2016年11月22日火曜日

「所」について(Ⅲ)。

―「11月21日の記事」を書き直します。―
(01)
格助詞の「の」には、主格とか同格などの働きがあると教わりましたが、どう違いを見分ければいいのか、よくわかりません。見分けるコツがあれば教えてください(高校生の苦手解決Q&A)。
(02)
①  鳥の啼く声=「主語+の」+連体形+体言。
に於いて、
①「鳥の」は、「主格」の「の」である。
(03)
②「白き鳥」の「嘴と足と赤き(鳥)」
に於いて、
②「白き鳥」=「嘴と足と赤き(鳥)」
であるものの、このやうな「の」は、「同格(同一)」の「の」である。
従って、
(04)
③  韓非の著した書=(主語+の)+連体形+体言。
に於いて、
③「韓非の」は、「主格」の「の」である。
然るに、
(05)
17 此韓非子所著之書也。(史記、老荘申韓列伝)これは韓非が著した書物である。
29 食其所愛之肉、以与敵抗。(韓愈、張中丞後伝序)その愛する所の肉を食らひて以て敵と抗す。
17「所著」と書とは同一のものであるが、
29「所愛」と肉とはのものであることに注意。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、156・159頁改)
従って、
(05)により、
(06)
④ 韓非所著之書(韓非の著す所の書)。
に於いて、
④「所著」之「書」
④「所著」の「書」
④「所著」=「書」
である。
從って、
(03)~(05)により、
(07)
④  韓非の著す所の書(韓非所著之書)。
に於いて、
④「韓非の」は、「主格」の「の」であって、
④「所の書」は、「同格」の「の」である。
然るに、
(08)

従って、
(08)により、 (09)
⑤ S(主語)+V(他動詞)+O(目的語)。
に於ける、
⑤ O(目的語)が、
⑤「所」である。
従って、
(09)により、
(10)
⑤ 彼愛牛肉(彼、牛肉を愛す)。
であるならば、
⑤ O=牛肉
であるため、
⑤ 其所愛(其の愛する所)=牛肉
である。
従って、
(10)により、
(11)
⑤ 其所愛之肉=牛肉
⑤ 其所愛の肉=牛肉
⑤ 其所愛肉=牛肉
である。
然るに、
(12)
⑥ 彼愛妻妾(彼、妻妾を愛す)。
であるならば、
⑥ O=妻妾
であるため、
⑥ 其所愛(其の愛する所)=妻妾
である。
従って、
(12)により、
(13)
⑥ 其所愛之肉=妻妾の肉
⑥ 其所愛の肉=妻妾の肉
⑥ 其所愛肉=妻妾の肉
である。
従って、
(14)
⑤ 彼愛牛肉(彼、牛肉を愛す)。であるならば、
⑤ 食其所愛之牛肉(其の愛する所の肉を食らふ)。は、普通の「肉食」であって、
⑥ 彼愛妻妾(彼、妻妾を愛す)。であるならば、
⑥ 食其所愛之牛肉(其の愛する所の肉を食らふ)。は、異常な「食人」である。
従って、
(15)
さらに「所」についての応用問題を出してみよう。次の漢文を訳してみよ。
食其所愛之肉、以与敵抗=其の愛する所の肉を食ひ、以て敵と抗す。
おそらく「一番好きな肉、たとえば牛肉を食って、スタミナをつけ、それで敵とわたりあった」という解答が圧倒的だろうと思う。もちろん牛肉が豚肉であろうと鶏肉であろうとそれはかまわない。要するに「所愛」は、肉に対する好みというわけである。しかし、右のような解釈は残念ながら、この場合ぴったりしない。どこがアウトなのかわかるか。これが分かる人は、漢文の力は高度である(漢文法基礎、二畳庵主人、1984年、151頁)。
とは、言ふものの、
⑥ 食其所愛之肉=自分の好物である肉を食べる。
といふ「意味」であることも、「可能」である。以上、この場合は、「文脈」により、「たまたま、アウトである。」といふことに、過ぎない。
(16)

(17)
「所」は用言を体言化する点において「者」と共通しているが、「者」が行為の主体を指示するのに対し、「所」は行為の対象を指示し、人・物・事などを示す。
従って、
(16)(17)により、
(18)
⑦ 王使人学之(王、人をして之を学ば使む)。
⑧ 王所使学者(王の学ば使むる所の者)。
に於いて、
⑦「人」= ⑧「所」
⑧「所」= ⑧「者」
である。
従って、
(18)により、
(19)
⑧ 王所使学者(王の学ば使むる所の者)。
に於いて、
⑧「所使学」の「者」
⑧「所使学」=「者」
であるため、「同格(同一)」の「の」である。
然るに、
(20)
⑧ 所使学。
の「語順」を、
⑦ 使囗学。
に換へた際に、
⑦ 使囗学。
に於いて、
⑦ 囗=A
であるならば、
⑧ A=所使学
である。
従って、
(21)
⑦ 使学(人をして学ば使む)。
使学(学ば使むる所)、
であれば、
⑦ 人= ⑧ 所使学
といふ、ことになる。
従って、
(16)(19)(21)により、
(22)
⑦ 王使人学之。
⑧ 所使学者、未及学而死。
であれば、
⑦ に於いて、
⑦ 王によって、学ぶように命じられた「人」が、
⑧「所使学者」である。
といふ、ことになる。
然るに、
(23)
⑦ 王使人学之。
⑧ 所使学者、未及学而死。
であれば、
⑦ に於いて、
⑦「学ばた」のは、すなはち、
⑦「学ぶように、命じた」のは、「王」である。
従って、
(16)(22)(23)により、
(21)
⑧「学ば者(人)」が、「未だ学ぶに及ばずして客死せり。」
であって、
⑧「学者(王)」 が、「未だ学ぶに及ばずして客死せり。」
ではない。
cf.
http://www.kokugobunpou.com/

従って、
(21)により、
(22)
「学ばた者がまだ学び終わらないうちにその人が死んだ(多久弘一、多久の漢文公式110、1988年、13頁)」といふ「解釈」は、マチガイである。
(23)
「日本語」として、
「学ばた者(受身)」「学ばた者(使役)」
であるならば、そのやうに、言はざるを得ないし、少なくとも、私自身は、「学ばた者が」といふ「解釈」を読んで、「混乱」した。
(24)
「学ばた」  のは「王」であり、
「学ばさた」 のは「人」であり、
「教へさせた」のは「客」である。
平成28年11月22日、毛利太。

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