(01)
じゃあ今の日本人って漢詩書けたりするの?
それは無理だろ。読めるのと書けるのは違うし、教育のベースは現代語での理解になるからな。昔の日本では中国語のテキストをそのまま使用していたし、「国語」ではなく「漢文」を教えていたからインテリ階級には漢詩を書ける人間が少なくなかったらしいが、現代の日本人にはほとんどいないはず(KINBRICS NOW)。
(02)
日本人が漢文を書く場合、漢文直訳体の日本語である漢文訓読は、有力な道具となり得る。まず頭のなかで漢文訓読体の日本語を思ひ浮かべ、それを漢文の語序にしたがって書く。次に、そうして書きあがった漢文を自分で訓読し、定型的な「句法」で訓読できない箇所はないか、返り点に無理はないか、などをチェックする。実際に漢詩・漢文を自分で書いてみればわかることだが、日本人が音読直読だけで純正漢文を書くことは、なかなかに難しい(そもそも漢文の音読直読ができる現代中国人でも、純正漢文が書ける者は少ない)。(勉誠出版、「訓読」論、2008年、265頁)
(03)
中國以北京語為國語矣。然、若北京語非漢文也。是以、中國語直読法雖盛、中華人民共和國語、不可以書中夏之書審矣。如日本之学生有欲能書漢文者、則宜以括弧学其管到。古、漢文之於日本語、猶古文之於日本語也。故、漢文亦日本語也。学中國語、莫若音読、学漢文、莫若以訓読学之。
(04)
中國以(北京語)為(國語)矣。然、
若(北京語)、非(漢文)也。是以、
中國語直読法雖(盛)中華人民共和國語不[可〔以書(中夏之書)〕]審矣。
如日本之学生有[欲〔能書(漢文)〕者]則宜〔以(括弧)学(其管到)〕。
古、漢文之於(日本語)、猶〔古文之於(日本語)〕也。故、漢文亦日本語也。
学(中國語)、莫〔若(音読)〕、学(漢文)、莫[若〔以(訓読)学(之)〕]。
(05)
中國は北京語を以て國語と為せり。然れども、
北京語の若きは漢文に非ざるなり。是を以て、
中國語直読法は盛んなりと雖も、中華人民共和國語は以て中華の書を書く可から不ること審かなり。
如し日本の学生に能く漢文を書かむと欲する者有らば則ち、宜しく括弧を以て其の管到を学ぶべし。
古へ、漢文の日本語に於けるや、猶ほ古文の日本語のごときなり。故に、漢文も亦た日本語なり。
中國語を学ぶは、音読に若くは莫く、漢文を学ぶは、訓読を以て之を学ぶに若くは莫し。
(06)
1= (囗)
2= (囗(囗))
3= (囗(囗(囗)))
4= (囗(囗(囗(囗))))
5=(囗(囗(囗(囗(囗)))))
であって、6 以上も、同様であるとする。
従って、
(07)
5は、4を 含んでゐて、
4は、3を 含んでゐて、
3は、2を 含んでゐて、
2は、1を 含んでゐる。
(08)
この時、
5は、4よりも、大きく、
4は、3よりも、大きく、
3は、2よりも、大きく、
2は、1よりも、大きい。
とし、同時に、
1は、2よりも、小さく、
2は、3よりも、小さく、
3は、4よりも、小さく、
4は、5よりも、小さい。
とする。
(09)
5は、4よりも、大きく、
4は、3よりも、大きく、
3は、2よりも、大きく、
2は、1よりも、大きい。
といふことを、
5>4>3>2>1
1<2<3<4<5
といふ風に書いて、「これらの数」を、『集合数』とする。
然るに、
(10)
1st、2nd、3rd、4th、5th、・ ・ ・ ・ ・
に於いて、
1番は、2番よりも、早く、
2番は、3番よりも、早く、
3番は、4番よりも、早く、
4番は、5番よりも、早く、
6番以降も、同様であるとする。
(11)
1番は、2番よりも、早く、
2番は、3番よりも、早く、
3番は、4番よりも、早く、
4番は、5番よりも、早い。
といふことを、すなはち、
5番は、4番よりも、遅く、
4番は、3番よりも、遅く、
3番は、2番よりも、遅く、
2番は、1番よりも、遅い。
といふことを、
1→2→3→4→5
5←4←3←2←1
といふ風に書いて、「これらの数」を、『順序数』とする。
従って、
(09)(11)により、
(12)
5 4 3 2 1
といふ「数字」は、
5>4>3>2>1
であるならば、『集合数』であって、
5←4←3←2←1
であるならば、『順序数』である。
