本書は中国歴代の口語文の典型的なものを選んでこれに解説を付し訳注を加へ、中国語を学習する人々の便に供するものである(太田辰夫、新訂 中国歴代口語文、1998年、はしかぎ)。
でいふ「本書」に目を通して分ることは、「中国歴代口語文」と「漢文」は、「完全に別の言語」である。といふことである。
例へば、
(02)
街上東西是很多,老李只想不出買什麼好(離婚)。
這金蓮慌忙梳頭畢,和玉樓同過李瓶兒這邊來(金瓶梅詞話第二十一回)。
他見那矮胖女人合安老爺嘈嘈,湊到跟前把安老爺上下打量兩眼,一把推開那個女人便笑嘻嘻的望着安老爺説道(兒女英雄傳第三十八回):
のやうなテキストは、100%、「漢文」ではない。
(03)
印象としては、
Our Father in heaven,
hallowed be your name,
your kingdom come,
your will be done,
on earth as in heaven.
Give us today our daily bread.
Forgive us our sins
as we forgive those who sin against us.
Save us from the time of trial
and deliver us from evil.
For the kingdom, the power, and the glory are yours
now and for ever.
Amen.
に対する「古英語」である、
Fæder ūre þū þe eart on heofonum,
Sī þīn nama ġehālgod.
Tōbecume þīn rīċe,
ġewurþe þīn willa, on eorðan swā swā on heofonum.
Ūre ġedæġhwāmlīcan hlāf syle ūs tō dæġ,
and forgyf ūs ūre gyltas, swā swā wē forgyfað ūrum gyltendum.
And ne ġelǣd þū ūs on costnunge, ac ālȳs ūs of yfele.
Sōþlīċe.
よりも、「異なってゐる」。
(04)
「画像(05)」で示す通り、
① 只-管要纏擾我。
② 端‐的看不出這婆‐子的本‐事来。
③ 西門慶促‐忙促‐急儧‐造不出床来。
④ 吃‐了不多酒。
といふ「白話(漢文)」に付く「それ」は、
① 下 二 上 一
② 二 五 三 一 四
③ 二 五 三 一 四
④ 二 三レ 一
である。
(05)
然るに、
(06)
① 下 二 上 一
であれば、
① 下 二 上
① 二 上 一
であるため、
「上・下点」が、「一・二点」をまたいでゐると同時に、
「一・二点」も、「上・下点」をまたいでゐる。
然るに、
(07)
上中下点(上・下、上・中・下)
必ず一二点をまたいで返る場合に用いる(数学の式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考えるとわかりやすい)。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、四三頁)
従って、
(04)~(07)により、
(08)
① 只-管要纏擾我。
に付く、
① 下 二 上 一
といふ「それ」は、明らかに、『返り点』ではない。
(09)
〔説明〕二つの返り点がいっしょになるのは、一とレ、上とレ、甲とレ、天とレの四つだけである(志村和久、漢文はやわかり、18頁)。
従って、
(04)(05)(09)により、
(10)
④ 吃‐了不多酒。
④ 二 三レ 一
には、
④ 三レ
が有るため、
④ 吃‐了不多酒。
に付く「それ」も、明らかに、『返り点』ではない。
然るに、
(11)
② 端‐的看不出這婆‐子的本‐事来。
③ 西門慶促‐忙促‐急儧‐造不出床来。
に付く、
② 二 五 三 一 四
③ 二 五 三 一 四
といふ「それ」が、『返り点』ではない。
といふことを示してゐる「参考書」の類を、見つけることが出来ない。
然るに、
(12)
「下から上へ返る点」が、『返り点』であって、
「上から下へ返る点」は、『返り点』ではない。ものの、
② 二 五 三 一 四
③ 二 五 三 一 四
は、二つとも、
② 二 三 四
であるため、
③ 二 五 三 一 四
といふ「それ」は、「上から下へ返ってゐる」。
従って、
(08)(10)(12)により、
