草や兵どもの夢のあと。
(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、154頁改)
然るに、
(16)
③「Aが」 の「が」は「濁音」であって、
④「Aの」 の「」は「清音」である。
従って、
(08)(09)(10)(16)により、
(17)
④ AのB
といふ「古文」に対する、
③ AがB
といふ「古文」は、
③ AがB=
③ A(以外ではない所)のB。
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
然るに、
(18)
ほか【外・他】③ それをのぞいたもの.それ以外 other than this.
(旺文社、英訳つき国語総合辞典、1990年、1259頁)
(19)
(8)断定の助動詞(なり・たり)
[なり]
なら なり なり なる なれ なれ
   に
(代々木ライブラリー、受験国文法、1980年、125頁)
(20)
 1、「ぬ」の識別法
(1)未然形に接続する。打消しの助動詞「ず」の連体形。
(永山勇、識別法中心 国文法の総整理、2000年、32頁)
(18)(19)(20)により、
(21)
③(他ならぬ)=(~以外ではない所の)
といふ、ことになる。
従って、
(17)(21)により、
(22)
③ AがB
といふ「古文」は、
③ AがB=
③(他ならぬ)AのB=
③ A(以外ではない所)のB。
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
然るに、
(23)
③{A、B、C}
に於いて、
③{他ならぬA}={(B、C)以外である所のA}
③{他ならぬB}={(A、C)以外である所のB}
③{他ならぬC}={(A、B)以外である所のC}
である。
従って、
(24)
③{加佐、佐太、多名}
に於いて、
③{他ならぬ佐太}={(加佐、多名)以外である所の佐太}
である。
然るに、
(25)
④ サッタ≠カサ(サッタとカサは、等しくない。)
④ サッタ≠タナ(サッタとタナは、等しくない。)
③ サッタ≒サタ(サッタとサタは、ほぼ等しい。)
従って、
(24)(25)により、
(26)
③{他ならぬサタ}={(サッタと音が通じる所の)他ならぬサタ}
である。
然るに、
(27)
仏教の説話をふまえて薩埵ならぬ「さたが衣を脱ぎかけるかな」と歌をつけてかえした(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、163頁)。
その女房は、水干を直しもせずに投げ返した。直せといったほころび目に歌が書いて結びつけられてある。その歌には、
われが身は竹の林にあらねどもさたが衣を脱ぎかくるかな。
と書いてあった。この歌は、故事をふまえてつくられている。薩埵太子が、餓えた虎に自分の身をあたえて虎を救ったという仏教の有名な話がある。太子は自分の衣を竹の林に脱ぎかけ、虎の前におのが身を食わせたという。
 説教を聞いてその説話を知っていた女房は、「薩埵」と、「佐太」との音がかようところから、その故事をふまえ、「自分の身は、あの薩埵太子が衣を脱いでかけたという竹の林でもないのに、佐太が衣を脱いでかけてくること」という、この歌を作った(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、162頁)。
従って、
(25)(26)(27)により、
(28)
③ その女房が、水干を直しもせずに投げ返した相手の{名前}が、
④{アカ、カサ、タナ、ナハ、ハマ、マヤ、ヤラ}ではない所の、
③{サタ}であるからこそ、
われが身は竹の林にあらねどもサタ(≒薩埵)衣を脱ぎかくるかな。
といふ「歌」は、成立する。
従って、
(22)(27)(28)により、
(29)
③ さた衣=(なら)さたの衣。
③(なら)さたの衣=あの薩埵太子に音が通じる所の(他ならぬ)サタの衣。
といふ、ことになる。
然るに、
(30)
あの(連体)② 自分も相手も了解していることを指す語。
(旺文社、英訳つき国語総合辞典、1990年、29頁)
従って、
(28)(29)(30)により、
(31)
③ さた衣=(私もあなたも知ってゐる所の、他ならぬ、あの)さたの衣。
といふ、ことになる。
然るに、
(32)
④ 佐太の(連体修飾語)衣を
③ 佐太が(連体修飾語)衣を
である以上、「古文」としての、
③ 佐太(主語)が衣を脱ぎかける。
といふ「識別」は、「マチガイ」である。
然るに、
(33)
③ 佐太が衣を脱ぎかける。
といふ「古文」を、「現代語」として、
③ 佐太(主語)が衣を脱ぎかける。
といふ風に、「誤解」する場合であっても、
③ われが身は竹の林にあらねども佐太衣を脱ぎかくるかな。⇒
③ 私の体は竹の林ではないのに(なら)佐太(主語)が衣を脱ぎかける。
となるため、
③(なら)佐太
といふ「意味」は、「保存」される。
従って、
(33)により、
(34)
⑤ チャップリン大往生。
といふ「日本語」を、「古文」として「識別」すると、
⑤ チャップリンが大往生=
⑤(私もあなたも知ってゐる所の、なら、あの)チャップリン大往生。
といふ、ことになり、
⑤ チャップリン大往生。
といふ「日本語」を、「現代文」として「識別」すると、
⑤ チャップリン大往生=
⑤(私もあなたも知ってゐる所の、なら、あの)チャップリン大往生した。
といふ、ことになる。
然るに、
(35)
 あのチャップリン大往生。
のような場合、「あの」がついている以上、未知とはいえないという議論も有りうるが、むしろ既知のものを未知扱いすることによって、驚異を表す表現なのである(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、41頁)。
然るに、
(36)
⑤ あのチャップリン大往生。
といふ「日本語」が、「週刊誌や新聞の見出し」であるならば、
⑤ チャップリンが大往生=
⑤(私もあなたも知ってゐる所の、なら、あの)チャップリン大往生した。
といふ「意味」である。
従って、
(37)
むしろ既知のものを未知扱いすることによって、驚異を表す表現なのである。
といふ「説明」は、受け入れがたい。
(38)
あの(既知)チャップリン(未知)大往生。
であれば、
⑤(知)&(知)
による、「矛盾」である。
(39)
 マリリンモンローがディマジオと結婚!
