2016年5月27日金曜日

漢文は中国語である?

(01)
伝統的な文言文とは異なり、白話で書かれた文章は訓読には適さない。たとえば、元代に作られた『孝経』の口語訳を見てみよう。「原文(文言文)」で「曾子曰、敢問聖人之徳、無以加於孝乎(曾子曰く、敢えて問う 聖人の徳、以て孝に加うること無きか)」というところが、当時の口語訳(白話文)では「曾子問、孔子道聖人行的事、莫不更有強如孝道的勾當麽」となり、「孝莫大於厳父、厳父莫大於配天(孝は父を厳ぶより大なるは莫く、父を厳ぶは天に配するよりは大なるは莫し)」というところが、白話訳では、 「孝的勾當都無大似的父親的、敬父親的勾當便似敬天一般」となっている。両者の違いは一目瞭然であろう(勉誠出版、続「訓読」論、2010年、311・312頁)。
従って、
(01)により、
(02)
① 敢問聖人之徳、  無以加於孝乎。      孝莫大於厳父、      厳父莫大於配天。
② 孔子道聖人行的事、莫不更有強如孝道的勾當麽。孝的勾當都無大似的父親的、敬父親的勾當便似敬天一般。
に於いて、
① は、「訓読」に適した 「文言文( 漢文 )」であり、
② は、「訓読」に適さない「白話文(中国語)」であって、両者の違いは一目瞭然である。
然るに、
(03)
① 孝莫大於厳父。
に於いて、
莫=無し
厳=尊ぶ
従って、
(03)により、
(04)
① 孝莫大於厳父=
① 孝無大於尊父=
① 孝莫{大[於〔尊(父)〕]}⇒
① 孝{[〔(父)尊〕於]大}莫=
① 孝は{[〔(父を)尊ぶ〕より]大なるは}無し=
① 孝行は、父親を尊重することが、一番大切なことである。
然るに、
(05)
原則的にひとつの音節にひとつの漢字でうつしたものが文言であり、それでは目で読めても、耳でききわけにくいため、ひとつの音節に別の音節を付属させたのが白話である(倉石武四郎、中国語五十年、1973年、165頁)。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 孝無大於尊父。
の「音節」に、「別の音節」を付属させたものが、
② 孝的勾當都無大似的父親的。
である。といふことになる。
然るに、
(07)
① 孝    無 大於尊 父。
② 孝的勾當都無 大似的 父親的。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
① 孝    無 大於尊 父。
といふ「文言文」では目で読めても、耳でききわけにくいため、
②   的勾當都      親的
という別の音節が付属し、
①               於尊 が、
②               似的 に替はった結果が、
② 孝的勾當都無 大似的 父親的。
といふ「白話文」である。
然るに、
(09)
② 孝的勾當都無 大似的 父親的。
に於ける、
②  的勾當都   似的  親的
といふ「部分」は、「漢文(文言文)」としては、「意味をなさない」。
(10)
ひとつの音節にひとつの漢字でうつしたものが文言であり、それでは目で読めても、耳でききわけにくい。
と言はれても、
ひとつの音節にひとつの漢字では、目で読めても、耳でききわけにくい。
といふ「説明」は、どのやうな場合を想像すれば良いのかが、分らない。
(11)
③ 今は昔、竹取の翁といふものありけり(竹取物語、10世紀)。
④ 今は昔、竹取の翁というものがいたそうだ(現代文)。
⑤ ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず(方丈記、13世紀)。
⑥ ゆく河の流れは絶えることがなく、しかももとの水ではない(現代文)。
であれば、
古文といい現代文といい、それはおなじ日本語であって、元来ひとつのものである。
と言はれても、違和感はない。、
(12)
① 敢問聖人之徳、  無以加於孝乎。      孝莫大於厳父、      厳父莫大於配天。
② 孔子道聖人行的事、莫不更有強如孝道的勾當麽。孝的勾當都無大似的父親的、敬父親的勾當便似敬天一般。
であるにも拘はらず、
文言といい白話といい、それはおなじ中国語であって、元来ひとつのものである(倉石武四郎、中国語五十年、1973年、165頁)。
といふ言ひ方には、納得が出来ない。
(13)
元代に作られた『孝経』の口語訳を見てみよう。
といふことであれば、
② 孔子道聖人行的事、莫不更有強如孝道的勾當麽。孝的勾當都無大似的父親的、敬父親的勾當便似敬天一般。
といふ「白話」は、むしろ、「漢字で書かれたモンゴル語(のやうな言語)」であっても、ヲカシクは無い。
(14)
ドイツ語といい英語といい、それはおなじゲルマン語であって、元来ひとつのものである。が故に、
ドイツ語を読もうとするならば、英語が読めるやうにならなければならない。といふことには、ならない。
従って、
(15)
文言といい白話といい、それはおなじ中国語であって、元来ひとつのものである。
といふ言ひ方は、詭弁であると、思はれる。
平成28年05月27日、毛利太。
 ―「関連サイト」―
『括弧』と『返り点』と「白話文」。:http://kannbunn.blogspot.com/2016/04/blog-post_34.html

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