2015年12月28日月曜日

「雑説、韓愈」と「括弧」は有ります!

「昨日の記事」を書き換へます。―
(01)
食(馬)=(馬を)食べる。
ではなく、
食(馬)=(馬を)養ふ。
である。
従って、
(01)により、
(02)
(イ)食(馬)者不〔知(其能千里)而食〕也。
(ロ)食(馬)者不〔知(其能千里)〕而食也。
ではなく、
(イ)養(馬)者不〔知(其能千里)而養〕也。
(ロ)養(馬)者不〔知(其能千里)〕而養也。
とする。
従って、
(03)
(イ)養(馬)者
(ロ)養(馬)者
を除くと、
(イ)不〔知(其能千里)而養〕也。
(ロ)不〔知(其能千里)〕而養也。
である。
然るに、
(04)
*新注では、「祝鮀の佞ありて宋朝の美あらずんば、」と読み、佞美の両方がなければと解する(金谷治、論語、1963年、116頁)。
もっとも以上は、朱子の注の読み方であり、古注では、「祝鮀の佞有らずして宋朝の美有るは、今の世に免れ難し」、つまり弁舌はなくて、美貌だけもっているものは、あぶない(吉川幸次郎、論語上、1965年、167頁)。
とあるやうに、「論語、雍也第六、一六」は、
(イ)不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝美)〕。
(ロ)不〔有(祝鮀之佞〕而有(宋朝美)。
といふ、「二通りの解釈」が、可能である。
従って、
(03)(04)により、
(05)
(イ)不 知其能千里 而 養也(雑説、韓愈)。
(イ)不 有祝鮀之佞 而 有宋朝美(論語、雍也)。
は、それぞれ、「二通りの解釈」が、可能である。
然るに、
(06)
(イ)其の能の千里なるを知りて養は不るなり(雑説、韓愈)。
といふ「訓読」であっても、
(イ)〔(其の能の千里なるを)知りて養は〕不るなり。
(ロ)(其の能の千里なるを)知りて(養は)不るなり。
といふ、「二通りの解釈」が、可能である。
従って、
(05)(06)により、
(07)
(イ)不知其能千里而養也(雑説、韓愈)。
(イ)其の能の千里なるを知りて養は不るなり(雑説、韓愈)。
といふ「漢文訓読」は、「二通りの解釈」が、可能であって、(08)に示す画像は、そのことを、述べてゐる。
(08)


