2021年12月3日金曜日

「→(ならば)」の「真理表」と「空集合Φ」。

(01)
平成17年4月15日に購入した『竹内外史、集合とは何か、2004年』の21頁に、
次のような、「書き込み(02)」をした。
(02)
A→B の真理表。
A が本当で、
A→B が正しいのに、
  B がウソであることは在りえない。

A が本当であって、
B がウソの場合は、
A→B は正しくない。

A→ は、
A が本当であるならば、その時は、・・・である。
という意味なので、
A がウソの場合は、そもそも、
A→B の真偽は、論じられるべきではないのに、
A が ウソである場合、
A→B の真理表では、
  B が真であっても、
  B が偽であっても、
A→B は、真であるとされているが、
このことは、『変である』。
然るに、
(03)
(ⅰ)
1  (1)       ~P      A
1  (2)       ~P∨ Q   1∨I
1  (3)       ~P∨~Q   1∨I
1  (4)        P→ Q   2含意の定義
1  (5)        P→~Q   3含意の定義
 6 (6)        P      A
16 (7)           Q   46MPP
16 (8)          ~Q   56MPP
16 (9)        Q&~Q   78&I
1  (ア)     P→(Q&~Q)  69CP
   (イ) ~P→{P→(Q&~Q)} 1アCP
  ウ(ウ)  P&~P         A
  ウ(エ)    ~P         ウ&E
  ウ(オ)     P→(Q&~Q)  イエMPP
  ウ(カ) P             ウ&E
  ウ(キ)        Q&~Q   オカMPP
   (ケ)(P&~P)→(Q&~Q)  ウキCP
従って、
(03)により、
(04)
①(P&~P)→(Q&~Q)
②(Pであって、Pでない)ならば(Qであって、Qでない)。
といふ「命題」は、「恒真式(トートロジー)」である。
従って、
(04)により、
(05)
①(P&~P)→(Q&~Q)
②(ある矛盾が、真である)ならば(他の矛盾も、真である)。
といふ「命題」は、「恒真式(トートロジー)」である。
然るに、
(06)
(ⅱ)
  (1) (P&~P)→(Q&~Q) TI
  (2)~(P&~P)∨(Q&~Q) 1含意の定義
3 (3)~(P&~P)        A
3 (4) (~P∨P)        3ド・モルガンの法則
3 (5) (~P∨P)∨(Q&~Q) 4∨I
 6(6)        (Q&~Q) A
 6(7) (~P∨P)∨(Q&~Q) 6∨I
  (8) (~P∨P)∨(Q&~Q) 23567∨E
従って、
(06)により、
(07)
①(P&~P)→(Q&~Q)
②(~P∨P)∨(Q&~Q)
に於いて、
①=② である。
従って、
(07)により、
(08)
①(P&~P)→(Q&~Q)
②(~P∨P)∨(Q&~Q)
に於いて、すなはち、
①( 矛盾 )→(矛盾)
②(排中律)∨(矛盾)
に於いて、
①=② である。
然るに、
(09)
「∨」の「マトリックス(真理表)」により、
②(~P∨P)∨(Q&~Q)
に於いて、すなはち、
②(真)∨(偽)
に於いて、
② は、「真(本当)」である。
従って、
(05)(08)(09)により、
(10)
例へば、
①(P&~P)→(Q&~Q)
②(~P∨P)∨(Q&~Q)
に於いて、すなはち、
①( 矛盾 )→(矛盾)
②(排中律)∨(矛盾)
に於いて、
①=② であって、尚且つ、
①と② は、「恒真式(トートロジー)」である。
然るに、
(11)
平成17年の私ではなく、
令和03年の私は、「命題計算」に慣れてゐるため、
①(P&~P)→(Q&~Q)
②(~P∨P)∨(Q&~Q)
を見れば、それだけで、
①=② であることを、「理解」出来るし、
  ② が「恒真式(トートロジー)」であることも、直ちに、「理解」出来る。