加へて、
(13)
5 4 3 1 2
5 3 1 2 4
5 3 2 1 4
等の場合も、
5>4>3>2>1
であるならば、『集合数』であって、
5←4←3←2←1
であるならば、『順序数』であるとする。
(14)
A=10
B=11
C=12
D=13
E=14
F=15
10=16
であれば、「16進数」であるが、
G=16
10=17
であるとする。
然るに、
(15)
① 12G〈E{3D[9〔7(456)8〕C(AB)]}F〉
② 12G〈E{D[9〔7(3456)8〕C(AB)]}F〉
③ 1G〈E{D[9〔7(23456)8〕C(AB)]}F〉
④ G〈E{D[9〔7(123456)8〕C(AB)]}F〉
に於いて、「これらの数」は、『集合数』であるとする。
従って、
(06)~(15)により、
(16)
① 12G〈E{3D[9〔7(456)8〕C(AB)]}F〉
② 12G〈E{D[9〔7(3456)8〕C(AB)]}F〉
③ 1G〈E{D[9〔7(23456)8〕C(AB)]}F〉
④ G〈E{D[9〔7(123456)8〕C(AB)]}F〉
に於いて、四つとも、
G〈 〉 の中の「全ての数」は、G よりも小さく、
E{ } の中の「全ての数」は、E よりも小さく、
D[ ] の中の「全ての数」は、D よりも小さく、
9〔 〕 の中の「全ての数」は、9 よりも小さく、
7( ) の中の「全ての数」は、7 よりも小さく、
C( ) の中の「全ての数」は、C よりも小さい。
然るに、
(17)
② 1 2 G E D 9 7 3 4 5 6 8 C A B F
③ 1 G E D 9 7 2 3 4 5 6 8 C A B F
④ G E D 9 7 1 2 3 4 5 6 8 C A B F
ではなく、
① 1 2 G E 3 D 9 7 4 5 6 8 C A B F
に於いて、
G〈 〉 の中の「全ての数」は、G よりも小さく、
E{ } の中の「全ての数」は、E よりも小さく、
D[ ] の中の「全ての数」は、D よりも小さく、
9〔 〕 の中の「全ての数」は、9 よりも小さく、
7( ) の中の「全ての数」は、7 よりも小さく、
C( ) の中の「全ての数」は、C よりも小さい。
とするのであれば、
① 12G〈E{3D[9〔7(456)8〕C(AB)]}F〉
といふ「一通り」しか、有り得ない。
然るに、
(18)
① 12G〈E{3D[9〔7(456)8〕C(AB)]}F〉
に対して、
① 12〈{3[〔(456)78〕9(AB)C]D}EF〉G
であれば、
〈 〉G の中の「全ての数」は、G よりも小さく、
{ }E の中の「全ての数」は、E よりも小さく、
[ ]D の中の「全ての数」は、D よりも小さく、
〔 〕9 の中の「全ての数」は、9 よりも小さく、
( )7 の中の「全ての数」は、7 よりも小さく、
( )C の中の「全ての数」は、C よりも小さい。
従って、
(15)(18)により、
(19)
① 12G〈E{3D[9〔7(456)8〕C(AB)]}F〉
といふ『集合数』に於いて、
G〈 〉⇒〈 〉G
E{ }⇒{ }E
D[ ]⇒[ ]D
9〔 〕⇒〔 〕9
7( )⇒( )7
C( )⇒( )C
といふ「倒置」を行へば、
① 12〈{3[〔(456)78〕9(AB)C]D}EF〉G=
① 1→2→3→4→5→6→7→8→9→A→B→C→D→E→F→G
といふ『順序数』が、実現する。
然るに、
(20)
① 中野有不必求以解中國語法解漢文者=
① 中野有〈不{必求[以〔解(中國語)法〕解(漢文)]}者〉
に於いて、
有〈 〉⇒〈 〉有
不{ }⇒{ }不
求[ ]⇒[ ]求
以〔 〕⇒〔 〕以
解( )⇒( )解
解( )⇒( )解
といふ「倒置」を行へば、
① 中野有不必求以解中國語法解漢文者=
① 中野有〈不{必求[以〔解(中國語)法〕解(漢文)]}者〉⇒
① 中野〈{必[〔(中國語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉有=