然るに、
(09)
(イ)不〔知(其能千里)而養〕也。
(ロ)不〔知(其能千里)〕而養也。
であれば、中西清先生が指摘してゐる通り、「返り点」は、
(イ)下 二 一 上
(ロ)レ 二 一
であって、尚且つ、
(イ)不〔知(其能千里)而養〕也。
(ロ)不〔知(其能千里)〕而養也。
の「意味」は、同じではない。
然るに、
(10)
「結論」として、
(イ)養(馬)者不〔知(其能千里)而養〕也。
(ロ)養(馬)者不〔知(其能千里)〕而養也。
であれば、「返り点」は、
(イ)下 二 一 上
(ロ)レ 二 一
であって、尚且つ、「論理的」には、「どちらでも良い」。
すなはち、
(11)
(イ)養馬者不知其能千里而養也=
(イ)養(馬)者不〔知(其能千里)而養〕也⇒
(イ)(馬)養者〔(其能千里)知而養〕不也=
(イ)(馬を)養ふ者は〔(其の能の千里なるを)知りて養は〕不るなり。
に対する、
(ロ)養馬者不知其能千里而養也=
(ロ)養(馬)者不〔知(其能千里)〕而養也⇒
(ロ)(馬)養者〔(其能千里)知〕不而養不也=
(ロ)(馬を)養ふ者は〔(其の能の千里なるを)知ら〕不して養ふなり。
であれば、「論理的」に、「変はりが無い」。
(12)
~=不
P=知其能千里=その馬に千里の能力があることを知る。
&=而=そして、
Q=養馬=その馬を養ふ。
とする。
従って、
(12)により、
(13)
(イ)不〔知(其能千里)而養〕也=
(イ)其の能の千里なるを知りて養はざるなり。
の場合は、
(イ)~(P&Q)
であって、
(ロ)不〔知(其能千里)〕而食也=
(ロ)其の能の千里なるを知らずして養ふなり。
の場合は、
(ロ)~(P)&Q
である。
従って、
(13)により、
(14)
つまり(ロ)は、知らないけれども養うことは養っていることになるが、(イ)の方は「知りかつ養う」ことを否定しているので、養っているかどうかもわからないことになる(中西清、漢文研究、1956年、292頁)。
然るに、
(15)
(イ)養(馬)者不〔知(其能千里)而養〕也=
(イ)馬を養ふ者は、其の能の千里なるを知りて養はざるなり。
の場合は、
(イ)Q,~(P&Q)
であって、
(ロ)養(馬)者不〔知(其能千里)〕而食也=
(ロ)馬を養ふ者は、其の能の千里なるを知らずして養ふなり。
の場合は、
(ロ)Q,~(P)&Q
である。
然るに、
(16)
「ド・モルガンの法則、交換則、含意の定義、二重否定」により、
(イ)Q,~(P&Q)=
(イ)Q,~(P)∨~(Q)=
(イ)Q,~(Q)∨~(P)=
(イ)Q,~(~(Q))→~(P)=
(イ)Q,Q→~(P)
然るに、
(17)
「前件肯定」により、
(イ)Q,Q,~(P)
(18)
「連言導入」により、
(イ)Q,Q&~(P)
(19)
「交換則」により、
(20)
(イ)Q,~(P)&Q
従って、
(16)(20)により、
(21)
(イ)Q,~(P&Q)=
(イ)Q,Q→~(P)∴
(イ)Q,~(P)&Q
従って、
(13)(21)により、
(22)
(イ)Q,~(P&Q)∴
(ロ)Q,~(P)&Q
従って、
(15)(22)により、
(23)
(イ)養(馬)者不〔知(其能千里)而養〕也。であるならば、
(ロ)養(馬)者不〔知(其能千里)〕而養也。である。
従って、
(15)(23)により、
(24)
(イ)馬を養ふ者は、其の能の千里なるを知りて養はざるなり。であるならば、
(ロ)馬を養ふ者は、其の能の千里なるを知らずして養ふなり。である。
従って、
(21)(24)により、
(25)
(イ)「馬を養ふ者は、其の能の千里なるを知りて養はざるなり。」と言ふ一方で、
(イ)「馬を養ふ者が、其の能の千里なるを知ってゐる。」とすれば、「矛盾」するため、
(イ)「馬を養ふ者は、其の能の千里なるを知りて養はざるなり。」と言ふのであれば、
