( )は丸括弧、小括弧。
〔 〕は亀甲括弧。
[ ]は角括弧、大括弧。
{ }は波括弧、中括弧。
とするのが、「普通」である。
然るに、
(02)
「五十音のカ行」は、
カ キ ク ケ コ
であるため、それぞれ、
( )は、カ ッコ。
〔 〕は、キ ッコ。
[ ]は、ク ッコ。
{ }は、ケ ッコ。
と、呼ぶことにしてゐる。
(03)
「カ行」の次は、「サ行」なので、
〈 〉は、サッコ。
と、呼ぶことにしてゐる。
従って、
(04)
( )は、カ ッコ。
〔 〕は、キ ッコ。
[ ]は、ク ッコ。
{ }は、ケ ッコ。
〈 〉は、サ ッコ。
であるが、今迄に、「これらの五つ」で表せない「返り点」を見たことが無い。
例へば、
(05)
下 二 一 上
下 二 一 中 上
下 中 二 一 上
であれば、
( )→〔 〕
( )→ ( )→〔 〕
( )→〔 〕→[ ]
といふ「順番」、すなはち、(04)により、
カッコ キッコ
カッコ カッコ キッコ
カッコ キッコ クッコ
といふ「順番」で、「括弧」を付けることになる。
従って、
(05)により、
(06)
下 二 一 上
下 二 一 中 上
下 中 二 一 上
といふ「返り点」は、
カッコ キッコ。
カッコ カッコ キッコ。
カッコ キッコ クッコ。
といふ風に、「読む」ことになる。
cf.
「括弧」の「個数」は、「一 上 甲 天」以外の、「返り点の個数」に等しい。従って、
下 二 一 上 であれば、2個 であって、
下 二 一 中 上 であれば、3個 であって、
下 中 二 一 上 であれば、3個 である。
然るに、
(07)
(08)
(04)~(08)により、
(09)
① ~ ⑳ にあって、
⑫ レ 二 レ レ 一。
に対する「括弧」が気になるとしたら、
⑫ レ 二 レ レ 一。
といふ「返り点」を、
⑫ カッコ キッコ クッコ ケッコ。
といふ風に、読むことによって、
⑫ {[〔( )〕]}
といふ「括弧」を「確認」する。ことになる。
(10)
漢文の力をつけるための最も効果的かつ着実な方法は、何度も何度も声を出して読むことである。その白文がすらすらと読めるようになれば、漢文の句法。語の意味、基本的な知識は自然と身に付くはずである(教学社、風呂で覚える漢文、1998年、ⅲ)。
といふのは、確かに、その通りであるし、「教学社、風呂で覚える漢文、1998年、101頁~106頁」には、「白文」が載ってゐる。
然るに、
(11)
「何度も何度も声を出して読むことによって、その白文がすらすらと読めるようになる」と、あるいは、
(a)「白文」を「訓読」してゐるのではなく、
(b)「訓読」を「暗誦」してゐるのかも知れない。
といふ風に、思ふことになる。
然るに、
(12)
例へば、
人皆喩其為仁也。及為令尹、未治而国人信之。
といふ「白文」を、
人皆其の仁為るを喩る也。令尹と為るに及び、未だ治め不し而、国人之を信ず。
といふ風に、「訓読」し、
人皆其の仁為るを喩る也。令尹と為るに及び、未だ治め不し而、国人之を信ず。
といふ「訓読」を、
ジンカイユキヰジンヤ、キフヰレイヰン、ビチジコクジンシンシ。
といふ「復文(音読)」を、「何度もしてゐる」と、その内に、
人皆喩其為仁也。及為令尹、未治字国人信之。
といふ「白文」を、「覚えて」しまふ。
然るに、
(13)
人皆其の仁為るを喩る也。令尹と為るに及び、未だ治め不し而、国人之を信ず。
といふ「訓読」を、
ジンカイユキヰジンヤ、キフヰレイヰン、ビチジコクジンシンシ。
といふ風に「復文(音読)」出来て、尚且つ、
ジンカイユキヰジンヤ、キフヰレイヰン、ビチジコクジンシンシ。
といふ「日本漢字音」を、
人皆喩其為仁也。及為令尹、未治而国人信之。
といふ風に「書ける」のであれば、
人皆喩其為仁也。及為令尹、未治而国人信之。
といふ「白文」に関して、
(a)「白文」を「訓読」してゐるのではなく、
(b)「訓読」を「暗誦」してゐるのかも知れない。
といふ風に、思ふ「必要」はない。
然るに、
(14)
「多久弘一、多久の漢文公式110、1988年、1頁」に有る「書き下し文」は、
人皆其の仁たるを喩るなり。令尹となるに及び、未だ治めずして、国人之を信ず。
であって、
人皆其の仁為るを喩る也。令尹と為るに及び、未だ治め不し而、国人之を信ず。
ではない。
然るに、
(15)
人皆其の仁たるを喩るなり。令尹となるに及び、未だ治めずして、国人之を信ず。
であれば、
為 也 為 而
といふ「四つの漢字」が、落ちてゐる。
然るに、
(16)
「書き下し文」に「なり」が有る(無い)からと言って、「白文(原文)」に「也」が有る(無い)とは、限らないし、「而(almost meaningless particle)」の場合は、「有っても、無くとも、両方とも、正しい」。
従って、
(14)(15)(16)により、
(17)
人皆其の仁為るを喩る也。令尹と為るに及び、未だ治め不し而、国人之を信ず。
ではなく、
人皆其の仁たるを喩るなり。令尹となるに及び、未だ治めずして、国人之を信ず。
といふ「書き下し文」から、
人皆喩其為仁也。及為令尹、未治而国人信之。
といふ風に、「復文」することは、出来ないし、「多久弘一、多久の漢文公式110、1988年」の「例文」には、「返り点」が付いてゐる。
従って、
(14)(17)により、
(18)
「多久弘一、多久の漢文公式110、1988年」に有る「例文」を用ゐて、
(Ⅰ)「白文」を「訓読(和訳)」して、
(Ⅱ)「訓読」を「復文(漢読)」しようと、するならば、
のやうな「テキスト」を、自分自身で、「用意(入力)」する必要がある。
(19)
漢文では文章があっても、それを文法にのっとり、文章的に分析して読んでいくことができない。しかし日本語はあくまでも文法、言葉の配列にのっとっているので、ロジックをたどらなければ文章を読むことができない。そのため訓読が発達し、中国人よりも漢文の読み方が正確で厳密である。― 中略 ― たしかに、文言文は、日本人の訓読による機械的な読み下しが功を奏している。漢文読み下しの方法を理解すれば、『論語』でも『史記』でも『唐詩』でも理解することができる(黄文雄、漢字文明にひそむ中華思想の呪縛、2001年、227頁)。との、ことである。
平成28年11月10日、毛利太。
―「関連記事」―
「漢文の補足構造」としての「括弧」の付け方(http://kannbunn.blogspot.com/2016/09/blog-post_22.html)。
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