① 中野に〈{必ずしも[〔(中國語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者〉有り。
といふ「漢文訓読」が、実現する。
従って、
(19)(20)により、
(21)
① 中野有不必求以解中國語法解漢文者=
① 中野有〈不{必求[以〔解(中國語)法〕解(漢文)]}者〉=
① 12G〈E{3D[9〔7(456)8〕C(AB)]}F〉⇒
① 12〈{3[〔(456)78〕9(AB)C]D}EF〉G=
① 中野〈{必[〔(中國語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉有=
① 中野に〈{必ずしも[〔(中國語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者〉有り。
といふ「漢文訓読」が、実現する。
然るに、
(22)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治、中國語と漢文、1975年、二九六頁)。
従って、
(20)(21)により、
(23)
① 中野有〈不{必求[以〔解(中國語)法〕解(漢文)]}者〉=
① 12G〈E{3D[9〔7(456)8〕C(AB)]}F〉⇒
① 12〈{3[〔(456)78〕9(AB)C]D}EF〉G=
① 中野〈{必[〔(中國語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉有=
① 中野に〈{必ずしも[〔(中國語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者〉有り。
に於ける、
①〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
①〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
といふ「括弧」は、
① 中野有不必求以解中國語法解漢文者。
といふ「漢文」の、「補足構造」であって、
① 中野に必ずしも中國語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者有り。
といふ「国語」の、「補足構造」である。
然るに、
(17)により、
(24)
① 1 2 G E 3 D 9 7 4 5 6 8 C A B F
であれば、「括弧」は、
① 12G〈E{3D[9〔7(456)8〕C(AB)]}F〉
といふ「一通り」しか、有り得ない。
従って、
(23)(24)により、
(25)
① 中 野 有 不 必 求 以 解 中 國 語 法 解 漢 文 者。
といふ「漢文」に対して、
① 1 2 G E 3 D 9 7 4 5 6 8 C A B F。
といふ『集合数』を与へることは、
① 中 野 有 不 必 求 以 解 中 國 語 法 解 漢 文 者。
といふ「漢文」に対して、
①〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
といふ「括弧」を与へることに、「等しい」。
然るに、
(26)
① 中 野 有 不 必 求 以 解 中 國 語 法 解 漢 文 者。
といふ「漢文」に対して、
① 1 2 G E 3 D 9 7 4 5 6 8 C A B F。
といふ『集合数』を与へることは、
① 中 野 有 不 必 求 以 解 中 國 語 法 解 漢 文 者。
といふ「漢文」に対して、
① 地 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
といふ「返り点」を与へることに、「等しい」。
従って、
(25)(26)により、
(27)
① 中 野 有 不 必 求 以 解 中 國 語 法 解 漢 文 者。
といふ「漢文」に対して、
① 1 2 G E 3 D 9 7 4 5 6 8 C A B F。
といふ『集合数』を与へることは、
① 中 野 有 不 必 求 以 解 中 國 語 法 解 漢 文 者。
といふ「漢文」に対して、
① 地{丁{丙[下〔二(一)上〕乙(甲)]}天}
といふ「括弧・返り点」を与へることに、「等しい」。
cf.
