(01)
英語や仏語では「文には主語と述語がある」と言える。ところが本書で観察するように、日本語ではこれは明らかに誤った主張なのだ
(金谷武洋、日本語に主語はいらない、2002年、14頁)。主語を認めると無数の「主語なし文」に「省略」という別の説明を持ち込
む必要があるが、これは多くの場合正しくない(同書、65頁)。
然るに、
(02)
(ニ)成分の省略
(1)主語の省略
(2)述語の省略
(3)客語、補語の省略
(吹野安・小笠原博慧、漢文の語法と故事成語、2005年、45・46頁抜粋)
従って、
(02)により、
(03)
「日本語(訓読)」の場合は、「主語」だけでなく「述語」や「補語」も、「省略」される。
(04)
「漢文訓読の主語」の場合、
α.主語
β.主語は
γ.主語が
に於いて、
一番多いのは、αであって、
全く無いのが、γである。
従って、
(04)により、
(05)
「漢文訓読」の場合は、「β.主語は」と「γ.主語が」の「使い分け」に「悩む必要」がない。
(06)
① 我日本人。
であれば、
① 我は日本人なり。
であって、
① 我、日本人なり。
とは読まない。
(07)
② 我学漢文。
であれば、
② 我、漢文を学ぶ。
と読むのが、「普通」である。
(08)
③ 我学漢文、君学英語。
であれば、
③ 我は漢文を学び、君は英語を学ぶ。
と読むのが、「普通」である。
(09)
口語では、「・・・・・が」は、「鳥が飛ぶ」のように、文全体の主語になるが、「・・・・・の」ほうは、「鳥の飛ぶのを見た。」のように、文の一部の主語にしかならない。
(中村菊一、重点整理 基礎からわかる古典文法、1978年、154・155頁)
従って、
(09)により、
(10)
④ 知(鳥能飛)。
④ 鳥の能く飛ぶを知る。
であれば、
④ 吾知(鳥能飛)。
④ 吾、鳥の能く飛ぶを知る。
④ I know that birds can fly.
のやうに、例へば、
④ 吾=I
が「省略」されてゐる。
然るに、
(11)
⑤ 鳥、吾知(其能飛)。
⑤ 鳥は、吾(其の能く飛ぶを)知る。
の場合は、二畳庵主人も、次のやうに述べてゐるやうに、
もともと「鳥」は「能」の上にあったのに、飛び出して、先頭にきてしまった。そこで、飛びだして抜けたあとを補うために、主語を仮設する必要が生まれたので「其」をもってきたのである。だから、
吾知二鳥能飛一 → 鳥、吾知二其能飛一。
というふうに変形されたものであることがわかる。これを、諸君たちが得意の英文法の用語でいえば「従属節の主語が主節の主語の前に置かれた強意の構文」てなことになろう(二畳庵主人、漢文文法基礎、1984、329頁)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
④ 鳥の能く飛ぶを知る。
⑤ 鳥は、吾其の能く飛ぶを知る。
に於いて、
④ 鳥 は、「従属節の主語」であって、
⑤ 鳥 も、「従属節の主語」である。
然るに、
(13)
④ 吾知(鳥能飛)。
④ 吾、鳥の能く飛ぶを知る。
といふ「漢文(十八史略)」が「正しい」以上、
⑤ 吾不〔知(鳥能飛)〕。
⑤ 吾、鳥の能く飛ぶを知らず。
といふ「漢文(作例)」も、「正しい」。
(14)
⑤ 吾不〔知(鳥能飛)〕。
⑤ 吾、鳥の能く飛ぶを知らず。
といふ「漢文(作例)」が、「正しい」のであれば、
⑥ 先生吾不[知〔其(何許人)〕]。
⑥ 先生は、吾其の何許の人なるかを知らず。
といふ「漢文(作例)」も、「正しい」。
cf.
