③ PでなくてQである。
④ QであってPでない。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(02)
③ PでなくてQである。といふことはない。
④ QであってPでない。といふことはない。
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(03)
③ PでなくてQである。といふことはない。
④ QであってPでない。といふことはない。
といふことは、
③ PでないならばQでない。
④ QであるならばPである。
といふことに、他ならない。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
③ PでないならばQでない。
④ QであるならばPである。
に於いて、
③=④
であるといふことは、「日本語」として、「正しい」。
然るに、
(05)
1(01)~P→~Q A
2(02) Q A
3(03)~P A
13(04)~Q 13MPP
123(05) Q&~Q 24&I
12 (06)~(~P) 35RAA
12 (07) P 6DN
1 (08) Q→ P 27CP
∴ ~P→~Q├ Q→P
(06)
1(01) Q→P A
2(02)~P A
3(03) Q A
13(04) P 13MPP
123(05)~P&P 24&I
12 (06)~Q 35RAA
1 (07)~P→~Q 26CP
∴ Q→P├ ~P→~Q
従って、
(05)(06)により、
(07)
③ ~P→~Q
④ Q→ P
に於いて、
③=④
であるといふことは、「論理学」として、「正しい」。
従って、
(04)(07)により、
(08)
③ PでないならばQでない(~P→~Q)。
④ QであるならばPである( Q→ P)。
に於いて、
③=④
であるといふこと、すなはち、「対偶」は、「日本語・論理学」として「正しい」。
然るに、
(09)
③ PでないならばQでない。
④ QであるならばPである。
といふことは、
③ P以外はQでない。
④ QはPである。
といふことに、他ならない。
従って、
(08)(09)により、
(10)
③ P以外はQでない。
④ QはPである。
に於いて、
③=④
であるといふこと、すなはち、「対偶」は、「日本語・論理学」として「正しい」。
然るに、
(11)
② 東京が日本の首都である。
③ 東京以外に日本の首都はない。
④ 日本の首都は東京である。
といふ「命題」は、「三つ」とも、「真(本当)」である。
然るに、
(12)
② 東京が日本である。
③ 東京以外に日本はない。
④ 日本は東京である。
といふ「命題」は、「三つ」とも、「偽(ウソ)」である。
然るに、
(13)
① 東京は日本の首都である。
① 東京は日本である。
といふ「命題」は、「二つ」とも、「真(本当)」である。
従って、
(11)(12)(13)により、
(14)
① 東京は日本の首都である。
② 東京が日本の首都である。
③ 東京以外に日本の首都はない。
④ 日本の首都は東京である。
といふ「命題」は、「四つ」とも、「真(本当)」であるが、
① 東京は日本である。
② 東京が日本である。
③ 東京以外に日本はない。
④ 日本は東京である。
といふ「命題」は、「一つ」だけ、「真(本当)」である。
従って、
(14)により、
(15)
③ A以外はBでない。
④ BはAである。
といふことは、
② AがBである。
といふ風に、「言ひ得る」ための、「必要条件」であって、
③ A以外はBでない。
④ BはAである。
といふことは、
① AはBである。
といふ風に、「言ひ得る」ための、「必要条件」ではない。
従って、
(15)により、
(16)
① AはBである。
としても、
③ A以外はBでない。
④ BはAである。
かどうかは、「分からない」ものの、
② AがBである。
ならば、
③ A以外はBでない。
④ BはAである。
といふことが、「確定」する。
従って、
(16)により、
(17)
① AはBである。
とは言はずに、敢へて、
② AがBである。
といふ風に、言ふのであれば、その場合は、
③ A以外はBでない。
④ BはAである。
といふことを、「確認」してゐる、ことになる。
従って、
(10)(17)により、
(18)
何らかの「理由」により、
③ A以外はBでない。
といふことを、「確認」したいのであれば、その場合は、
① AはBである。
とは言はずに、
② AがBである。
④ BはAである。
といふ風に、言ふことになる。
従って、
(18)により、
(19)
③ 私以外は大野ではない。
といふことを、「確認」したいのであれば、その場合は、
① 私は大野です。
とは言はずに、
② 私が大野です。
④ 大野は私です。
といふ風に、言ふことになる。
然るに、
(20)
(3) 未知と既知
この組み合わせは次のような場合に現われる。
私が大野です。
これは、「大野さんはどちらですか」というような問いに対する答えとして使われる。つまり文脈において、「大野」なる人物はすでに登場していて既知である。ところが、それが実際にどの人物なのか、その帰属する先が未知である。その未知の対象を「私」と表現して、それをガで承けた。それゆえこの形は、
大野は私です。
に置きかえてもほぼ同じ意味を表わすといえる(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、34頁)。
従って、
(19)(20)により、
(21)
② 私が大野です。
④ 大野は私です。
といふ「日本語」は、
③ 私以外は大野ではない。
といふ「意味」なのであって、「既知・未知」といふこととは、「関係」がない。
(22)
⑤ そのことだけは、看過できない。
といふ「日本語」は、
⑤ (他のことは兎も角)そのことだけは、看過できない。
といふ、「意味」である。
然るに、
(23)
⑥ そのことだけが、気掛かりである。
といふ「日本語」は、
⑥ そのことが気掛かりであって(、そのこと以外は気掛かりではない)。
といふ、「意味」である。
従って、
(22)(23)により、
(24)
⑤ AだけはBである。
⑥ AだけがBである。
に於いて、
⑤≠⑥ であって、
⑤=⑥ ではない。
然るに、
(25)
② 東京が、 日本の首都である。
⑥ 東京だけが日本の首都である。
の場合は、
②=⑥ であって、
②≠⑥ ではない。
従って、
(26)
② Aが、 Bである。
⑥ AだけがBである。
に於いて、
②=⑥ である。
(27)
① AはBである。
② AがBである。
③ AもBである。
といふ「日本語」は、
① A is B.