従って、
(13)(23)(27)により、
(28)
① 中 野 有 不 必 求 以 解 中 國 語 法 解 漢 文 者=
① 中野有〈不{必求[以〔解(中國語)法〕解(漢文)]}者〉=
① 12G〈E{3D[9〔7(456)8〕C(AB)]}F〉⇒
① 12〈{3[〔(456)78〕9(AB)C]D}EF〉G=
① 中野〈{必[〔(中國語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉有=
① 中野に〈{必ずしも[〔(中國語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者〉有り。
といふ「漢文訓読」に於いて、
① 1 2 G E 3 D 9 7 4 5 6 8 C A B F。
といふ「数字」を、『集合数』と見なした場合、「これらの数字」は、「漢文の補足構造」を表してゐて、その一方で、
① 1 2 G E 3 D 9 7 4 5 6 8 C A B F。
といふ「数字」を、『順序数』と見なした場合、「これらの数字」は、「漢文訓読の順番」を表してゐる。
従って、
(28)により、
(29)
① 中野有〈不{必求[以〔解(中國語)法〕解(漢文)]}者〉。
といふ「漢文」を、
① 中野に〈{必ずしも[〔(中國語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者〉有り。
といふ風に、「訓読」した場合も、
①〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
①〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
といふ「補足構造(シンタックス)」自体に、「変はり」はない。
然るに、
(30)
(青木)二百年前、正徳の昔に於て荻生徂徠は夙に道破した。漢学の授業法はまず支那語から取りかからねばならぬ。教うるに俗語を以てし、誦するに支那音を以てし、訳するに日本の俗語を以てし、決して和訓廻環の読み方をしてはならぬ。先ず零細な二字三字の短句から始めて、後には纏った書物を読ませる、斯くて支那語が熟達して支那人と同様になつてから、而る後段々と経子史集四部の書を読ませると云う風にすれば破竹の如しだ、是が最良の策だ(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。
(倉石)徂徠は、単に唐音を操るといふ様なことに満足せず、漢文を学ぶには先ず支那語からとりかり、支那の俗語をば支那語で暗誦させ、これを日本語の俗語に訳し、決して和訓の顚倒読みをしてはならない、始めは零細な二字三字の句から始めて、遂に纏った書物を読ます、支那語が支那人ほど熟達してから、古い書物を読ませば、破竹の勢いで進歩すると説いたこれは、今日の様に外国語に対する理念が発達した時代から見れば、何の不思議もないことであるが、その当時、つとに、かかる意見を吐いたのは、たしかに一世に抜きんでた見識に相違ない(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。
(31)
予嘗為(蒙生)定(学問之方法)、先為(崎陽之学)、教以(俗語)、誦以(華音)、訳以(此方俚語)、絶不〔作(和訓廻環之読)〕、始以(零細者)、二字三字為(句)、後使[読〔成(書)者〕]}、崎陽之学既成、乃始得〔為(中華人)〕、而後稍稍読(経子史集四部書)、勢如(破竹)、是最上乗也 ⇒
予嘗(蒙生)為(学問之方法)定、先(崎陽之学)為、教(俗語)以、誦(華音)以、訳(此方俚語)以、絶〔(和訓廻環之読〕作〕不、始(零細者)以、二字三字(句)為、後[〔(書)成者〕読]使、崎陽之学既成、乃始〔(中華人)為〕得、而後稍稍(経子史集四部書)読、勢(破竹)如、是最上乗也 =
予嘗て(蒙生の)為に(学問の方法を)定め、先ず(崎陽の学を)為し、教ふるに(俗語を)以てし、誦ずるに(華音を)以てし、訳するに(此の方の俚語を)以てし、絶へて〔(和訓廻環の読みを〕作さ〕ず、始めは(零細なる者を)以て、二字三字(句と)為し、後に[〔(書を)成す者を〕読ま]使めば、崎陽の学既に成り、乃ち始めて〔(中華の人)為る〕得、而る後に稍稍(経子史集四部書を)読まば、勢ひ(破竹の)如く、是れ最上の乗なり。
(荻生徂徠、訳文筌蹄)
然るに、
(32)
読むべき漢籍の文字列はあくまで「中華言語」のものであり、それを「此方言語」のシンタックスに従って読む(「和訓廻環之読」)のでは、通じているようでいて、じつは無理が有る(「雖若可通、実為牽強」)。
(勉誠出版、続「訓読」論、2010年、17・18頁)
従って、
(30)(31)(32)により、
(33)
「荻生徂徠、青木正兒、倉石武四郎」先生の立場では、「語順が異なれば、シンタックスの異なる」が故に、例へば、
② 不有人而不死=
② 不[有〔人而不(死)〕]=
② 6[5〔124(3)〕]⇒
② [〔12(3)4〕5]6=
② [〔人而(死)不〕有]不=
② [〔人にして(死せ)ざるは〕有ら]ず。
といふ風に、「漢文訓読(和訓廻環之読)」をしてゐる限りは、「通じているようでいて、じつは無理が有る(「雖若可通、実為牽強」)」。
といふことになる。
然るに、
(34)
