(01)
かつて漢文科かつて漢文学科だった学科や漢文学専攻は、いま、そのほとんすべてが中国文学科や中国文学専攻になってしまっている。そこでは、当然、中国語も履修することになっていて、そこで学んだ方々は、古代の中国文も現代の中国音で発音できるし、またそういう出身の先生は、得意げにそういうように読んでも聞かせたりするもののようである。そこで、日本文学科出身の国語科の先生や、教育学部の国語専修などの出身の先生は、漢文は嫌いではないのだが、生徒からなにか、偽者のように思われて辛い、と聞くことがあったりするのである(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、36頁)。
とのことである。
(02)
中国語教育の普及によって、今現代中国語による接近も可能となった。二種の接近方法は、日本人にとって、それぞれ長所と短所がある。すなわち、両者は排斥し合う関係にではなく、補い合う関係にあると考えられるのが正しい(古田島洋介、湯城吉信、2011年、10頁)。
とのことである。
然るに、
(03)
かつて東アジア一帯での外交や文化交流の際に使われた文体を、中国では「古文」と呼び、日本ではそれを「漢文」と呼んでいる。この文体は、中国の歴史のいつの時代でも、話ことばとはまったくちがうものだった。中国では文字の記録がはじまった当初から、口語の言語と文章に書かれる書面語(いわゆる文語)のあいだに、かなり大きなへだたりがあったと思われる(阿辻哲次、近くて遠い中国語、2007年、116頁)
とのこである。
(04)
現代中国語の文章は、白話の要素を多く引き継いでおり、漢文すなわち文言文の要素をなるべき少なくしようとするのが基本姿勢である(古田島洋介、湯城吉信、2011年、10頁)。
とのことである。
然るに、
(05)
・この文体(漢文)は、中国の歴史のいつの時代でも、話ことばとはまったくちがうものだった。
・現代中国語の文章は、漢文すなわち文言文の要素をなるべき少なくしようとするのが基本姿勢である。
といふのであれば、一体何故、
・漢文を学習する際に於いて、現代中国語(北京語)の学習を、必要とするのか。
といふ、その「理由」が、私には、分らない。
(06)
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
とのことである。
然るに、
(07)
以前にも、書いたやも知れないものの、私の「漢文の独習」は、例へば、次のやうにして行なはれる(た)。
(08)
にあって、例へば、
群臣・・・・・・・・・・。に於ける、「・・・・・・・・・・」の「原文」が、「思ひ出せなかった」とする。と、
その際には、
(09)
といふ「画面」を表示し、
群臣、其言小而功大者亦罰。
非不説於大功也。
以為、不当名也、害甚於有大功。
故罰。
といふ「白文」を、
群臣、其の言小にし而功大なる者も亦た罰せらる。
大功を説ば不るに非ざる也。
以為らく名に当たら不る也、害大功有る於りも甚だし。
といふ風に、「訓読」する。
その上で、
(10)
群臣、其の言小にし而功大なる者も亦た罰せらる。
大功を説ば不るに非ざる也。
以為らく名に当たら不る也、害大功有る於りも甚だし。
といふ「訓読」を、
グンシン、キゲンショウジコウダイシャエキバツ。
ヒフツエツオタイコウヤ。
イヰ、フトウメイヤ、ガイジンオイウタイコウ。
コバツ。
といふ風に、「音読」する。
然るに、
(11)
「(09)と(10)」を「何回か繰り返し」さえすれば、
群臣
といふ「二字」を見ただけで、
群臣、其言小而功大者亦罰。
非不説於大功也。
以為、不当名也、害甚於有大功。
故罰。
といふ「原文」の、
グンシン、キゲンショウジコウダイシャエキバツ。
ヒフツエツオタイコウヤ。
イヰ、フトウメイヤ、ガイジンオイウタイコウ。
コバツ。
といふ「漢字音」が、「口を衝いて、出るやう」になる。
然るに、
(12)
【復文】復文とは、書き下し文(日本語の語順)を、漢文の原文(古典中国語の語順)に復元する作業である(古田島洋介、湯城吉信、2011年、118頁)。
従って、
(11)(12)により、
(13)
群臣、其の言小にし而功大なる者も亦た罰せらる。
大功を説ば不るに非ざる也。
以為らく名に当たら不る也、害大功有る於りも甚だし。
といふ「訓読」を、「口頭」で、何度か「復文」すれば、
群臣、其言小而功大者亦罰。
非不説於大功也。
以為、不当名也、害甚於有大功。
故罰。
といふ「原文」を、「暗誦」出来るやうになる。
然るに、
(14)
例へば、
大功 の「漢音」は、「タイカウ」 であって、
大功 の「呉音」は、「ダイギャウ」である。
然るに、
(15)
