― 「12月23日の記事」を書き換へます。―
(01)
漢語においては、その実詞に属する単語は、上述のように、介詞や接続詞など、その文法的関係を示すものをなにも用いずに、孤立的に配置されていることが多い。しかし、その配列されている単語の間の文法的な関係によって、その配列のしかたに、一定の順序がある。それで、漢語は、この単語の配列のしかたが、その文法の重要な基礎となっているわけである。この漢語文法の基礎となっている文法的な関係として、次の四つの関係をあげることができる。
(一)主述関係 主語 ― 述語
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語
(三)補足関係 叙述語 ― 補足関係
(四)並列関係 並列語 ― 並列語
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、281~283頁改)
(02)
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語 は、
(a)連用修飾 と、
(b)連体修飾 に、分けることが出来、
(a)は、おおむね、「副詞」であって、
(b)は、おおむね、「形容詞」である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
例へば、
(a)常読=常+読
(b)漢文=漢+文
であれば、
(a)常 と、
(b)漢 は、「(二)修飾語」である。
然るに、
(04)
① 不常読漢文=
② 不{常読(漢文)}⇒
③ {常(漢文)読}不=
③ {常には(漢文を)読ま}ず。
といふ「漢文訓読」は、「正しい」。
従って、
(04)により、
(05)
② 不{ }⇒{ }不
② 読( )⇒( )読
といふ「倒置」は、「正しい」。
然るに、
(06)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(01)(05)(06)により、
(07)
① 不常読漢文=
② 不{常読(漢文)}。
に於ける、
② 不{ }
② 読( )
といふ「二つ」は、「(三)補足関係」を、表してゐる。
従って、
(03)(07)により、
(08)
① 不常読漢文=
② 不{常+読(漢+文)}。
とすれば、
② 不{常+読(漢+文)}。
といふ「形」は、
① 不常読漢文。
といふ「漢文」の、
(三)補足関係 叙述語 ― 補足関係
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語
を、表してゐる。
然るに、
(09)
② E{A+D(B+C)}
は、「数式」である。
従って、
(09)により、
(10)
② 不{常+読(漢+文)}
であっても、「数式」であると、することが、可能である。
従って、
(08)(10)により、
(11)
② 不{常+読(漢+文)}
は、「漢文」であるとすれば「漢文」であって、「数式」であるとすれば、「数式」である。
然るに、
(10)
② 分配法則 により、
② E{A+D(B+C)}=
② E{A+(DB+DC)}=
② {EA+E(DB+DC)}=
② {EA+(EDB+EDC)}
である。
従って、
(10)により、
(11)
② E{A+D(B+C)}
といふ「数式」に於いて、
② D は、
②(B+C) に、「係ってゐて」、
② E は、
② {A+D(B+C)} に、「係ってゐる」。
然るに、
(12)
② 不{常+読(漢+文)}
といふ「漢文」に於いて、
② (漢文を)読む。
であるため、
② 読 は、
② (漢+文) に、「係ってゐる」。
(13)
② 不{常+読(漢+文)}
の場合は、
②「常に漢文を読む。」といふワケではない。
といふ「意味」である。
従って、
(13)により、
(14)
② 不{常+読(漢+文)}
に於いて、
② 不 は、
② {常+読(漢+文)} に、「係ってゐる」。
従って、
(11)(12)(14)により、
(15)
「数式」と見なしても、
「漢文」と見なしても、
② 不{常+読(漢+文)}
に於いて、
② 読 は、
② (漢+文) に、「係ってゐて」、
② 不 は、
② {常+読(漢+文)} に、「係ってゐる」。
然るに、
(16)
然るに、
( ),{ }
【読み】 かっこ、ちゅう(中)かっこ
【意味】 括弧の中を先に計算する。計算の順序を指示する用途で使う。
(瀬山士郎、数学記号を読む辞典、2013年、53頁)
従って、
(16)により、
(17)
( )の中を先に計算する。
{ }の中を先に計算する。
従って、
(17)により、
(18)
② 5×{1+4×(2+3)}
といふ「計算の順序」は、
③ {1+(2+3)×4}×5=
③ {1+(5)×4}×5=
③ {1+20}×5=
③ {21}×5=
③ 105
といふ「順序」で、行はれる。
然るに、
(19)
② 不{常読(漢文)}⇒
③ {常(漢文)読}不=
③ {常には(漢文を)読ま}ず。
であるため、
② 不×{常+読×(漢+文)}=
② {常+(漢+文)×読}×不
である。
従って、
(18)(19)により、
(20)
② 5×{1+4×(2+3)}=
③ {1+(2+3)×4}×5
であって、
② 不×{常+読×(漢+文)}=
② {常+(漢+文)×読}×不
である。
従って、
(15)(20)により、
(21)
① 不常読漢文=
② 不{常+読(漢+文)}=
② {常+(漢+文)×読}×不。
といふ「漢文」は、敢へて、さうしたいのであれば、「数式」であると、見なすことが、出来る。
従って、
(01)~(21)により、
(22)
あたかも、
① 5×1+4×2+3=16
ではなく、
① 5×1+4×2+3=105
であるならば、
① 5×1+4×2+3=105=
② 5×{1+4×(2+3)}=105
であるやうに、
① 不常読漢文=常には漢文を読まず。
である以上、
① 不常読漢文=
② 不{常+読(漢+文)}。
であると、すべきである。
従って、
(23)
例へば、
① 不常読漢文。
といふ「漢文」は、
① 不常読漢文=フツジョウトクカンブン。
といふ風に、読まうと、
① 不常読漢文=常には漢文を読まず。
といふ風に、読まうと、固より、
② 不{常+読(漢+文)}。
といふ、
②「補足構造 叙述語 ― 補足関係」
②「修飾構造 修飾語 ― 被修飾語」
をしてゐる。
従って、
(24)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様ものである(勉誠出版、訓読論、2008年、60頁)。両者の亀裂は、戦後も親中国革新派の音読、反中国保守派の訓読として、ある意味で現在にまでつづいている(金文京、漢文と東アジア、2010年、88・9頁)。
といふことで、あらふと、であるまいと、「括弧」は、有ります!
平成27年12月24日、毛利太。
0 件のコメント:
コメントを投稿