(01)
① 少年皆有〔其所(愛)少女〕。
② 少年皆〔其の(愛する)所の少女〕有り。
③ ∀x[Boy(x)→∃y〔Girl(y)&Love(x,y)〕]
④ 全てのxに於いて、xが少年であるならば、次のやうなyが存在する。すなはち、yは少女であって、尚且つ、yはxによって愛される。
に於いて
①=②=③=④
である。
然るに、
(02)
⑤ 全てのxにおいて、xが少年であるならば、次のやうなyが存在する。すなわち、yは少女であって、尚且つ、yはxによって愛される。
に対する、「エスペラント語(グーグル翻訳)」は、
⑤ En ĉiuj x, se x estas knabo, estas sekvanta de Yau, kiel kaj. Tio, y estas knabino, krom, y estas amata de x.
である。
それ故、
(03)
① は「漢文」 である。
② は「訓読」 である。
③ は「述語論理」 である。
④ は「日本語」 である。
⑤ は「エスペラント語」である。
然るに、
(04)
中国の口語文(白話文)も、漢文とおなじように漢字を使っていますが、もともと二つのちがった体系で、単語も文法もたいへんちがうのですから、いっしょにあつかうことはできません。漢文と中国語は別のものです(魚返善雄、漢文入門、1966年、17頁)。しからば、口語はAxByであるものを、文章語はABとつづめても、これはこれで完全な文となり得る。かくして記載語のABは、はじめから口語のAxByとは別のものとして発生し、存在したと思われる(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、59頁)。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
①「漢文」 は、「人工言語」である。
③「述語論理」は、「人工言語」である。
然るに、
(06)
エスペラント (Esperanto) とは、ルドヴィコ・ザメンホフが考案した人工言語。母語の異なる人々の間での意思伝達を目的とする、いわゆる国際補助語としては最も世界的に認知され、普及の成果を収めた言語となっている[要出典][1]。(ウィキペディア)
従って、
(05)(06)により、
(07)
①「漢文」 は、「人工言語」である。
③「述語論理」 は、「人工言語」である。
⑤「エスペラント」は、「人工言語」である。
然るに、
(08)
かつて漢文は、東洋のエスペラントであった。漢文で筆談すれば、日本人も、朝鮮人も、ベトナム人も、意思疎通することができた(加藤徹、漢文の素養、2006年、11頁)。シナや極東の王国では、一般に文字をも語を表わすのではなく、事物あるいは観念を表わすような、実物符号で書くのがならいになっている。そしてそれゆえに、たがいに相手の言語を理解しない国々と地方が、それにもかかわらず、たがいに相手の書き物を読むことができるのであるが、それは符号のほうが言語の及ばぬほど広い範囲に了解されるからである。そしてそれゆえに、語根語と(おそらく)同じほどばく大な数の符号があるのである(服部英次郎、多田英次、ベーコン、学問の進歩 他、2005年、124頁)。
(09)
文語体と口語体の区別は、もし簡便な基準を探すとなれば、それは耳で聞いてわかるのが口語体で、目で見なければわからないのが文語体だ、といえる。(「開明文言読本」開明書店、1948、導言)呂叔湘氏は人も知る「中國文法要略」(商務印書館、1942)の著者であり、解放後は中國科学院言語研究所長を勤めている超一流の言語学者であり、文化人である(牛島徳次、中國語の学び方、1977年、60頁)。
従って、
(06)~(09)により、
(10)
「母語の異なる人々の間での意思伝達を目的とする・人工言語」といふ点に於いて、
「漢文」は、 「書き言葉」を「軸」とした、「人工語・普遍語」である。
「エスペラント」は、「話し言葉」を「軸」とした、「人工語・普遍語」である。
然るに、
(11)
しかも、漢字文化をほぼ棄ててしまったため、あれほど自分たちが大事にし、また誇りに思っている李斯朝鮮について、その歴史書を読める人がほとんどいなくなってしまった。歴史が消えたのだ。― 中略 ―、素朴にいえば、日本とて、いまや江戸時代の「歴史書や古文書を読める人がほとんどいなくなってしまった」のではないか(安田敏明、漢字廃止の思想史、2016年、29頁)。
然るに、
(12)
ID非公開さん2004/11/1815:32:45
古文書(崩し字)を読むにあたり、どのような勉強法が有効でしょうか?
ID非公開さん 2004/11/1818:27:11
まずは「かな」文字ですよね。定家のものなどは達筆と言われていますが、癖があるので初学者には難しいでしょう。
従って、
(13)
「古文書」が「読めない」のは、
のやうな、「(ワザと下手な)崩し字(の特に、ひらがな)」が「読めない」からであって、それ故、『素朴にいえば、日本とて、いまや江戸時代の「歴史書や古文書を読める人がほとんどいなくなってしまった」のではないか。』といふ「言ひ方」は、「不当」である。
平成29年05月10日、毛利太。
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