(13)
① 下 二 上 一
② 二 五 三 一 四
③ 二 五 三 一 四
④ 二 三レ 一
といふ「これら」は、『返り点』ではないし、いづれにせよ、「漢文」であれば、このやうな「返り点」は、絶対に有り得ない。
従って、
(14)
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない(漢文:ウィキペディア)。しかし私が専門にしている中国明清の白話小説は必ずしも漢文訓読の方法では読めません。「白話」というのは話し言葉をもとにした書面語で、それを読むためには現代中国語の知識が必要になります(Webサイト:中川諭|大東文化大学)。
といふよりも、固より、「漢文」ではない所の、「白話文(口頭語)」に対しては、『返り点』すら、「付ける」ことが出来ない。
従って、
(03)(13)により、
(15)
「漢文」と「白話文(中国語)」は、「完全に別の言語」で、尚且つ、
「白話文(中国語)」には、『返り点』すら「付ける」ことが出来ない。
然るに、
(16)
「結論」から言ふと、「述語論理」には『返り点』を付けることが出来るため、
「漢文」と「白話文(中国語)」が、「完全に別の言語」である。といふことと、
「白話文(中国語)」には、『返り点』すら「付ける」ことが出来ない。といふことは、「別の話である」。
(17)
「述語論理」の場合は、
F(x) と書いて、
F(x)=xはFである。
と読む。
(18)
Fx と書いて、
Fx=xはFである。
と読む場合も多いものの、「命題函数」といふ「言ひ方」からすれば、
y=f(x)
にならって、
F(x) と書くのが「正しい」。
(19)
~(F(x)) と書いて、
~(F(x))=xはFでない。
と読むものの、
~(F(x)) =xはFでない。
~(~(F(x))) =xはFでない。ではない。
~(~(~(F(x))))=xはFでない。ではない。ではない。
等の場合は、
~〔F(x)〕 =xはFでない。
~[~〔F(x)〕] =xはFでない。ではない。
~{~[~〔F(x)〕]}=xはFでない。ではない。ではない。
のやうに、
( )〔 〕[ ]{ }
の「順」でを用ゐる、ことにする。
然るに、
(20)
「ルール」により、
(Ⅰ)囗の右側が、{[〔( と接してゐないならば、「普通に、読む」。
(Ⅱ)囗の右側が、{[〔( と接してゐる ならば、『より内側の「括弧」の中の囗』を「先に読む」。
とする。
(21)
~=ではない。
∨=または、
&=尚且つ、
→=ならば、
( )=といふ
∃x=そのやうなxが存在する。
∀x=ことは、全てのxに於いて、正しい。
P(x) =xはPである。
P(xy)=xはyに対してPである。
とする。
従って、
(19)(20)(21)により、
(22)
① ~[∃x〔F(x)〕]=
① xはFである。といふ、そのやうなxは存在しない。
といふ風に、「右から左に読む」。
然るに、
(23)
。む読たまき書に左らか右は語イラブヘ
ヘブライ語は右から左に書きまた読む(片山徹、旧約聖書ヘブライ語入門、1986年、1頁)。
加へて、
(24)
だが二十世紀のはじめには、日本語も右から左へ書いていた(黒田龍之助、もっとにぎやかな外国語の世界、2014年、33頁)。
従って、
(22)(23)(24)により、
(25)
① ~[∃x〔F(x)〕]
であっても、ヘブライ語と同様に、「右から左に書き、右から左に読む」としても、「支障」はない。
然るに、
(26)
「記号」などというものは歴史的経緯や何やらの「人間的な事情」に依存して決まっている便宜的なものにすぎず、数学の本質そのものではない。そして、現在一般的に使われている数学の記号は欧米起源のものなので、日本語とは「すれ違う」側面がある、というだけである。実際に、a+bの代わりに、日本語の「aとbを足す」という表現に応じて、ab+という記号で足し算を表しても支障はない。「ab+なんて思いっきりヘン」と感じるかもしれないが、それは「慣れていないだけ」である。その証拠に、ab+のような「日本語の語順に応じた記号」の体系が構成されていて、それが有益であることが実証されている(中島匠一、集合・写像・論理、2012年、190頁)。
従って、
(22)~(26)により、
(27)
① ~[∃x〔F(x)〕]
であれば、
① [〔(x)F〕∃x]~=
① [〔(xは)Fである。〕といふ、そのやうなxは存在し]ない。
と読んでも、「支障」はない。
従って、