(12)
令和03年10月18日(特別な日)に、神保町で、
『E.J.レモン 著、石本新・高橋敬吾 訳、公理的集合論入門、1972年』を見付けたので、それを購入した。
然るに、
(13)
この書物は、等号を含んだ述語計算(限量化の理論)にすでにある程度まで通じている読者を対象とした、
公理的集合論 ― それは現代論理学の大部分の基礎となっている ― の入門を意図したものである。
(E.J.レモン 著、石本新・高橋敬吾 訳、公理的集合論入門、1972年、序論)
然るに、
(14)
私自身は、「等号を含んだ述語計算(限量化の理論)」にすでにある程度まで通じている。
然るに、
(15)
メンバーを含まないクラス x と y が存在すると仮定しよう。すると、
(1)  ∀z(z∈x⇔z∈y)
が成り立たなければならない。なぜなら x と y はいかなるメンバーも含まないから、
任意の z に対して、z∈x と z∈y は、偽だからである。
(E.J.レモン 著、石本新・高橋敬吾 訳、公理的集合論入門、1972年、27頁)
然るに、
(16)
(ⅲ)
1 (1)-z∈x       A(∵xは空集合Φである。)
1 (2)-z∈x∨z∈y   1∨I
1 (3) z∈x→z∈y   2含意の定義
 4(4)-z∈y       A(∵yは空集合Φである。)
 4(5)-z∈y∨z∈x   4∨I
 4(6) z∈y→z∈x   5含意の定義
14(7)(z∈x→z∈y)&
     (z∈y→z∈x)  36&I
14(8) z∈x⇔z∈y   7Df.⇔
従って、
(15)(16)により、
(17)
xが「空集合Φ」であって、
yが「空集合Φ」であるならば、
(1)  ∀z(z∈x⇔z∈y)
(〃)いかなるzであっても、zがxのメンバーであるならば、そのときに限って、zはyのメンバーである。
従って、
(17)により、
(18)
(1)  ∀z(z∈x⇔z∈y)
は述語算によって導かれる。また、x と y がいかなるメンバーも含んでいないとすれば、それは同一のメンバーを含んでいる。
このことは、メンバーを含まないクラスは、存在するにしてもたかだか1つであることを、示している。
この結論を、次の定理で述べておこう。
T31:∀x∀y(∀z-z∈x∧∀z-z∈y→x=y)
(E.J.レモン 著、石本新・高橋敬吾 訳、公理的集合論入門、1972年、27頁)
然るに、
(19)
いかなるメンバーも含んでいないとすれば、それは同一のメンバーを含んでいる。」
といふ「言ひ方」は、「常識的」には、『変である』。
然るに、
(20)
同一のメンバーを含んでゐる」 といふ「表現」を、
異なるメンバーを含んでゐない」といふ「意味」であるとするならば、
①{1,2}と、
②{2,1}は、「異なるメンバーを含んでゐない」ので、「同一のメンバーを含んでゐる」し、
③{   }と、
④{   }も、「異なるメンバーを含んでゐない」ので、「同一のメンバーを含んでゐる」。
従って、
(19)(20)により、
(21)
いかなるメンバーも含んでいないとすれば、それは同一のメンバーを含んでいる。」
といふ「言ひ方」は、「常識的」には、『変である』が、
同一のメンバーを含んでゐる」 といふ「表現」を、
異なるメンバーを含んでゐない」といふ「意味」であるとするならば、必ずしも、『変である』とは言へない。
然るに、
(22)
いかなるメンバーを含んでゐない」といふ「性質」は、「唯一無二の、性質」であるに、違ひない。
従って、
(15)~(22)により、
(23)
T31:∀x∀y(∀z-z∈x∧∀z-z∈y→x=y)
といふ「空集合Φ」に関する「定理」、
T31:いかなるxとyであっても、(すべてのzについて、zがxのメンバーではなく、zがyのメンバーでないならば、xとyは、同一である)。
といふ「定理」は、少しも、『変な定理』ではない。
令和03年12月03日、毛利太。

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