―「この記事」は書き直します。―
(01)
グーグル翻訳等で、英訳をしてみたいので、今回は、「歴史的仮名遣ひ」ではなく、敗戦後、ローマ字主義者(GHQ他)によって強いられた、いわゆる「現代かなづかい」で書くことにします。
(02)
「現代かなづかい」というのは、「英語」であれば、
「SON、BOOK、FLOOD、BEAT、MONEY、PEOAPLE、NOTE、DYSLEXIA」 とは書かずに、
「SUN、BUK、 FLUD、 BEET、MUNEE、PEEPL、 NOUT、DISLEKSIA」と書くことに、相当します。
(03)
① Α・Ε と書かれたTシャツを着た人物が、鏡に向って「直立」すると、鏡の中で、
① Α・Ε は、
① ∃・Α に見える。
(04)
② Α・Ε と書かれたTシャツを着た人物が、鏡の外で、「回れ右」をしてこちらを振り返ると、
② Α・Ε は、
② Α・Ε に見える。
(05)
③ Α・Ε と書かれたTシャツを着た人物が、鏡の外で、「逆立ち」をしてこちらを振り返ると、
③ Α・Ε は、
③ ∃・∀ に見える。
然るに、
(06)
① ∃・Α(鏡の中)
② Α・Ε(鏡の外で、回れ右)
③ ∃・∀(鏡の外で、逆立ち)
に於いて、
①&②=(∃・Α)&(Α・Ε)=(Α・Α)&(∃・Ε)
①&③=(∃・Α)&(∃・∀)=(∃・∃)&(Α・∀)
従って、
(06)により、
(07)
①&② ⇒(∃・Ε)は「左右が逆である。」
①&③ ⇒(Α・∀)は「上下が逆である。」
従って、
(06)(07)により、
(08)
① ∃・Α(鏡の中)
② Α・Ε(鏡の外で、回れ右)
③ ∃・∀(鏡の外で、逆立ち)
に於いて、
① ∃・Α を、「基準」にすると、
② Α・Ε は、「左右」が「逆」であり、「上下」が「等しい」。
③ ∃・∀ は、「上下」が「逆」であり、「左右」が「等しい」。
従って、
(03)~(08)により、
(09)
① Α・Εと書かれたTシャツを着た人物が、鏡に向って「直立」する時、
② 鏡の中の我々は、「回れ右」をしていないし、尚且つ、
③ 鏡の中の我々は、「逆立ち」もしていない。
従って、
(09)により、
(10)
① Tシャツを着ていない我々が、鏡に向って「直立」する場合であっても、
③ 鏡の中の人物は、「逆立ち」をしていないし、尚且つ、
② 鏡の中の人物は、「回れ右」もしていない。
従って、
(10)により、
(11)
あれは本当は前後が反対なんですね。左右も上下ももとのままで、当たり前の話だけどねえ(森毅、安野光雅、1986年、130頁)。
ということになる。
―「ここ迄」が「理解」出来ない場合は、「(03)~(10)」を、繰り返し、読んで下さい。―
従って、
(03)~(11)により、
(12)
「鏡の中」と「鏡の外」を、「混同(confuse)」すると、
①&②=(Α・Α)&(∃・Ε)
①&③=(∃・∃)&(Α・∀)
という、「二通りの、矛盾」が、生じることになる。
然るに、
(13)
①&②=Why Do Mirrors Reverse Left and Right but Not Up and Down?
という「質問」に対して、
①&③=Why Do Mirrors Reverse Up and Down but Not Left and Right?