命題計算は一種の言語であり、そういうものとして、その文法、あるいはより限定して言えば、シンタックス(syntax)がある(E.J.レモン著 竹尾 治一郎・浅野 楢英 (翻訳)、論理学初歩、1973年、54頁)。対象が有限集合の場合は述語論理も命題論理に還元できます(吉永良正、ゲーデル・不完全性定理、1992、201頁)。
従って、
(34)により、
(35)
③ ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}=
③ 8{77[2(1)36〔5(4)〕]}⇒
③ {[(1)23〔(4)5〕6]77}8=
③ {[(x)人&〔(x)死〕~]∃x}~=
③ {[(xは)人であって、尚且つ〔(xは)死な〕ない]といふ、そのやうなxは存在し}ない。
といふ「述語論理訓読」に於ける、
③ { [ ( )〔 ( ) 〕 ] }
③ { [ ( )〔 ( ) 〕 ] }
といふ「括弧」は、
③ ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}
といふ「述語論理」の「シンタックス」を、表してゐる。
然るに、
(36)
「記号」などというものは歴史的経緯や何やらの「人間的な事情」に依存して決まっている便宜的なものにすぎず、数学の本質そのものではない。そして、現在一般的に使われている数学の記号は欧米起源のものなので、日本語とは「すれ違う」側面がある、というだけである。実際に、a+bの代わりに、日本語の「aとbを足す」という表現に応じて、ab+という記号で足し算を表しても支障はない。「ab+なんて思いっきりヘン」と感じるかもしれないが、それは「慣れていないだけ」である。その証拠に、ab+のような「日本語の語順に応じた記号」の体系が構成されていて、それが有益であることが実証されている(中島匠一、集合・写像・論理、2012年、190頁)。
従って、
(35)(36)により、
(37)
② ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}=
② {[(x)人&〔(x)死〕~]∃x}~=
② {[(xは)人であって、尚且つ〔(xは)死な〕ない]といふ、そのやうなxは存在し}ない。
といふ「等式」は、「論理的には、完全に正しい」。
従って、
(37)により、
(38)
③ 不有人而不死=
③ 不[有〔人而不(死)〕]=
③ [〔人而(死)不〕有]不=
③ [〔人にして(死せ)ざるは〕有ら]ず。
といふ「等式」は、「論理的には、完全に正しい」。
従って、
(33)~(38)により、
従って、
(39)
③ 不有人而不死。
③ 人にして死せざるは有らず。
の場合は、「語順は異なる」ものの、「論理的には、完全に等しい」。
然るに、
(40)
④ What are you doing now?=
④ What(are[you doing〔now)〕]?
④ ([you 〔now)What〕doing]are?=
④ ([あなたは〔今)何を〕して]ゐるか。
に於いて、
④ ( [ 〔 ) 〕 ]
④ ( [ 〔 ) 〕 ]
のやうな「それ」は、「括弧」とは言へない。
cf.
④ Are you now doing what?=
④ Are〔you now doing(what)〕?⇒
④ 〔you now(what)doing〕Are ?=
④ 〔あなたは 今(何を)して〕ゐるか。
cf.
WH移動、生成文法。
従って、
(40)により、
(41)
④ What are you doing now ?
④ あなたは今何をしてゐるか。
の場合は、「語順も、シンタックスも、異なってゐる」。
従って、
(39)(41)により、
(42)
③ 不有人而不死。
③ 人にして死せざるは有らず。
の場合は、「語順は、異なるが、シンタックスは等しく」、
④ What are you doing now ?
④ あなたは今何をしてゐるか。
の場合は、「語順も、シンタックスも、異なってゐる」。
従って、
(42)により、
(43)
「語順が異なれば、シンタックスも異なる」が故に、「大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)。のであれば、「語順が異なってゐるからと言って、シンタックスの異なる、とは限らない。」といふことを、指摘したい。
(44)
② ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
に対する「英語」は、
② There is not an x such that x is a man and x doesn't die.
である。
然るに、
(45)
② ~{∃x=
② Not there is an x such that
であるため、
② there is(Not)an x such that x is a man and x doesn't die.
に対して、
② { [ ( )〔 ( ) 〕 ] }
といふ「括弧」が付くことは無い。
従って、
(37)(45)により、
(46)
② ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}
② There is not an x such that x is a man and x doesn't die.