(28)
① ~[∃x〔F(x)〕]
といふ風に、欧米人が書いた「論理式」を、
① ~[∃x〔F(x)〕]⇒
① [〔(x)F〕∃x]~=
① [〔(xは)Fである。〕といふ、そのやうなxは存在し]ない。
といふ風に「訓読」したとしても、「問題」はない。
従って、
(29)
② 如犬有頭其頭不当為牛馬頭=
② 如し犬に頭有らば、其の頭、当に牛馬の頭為る可からず=
② xが犬である所のyの頭であるならば、xは牛や馬である所のyの頭ではない=
② ∀x{∃y〔犬(y)&頭(xy)〕→~[∃y〔牛(y)∨馬(y)&頭(xy)〕]}⇒
② {〔(y)犬&(xy)頭〕∃y→[〔(y)牛∨(y)馬&(xy)頭〕∃y]~}∀x=
② {〔(yは)犬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、[〔(yは)牛であるか、または、(yは)馬であり、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在し]ない。}といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に「訓読」したとしても、「問題」はない。
然るに、
(30)
② ∀x{∃y〔犬(y)&頭(xy)〕→~[∃y〔牛(y)∨馬(y)&頭(xy)〕]}
に対する「返り点」は、「画像(31)」で示す通り、
② 下‐ 三‐ レ 二 一 上レ 三‐ レ レ 二 一
である。
(31)
cf.
P=yは犬である。
Q=xはyの頭である。
R=yは牛である。
S=yは馬である。
として、「命題論理」であれば、
(yは犬であって、尚且つ、xがyの頭である。)ならば〔(yは牛であるか、yは馬であって、)尚且つ、xはyの頭である。〕といふことはない=
(P&Q)→〔(R∨S)&Q〕~
(P&Q)→~〔(R∨S)&Q〕
~(P&Q)∨~〔(R∨S)&Q〕
~(P&Q)∨〔~(R∨S)∨~Q〕
~(P&Q)∨〔(~R&~S)∨~Q〕
~(P&Q)∨〔~Q∨(~R&~S)〕
~(P&Q)∨〔Q→(~R&~S)〕
~P∨~Q ∨〔Q→(~R&~S)〕
~P∨[~Q∨〔Q→(~R&~S)〕]
~P∨[Q→ 〔Q→(~R&~S)〕]
P→[Q→ 〔Q→(~R&~S)〕]=
yが犬ならば[xがyの頭ならば〔xがyの頭ならば(yは牛ではなく、尚且つ、yは馬ではない)〕]。
然るに、
(32)
「04月24日の記事」で説明する通り、
( )
〔 〕
[ ]
{ }
といふ「括弧」と、
レ
二 一レ
下 上レ
乙 甲レ
地 天レ
一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
上 中 下
甲 乙 丙 丁 戊 ・ ・ ・ ・ ・
天 地 人
といふ「返り点」の間に、「過不足」が生じない限り、
『括弧』 によって表すことが出来る「返読の順番の集合」は、
『返り点』によって表すことが出来る「返読の順番の集合」に等しい。
従って、
(01)(02)(03)(32)により、
(33)
「白話文(話し言葉)」は、『括弧・返り点』を用ゐて、「訓読」することが、出来ず、
「漢文」と「述語論理」は、『括弧・返り点』を用ゐて、「訓読」することが、出来る。
(34)
③ ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}⇒
③ {[(x)人&〔(x)死〕~]∃x}~=
③ {[(xは)人であって、尚且つ〔(xは)死な〕ない]といふ、そのやうなxは存在し}ない。
に対する『返り点』は、
③ レ 二‐ レ 一レ レ
である。
(35)
③ 不[有〔人而不(死)〕]⇒
③ [〔人而(死)不〕有]不=
③ [〔人にして(死せ)ざるは〕有ら]ず。
に対する『返り点』は、
③ レ 二 一レ
である。
然るに、
(36)
③ 不[有〔人而不(死)〕]。
に対して、
③ x (x)(x)
を加へると、
③ 不{有x[人(x)而不〔死(x)〕]}=
③ ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}。
といふ「等式」が、成立する。
加へて、
(37)
この「文言文」とは、端的に言えば、前近代の統治に関わる士大夫層の文化の中で流通した特殊な書記言語であり、口頭語の表記すなわち「白文」に対して言えば、ニュアンスを示す語などを簡約していわば記号化された表記の文章言語である(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、300頁)。
