2017年6月11日日曜日

「先生は」の「は」について(Ⅲ)。

(01)
【啓発】(専門家としての観点から)一般の人が看過しがちな問題および問題点について知識を与えること(新明解国語辞典)。
【徳器】人徳と才能、りっぱな人格(学研漢和大辞典)。
【成就】何かを、思った通りにやってのけること。また、その通りに実現すること(新明解国語辞典)。
従って、
(02)
③ 啓発知〔能成‐就(徳器)〕。
③ 啓発は〔能く(徳器を)成‐就するを〕知る。
に於いて、
③「啓発」が、「知る」の「主語であるとは、思へない
然るに、
(03)

従って、
(03)により、
(04)
① 鳥知(能飛)。
① 鳥吾(其の能く飛ぶを)知る。
② 鯤之大不〔知(幾千里)〕也。
② 鯤の大いさ吾〔(其の幾千里なるを)知ら〕ざる也。
といふ「漢文」が「可能」であるならば、
④ 啓発知〔能成‐就(徳器)〕。
④ 啓発は吾〔其の能く(徳器を)成‐就するを〕知る。
といふ「漢文」も「可能」である。
然るに、
(05)
④ 啓発知〔能成‐就(徳器)〕。
④ 啓発は吾〔其の能く(徳器を)成‐就するを〕知る。
であれば、
④ 私は、〔啓発が、りっぱな人格を実現する。〕といふことを、知ってゐる。
といふ、「意味」になる。
従って、
(02)(05)により、
(06)
④ 啓発知〔能成‐就(徳器)〕。
④ 啓発吾〔其の能く(徳器を)成‐就するを〕知る。
に於いて、
④       
といふ「二つの主語」が「省略」された「形」が、
③ 啓発知〔能成‐就(徳器)〕。
③ 啓発は〔能く(徳器を)成‐就するを〕知る。
である。
然るに、
(07)
⑥ 先生不〔知(何許人)〕。
⑥ 先生は吾〔(其の何許の人なるかを)知ら〕ず。
であれば、
⑥ 私は、〔先生が、何処の人であるか〕といふことを、知らない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(08)

従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
⑥ 先生不〔知(何許人)〕。
⑥ 先生は吾〔(其の何許の人なるかを)知ら〕ず。
に於いて、
⑥         
といふ「二つの主語」が「省略」された「形」が、
⑤ 先生不〔知(何許人)〕。
⑤ 先生は〔(何許の人なるかを)知ら〕ず。
である。といふ、ことになる。
従って、
(06)(08)(09)により、
(10)
③ 啓発能く徳器を成就するを知る。
⑤ 先生何許の人なるかを知らず。
のやうな「日本語」の場合、
③ 啓発
⑤ 先生
は、「主文(主節)の主語」ではなく、「名詞節(従属節)の主語」であるので、注意しなければ、ならない。
然るに、
(11)
③ 啓発知能成就徳器。⇔
③ 啓発能く徳器を成就するを知る。
⑤ 先生不知何許人。⇔
⑤ 先生何許の人なるかを知らず。
といふ「漢文訓読」を、「主文(主節)の主語、名詞節(従属節)の主語」といふ「用語」を用ひずに、説明することは、出来ない。
然るに、
(12)
英語や仏語では「文には主語と述語がある」と言える。ところが本書で観察するように、日本語ではこれは明らかに誤った主張なのだ(金谷武洋、日本語に主語はいらない、2002年、14頁)。

との、ことである。
平成29年06月11日、毛利太。

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