② {[(xは)人であって、尚且つ〔(xは)死な〕ない]といふ、そのやうなxは存在し}ない。
に於いて、「述語論理のシンタックス」と「訓読のシンタックス」は、「共通」である。一方で、「述語論理のシンタックス」と「英語のシンタックス」は、「共通」ではない。
加へて、
(47)
記号論理学は、英語などヨーロッパ語を母国語とする文化圏でもっぱら開発された学門であるにもかかわらず、論理学者の母語よりも日本語のような外国語の文法に合致している部分が少なくない(もちろん逆もある)。このことは、論理学が、ローカルな日常言語ではなく原‐言語的な普遍論理をかなり再現しおおせている証しと言えるだろう(三浦俊彦、ラッセルのパラドックス、2005年、105頁)。
従って、
(37)(47)により、
(48)
「漢文のシンタックス」であっても、「中國語のシンタックス」よりも、「日本語のシンタックス」との「類似性」が大きいとしても、そのことを以て、「不自然」であるとすることは、出来ない。
従って、
(37)(38)(45)(48)により、
(49)
荻生徂徠の「やり方」は、
② ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}
といふ「述語論理」を、
② ナット イグズイスト エックス マン エックス アンド ナット ダイ エックス.
といふ風に「音読」して、
② There is not an x such that x is a man and x doesn't die=
といふ「意味」であるとし、その上で、
② ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}=
② {[(xは)人であって、尚且つ〔(xは)死な〕ない]といふ、そのやうなxは存在し}ない。
といふ風に「理解」する。といふ場合に、「喩へる」ことが出来る。
(50)
少数の天才的なひとたちあるいは秀才たちは、返り点・送り仮名をつけなくとも正確な漢文の理解に至るであろう。李氏朝鮮の儒学のレベルの高さはそういう少数の秀才や天才に負うものである。・・・・・・しかし大多数のコリア人にとって、シナの古典は近づき難い高峰であった」(渡辺昇一、『英文法を撫でる』PHP新書)
返り点・送り仮名をつけて訓読みすることが「日本人として徹底的にわかることを意味する」というところに私は大きな衝撃を受けた。それに対して韓国でそのまま外国語として音読みし、翻訳して意味を理解する道をとった(呉善花、漢字廃止で韓国に何が起きたか、2008年、89・90頁)。ただ残念なことに、日本のような漢文訓読法がなかった朝鮮では、純正漢文を読めたのは上流知識人に限られた。読書層は日本にくらべると薄く、朝鮮の対日認識は限定的なものにとどまった。極論すれば、漢文訓読法をもてなかったことが、朝鮮が近代において日本に圧倒されるようになった遠因の一つとなった(加藤徹、漢文の素養、2006年、199頁)。
従って、
(30)(31)(50)により、
(51)
「荻生徂徠、青木正兒、倉石武四郎」先生たちの「主張」は、天才や秀才であることを普通の人間に求めてゐる。といふ風に、言へないことも無い。
いづれにせよ、
(30)(31)により、
(52)
(徂徠)崎陽之学既成、乃始得為中華人、而後稍稍読経子史集四部書、勢如破竹、是最上乗也 =
(青木)斯くて支那語が熟達して支那人と同様になつてから、而る後段々と経子史集四部の書を読ませると云う風にすれば破竹の如しだ、是が最良の策だ。
従って、
(53)
右のやうな「徂徠の節」が「正しい」のであれば、「支那語(中國語)」が出来る中國人が「漢文」を学ぶ際の「勢い」は、「破竹の如し」といふことになる。
従って、
(52)(53)により、
(54)
「漢文」は、普通の中國人にとって、「少しも難しくない」。といふことになる。
従って、
(55)
「漢文」は、普通の中國人にとって、「少しも難しくない」。といふことは、ない。
といふのであれば、「徂徠の説」は、端的に言って、「ウソ(事実誤認)」である。
平成05月05日、毛利太。
― 関連サイト ―
(01)『括弧』と『返り点』と「白話文」。 :http://kannbunn.blogspot.com/2016/04/blog-post_34.html
(02)『括弧・返り点』の研究(Ⅱ)。 :http://kannbunn.blogspot.com/2016/04/blog-post_24.html
(03)「返り点」を完璧に説明します。 :http://kannbunn.blogspot.com/2016/03/blog-post_31.html
(04)「返り点」と「括弧」と「補足構造」。:http://kannbunn.blogspot.com/2016/05/blog-post_39.html
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