① ¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
は、「ド・モルガンの法則」である。
従って、
(02)
① から、( )を除いた、
② ¬P∧Q=¬P∨¬Q
といふ「式」は、「誤り」である。
然るに、
(03)
括弧は曖昧さがない場合は適当に省略される(赤間世紀、Prologで学ぶ AIプログラミング、2008年、13頁)。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① ¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
に於いて、「( )が省略されてゐる。」のであれば、その時に限って、
② ¬P∧Q=¬P∨¬Q
といふ「等式(ド・モルガンの法則)」は、「正しい」。
従って、
(05)
「( )が省略されてゐる。」と、思へば、その時に限って、
② ¬P∧Q=¬P∨¬Q
といふ「等式(ド・モルガンの法則)」は、「正しい」。
然るに、
(06)
① ¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
③ P→¬Q = Q→¬P
に於いて、
① は、③ に等しい。
cf.
詳しくは、「前回の記事(H26/10/28)の、追記」をお読み下さい。
然るに、
(07)
① 不為児孫買美田(¬P∧Q) =
①(児孫の為に美田を買ふこと)はない=
③ 美田を買ふならば、児孫の為ではない(Q→¬P)。
といふ「等式」が、成立する。
cf.
詳しくは、「前々回の記事(H26/10/27)」をお読み下さい。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
① 不為児孫買美田=
② 不(為児孫買美田)=
③ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(05)(08)により、
(09)
① 不為児孫買美田=
② 不(為児孫買美田)。
といふ風に、「思ってゐる」が故に、
「ド・モルガンの法則、含意の定義、対偶」により、
① 不為児孫買美田=
③ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(10)
① 不為児孫買美田。
に於いて、
不 といふ一字が、
為児孫買美田 といふ六字に、「係ってゐる」。
と、西郷隆盛が「思ってゐる」。
と、我々が「思ってゐる」が故に、
① 不為児孫買美田 =
② 不(為児孫買美田)=
③ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「等式」が、成立する。
cf.
偶 成 西郷南洲
幾歴辛酸志始堅
丈夫玉碎恥甎全 我家遺法人知否 不爲兒孫買美田 |
(11)
尚且つ、
為 といふ一字が、
児孫 といふ二字に、「係ってゐる」。
と、西郷隆盛が「思ってゐる」と、するならば、
不為児孫買美田 =
不〔為(児孫)買美田〕。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(12)
尚且つ、
買 といふ一字が、
美田 といふ二字に、「係ってゐる」。
と、西郷隆盛が、「思ってゐる」と、するならば、
不為児孫買美田 =
不〔為(児孫)買(美田)〕。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(13)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
① 不為児孫買美田 =
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
といふ風に、「(西郷は思ってゐると、)思っても良い」のであれば、
「漢文の補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」
といふ「事実」に基づき、
① 不為児孫買美田 =
① 不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
② 〔(児孫)為(美田)買〕不=
② 〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ、「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(14)により、
(15)
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
② 〔(児孫)為(美田)買〕不。
に於いて、
① は、「漢文の語順」であり、
② は、「国語の語順」である。
と同時に、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
② 〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
に於いて、
① は、「漢文の補足構造」であり、
② は、「国語の補足構造」である。
が故に、
① 〔( )( )〕=
② 〔( )( )〕。
は、「漢文と国語の、補足構造」である。
従って、
(15)により、
(16)
① 不為児孫買美田。
といふ「漢文」を、
② 児孫の為に美田を買は不。
といふ風に、「訓読」する。といふことは、
① 不為児孫買美田。
といふ「漢文の補足構造」を、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
といふ風に、「捉へてゐる」といふことを、「意味」してゐる。
従って、
(16)により、
(17)
① 不為児孫買美田。
といふ「七文字」を、
① フイジソンバイビデン。
といふ風に、「音読」出来るからではなく、
① 不為児孫買美田。
といふ「七文字」が、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
といふ「構造(シンタックス)」が、「見える」からこそ、
② 児孫の為に美田を買は不。
といふ風に、「訓読」出来る。といふことになるし、思ふに、
「書を読むは書を看るに如かず(荻生徂徠、訳文荃蹄・題言)。」
といふのは、このことを言ふ。
従って、
(17)により、
(18)
① 不為児孫買美田 ⇒
② 児孫の為に美田を買は不。
といふ「漢文訓読」は、「漢文の補足構造」に即した、「(定型的な)訳読」である。といふことになる。
従って、
(19)
例へば、
① 不(憤)不(啓)⇒
② (憤せ)不んば(啓せ)不。
すなはち、「論語、述而第七、八」も、「漢文の補足構造」に即した、「(定型的な)訳読」である。といふことになる。
従って、
(19)により、
(20)
① 不(憤)不(啓)⇒
③ If you do not agonize trying to understand, I will not enlighten you(K.Yuhazu 訳).