のような見出しが女性週刊誌を賑わすのは、ガによってその上の体言を未知扱いにし、まったく驚いた、新しい情報だぞ!と読者に迫る手法である(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、41頁)。
然るに、
(40)
⑥(私もあなたも知ってゐる所の、なら)マリリンモンロー結婚した。
からこそ、「記事」になることは、言ふまでもない。
従って、
(14)(22)(36)(40)により、
(41)
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① AがBである=
① AはBであって、A以外はBでない(BはAである)。
といふ「意味」である所の、「排他的命題(Ⅰ)」であって、
③ AがBである。
といふ「日本語」は、
③(他ならぬ)AがBである。
といふ「意味」である所の、「排他的命題(Ⅱ)」である。
(42)
⑦{早い方、遅い方}
に於いて、
⑦ どうせ休むなら、早い方いい=
⑦{早い方}は良く、{遅い方}は良くない
従って、
(43)
どうせ休むなら、早い方がいいね(明暗十六)。
近づかない方がいい(明暗十二)。
の場合は、「排他的命題(Ⅰ)」である。
(44)
⑧「AはBである」が、「CやDはBでない」。
の場合は、
⑧{A、C、D}
に於いて、
⑧「AはBである」以外は、「_はBである」ではない。
といふ「意味」である。
従って、
(44)により、
(45)
⑧ 太郎は男性である、花子は男性ではない。
に於ける、
⑧ が(接続助詞)は、「排他的命題(Ⅰ)」を表わしてゐる。
とすることも、一応は、可能である。
然るに、
(46)
⑨ 熊野の湛蔵、平家重恩の身なりしが、これも背きけり。
⑨ 熊野の湛蔵は平家から大恩を受けた(者)であったが、この者も平家に背いた。
従って、
(46)により、
⑨{熊野の湛蔵、その他}が平家に背いた。
といふ、ことになる。
(47)
⑨ 熊野の湛蔵、平家重恩の身なりし、これも背きけり。
に於ける、
⑧ が(接続助詞)は、「排他的命題(Ⅰ)」を表はしてはいない。
(48)
2を除くすべての素数は奇数であり、特に奇素数と呼ぶ(ウィキペディア)。
従って、
(49)
2以外の素数は、全て奇素数である。
(50)
⑩ 2が素数であるならば、偶素数は存在する。
といふ「仮言命題」は、
⑩ 3が素数であるならば、偶素数は存在する。
⑩ 5が素数であるならば、偶素数は存在する。
⑩ 7が素数であるならば、偶素数は存在する。
といふ「仮言命題」に置き換へることが、出来ない。
従って、
(50)により、
(51)
⑩ 2が素数であるならば、偶素数は存在する。
といふ「仮言命題」に於いて、
⑩ 2が を、
⑩ 他の数に、置き換へることは、出来ない。
それ故、
(52)
⑩ 2が素数であるならば、偶素数は存在する。
といふ「仮言命題」は、
⑩(他ならぬ)2が素数であるならば、偶数の素数は存在する。
といふ「意味」である。
然るに、
(53)
⑩ AがBならば、Cである。
として、
⑩ D≠A ならば、
⑩ DがBならば、Cである。
といふ「仮言命題」は、「真(本当)」であるとは、限らない。
従って、
(54)
⑩ AがBならば、Cである。
といふ「仮言命題」は、固より、
⑩(他ならぬ)AがBならば、Cである。
といふ、「意味」である。
従って、
(52)(54)により、
(55)
⑩ 2素数であるならば、偶素数は存在する。
といふ「仮言命題」の、
⑩(他ならぬ)2素数であるならば、
といふ「前件」は、「排他的命題(Ⅱ)」である。
(56)
①「濁音」である「~が」の方が、
①「清音」である「~は」よりも、「心理的な音量」が「大きく」、尚且つ、
②「強調」は、「排他的命題」を、主張する。
③ A以外はBでない(~A→~B)⇔ BはAである(B→A)。
といふことは、「言はれてみなければ、気付かない」のが、「普通」である。
従って、
(57) ネットで調べても、「強調形・排他的命題」といふ「観点」から「が・は」を説明してゐる「サイト」は、ほとんど、無い。
cf.


平成28年07月14日、毛利太。
―「関連記事」―
(a)鼻はゾウが長く、首はキリンが長い。東京には空が無い。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_17.html
(b)「仮言命題」の「前件」に於ける「が」。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_24.html
(c)「ウナギ(チキン)文」に於ける、「は」と「が」。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/01-httpkannbunn_25.html
(d)小をば(は)学んで大をば(は)忘る。「対格」の強調。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_29.html
(e)Aこそ(が)Bである。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/08/blog-post.html

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