(ロ)「馬を養ふ者は、其の能の千里なるを知らずして養ふなり。」とせざるを得ない。
が故に、
(イ)「馬を養ふ者は、其の能の千里なるを知りて養はざるなり。」と言ふのであれば、
(ロ)「馬を養ふ者は、其の能の千里なるを知らずして養ふなり。」と言ふことになる。
ものの、このことは、「命題論理」で言へば、
(イ)Q,~(P&Q)=
(イ)Q,Q→~(P)∴
(イ)Q,~(P)&Q
といふことに、他ならない。
従って、
(23)(24)(25)により、
(26)
(イ)養(馬)者不〔知(其能千里)而養〕也。であるならば、
(ロ)養(馬)者不〔知(其能千里)〕而養也。である。
といふ「命題」は、「論理的」にも、「正しい」。
従って、
(08)(26)により、
(27)
(イ)食馬者不知其能千里而養也。
の「返り点」は、
(イ)下 二 一 上 
であっても、
(ロ)レ 二 一
であっても、どちらでも、「間違ひ」ではない。
然るに、
(28)
(イ)「その馬の能力が千里であることを知った上で養ってゐる。のではない。」といふ場合は、
(イ)「その馬の能力が千里であることを知らない。」といふことを、「間接的に、述べてゐる」。
(29)
(ロ)「その馬の能力が千里であることを知らずに、養ってゐる。」といふ場合は、
(ロ)「その馬の能力が千里であることを知らない。」といふことを、「直接的に、述べてゐる」。
然るに、
(30)
(研究)この文は明君を伯楽に、賢臣を千里の馬にたとえたものである。全文比喩を用いてあるが、比喩ではなくこれを明君と賢臣に置きかえたらどういうことになるであろうか。文章の味もないし、これを読んだ君を怒らして厳罰を受けるであろう。すぐれた人物がいても、これを見出して用いる明君がいない。だから人材は空しく民間に埋もれたまま死んでいく。― 中略 ―、以上のような趣旨で、明君賢臣の関係を論じたものである。
(中西清、漢文研究、1956年、291頁)
従って、
(28)(29)(30)により、
(31)
(ロ)あなたは、明君でないので、私のような賢臣がゐても、あなたは、私の真価に、気づかない。
といふ風に、ストレートには、言ひにくい。はずである。
従って、
(31)により、
(32)
(ロ)不知其能千里而養也=
(ロ)不〔知(其能千里)〕而養也=
(ロ)〔(其の能の千里なるを)知ら〕不して養ふなり=
(ロ)その馬の能力が千里であることを知らずに、養ってゐる。
であるより、
(イ)不知其能千里而養也=
(イ) 不〔知(其能千里)而養〕也=
(イ)〔(其の能の千里なるを)知りて養は〕不るなり=
(イ)その馬の能力が千里であることを知った上で養ってゐる。のではない。
であるものと、思はれる。
従って、
(32)により、
(33)
(イ)不知其能千里而養也。
の「返り点・括弧」は、
(イ)下 二 一 上
(イ)〔  (    )  〕
である。
然るに、
(12)~(26)により、
(34)
(イ)養(馬)者不〔知(其能千里)而養〕也。であるならば、
(ロ)養(馬)者不〔知(其能千里)〕而養也。である。
といふ「命題」は、「論理的」にも、「正しい」ことが、
(イ)Q,~(P&Q)=
(イ)Q,Q→~(P)∴
(ロ)Q,~(P)&Q
といふことに、他ならない。にも、拘はらず、
(イ)養馬者不(知其能千里而養)也。であるならば、
(ロ)養馬者不(知其能千里)而養也。である。
ではない。としたら、「漢文」と「命題論理」は、「矛盾」する。
従って、
(35)
「漢文」と「命題論理」は、「矛盾」しないのであれば、
(イ)養馬者不(知其能千里而養)也。であるならば、
(ロ)養馬者不(知其能千里)而養也。である
といふことは、「漢文」自体で考へても「正しい」。と、せざるを得ない。
従って、
(35)により、
(36)
少なくとも、
(イ)養馬者不知其能千里而養也。
といふ『雑説、韓愈』に、「括弧」は、有ります。
平成27年12月28日、毛利太。

