2016年7月25日月曜日

「うなぎ(チキン)文」に於ける、「は」と「が」。

(01)
「(お婆さんではなく、)お爺さんが川へ洗濯に行きました。」に於ける「が」と「は」に関しては、
「07月12日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_12.html)」をお読み下さい。
(02)
「(他ならぬ)あのチャップリンが大往生」に於ける「が」に関しては、
「07月14日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_14.html)」をお読み下さい。
(03)
「鼻はゾウが長く、首はキリンが長い。東京には空が無い。」に於ける「が」と「は」に関しては、
「07月17日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_17.html)」をお読み下さい。
(04)
「仮言命題(仮定条件)」に於ける「が」に関しては、
「07月24日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_24.html)」をお読み下さい。
(05)
「前提」を、共有する必要があるため、「(06)~(20)」を、繰り返します。
(06)
① I said fifteen, not fifty.
と言ふ場合は、
① fifteen の、
①   teen を「強調(強く発音)」する。
従って、
(06)により、
(07)
① 私が言ったのは、
①{15、50}
の内の、
①{15}であって、
①{50}ではない。
と言ふ場合は、
①{15}を、「強調」する。
然るに、
(08)
① AはBであって、A以外はBでない
といふ「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
① What I said is fifteen, not fifty.
① 私は15と言ったのであって、50とは言ってゐない。
といふ場合がさうであるやうに、
①「強調」は、「排他的命題」を主張する。
然るに、
(10)
①「Aが」 の「」は「濁音」であって、
②「Aは」 の「は」は「清音」である。
然るに、
(11)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
とあるやうに、
①「濁音」である「~」の方が、
②「清音」である「~は」よりも、「心理的な音量」が「大きい」。
従って、
(06)~(11)により、
(12)
② AはBである。
といふ「日本語」に対する、
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① AがBである=
① AはBであって、A以外はBでない。
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
然るに、
(13)
(BならばAである。)⇔
(Bであって、Aでない)といふことはない。⇔
(Aでなくて、Bである)といふことはない。⇔
(AでないならばBでない。)
従って、
(14)
(BならばAである。)   といふ「命題」は、その「対偶」である所の、
(AでないならばBでない。)といふ「命題」に等しい。
cf.
(B→A)=~(B&~A)=~(~A&B)={~(~A)∨~B}=(~A→~B)
従って、
(14)により、
(15)
(BならばAである。)   =(BはAである。)  といふ「命題」は、
(AでないならばBでない。)=(A以外はBでない。)といふ「命題」に等しい。
従って、
(12)(15)により、
(16)
② AはBである。
といふ「日本語」に対する、
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① ABである=
① AはBであって、A以外はBでないはAである)。
といふ「意味」である所の、「排他的命題」である。
(17)
の 私話したは誤りです(橋本博士はこれを準體助詞として助詞の中に入れられたが、形式名詞と考へるのが適當であらう。佐久間博士は代名助詞とされる。)(時枝誠記、日本文法 口語編、1978年、78頁)
従って、
(18)
③ 私話したは誤りです。
③ 私食べたいはチキンです。
に於いて、
は、「名詞」である。
然るに、
(19)
【1】[][の]
(1) 主語を示す。
 日の暮るるとき。 汝さりし日。   
(2) 連体修飾語を作る。
 夏草や兵どもの夢のあと。(芭蕉)
(3) 体言代用をする。
 薬は、唐はめでたし。 [訳]薬は中国のものがすばらしい。
 この歌、人麻呂がなり。 [訳]この歌は、人麻呂の歌である。
(4) 同格を示す。
 白き鳥の、嘴と足と赤き、水の上に遊びつつ魚を食ふ。(伊勢物語)
[訳]白い鳥で、口ばしと足が赤いのが、水の上を遊びながら魚を食べる。
(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、154頁改)
従って、
(18)(19)により、
(20)
③ 私食べたいはチキンです。
といふ「言ひ方」は、
③ 汝さりしは去年なりき。
と同じく、
③ 名詞+(格助詞)+連体形+名詞+助動詞。
である。
従って、
(20)により、
(21)
③ 私食べたいはチキンです。
に対して、
③ 私食べたいはチキンです。
といふ「日本語」は有り得ない。
然るに、
(22)
「日本語」の場合は、「言はなくとも分ること」は、「省略」するのが「原則」であるため、
③ 私(が食べたいの)チキンです。
と言ひたい場合は、
③ 私チキンです。
と言ふ。
従って、
(23)
③ 私チキンです。
といふ「日本語」は、
③ What I want to eat is chicken.
といふ「意味」であって、
④ I am a chicken.
といふ「意味」ではない。
然るに、
(24)
「が」「は」を比べた中で、「私がチキンです」「私はチキンです」の例文がしばしば問題となる。どちらも日本語としてはごく普通の文である。それを問題にするのは、前にも記したように、アメリカに渡った野球選手の一人がレストランで、「I am chicken」と言ったという話があったりしたからである。「I am chicken」はおかしな英語なのであろう(あり得る英語であるという意見もあるそうであうるが、確かなことをいうだけの力はない)。 (山口明穂、日本語の論理 言葉に現れる思想、2004年、170頁)
従って、
(23)(24)により、
(25)
アメリカに渡った野球選手の一人がレストランで、「I am chicken」と言ったのは、
③ What I want to eat is chicken.
③ 私(が食べたいの)チキンです。
といふ「意味」での、
③ 私チキンです。
であって、
④ I am a chicken.
といふ「意味」ではない。
然るに、
(26)
④ 私学生です。
の場合は、
④ I am a student.
といふ「意味」である。
従って、
(25)(26)により、
(27)
③ 私は・・・です。
④ 私は・・・です。
といふ「形」だけからは、
③=④
であるのか、
③≠④
であるのか、分らない。
然るに、
(28)
⑤ どちらチキンですか。
⑥ チキンどちらですか。
の場合は、明らかに、
⑤ どちらチキン(を注文したの)ですか。
⑥ チキン(を注文したの)どちらですか。
といふ「意味」である。
然るに、
(29)
⑤ どちらチキンですか。
⑥ チキンどちらですか。
の場合は、
⑤ ABであるか。
⑥ BAであるか。
といふ「形」をしてゐる。
従って、
(16)(29)により、
(30)
⑤ どちらチキン(を注文したの)ですか。
⑥ チキン(を注文したの)どちらですか。
といふ「日本語」は、
① ABである=
① AはBであって、A以外はBでないはAである)。
であるため、
⑤ どちらチキンですか。
⑥ チキンどちらですか。
といふ「疑問文」は、「排他的命題」である。
従って、
(31)
⑤ 私チキンを注文した=
⑤ 私はチキンを注文し、私以外はチキンを注文してゐない(チキンを注文したの私である)。
といふ「事実」が有る場合は、
⑤ どちらチキン(を注文したの)ですか。
⑥ チキン(を注文したの)どちらですか。
といふ「質問」に対して、
⑤ 私チキン(を注文した者)です。
⑥ チキン(を注文した者)私です。
といふ「意味」で、
⑤ 私チキンです。
⑥ チキン私です。
といふ風に、「答へ」ることになる。
平成28年07月25日、毛利太。
―「関連記事」―
(a)小をば(は)学んで大をば(は)忘る。「対格」の強調。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_29.html
(b)Aこそ(が)Bである。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/08/blog-post.html

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