という「質問」が行われることは、普通はない。
従って、
(13)により、
(14)
普通の人(An ordinary person)は、
①&②=何故、鏡は上下ではなく左右を反転させるのか。
①&③=何故、鏡は左右ではなく上下を反転させるのか。
という「二通りの、疑問」において、
①&③=何故、鏡は左右ではなく上下を反転させるのか。
という「疑問」に関しては、「無視」をしても良いと、思っている。
然るに、
(15)
lo96969olさん(2014/4/20 2:29:22)曰く、
心理的な問題、直観的な認識の問題ですね。私たちがもし、友人に後ろから声をかけられたとき肩越しに振り向くのではなく、逆立ちして後ろを向き会話を始めるような生物であれば、(誰かと対面するときに常に自分の頭は相手の足側、相手の足は自分の顔の前にあるわけですから)、鏡に写った自分を見て「上下が反転している」と感じるでしょう。
従って、
(14)(15)により、
(16)
lo96969olさんは、
①&②=(Α・Α)&(∃・Ε)
①&③=(∃・∃)&(Α・∀)
という「二通りの、矛盾」において、普通の人が、
①&②=(Α・Α)&(∃・Ε)
という「一通りの、矛盾」にしか、気付くことが出来ない「理由(原因)」は、
我々が、逆立ちして後ろを向き、会話を始めるような生物ではないからである。
という風に、述べている。
従って、
(10)(12)(16)により、
(17)
私自身も、全く以て、lo96969olさんの言う通りであると、思うのですが、「lo96969olさんの譬え」では、分りにくいのか、lo96969olさん(2014/4/20 2:29:22)の回答は、BA(ベストアンサー)にはなっていません。
そのため、
(18)
lo96969olさんが言わんとしたことを基づいて、次のような、「作り話」をすることにします。
(19)
昔々、ある『村』に、Aさん(30歳)が住んでいて、Aさんが住むその『村』には、「鏡」が有りません。
Once upon a time there lived in a isolated village a thirty years old man whose name was Alfred. There was no mirror in his village.
(20)
Aさんが住むその『村』には、「変わった習慣(常識)」が有って、その『習慣(常識)』が、先祖代々、約一万年続いています。
(21)
「変わった習慣(常識)」=『「二人の人間」が向かい合う場合は、どちらか一方の人間だけが「逆立ち」をしなければならない。』
であるとします。
従って、
(22)
AさんとBさんが向かい合っていて、
Aさんが「逆立ち」をしていない。ならば、Bさんは「逆立ち」をしている。
Bさんが「逆立ち」をしていない。ならば、Aさんは「逆立ち」をしている。
従って、
(20)(21)(22)により、
(23)
Aさんは、自分が一人で立っている限り、Aさんの方を向いて立っている「一人の人物」を、今までに、一度も見たことが無い。
ということに、なります。
(24)
そのAさんが、タイムスリップをして、「平成28年の日本」に来て、「生まれて初めて、鏡の前に立った」とします。
ところが、
(25)
① 鏡の前のA(=A)さんは「逆立ち」をしていない。
のであれば、当然、
② 鏡の中のB(=A)さんも「逆立ち」をしていない。
ということに、なります。
従って、
(23)(25)により、
(26)
Aさんは、自分が立っている限り、Aさんの方を向いて、立っている「人物」を、今までに、一度も見たことが無かった。
にもかかわらず、
① 鏡の前のA(=A)さんは「逆立ち」をしていない。
② 鏡の中のB(=A)さんも「逆立ち」をしていない。
ということから、
Aさんは、自分が立っていて、尚且つ、こちらを向いて立っている誰かB(=A)を、生まれて初めて、見ることになります。
