(01)。
大事なことは「実は鏡は左右を逆に映していない。」という点だ。そして「上下も逆に映していない。」のだ。鏡がしていることは「鏡を正面から見たときに手前と奥を逆転させている。」だけなのだ。― 中略 ―。この問題についてインターネットで検索すると、非常に多くのページがヒットするが、間違った説明をしているものがとても多い。ある心理学者は「人間の錯覚である。」などと見当はずれの答を書いているし、別の精神科医は「人間の意識下の問題だ。」とか言って思考停止に陥っている。この問題について大げさなシンポジウムまで開かれていたのを見つけたときは苦笑を禁じえなかった(Webサイト、解答: どうして鏡は左右を逆に映すのに上下はそのままなの? - とね日記)。
(02)
大事なことは「実は鏡は左右を逆に映していない。」という点だ。
といふことは、認めるにしても、それでは何故、「そうした事実」に反して、
鏡が上下でなく左右を反対にするのはなぜでしょうか ... - Yahoo!知恵袋。
といふ風に、思ってしまふのか。といふ、「理由」が知りたい。
(03)
論語に『天子南面』という言葉があります。これは、皇帝などの偉人は南に向いて座り、北面は臣従することを意味しています。また、南に向いたときに日の出の方角(東。つまり左手側)が上座で、日没の方向(西。つまり右手側)が下座とされています(NAVERまとめ)。
従って、
(04)
① 南を向いて坐ってゐる天子にとっての「左側」は、東側である。
② 北を向いて坐ってゐる臣下にとっての「左側」は、西側である。
然るに、
(05)
① 南を向いた状態から、「回れ右」をすれば、北を向く。
② 北を向いた状態から、「回れ右」をすれば、南を向く。
従って、
(04)(05)により、
(06)
「現実の世界」に於いて、
① 南を向いた状態から、「回れ右」をしたにも拘わらず、「左側」が西ではない。
② 北を向いた状態から、「回れ右」をしたにも拘わらず、「左側」が東ではない。
といふことは、有り得ない。
然るに、
(07)
①「鏡の外の自分」が、南を向いてゐるならば、「鏡の中の自分」は、北を向いてゐて、尚且つ、二人とも、「左側」が、東側である。
②「鏡の外の自分」が、北を向いてゐるならば、「鏡の中の自分」は、南を向いてゐて、尚且つ、二人とも、「左側」が、西側である。
従って、
(06)(07)により、
(08)
①「鏡の中の自分」を、「鏡の外の自分」が、「回れ右」をした状態である。と「仮定」すると、「鏡の外の自分にとっての左右」と、「鏡の中の自分にとっての左右」が、「反対」になる。
従って、
(08)により、
(09)
「鏡が上下でなく左右を反対にするのはなぜでしょうか」 といふことが、疑問に思へるのであれば、その人は、「無意識」の内に、「鏡に映る自分の像」を、
①「回れ右」をして「振り返った自分」である。と「仮定」してゐて、
②「逆立ち」をして「振り返った自分」である。と「仮定」してゐない。
然るに、
(10)
「実際」には、
①「鏡に映る自分の像」は、「回れ右」をして「振り返った自分」ではないし、
②「鏡に映る自分の像」は、「逆立ち」をして「振り返った自分」でもない。
従って、
(10)により、
(11)
①「鏡に映る自分の像」が、「回れ右」をして「振り返った自分」である。
とする「仮定」は、
②「鏡に映る自分の像」が、「逆立ち」をして「振り返った自分」である。
といふ「仮定」と、同様に、「偽(ウソ)」である。
従って、
(11)により、
(12)
A:「鏡に映る自分の像」が、「回れ右」をして「振り返った自分」である。
といふ「仮定」が「真(本当)」ではない以上、
B:「鏡に映る自分の像」は、「左右が逆」になる。
といふ風には、言へない。
従って、
(12)により、
(13)
B:「鏡に映る自分の像」は、「左右が逆」になってはいない。以上、
C:「上下が逆」ならずに、「左右が逆」になるのは何故か(?)。
といふ「疑問」自体が、ヲカシイことになる。
(14)
AならばBであり、BならばCである。
然るに、
(15)
Aではない。
従って、
(14)(15)により、
(16)
Aではない以上、Bではなく、固より、
Bではない以上、Cではなくとも、ヲカシクはない。
平成27年03月30日、毛利太。
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