2015年12月24日木曜日

「数学の括弧」との比較。

― 「12月23日の記事」を書き換へます。―
(01)
漢語においては、その実詞に属する単語は、上述のように、介詞や接続詞など、その文法的関係を示すものをなにも用いずに、孤立的に配置されていることが多い。しかし、その配列されている単語の間の文法的な関係によって、その配列のしかたに、一定の順序がある。それで、漢語は、この単語の配列のしかたが、その文法の重要な基礎となっているわけである。この漢語文法の基礎となっている文法的な関係として、次の四つの関係をあげることができる。
(一)主述関係   主語 ― 述語
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語
(三)補足関係 叙述語 ― 補足関係
(四)並列関係 並列語 ― 並列語
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、281~283頁改)
(02)
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語 は、
(a)連用修飾 と、
(b)連体修飾 に、分けることが出来、
(a)は、おおむね、「副詞」であって、
(b)は、おおむね、「形容詞」である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
例へば、
(a)常読=常+読
(b)漢文=漢+文
であれば、
(a)常 と、
(b)漢 は、「(二)修飾語」である。
然るに、
(04)
① 不常読漢文=
② 不{常読(漢文)}⇒
③ {常(漢文)読}不=
③ {常には(漢文を)読ま}ず。
といふ「漢文訓読」は、「正しい」。
従って、
(04)により、
(05)
② 不{ }⇒{ }不
② 読( )⇒( )読
といふ「倒置」は、「正しい」。
然るに、
(06)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(01)(05)(06)により、
(07)
① 不常読漢文=
② 不{常読(漢文)}。
に於ける、
② 不{ }
② 読( )
といふ「二つ」は、「(三)補足関係」を、表してゐる。
従って、
(03)(07)により、
(08)
① 不常読漢文=
② 不{常+読(漢+文)}。
とすれば、
② 不{常+読(漢+文)}。
といふ「形」は、
① 不常読漢文。
といふ「漢文」の、
(三)補足関係 叙述語 ― 補足関係
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語
を、表してゐる。
然るに、
(09)
② E{A+D(B+C)}
は、「数式」である。
従って、
(09)により、
(10)
② 不{常+読(漢+文)}
であっても、「数式」であると、することが、可能である。
従って、
(08)(10)により、
(11)
② 不{常+読(漢+文)}
は、「漢文」であるとすれば「漢文」であって、「数式」であるとすれば、「数式」である。
然るに、
(10)
② 分配法則 により、
② E{A+D(B+C)}=
② E{A+(DB+DC)}=
② {EA+E(DB+DC)}=
② {EA+(EDB+EDC)}
である。
従って、
(10)により、
(11)
② E{A+D(B+C)}
といふ「数式」に於いて、
② D は、
②(B+C) に、「係ってゐて」、
② E は、
② {A+D(B+C)} に、「係ってゐる」。
然るに、
(12)
② 不{常+読(漢+文)}
といふ「漢文」に於いて、
② (漢文を)読む。
であるため、
② 読 は、
② (漢+文) に、「係ってゐる」。
(13)
{常+読(漢+文)}
の場合は、
②「常に漢文を読む。」といふワケではない
といふ「意味」である。
従って、
(13)により、
(14)
② 不{常+読(漢+文)}
に於いて、
② 不 は、
② {常+読(漢+文)} に、「係ってゐる」。
従って、
(11)(12)(14)により、
(15)
「数式」と見なしても、
「漢文」と見なしても、
② 不{常+読(漢+文)}
に於いて、
② 読 は、
② (漢+文) に、「係ってゐて」、
② 不 は、
② {常+読(漢+文)} に、「係ってゐる」。
然るに、
(16)
然るに、
 ( ),{ }
【読み】 かっこ、ちゅう(中)かっこ
【意味】 括弧の中を先に計算する。計算の順序を指示する用途で使う。
(瀬山士郎、数学記号を読む辞典、2013年、53頁)
従って、
(16)により、
(17)
( )の中を先に計算する。
{ }の中を先に計算する。
従って、
(17)により、
(18)
② 5×{1+4×(2+3)}
といふ「計算の順序」は、
③ {1+(2+3)×4}×5=
③ {1+(5)×4}×5=
③ {1+20}×5=
③ {21}×5=
③ 105
といふ「順序」で、行はれる。
然るに、
(19)
② 不{常読(漢文)}⇒
③ {常(漢文)読}不=
③ {常には(漢文を)読ま}ず。
であるため、
② 不×{常+読×(漢+文)}=
② {常+(漢+文)×読}×不
である。
従って、
(18)(19)により、
(20)
② 5×{1+4×(2+3)}=
③ {1+(2+3)×4}×5
であって、
② 不×{常+読×(漢+文)}=
② {常+(漢+文)×読}×不
である。
従って、
(15)(20)により、
(21)
① 不常読漢文=
② 不{常+読(漢+文)}=
② {常+(漢+文)×読}×不。
といふ「漢文」は、敢へて、さうしたいのであれば、「数式」であると、見なすことが、出来る。
従って、
(01)~(21)により、
(22)
あたかも、
① 5×1+4×2+3=16
ではなく、
① 5×1+4×2+3=105
であるならば、
① 5×1+4×2+3=105=
② 5×{1+4×(2+3)}=105
であるやうに、
① 不常読漢文=常には漢文を読まず。
である以上、
① 不常読漢文=
② 不{常+読(漢+文)}。
であると、すべきである。
従って、
(23)
例へば、
① 不常読漢文。
といふ「漢文」は、
① 不常読漢文=フツジョウトクカンブン。
といふ風に、読まうと、
① 不常読漢文=常には漢文を読まず。
といふ風に、読まうと、固より、
② 不{常+読(漢+文)}。
といふ、
②「補足構造 叙述語 ― 補足関係」
②「修飾構造 修飾語 ― 被修飾語」
をしてゐる。
従って、
(24)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様ものである(勉誠出版、訓読論、2008年、60頁)。両者の亀裂は、戦後も親中国革新派の音読、反中国保守派の訓読として、ある意味で現在にまでつづいている(金文京、漢文と東アジア、2010年、88・9頁)。
といふことで、あらふと、であるまいと、「括弧」は、有ります!
平成27年12月24日、毛利太。

