(01)
① 我地〈必丁{丙[下〔二(漢一)上〕乙(漢甲)]}天〉也。
に於いて、
地〈 〉⇒〈 〉地
丁{ }⇒{ }丁
丙[ ]⇒[ ]丙
下〔 〕⇒〔 〕下
二( )⇒( )二
乙( )⇒( )乙
といふ「倒置」を行ふと、
① 我〈必{[〔(漢一)二上〕下(漢甲)乙]丙}丁天〉地也。
然るに、
(02)
地=非
丁=不
丙=求
下=以
二=解
一=語
上=法
乙=解
甲=文
天=者
であるとする。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 我地〈必丁{丙[下〔二(漢一)上〕乙(漢甲)]}天〉也=
① 我非〈必不{求[以〔解(漢語)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
② 我〈必{[〔(漢語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
② 我は〈必ずしも{[〔(漢語を)解する法を〕以って(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざるなり。
然るに、
(04)
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
① 我非必不求以解漢語法解漢文者也。
といふ「漢文」の「訓読」が、
② 我は必ずしも漢語を解する法を以って漢文を解せんことを求め不る者に非ざるなり。
である時、
① 我非必不求以解漢語法解漢文者也。
といふ「漢文」に付く「返り点」は、
① 地 レ 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
① 地 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
である。
然るに、
(06)
① 地〈囗レ{丙[下〔二(囗一)上〕乙(囗甲)]}天〉
① 地〈囗丁{丙[下〔二(囗一)上〕乙(囗甲)]}天〉
がさうであるやうに、
(a)レ点
(b)一・二点
(c)上・下点
(d)甲・乙点
(e)天・地点
に於いて、
(a)は、「一字だけ、上(左)へ返る」際に、用ゐる。
(b)は、「二字以上、上(左)へ返る」際に、用ゐる。
(c)は、「(b)」 を超えて、「下(右)から上(左)へ返る」際に、用ゐる。
(d)は、「(c)(b)」 を超えて、「下(右)から上(左)へ返る」際に、用ゐる。
(e)は、「(d)(c)(b)」を超えて、「下(右)から上(左)へ返る」際に、用ゐる。
従って、
(06)により、
(07)
(a)レ点
(b)一・ニ点
(c)上・下点
(d)甲・乙点
(e)天・地点
は全て、「上へ返る」際に用ゐる。
然るに、
(08)
従って、
(08)により、
(09)
《いかが三 ひよりは二 あらふ四 それ けふの一
ハッタ ワ ザ イジ イータ ツデイ
What weather is it today?》
といふ「それ」、すなはち、
③ 三 二 四 一
といふ「それ」は、
③ 三 四
に於いて、
③「上(左)から下(右)へ返る」際に、「一・二点」を用ゐてゐる。
従って、
(07)(09)により、
(10)
③ What weather is it today?
といふ「英語」は、「返り点」を用ゐて、「訓読」することが、出来ない。
然るに、
(11)
③ 三〔二(四[一)〕]
に於いて、
四[ ]⇒[ ]四
三〔 〕⇒〔 〕三
二( )⇒( )二
といふ「倒置」を行ふと、
③ 三〔二(四[一)〕]⇒
③ 〔([一)二〕三]四=
③ 一 二 三 四。
然るに、
(12)
③ 〔([ )〕]
は、「括弧」ではない。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
③ What weather is it today?