② Only A is B.
③ A is B,too.
といふ「意味」である。
然るに、
(28)
① A is B.
② Only A is B.
③ A is B,too.
に於いて、
① A は「主語」である。
② A は「主語」である。
③ A は「主語」である。
従って、
(27)(28)により、
(29)
① AはBである。
② AがBである。
③ AもBである。
に於いて、
① A は「主語」である。
② A は「主語」である。
③ A は「主語」である。
従って、
(29)により、
(30)
①「Aは」Bである。
②「Aが」Bである。
③「Aも」Bである。
に於いて、
①「Aは」は「主語は」である。
②「Aが」は「主語が」である。
③「Aも」は「主語も」である。
従って、
(31)
① AはBである。
に於いては、
①「A 」が、「主語」であって、
①「Aは」は、「主語」ではない。
cf.
ところが、古文では、この「が」「は」「を」が、当然のことのように省略されている場合が、ずいぶん多い。
(中村菊一、重点整理基礎からわかる古典文法、1978年、7頁)。
然るに、
(32)
日本語などの東アジアの言語には必要のない「主語」は、明治維新以降は「脱亜入欧」の掛け声のもと、英文法を真似て導入されたものだった。大野晋も『日本語の世界』付録の丸谷才一との対談、その事情をあっさり認めてゐる。
明治以降、要するに英文法をもとにして、大槻博士が日本語の文法を組み立てた。その時に、ヨーロッパでは文を作る時に必ず主語を立てる。そこで『文には主語が必要』と決めた。そこで日本語では主語を示すのに『は』を使う、と考えたのです。ヨーロッパにあるものは日本にもなくては具合が悪いというわけで、無理にいろんなものを当てはめた。ここまで言い切る大野なら、なぜ「日本語に主語はない」と文部科学省に断固抗議し、学校文法改正の音頭を取らないのだろう。言語学的に何ら根拠のない「ハとガの違い」の説明に拘泥し、三上章の「主語廃止論」を一蹴した国語学会の大御所である大野晋も、学問的に正しく批判さる日がやがて来るだろう。
(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、11頁)
(33)
② A(だけ)がBである。
③ Aも(また)Bである。
であって、
①(少なくとも)AはBである。
である。
然るに、
(34)
①(少なくとも)は「副詞」であって、
②(だけ) は「副詞」であって、
③(また) も「副詞」である。
従って、
(32)(33)(34)により、
(35)
① AはBである。
に於いては、
①「Aは」は、「主語+副詞」であるとすることも、「不可能」ではない。
従って、
(36)
日本語では主語を示すのに『は(副詞)』を使う。
とするならば、マチガイである。
しかしながら、
(37)
① AはBである。
に於ける、
①「Aは」ではなく、
①「A 」を「主語」である。
としても、「不都合」が生じることはなく、それ故、「日本語に主語はない」などといふ「荒唐無稽」は、有り得ない。
(38)
1(01) ~P→~Q A
2(02) ~P&Q A
2(03) ~P 2&E
2(04) Q 2&E
12(05) ~Q 14MPP
12(06) ~Q&Q 45&E
1 (07)~(~P&Q) 26RAA
∴ PでないならばQでない。├ (PでなくてQである)といふことはない。
(39)
1(01)~(~P&Q) A
2(02) ~P A
3(03) Q A
23(04) ~P&Q 34&I
123(05)~(~P&Q)&(~P&Q)
12 (06) ~Q 35RAA
1 (07) ~P→~Q 26CP
∴(PでなくてQである)といふことはない。├ PでないならばQでない。
従って、
(38)(39)により、
(40)
③ PでないならばQでない。
といふことは、「論理学的」には、
③ PでなくてQである。といふことはない。
といふことに、他ならない。
然るに、
(41)
③ PでないならばQでない。⇔
③ PでなくてQである。といふことはない。
といふことは、「論理学」を学ばなくとも、「常識」として「正しい」。
然るに、
(42)
④ QであるならばPである。⇔
④ QであってPでない。といふことはない。
といふことも、「論理学」を学ばなくとも、「常識」として「正しい」。
然るに、
(43)
③ PでなくてQである。といふことはない。
④ QであってPでない。といふことはない。
といふことも、「論理学」を学ばなくとも、「常識」として「正しい」。
従って、
(41)(42)(43)により、
(44)
③ PでないならばQでない(P以外はQでない)。
④ QであるならばPである(QはPである)。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(44)により、
(45)
③ 私以外は大野ではない。
④ 大野は私です。
に於いて、
③=④ である。
といふ「我々の直感」は、「論理学的にも、正しい」。
然るに、
(46)
③ 大野さんはどちらですか。
といふ「問ひかけ」がないにも拘はらず、
① 私は大野です。
とは言はずに、
③ 私以外は大野ではない。
④ 大野は私です。
といふ風に言ふのは、ヲカシイ。
然るに、
(47)
③ 大野さんはどちらですか。
といふ「問ひかけ」がないにも拘はらず、
① 私は大野です。
とは言はずに、
② 私が大野です。
といふ風に言ふのも、ヲカシイ。
従って、
(46)(47)により、
(48)
② 私が大野です。
③ 私以外は大野ではない。
④ 大野は私です。
に於いて、
②=(③=④)
であると、「推定」される。
平成29年05月29日、毛利太。
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「が」=「가」なのか、私には分らない(http://kannbunn.blogspot.com/2017/05/blog-post_22.html)。
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