(27)
鏡の前で、あなたが「頭を上にして立って」いる際に、
鏡の中で、あなたが「逆立ち」をしている。としたら、
あなたにとっては、「異変」です。
ところが、
(26)により、
(28)
Aさんは、自分が立っていて、尚且つ、こちらを向いて立っている誰かB(=A)を、生まれて初めて見た。
のであって、そのため、Aさんにとっては、
① 鏡の前のA(=A)さんは「逆立ち」をしていない。
② 鏡の中のB(=A)さんも「逆立ち」をしていない。
ということこそが、「異変」です。
(29)
しばらくして、Aさんは、自分の目の前にあるのは、実際には「ガラスの板」であることを知り、その「ガラスの板」を「鏡」と呼ぶことにします。
この時、
(28)(29)により、
(30)
Aさんにとっては、
① 鏡の前のA(=A)さんが「逆立ち」をしていない。
のであれば、
② 鏡の中のB(=A)さんは「逆立ち」をしている。
べきであるにも、かかわらず、
② 鏡の中のB(=A)さんも「逆立ち」をしていない。
ということこそが、「異変」である。わけですから、そうである以上、
Aさんは、「鏡は左右ではなく、上下を逆に映す。」という風に、思うことに、なります。
然るに、
(19)~(30)により、
(31)
Aさんが、「鏡は左右ではなく、上下を逆に映す。」
という風に、思ってしまった「理由(原因)」は、もちろん、Aさんの『村』に有る、
「変わった習慣(常識)」=『「二人の人間」が向かい合う場合は、どちらか一方の人間だけが「逆立ち」をしなければならない。』
という「習慣(常識)」が、「唯一の、原因(理由)」です。
従って、
(31)により、
(32)
Aさんの『村』に、「変わった習慣(常識)」が無い場合は、
① 鏡の前のA(=A)さんは「逆立ち」をしていない。
② 鏡の中のB(=A)さんも「逆立ち」をしていない。
という「状態」を見ても、Aさん(普通の人)は、
「鏡は左右ではなく、上下を逆に映す。」という風には思はずに、
「鏡は上下ではなく、左右を逆に映す。」という風に、「誤解(錯覚)」することになる。
然るに、
(33)
「変わった習慣(常識)」が無いということは、
「普通の、習慣(常識)」=『「二人の人間」が向かい合う場合は、二人とも、「逆立ち」をしない。』
という「習慣」が有る。ということに、他ならない。
従って、
(32)(33)により、
(34)
「鏡は上下ではなく、左右を逆に映す。」という風に、我々が思う「原因(理由)」は、
「普通の、習慣(常識)」=『「二人の人間」が向かい合う場合は、二人とも、「逆立ち」をしない。』
という「習慣(常識)」が、我々に、有るからである。
従って、
(31)(34)により、
(35)
Ⅰ 「変わった習慣(常識)」が有るならば、普通の人は、「鏡は左右ではなく、上下を逆に映す。」という風に「誤解(錯覚)」する。
Ⅱ 「普通の、習慣(常識)」が有るならば、普通の人は、「鏡は上下ではなく、左右を逆に映す。」という風に「誤解(錯覚)」する。
ということになる。
然るに、
(36)
『我々が、逆立ちして後ろを向き、会話を始めるような生物であるならば』、
Ⅰ 「変わった習慣(常識)」を、我々は、持つことになる。
従って、
(35)(36)により、
(37)
『我々が、逆立ちして後ろを向き、会話を始めるような生物であるならば』、我々(普通の人)は「鏡は左右ではなく、上下を逆に映す。」という風に「誤解(錯覚)」する。
従って、
(37)により、
(38)
心理的な問題、直観的な認識の問題ですね。私たちがもし、友人に後ろから声をかけられたとき肩越しに振り向くのではなく、『逆立ちして後ろを向き、会話を始めるような生物であれば』、鏡に写った自分を見て「上下が反転している」と感じるでしょう。
とする、「lo96969olさんの回答」は、正しい。Q.Ε.D.
