2016年6月2日木曜日

日本語(論理学的)≧英語(論理学的)。

―「繰り返し」になるものの、―
(01)
① 春はあけぼの これだけで、春はあけぼのに限るとか、春のながめはあけぼのが第一だ、というような気持ちを言外にこめた、
いわゆる体言止め完全な文となっている(三省堂、新明解古典シリーズ4、1990年、3頁)。
然るに
(02)
① 今は昔。
① 我は海の子。
① 春はあけぼの。
のやうな「体言止め」こそが、「本来の日本語」である。
cf.
なり =に+あり
である=に+て+あり
従って、
(01(02)により、
(03)
① AならばB。
は、「体言止め」である。
従って、
(03)により、
(04)
① AならばB、でない。
に於いて、
① AならばB、
は、「体言止め」である。
従って、
(04)により、
(05)
① AならばB、でない。
① AならばBである。でない。
① AならばBである。といふことはない。
といふ「三つ日本語」は、等しい。
然るに、
(06)
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’という空所にいれて書くことにしよう;しかし、丸括弧はその内部の表述が連言でないかぎり削除しよう(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、15頁)。
ただし、
(07)
以下では、必要に応じて、
~(  )=(  )~
¬(  )=(  )¬
とする。
然るに、
(08)
A = A
→ = ならば
B = B
~ = でない
従って、
(05)~(08)により、
(09)
① AならばB、でない。
といふ「日本語」は、
①(A → B)~
といふ「論理式」に、等しい。
従って、
(08)(09)により、
(10)
①(A → B)~
といふ「論理式」の、「括弧」を、「句読点」に替へれば、それだけで、
①  AならばB、でない。
といふ「日本語」が、成立する。
cf.
③ A →  B ~
③ AならばBでない。
然るに、
(11)
② ¬(A→B)
といふ「論理式」は、
② It is not true that if it is A then it is B.
といふ「英語」に、相当する。
従って、
(12)
② ¬(   )
といふ「記号」を、
② It is not true that
といふ「英語」に、書き換へて、
②   A→B
といふ「論理式」を、
② if it is A then it is B、
といふ「英語」に、書き換へた「結果」が、
② It is not true that if it is A then it is B.
といふ「英語」である。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
① AならばB、でない。
② It is not true that if it is A then it is B.
に於いて、
①(A→B)~
② ¬(A→B)
といふ「論理式」に、「より近い形」をしてゐるのは、明らかに、
① AならばB、でない。
であって、
② It is not true that if it is A then it is B.
といふ、
② It+copula+否定+形容詞+that 補文.
ではない。
従って、
(13)により、
(14)
② It is not true that if it is A then it is B.
といふ「英語」よりも、
① AならばB、でない。
といふ「日本語」の方が、「論理(学)的」である。
(15)
3+4
 一方、逆ポーランド記法では、加算を表す演算子 + を、被演算子である 3 と 4 の後(右)に置いて、以下のよう記述する。
3 4 +
逆ポーランド記法による表現は日本語などSOV型の言語の文法とよく似ており、上式であれば「3 と 4 を加算する」とそのままの順序で読み下せる。逆ポーランド記法を使うForthの影響を受けているプログラミング言語Mindでは、上式を「3 と 4 とを 足す」と記述する(ウィキペディア)。
(16)
それは彼にちなんで逆ポーランド記法と呼ばれている。この記法は、単に日本語の構造に合致するというだけなく、一切のかっこを用いずに計算の方法を明示できるという利点をもつため、コンピューターでは実際にこの数式が利用されているほどである(大谷泰照、日本人にとって英語とは何か、2007年、30頁)。
従って、
(15)(16)により、
(17)
「コンピューター」といふ「論理機械」を「基準」にすれば、この場合も、「論理(学)的」なのは、「日本語」であって、「英語」ではない。
(18)
数式はたまたま15世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパにおいて、ヨーロッパの言語に象って作り出されたという歴史的偶然を反映したものであるにすぎない(大谷泰照、日本人にとって英語とは何か、2007年、30頁)。
従って、
(19)
「数学や論理学の記号」が「欧米起源」であるが故に、「数学や論理学の式」を、「英語で読む」方が、「日本語で読む」よりも理解しやすい。
といふことは、有り得ない、ことではない。
しかしながら、
(20)
そのことを以て、「英語」の方が「日本語」よりも「論理的」である。とするのは誤りであり、それ故、次のやうに、月本先生が述べてゐることは、正しい。
(21)
先日、数人の大学の先生と話をしているときに、ある先生が「うちの学生が、英語ができるようになったら、数学ができるようになった」と言った。これは、暗に、英語ができるようになった、だから数学ができるようになったと言いたいのである。言い換えれば、日本語では論理的に考えられないから、数学ができない、と言いたいのである。私は「またか」と思った。日本人は、この大学の先生のように、日本語は非論理的であり、論理的思考に向いていないと思い込んでいる人が多い(月本洋、日本語は論理的である、2009年、2頁)。
平成28月06月02日、毛利太。

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