2015年12月12日土曜日

分数の割り算(と語順)。

― 「一昨日の記事」を書き直します。―
(01)
6:(3/2)=4:1 ⇔
6÷(3/2)=4 ⇔
6=(3/2)×4 ⇔
6は(3/2)の4倍である。
従って、
(01)により、
(02)
6:(3/2)=囗:1
6÷(3/2)=囗
6=(3/2)×囗
といふ「問題」は、三つとも、
(3/2)を「何倍」すると、6になるか。
といふ「問題」に、等しい。
然るに、
(03)
{(3/2)×(2/3)=1}×6=6
従って、
(04)
(3/2)×{(2/3)×6}=6
(3/2)×{6×(2/3)}=6
(04)により、
(05)
(3/2)を{6×(2/3)}倍すると、6になる。
従って、
(02)(05)により、
(06)
6÷(3/2)=囗
といふ「問題」は、
(3/2)を「何倍」すると、6になるか。
といふ「問題」に、等しく、尚且つ、
(3/2)×{6×(2/3)}=6 ⇔
(3/2)を{6×(2/3)}倍すると、6になる。
従って、
(06)により、
(07)
6÷(3/2)=6×(2/3)
従って、
(07)により、
(08)
囗÷(3/2)=囗×(2/3)
従って、
(01)~(08)より、
(09)
「分数の割り算の答へ」は、「分母と分子を逆」にした「掛け算の答へ」に等しい。
(10)
60=15+15+15+15
ならば、
60は15の4倍である。
(11)
60が15の4倍である。
ならば、
6.0は1.5の4倍である。
然るに、
(12)
6.0=6
1.5=3/2
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
6.0が1.5の4倍である。
ならば、
6は(3/2)の4倍である。
然るに、
(14)
6が(3/2)の4倍である。
ならば、
6=(3/2)×4
(15)
6=(3/2)×4
ならば、
6:(3/2)=4:1
(16)
6:(3/2)=4:1
ならば、
6÷(3/2)=4
従って、
(10)~(16)により、
(17)
6:(3/2)=4:1
6÷(3/2)=4
6=(3/2)×4
従って、
(18)
6:(3/2)=囗:1
6÷(3/2)=囗
6=(3/2)×囗
といふ「問題」は、三つとも、
(3/2)を「何倍」すると、6になるか。
といふ「問題」に、等しい。
然るに、
(19)
「A=B×C」の「読み方」は、
「AイコールBかけるC。」である。
然るに、
(20)
「イコール」=「に等しい」、「×」=「倍」。
従って、
(19)(20)により、
(21)
「A=B×C」
といふ「数式」を、
「AイコールBかけるC。」
と読むことは、
「Aに等しいB倍C。」
と読むことに、等しい。
然るに、
(22)
A=B×C
A=〔B×(C)〕
A〔B(C)×〕=
Aは〔Bの(C)倍〕に等しい。
従って、
(23)
「A=B×C」といふ「数式」を、
「AはBのC倍に等しい。」といふ風に、理解するためには、
「返り点・括弧」を、必要とする。
cf.


従って、
(24)
「日本語」であれば、
A B C × =
と書くべきところが、
「数学語」では、
A = B × C
といふ「順番」で書かれてゐる。
(25)
数学を和文で表現するときに、最初にトラブルに陥るのが、否定をどのように表現するか、という問題です、次の和文を読んでみてください。
 AならばBでない。
この文は、2つの解釈があります。ひとつは「(AならばB)でない」。数文であらわすと、¬(A→B)です。もうひとつは「Aならば(Bでない)」。数文であらわすと、 A→¬A  となります。この2つは全く異なる意味をもちますが、和文であらわそうとすると、どちらも同じ文になってしまうのです。
(新井紀子、数学は言葉、2009年、123頁)
然るに、
(26)
「AならばBでない。」であれば、A→B¬ と、書くべきであり、
「AならばBである。ではない。」であれば、(A→B)¬ と、書くべきである。
従って、
(24)(26)により、
(27)
「数学」にせよ、「論理学」にせよ、「日本語の語順」とそれらの「語順」は、同じではなく、この点は、「漢文」の場合と、同様である。
平成27年12月12日、毛利太。