然るに、
(39)
Ⅰ 我々は、「変わった習慣(常識)」を持っていなくて、
Ⅱ 我々は、「普通の、習慣(常識)」を持っている。
ということと、
Ⅲ 人間の形は、左右には概ね対称(symmetric)であるのに対して、上下は明らかに非対称(asymmetric)である。
ということは、直接には、関係がない。
従って、
(40)
Ⅰ 我々は、「変わった習慣(常識)」を持っていなくて、
Ⅱ 我々は、「普通の、習慣(常識)」を持っている。
Ⅲ 人間の形は、左右には概ね対称(symmetric)であるのに対して、上下は明らかに非対称(asymmetric)である。
において、
Ⅲ は、必ずしも、「本質的な問題」ではない。
だからこそ、
(41)
Aさんにとっては、
① 鏡の前のA(=A)さんは「逆立ち」をしていない。
② 鏡の中のB(=A)さんも「逆立ち」をしていない。
という場合の方が、却って、「異変(abnormal)」である。
ということになる。
従って、
(42)
Another part of the problem is that most of us are left and right symmetric that causes you to see your reflection in the mirror as a normal looking person facing you(Physics Girl).
という「主張」は、必ずしも、「正しくはない」。
平成28年02月15日、毛利太。
(43)
余談になるものの、「文字の表記は、簡単であれば、簡単である程、民主的(アメリカ的)である。」という「発想」があります。
然るに、
(44)
ディスレクシアとは?
知的な遅れはないけれど、聞く、話す、読む、書く、計算する、推論するなどの能力のうち特定のものができない総称を「LD(学習障害)」といいます。
中枢神経に何らかの機能障害があると推定され、このうち特に読み書きに困難を伴う場合を「ディスレクシア」(読み書き困難)といいます。
(ディスレクシアとは? – 南雲明彦 オフィシャルウェブサイト)
(45)
一部の研究者(Makita,1968 など)によると、日本では読みの困難のある子供は0.1%以下であると報告されている。
本稿の目的は、なぜ英語ネイティブに発達性(音韻性)ディクレスシアが多く、日本においてはディスレクシアの報告例すらないのかを検討することにある。英語圏では、一般には、英語ネイティブとする話者の10~12%が発達性ディスレクシアであると言われている(Rutter&Yule,1975;Rodgers,1983 など)。
(東京書籍、ディスクレシア、2008年、276・293頁)
(46)
読み書きができるに伴って、知的好奇心が高まり、読書欲も旺盛になります。このような出版物に対する欲求の高まりが、出版文化をさらに隆盛に向かわせることになります。庶民教育のレベルが高かった江戸時代では、識字率の高さにおいて常に世界最高でした。
(沖森卓也、日本の漢字1600年の歴史、2011年、232頁)
(47)
太平洋戦争終結後、1948年(昭和23年)に「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている」という偏見から、GHQのジョン・ペルゼル[2]による発案で、日本語をローマ字表記にしようとする計画が起こされた。そして正確な識字率調査のため民間情報教育局は国字ローマ字論者の言語学者である柴田武に全国的な調査を指示した(統計処理は林知己夫が担当)。1948年8月、文部省教育研修所(現・国立教育政策研究所)により、15歳から64歳までの約1万7千人の老若男女を対象とした日本初の全国調査「日本人の読み書き能力調査」が実施されたが、その結果は漢字の読み書きができない者は2.1%にとどまり、日本人の識字率が非常に高いことが証明された。柴田はテスト後にペルゼルに呼び出され、「識字率が低い結果でないと困る」と遠回しに言われたが、柴田は「結果は曲げられない」と突っぱね[3]、日本語のローマ字化は撤回された[4]。
(ウィキペディア:漢字廃止論)
従って、
(43)~(47)により、
(48)
ディスレクシアの「人口比」から分る通り、「漢字を含む、日本語の表記」の方が、「アルファベットだけの、英語の表記」よりも、「簡単」であるため、この点に関しては、戦前戦後を通じて、日本の方が、アメリカよりも、民主的である。ということになる。
従って、
(43)(48)により、
(49)
日本の方が、アメリカよりも、民主的である。ということを、認めないのであれば、「文字の表記は、簡単であれば、簡単である程、民主的であるため、漢字は、直ちに廃止すべきである。」とするローマ字主義者の主張も、認めることは出来ない。
平成28年02月16日、毛利太。
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