何許人=いづこ・の人。
従って、
(11)(14)により、
(15)
⑥ 先生吾不[知〔其(何許人)〕]。
⑥ 先生は、吾其の何許の人なるかを知らず。
といふ「漢文(作例)」も、「従属節の主語が主節の主語の前に置かれた強意の構文」である。
然るに、
(16)
④ 知(鳥能飛)。
④ 鳥の能く飛ぶを知る。
がさうであるやうに、「主節の主語」は、「省略可能」である。
従って、
(15)(16)により、
(17)
⑦ 先生不[知〔其(何許人)〕]。
⑦ 先生は、其の何許の人なるかを知らず。
といふ「漢文(作例)」は、「正しい」。
然るに、
(18)
〔 例 〕先生不レ知二何許人一。
〔読み〕先生は何許の人なるかを知らず。
〔 訳 〕先生がどこの出身の人であるかは分からない。〈陶潜・五柳先生伝課〉
〔 注 〕この文の「先生」は主文の主語ではなく、名詞節の主語である。意味内容からすれば、「我不レ知二先生何許人一」ということだが、この文のように表現するから注意を要する(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、60頁)
従って、
(17)(18)により、
(19)
⑦ 先生不[知〔其(何許人)〕]。
⑦ 先生は、其の何許の人なるかを知らず。
といふ「漢文(作例)」と、
⑧ 先生不〔知(何許人)〕。
⑧ 先生は、何許の人なるかを知らず。
といふ「漢文(陶潜)」は、「同じ意味」であって、
⑧「先生は」は、
⑧「主文(主節)の主語」ではなく、「名詞節(従属節)の主語」である。
従って、
(11)(19)により、
(20)
⑤ 鳥は、吾其の能く飛ぶを知る。
⑧ 先生は、何許の人なるかを知らず。
に於いて、
⑤「 鳥 」は、「 知る 」の「主語」ではなく、
⑧「先生」は、「知らず」の「主語」ではない。
(21)
* 鳥獣不レ可二与同一レ群「不レ可下与二鳥獣一同上レ群」の倒置形で、鳥獣を強めるために前に出した。それは主語ではなく、補語である
(三省堂、明解古典学習シリーズ16、1973年、195頁)。
といふのは、
⑨ 不[可〔与(鳥獣)同(群)〕]。
⑨ 鳥獣と与に群を同じくする可からず。
といふ「語順」が、「倒置」によって、
⑨ 鳥獣不[可〔与同(群)〕]。
⑨ 鳥獣は与に群を同じくする可からず。
といふ「語順」になってゐる。
といふ、意味である。
従って、
(22)
「明解古典学習シリーズ16」に書かれてゐる通り、
⑨ 鳥獣不[可〔与同(群)〕]。
⑨ 鳥獣は与に群を同じくする可からず。
に於いて、
⑨ 鳥獣は
といふ「名詞は」は、
⑨ 与=with
といふ「前置詞」の、
⑨ 補語
であって、
⑨ 不可=can not
といふ「それ」の、
⑨ 主語
ではない。
(23)
〔読み〕不仁者は与に言ふべけんや。
〔 訳 〕不仁(広い思いやりの心のないもの)の者とともに話し合うことができようか(とても話し合うことはできない)。
(数学社、風呂で覚える漢文、1998年、42頁)
従って、
(22)(23)により、
(24)
⑩ 不仁者可(与言)哉。
⑩ 不仁者は(与に言ふ)可けんや。
の場合も、
⑩ 可〔与(不仁者)言〕哉。
⑩ 〔(不仁者は)与に言ふ〕可けんや。
であるため、
⑩ 不仁者は
といふ「名詞は」は、
⑩ 与=with
といふ「前置詞」の、
⑩ 補語
であって、
⑩ 不可=can not
といふ「それ」の、
⑩ 主語
ではない。
従って、
(22)(24)により、
(25)
⑨ 鳥獣は与に群を同じくする可からず。
⑩ 不仁者は与に言ふ可けんや。
に於いて、
⑨「 鳥獣 」は、「可からず」の「主語」ではなく、
⑩「不仁者」は、「可けんや」の「主語」ではない。
従って、
(20)(25)により、
(26)
⑤ 鳥は吾其の能く飛ぶを知る。
⑧ 先生は何許の人なるかを知らず。
⑨ 鳥獣は与に群を同じくする可からず。
⑩ 不仁者は与に言ふ可けんや。
に於いて、
⑤ 鳥は
⑧ 先生は
は、「文頭」にあっても、「英語に於ける主語」のやうな「主語」ではなく、
⑨ 鳥獣は
⑩ 不仁者は
は、「文頭」にあるにせよ、「主語」ではなく「補語」であるため、「注意を必要とする」。
平成29年06月04日、毛利太。
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