といふ「英語」は、「返り点・括弧」を用ゐて、「訓読」することが、出来ない。
然るに、
(14)
Ⅵ〈Ⅴ{Ⅳ[Ⅲ〔Ⅱ(Ⅰ)〕]}〉
と書かれてゐる「紙面」を、「裏返し」にして、「鏡」に向ければ、「鏡の中」で、
Ⅵ〈Ⅴ{Ⅳ[Ⅲ〔Ⅱ(Ⅰ)〕]}〉 は、
〈{[〔(Ⅰ)Ⅱ〕Ⅲ]Ⅵ}Ⅴ〉Ⅳ といふ風に、見える。
従って、
(15)
〈{[〔(Ⅰ)Ⅱ〕Ⅲ]Ⅵ}Ⅴ〉Ⅳ は、
Ⅵ〈Ⅴ{Ⅳ[Ⅲ〔Ⅱ(Ⅰ)〕]}〉 の、文字通りの「鏡像(mirror image)」である。
然るに、
(16)
Ⅵ Ⅴ Ⅳ Ⅲ Ⅱ Ⅰ=
Ⅵ〈Ⅴ{Ⅳ[Ⅲ〔Ⅱ(Ⅰ)〕]}〉.
といふ「ⅠⅡ点(一二点)」に対して、
Ⅵ〈 〉⇒〈 〉Ⅵ
Ⅴ{ }⇒{ }Ⅴ
Ⅳ[ ]⇒[ ]Ⅳ
Ⅲ〔 〕⇒〔 〕Ⅲ
Ⅱ( )⇒( )Ⅱ
といふ「倒置」を行ふと、当然、
Ⅵ〈Ⅴ{Ⅳ[Ⅲ〔Ⅱ(Ⅰ)〕]}〉⇒
〈{[〔(Ⅰ)Ⅱ〕Ⅲ]Ⅳ}Ⅴ〉Ⅵ=
Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅴ Ⅵ.
といふ「ソート(並び替へ)」が、実現する。
然るに、
(17)
SOVを代表する日本語とSVOを代表する英語で、主語・目的語・動詞以外の語順に視野を広げて考えると、「鏡像」(mirror image)に近い順序を示すことがしばしば指摘される(竹沢幸一・Jhon Whiteman、格と語順と統語構造、1998年、104頁)。
従って、
(15)(16)(17)により、
(18)
「日本語」と「英語」に於いて、「鏡像」(mirror image)に近い順序を示すことが多い。
と、言ふのであれば、
「英語の多く」は、「括弧」を用ゐて、「訓読」出来なければ、ならない。
然るに、
(19)
④ The old man went[to(the mountains)to〔gather(wood)〕]⇒
④ The old man [(the mountains)to〔(wood)gather〕to]went=
④ お爺さんは[(山)へ〔(芝を)刈り〕に]行きました。
であれば、「返り点」は、
④ 丁 二 一 丙 乙 甲
である。
(20)
⑤ The-relationships〔among(those three people)〕are(complicated)⇒
⑤ 〔(those three people)among〕The-relationships(complicated)are=
⑤ 〔(あの三人)の間の〕関係は(複雑)である。
であれば、「返り点」は、
⑤ 三 二 一 二 一
である。
(21)
⑥ The weather forecaster says《that〈this summer will{be[cooler〔than(usual year)〕]}〉》⇒
⑥ The weather forecaster 《〈this summer {[〔(usual year)than〕cooler]be}will〉that》says=
⑥ 天気予報官は 《〈今年の夏は{[〔(平年)よりも〕涼しく]なる}であらう〉といふ風に》言ふ。
であれば、「返り点」は、
⑥ 七 六 五 四 三 二 一
である。
(22)
⑦ Will《you lend〈me the-first-and-second-volumes{of["BUDDHA"〔by(Osamu Tezuka)〕]}for(about a week)〉》?⇒
⑦ 《you 〈me {[〔(Osamu Tezuka)by〕"BUDDHA"]of}the-first-and-second-volumes(about a week)for〉lend》Will?=
⑦ 《あなたは〈私に{[〔(手塚治虫)の〕"ブッダ"]の}第一巻と第二巻を(約一週)間〉貸してくれる》でしょうか。
であれば、「返り点」は、
⑦ 丁 丙 五 四 三 二 一 乙 甲
である。
(23)
⑧ I saw〈an old man walking{in[the park〔with(his dog)〕]}〉⇒
⑧ I 〈an old man{[〔(his dog)with〕the-park]in} walking〉saw=
⑧ 私は〈一人の老人が{[〔(彼の犬)と一緒に〕公園]を}歩いてゐるのを〉見た。
であれば、「返り点」は、
⑧ 六 五 四 三 二 一
(24)
⑨ I「studied in《England〈for{two-years[when〔I was(a student)〕]}〉》」⇒
⑨ I「《〈{[〔I (a student)was〕when]two-years}for〉England》in」studied =
⑨ 私は「《〈{[〔私が(学生)であった〕ときに]二年}間〉イングランド》で」勉強した。
であれば、「返り点」は、
⑨ 八 七 六 五 四 三 二 一
である。
従って、
(13)(18)~(24)により、
(25)
③ What weather is it today?