従って、
(36)(37)により、
(38)
「漢文」は、「述語論理」のやうな「記号化された言語」であって、
「白話」は、「述語論理」のやうな「記号化された言語」ではない。
従って、
(38)により、
(39)
③ ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}⇒
③ {[(x)人&〔(x)死〕~]∃x}~=
③ {[(xは)人であって、尚且つ〔(xは)死な〕ない]といふ、そのやうなxは存在し}ない。
④ ∃x[少女(x)&∀y〔少年(y)→愛(yx)〕]⇒
④ [(x)少女&〔(y)少年→(yx)愛〕∀y]∃x=
④ [(xは)少女であって、尚且つ、〔(yが)少年である。ならば、(yはxを)愛する。〕といふことが、全てのyに於いて、正しい。]といふ、そのやうなxが存在する。
⑤ ∀x[少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)〕]⇒
⑤ [(x)少年→((y)少女&(xy)愛〕∃y]∀x=
⑤ [(xが)少年であるならば、〔(yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛する。〕といふ、そのやうなyが存在する。]といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「述語論理訓読」を「否定」しないのであれば、
③ 不有人而不死。
④ 少女為全少年所愛。
⑤ 少年皆有其所愛少女。
といふ「漢文」を、
⑨ [〔人にして(死せ)ざるは〕有ら]ず。
⑩ 少女〔全少年の(愛する)所と〕為る。
⑪ 少年皆〔其の(愛する)所の少女〕有り。
といふ風に「訓読」することも、「否定」すべきではない。
然るに、
(40)
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く人は、「述語論理」といふ「言語」を、念頭に置いてゐない。
従って、
(41)
「漢文訓読」は、「白話文」よりも、むしろ「述語論理訓読」と「比較」すべきである。といふ「発想」が有れば、
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
といふやうな「発言」は、なされないものと、思はれる。
(42)
そして重野の講演を後れること七年、文化大学の講師を務めていたイギリス人チャンバレン氏も一八八六年『東洋学芸雑誌』第六一号に「支那語読法ノ改良ヲ望ム」を発表し、「疑ハシキハ日本人ノ此支那語ヲ通読スル伝法ナリ、前ヲ後ニ変へ、下ヲ上ニ遡ラシ、本文ニ見へザル語尾ヲ附シ虚辞ヲ黙シ、若クハ再用スル等ハ、漢文ヲ通読スルコトニアランヤ。寧ロ漢文ヲ破砕シテ、其片塊ヲ以テ随意ニ別類ノ一科奇物ヲ増加セリト云フヲ免カレンヤ。」「畢竟日本語ハ日本ノ言序アリ、英語ハ英ノ語次存スルコトは皆々承知セリ、唯支那語ニノミ治外法権ヲ許ルサズシ権内ニ置クハ何ソヤ」(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、50頁)。
といふ風に、イギリス人チャンバレン氏が、一八八六年に書いた時、チャンバレン氏は、
「漢文訓読」は、「英語」や「白話文」よりも、むしろ「述語論理訓読」と「比較」すべきである。
といふ風には、思はなかったと、思はれる。
(43)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)。
とあるやうに、昭和5年に、倉石武四郎先生が「漢籍音読」を始めた時、倉石武四郎先生は、
「漢文」は、「白話文」よりも、むしろ「述語論理」に近い。
といふ風には、思はなかったと、思はれる。
然るに、
(44)
(36)を「逆に言ふ」と、
③ 不{有
③ ~{∃
③ {[
③ {[
③ {[
のやうに、
③ x (x) (x)
を除くと、
③ 不[有〔人而不(死)〕]=
③ ~[∃〔人&~(死)〕]⇒
③ [〔人&(死)~〕∃]~=
③ [〔人であって(死な)ない者は〕存在し]ない。
といふ風に、読むことになるし、このことを、「文語」で言へば、
③ 不有人而不死=
③ 不[有〔人而不(死)〕]⇒
③[〔人而(死)不〕有] 不=
③[〔人にして(死せ)ざるは〕有ら]ず。
といふことに、他ならない。
cf.