並びに、
① 不(憤)不(啓)⇒
④ 不到他想求明白却又想不通而苦恼时,不去开导他(K.Yuhazu 訳).
は、「原文の補足構造」に即さない、「(非定型的)意訳」である。といふことになる。
然るに、
(21)
私には、
④ 不到他想求明白却又想不通而苦恼时,不去开导他。
といふ「現代中国語」が、全く分からない。
(22)
「漢字」で書かれているが故に、
求明白却又=求める明白かえってまた
のやうには、読めるものの、これが仮に、
④ Bù dào tā xiǎng qiú míngbái què yòu xiǎng bùtōng ér kǔnǎo shí, bù qù kāidǎo tā(グーグル翻訳).
のやうに「ピンイン(ローマ字)」で書かれてゐたら、「文字通り、完全に、理解不能」となる。
従って、
(23)
その意味では、
③ If you do not agonize trying to understand, I will not enlighten you((K.Yuhazu 訳).
④ Bù dào tā xiǎng qiú míngbái què yòu xiǎng bùtōng ér kǔnǎo shí, bù qù kāidǎo tā(グーグル翻訳).
の二つは、「外国語」といふ点に関しては、全く同じことである。
然るに、
(24)
英語はノルマン人の征服の後、フランス語から多くの語彙を吸収し、何世紀もかけてドイツ語やアイスランド語などの保守的なゲルマン語諸語になお見られる文法的な複雑さの多くを失った。この違いは、現代アイルランド人が現在のアイスランド・サガを読めるのに、『べーオウルフ』のような古英語による叙事詩の言語が、現代のイギリス人読者にとってはまるで異質な言語であることを考えれば明らかである(新曜社、消えゆく言語たち/失われることば、失われる世界、2001年、17・18頁改)。
然るに、
(25)
現代中国語と言われるものは概ね北京語に他ならない。北京語と古典中国語(文言)は互いに違う言葉である。北京語(普通話)に通じることは文言の理解を特別に助けるものではない(Webサイト:二十一世紀の漢文-死語の将来 - 日本文化研究センター)。
従って、
(26)
漢文というものをやってみるとわかるんですが、現代中国語をしゃべれないような人はほんとうは漢文は読めないんです(yellow.ap.teacup.com/kadowaki/248.html )。
といふ「言ひ方」は、
現代英語をしゃべれないドイツ人は、古英語も読めないんです。
といふ「言ひ方」と、同じやうにしか、聞こえない。
(27)
日本語と古典中国語(漢文)も、もちろん、互いに違ふ言葉である。
しかしながら、
(28)
(15)でも書いたやうに、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
② 〔(児孫の)為に(美田を)買は〕ず。
に於いて、
① 〔( )( )〕=
② 〔( )( )〕。
であることからすれば、「漢文と国語の、補足構造」は、「等しい」。
従って、
(29)
① 不為児孫買美田。
② 児孫の為に美田を買はず。
に於ける、「語順の違ひ」だけに着目して、
① 〔( )( )〕=
② 〔( )( )〕。
といふ「捕捉構造」には、触れない形で、国語(日本語)と漢文の違ひを「強調」することは、「正しいやり方」であるとは、思へないし、それと同時、次のやうな事情も、忘れるべきではない。
すなはち、
(30)
われわれ日本人は、実に古い中国の古典語彙をいまなお使用していることに改めて驚かされる。本国の中国で、それらのことばは、とうの昔にわすれられてしまい、古典語彙の辞書の中にその存在を示すにとどまっているのである(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、227頁)。
といふことも、忘れるべきではない。
加へて、
(31)
漢字は、実は、本場の中国においても、その読み方は地域の自由にまかせているのである。― 中略 ―その多様さはインド・ヨーロッパ語族の多様さに優に匹敵する。それゆえに、もし中国においてことばの表記を表音文字にきりかえたならば、同時に十三以上の外国語ができてしまうということになる。(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、134・5頁)。
といふことも、忘れるべきではない。
従って、
(32)
現代中国語をしゃべれないような人はほんとうは漢文は読めないんです。
といふ「言ひ方」は、
現代欧州語をしゃべれないような人はほんとうはラテン語は読めないんです。
といふ「言ひ方」を、想起させるものの、さうしたことが、有り得るとは、思へない。
平成26年10月31日、毛利太。
0 件のコメント:
コメントを投稿