平安時代には、桓武天皇(かんむ・てんのう、737-806)が、当時遣唐使がもたらした最新の中国音である「漢音」を用いて漢籍を読むことを奨励されています。延暦11年(792年)閏11月の勅に、次のようにあります。
(原文)勅。明経之徒、不可習吳音。発声誦読、既致訛謬。熟習漢音。
(訓読)勅ちよくす。明経めいけいの徒とは、吳音ごおんを習なろう可べからず。発声はつせい・誦読しようとく、既すでに訛謬かびゆうを致いたせり。漢音かんおんを熟習じゆくしゆうせよ。(Webサイト:日本漢文の世界 kambun.jp)
といふこともあって、私の場合は、嘗て、『旺文社、高校基礎漢和辞典』の「漢音」を「全て、覚えよう」としたものの、「結局は、挫折」した。
従って、
(16)
群臣、其言小而功大者亦罰。
非不説於大功也。
以為、不当名也、害甚於有大功。
故罰。
のやうな「原文」を、
グンシン、キゲンショウジコウダイシャエキバツ。
ヒフツエツオタイコウヤ。
イヰ、フトウメイヤ、ガイジンオイウタイコウ。
コバツ。
といふ風に「暗誦」する際には、「漢文・呉音・唐宋音・慣用音」の、「ゴチャ混ぜ」である。
然るに、
(17)
日本の読み下しは非常に古い注釈に基づいているものとして、それなりの価値を有している、言わば即席解釈法とみなしてもいい。現代中国語と言われるものは概ね北京語に他ならない。北京語と古典中国語(文言)は互いに違う言葉である。北京語(普通話)に通じることは文言の理解を特別に助けるものではない。この事実を無視して、北京語を勉強している日本人の一部の人は一種の錯誤によく陥る。日本の訓読に正反対の読み方が北京語の読み方だという発想(訓読対北京語である)。それは間違っている。実際はどこの音読でもよい。日本語の語順による訓読、読み下しはある程度まで一種の翻訳とみなしても良かろう。音読になると、特別に北京語に依頼する必要がない。北京語に依る音読が他の音読と比べて優れた正確性を有するわけでもない。その他に広東語、上海語、台湾語、ベトナム語、韓国語に依る音読も皆同じく重要視しなければならない。また言うまでもなく、 日本の呉音と漢音に依る音読も極東の他の音読と平等な地位を占める。古典中国語の文章を原文のまま、文法的な変化を加えないで直接に読む限り、どんな音読でも同じぐらいの価値がある(二十一世紀の漢文-死語の将来- (Kanbun for the XXIst Century ―The Future of Dead Languages― )Jean-Noel A. ROBERT (ジャン-ノエル ロベール)フランス パリ国立高等研究院 教授)。
とのことである。
従って、
(18)
群臣、其言小而功大者亦罰。
非不説於大功也。
以為、不当名也、害甚於有大功。
故罰。
といふ「漢文」を、
Qún chén, qí yán xiǎo ér gōng dà zhě yì fá.
Fēi bù shuō yú dàgōng yě.
Yǐwéi, bùdāng míng yě, hài shén yú yǒu dàgōng.
Gù fá.
といふ風に、「発音」しなければならないと、思はない。
従って、
(19)
・中国の歴史のいつの時代でも、話ことばとはまったくちがうものだった。
・現代中国語の文章は、漢文すなわち文言文の要素をなるべき少なくしようとするのが基本姿勢である。
・北京語を勉強している日本人の一部の人は一種の錯誤によく陥る。日本の訓読に正反対の読み方が北京語の読み方だという発想(訓読対北京語である)。それは間違っている。
といふのであれば、「研究者ではない、英語さえ碌に読めないディレッタントの身」としては、「中国語を学びつつ、漢文を学ぶ気」には、到底、なれない。
(20)
・中国の歴史のいつの時代でも、漢文は、話ことばとはまったくちがうものだった
(阿辻哲次、近くて遠い中国語、2007年、116頁)。
・北京語に依る音読が他の音読と比べて優れた正確性を有するわけでもない(ジャン-ノエル ロベール)。
にも拘らず、
・中国文学科に変身した新学科には、訓読を軽蔑し、否定する教授もいらっしゃる(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、38頁)。
といふのであれば、さのやうな教授は、「かつて多くゐた、マル経の教授」と同じく、「正真正銘の、アホ」である。
(21)
なおギリシャ哲学史家の田中美知太郎博士は、音読派と訓読派の対立には現代中国賞賛派(毛沢東信奉派)と伝統中国尊重派の立場の差がという側面もあることを見抜き、そのうえで音読派を徹底するならギリシャ研究者のように発音もその当時のものを復元して読むべきではないかと言っている(土田健次郎、大学における訓読教育の必要性改)。
平成29年06月14日、毛利太。
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