「に(断定・ナリの連用形)して(接続詞)」。
「ざる(連体形)」は「死なない人(準体法)」。
従って、
(45)
③ 不{有x[人(x)而不〔死(x)〕]}=
③ ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}⇒
③ {[(x)人&〔(x)死〕~]∃x}~=
③ {[(x)人&〔(x)死〕不]有x}不=
⑨ {[(xは)人であって、尚且つ〔(xは)死な〕ない]といふ、そのやうな人は存在し}ない。
といふ「述語論理訓読」が、「認められる」のであれば、その一方で、
③ 不有人而不死=
③ 不[有〔人而不(死)〕]⇒
③[〔人而(死)不〕有] 不=
③ [〔人にして(死せ)ざるは〕有ら]ず。
といふ「漢文訓読」を、「認めない」とすれば、明らかに、「不当」である。
更に言へば、
(46)
③ ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}
といふ「述語論理」には『括弧』が有る。一方で、
③ 不[有〔人而不(死)〕]
といふ 「漢文」 には『括弧』が無い。といふことは、考へにくい。
従って、
(47)
③ ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}
といふ「述語論理」に『括弧』が有るやうに、
③ 不有人而不死=
③ 不[有〔人而不(死)〕]
といふ「漢文」にも、『括弧』が有ると、すべきである。
従って、
(48)
倉石武四郎先生が、「述語論理訓読」は「否定」せずに、その一方で、「漢文訓読」を、「認めない」のであれば、
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様なものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)。
といふ「言ひやう」は、「不当」である。
(49)
さすがに、現在においては、「漢文訓読法」でなければ、日本人だけでなく、中国人も中国古典は理解できない、などという倒錯した主張をなす者はいなくなった。今から考えてみれば「漢文訓読法」派は単に現代中国語ができなかっただけのことではなかったか、そのようにさえ思えてくる(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、2頁)。
然るに、
(50)
他見那矮胖女人合安老爺嘈嘈,湊到跟前把安老爺上下打量兩眼,一把推開那個女人便笑嘻嘻的望着安老爺説道:『你老別計較他。他喝兩盅子猫溺就是這麼着。也有造了人家的脚倒合人家批禮的?』(兒女英雄傳第三十八回)
のやうな、「北京語(中国語)」は、断じて「漢文」とは「関係」が無い。
cf.
本書に用いられた言語は純粋な北京語であるが、人物によってはその土地の方言を語らせているところがある(太田辰夫、新訂 中国歴代口語文、1998年、17頁)。
cf.
私の後輩に、中国語をずいぶん熱心に勉強している女性がいます。彼女は中国語の検定試験にもチャレンジしている達人ですが、この『論語』の文章を一目みて、「これも中国語ですか? 私には全く分かりません!」と言いました(Webサイト:日本漢文の世界)。
(51)
「漢文音読」が、「訓読」よりも優れてゐるのであれば、「訓読」は、淘汰されてゐなればならないものの、
ともかく筆者が言いたいのは、大学でも漢文の授業の方はしっかりと訓読だけを教えればよいということである。以前このようなことをある講演の際に述べたら、他の大学に勤めている先輩から、自分のところでは音読も取り入れて学生もみな読めるようになっていると力まれて困った。それならばその大学出身の若手が中国学会をリードしているはずである(土田健次郎、大学における訓読教育の必要性)。
との、ことである。
平成成28年04月23日、毛利太。
―「関連サイト」―
(01)『括弧・返り点』の研究(Ⅱ)。 :http://kannbunn.blogspot.com/2016/04/blog-post_24.html
(02)『括弧・返り点』の研究(Ⅲ)。 :http://kannbunn.blogspot.com/2016/05/blog-post._5html
(03)「返り点」を完璧に説明します。 :http://kannbunn.blogspot.com/2016/03/blog-post_31.html
(04)「返り点」と「括弧」と「補足構造」。:http://kannbunn.blogspot.com/2016/05/blog-post_39.html
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