ではなく、
④ The old man went to the mountains to gather wood.
⑤ The-relationships among those three people are complicated.
⑥ The weather forecaster says that this summer will be cooler than usual year.
⑦ Will you lend me the-first-and-second-volumes of "BUDDHA" by Osamu Tezuka for about a week?
⑧ I saw an old man walking in the park with his dog.
⑨ I studied in England for two-years when I was a student.
であれば、「返り点・括弧」を用ゐて、「訓読」することは、可能である。
然るに、
(26)
漢文はその発生の初めから知的に整理された中国の文章語で、紀元前の文献である『論語』や『孟子』のころにはすでに記載語として成立していた。その文章は当時の口語の煩雑さを整理して、より簡潔な形に凝集させたものである(ウィキペディア)。
従って、
(27)
「漢文」は、初めから「読み書き」のための「書記言語」であるため、固より、「漢文のネイティブスピーカー」はゐない。
従って、
(28)
「漢文」を用ゐて、「会話」をすることは、有り得ない。
然るに、
(29)
「英語」は、「会話+読み書き」のため「言語」である。
従って、
(28)(29)により、
(30)
④ The old man went[to(the mountains)to〔gather(wood)〕].
といふ「英語」を、
④ お爺さんは[(山)へ〔(芝を)刈り〕に]行きました。
といふ風にしか、読めないのであれば、「問題」であるが、
① 我非〈必不{求[以〔解(漢語)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「漢文」を、
① wǒ feī bì bù qiú yǐ jiě hàn yǔ fǎ jiě hàn wén zhě yě
といふ風に、「北京語」で読めないとしても、「問題」にはならない。
従って、
(31)
漢学は断じてシナ語学ではないのですから、日本の大学には「中国語文学科」でけでなく「漢学科」があってもいいのではないかと思います。その「漢学科」ではチャイニーズカンバセーションができなくなくてもかまわない。漢文を徹底的に腑分けして理解したうえで、それを正確に日本語に移す。日本的漢学の伝統にのっとった、そうした学科があってもいいのでないでしょうか(渡辺昇一、英語の早期教育・社内公用語化は百害あって一利なし、2014年、92頁)。
といふ、渡辺先生の意見に対して、私も、賛成である。
(32)
「漢文を徹底的に腑分けして理解する。」といふ「譬へ」は、
じっさい漢学では、本場のシナ人がこれをどう読むのか、といったことはおかまいなく、いきなり「どうすれば、この漢文を日本語のシンタックスに入れることができるか」といって、日本語に直してしまいます。いいかえれば、漢文を〝 読む〟のではなく、〝 厳密に解釈する〟という知的作業をほどこすのです。そんなことをしたら、外国語はもはや外国語ではなく、自国語になり変わってしまうではないか――と驚きながらも、金さんは、これこそ日本人の恐るべき〝 解剖癖〟を示していると結論づけるにいたったのです(渡辺昇一、英語の早期教育・社内公用語化は百害あって一利なし、2014年、85頁)。
といふ、「意味」である。
平成28年08月17日、毛利太。
―「関連記事」―
「論理学の括弧」と「漢文の括弧」。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/08/blog-post_6.html)
「返り点と、括弧の関係(最も重要な記事)」。(http://kannbunn.blogspot.com/2016/07/blog-post_6.html)
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