2019年3月31日日曜日

「漢文(人工言語)」は「自然言語」ではない。

(01)
1  (1)   ∀x(馬x→動x)               A
 2 (2)   ∃y(馬y&頭ay)              A
 2 (〃)或るyは馬であって、任意aはyの頭である。      A 
  3(3)      馬b&頭ab               A
  3(4)      馬b                   3&E
  3(5)         頭ab               3&E
1  (6)      馬b→動b                1UE
1 3(7)         動b                46MPP
1 3(8)      動b&頭ab               57&I
1 3(9)   ∃y(動y&頭ay)              8EI
12 (ア)   ∃y(動y&頭ay)              239EE
1  (イ)   ∃y(馬y&頭ay)→∃y(動y&頭ay)   2アCP
1  (ウ)∀x{∃y(馬y&頭xy)→∃y(動y&頭xy)}  イUI
   (∴)∀x(馬x→動物x)├ ∀x{∃y(馬y&頭xy)→∃y(動物y&頭xy)}
   (〃)すべてのxについて、xが馬ならば、xは動物である。故に、全てのxについて、或るyが馬であって、xがyの頭であるならば、或るyは動物であって、xはyの頭である。
   (〃)すべての馬は動物である。故に、すべての馬の頭は動物の頭である=All horses are animals; therefore all horses' heads are animals' heads.
cf.
ド・モルガンが、明らかに健全であるにもかかわらず、伝統的な論理学のわくぐみのなかでは取り扱うことができなかった論証として挙げた、有名な、また簡単な論証がある。
 (1)すべての馬は動物である。故にすべての馬の頭は動物の頭である。
(論理学初歩、E.J.レモン 著、 竹尾治一郎・浅野楢英 訳、1973年、166・7頁)
然るに、
(02)
(a)
1(1)  ∀x( 馬x→  動x) A
1(2)      馬a→  動a  1UE
1(3)     ~馬a∨  動a  2含意の定義
1(4)  ~~(~馬a∨  動a) 3DN
1(5)  ~(~~馬a& ~動a) 4ド・モルガンの法則
1(6)    ~(馬a& ~動a) 5DN
1(7)  ∀x~(馬x& ~動x) 6UI
1(8)~~∀x~(馬x& ~動x) 7DN
1(9)~∃x~~(馬x& ~動x) 8量化子の関係
1(ア)  ~∃x(馬x& ~動x) 9DN
(b)
1(1)  ~∃x(馬x& ~動x) A
1(2)  ∀x~(馬x& ~動x) 1量化子の関係
1(3)    ~(馬a& ~動a) 2UE
1(4)     ~馬a∨~~動a  3ド・モルガンの法則
1(5)     ~馬a∨  動a  4DN
1(6)      馬a→  動a  5含意の定義
1(7)  ∀x( 馬x→  動x) 6UI
従って、
(02)により、
(03)
(ⅰ) ∀x(馬x→ 動物x)
(ⅱ)~∃x(馬x&~動物x)
に於いて、
(ⅰ)=(ⅱ) である。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
(ⅰ) ∀x(馬x→ 動物x)├ ∀x{∃y(馬y&頭xy)→∃y(動物y&頭xy)}
(ⅱ)~∃x(馬x&~動物x)├ ∀x{∃y(馬y&頭xy)→∃y(動物y&頭xy)}
に於いて、
(ⅰ)=(ⅱ) である。
従って、
(04)により、
(05)
(ⅰ)すべてのxについて、xが馬ならば、xは動物である。故に、全てのxについて、或るyが馬であって、xがyの頭であるならば、或るyは動物であって、xはyの頭である。
(ⅱ)馬であって、動物ではないところの、xは存在しない。故に、全てのxについて、或るyが馬であって、xがyの頭であるならば、或るyは動物であって、xはyの頭である。
に於いて、
(ⅰ)=(ⅱ) である。
然るに、
(06)
(ⅲ)無馬而非動物、故無馬之頭而非動物之頭=
(ⅲ)無馬而非動物、故無馬之頭而非動物之頭
(ⅲ)〔馬而非(動物)〕、故無〔馬之頭而非(動物之頭)〕⇒
(ⅲ)〔馬而(動物)非〕無、故〔馬之頭而(動物之頭)非〕無=
(ⅲ)〔馬にして(動物に)非らざるは〕無し。故に〔馬の頭にして(動物の頭)非らざるは〕無し=
(ⅲ)すべての馬は動物である。故に、すべての馬の頭は動物の頭である=All horses are animals; therefore all horses' heads are animals' heads.
従って、
(05)(06)により、
(07)
(ⅰ) ∀x(馬x→ 動物x)├ ∀x{∃y(馬y&頭xy)→∃y(動物y&頭xy)}
(ⅱ)~∃x(馬x&~動物x)├ ∀x{∃y(馬y&頭xy)→∃y(動物y&頭xy)}
(ⅲ)〔馬而非(動物)〕、故無〔馬之頭而非(動物之頭)〕=馬にして動物に非らざるは無し。故に、馬の頭にして動物の頭に非らざるは無し。
に於いて、
(ⅰ)=(ⅱ)=(ⅲ) である。
然るに、
(08)
(ⅳ)2×4=8 ⇔
(ⅳ)2の4倍は8に等しい。
(09)
(ⅳ)2×4=8 ⇔
(ⅳ)2 multiply by 4 equals 8.
従って、
(08)(09)により、
(10)
(ⅳ)2×4=8 ⇔
(ⅳ)2の4倍は8に等しい。⇔
(ⅳ)2 multiply by 4 equals 8.
然るに、
(11)
「の4倍は8に等しい。」   と、
「multiply by 4 equals 8. 」とでは、「語順が逆」である。
cf.
逆ポーランド記法(ぎゃくポーランドきほう、英語: Reverse Polish Notation, RPN)は、数式やプログラムの記法の一種。演算子を被演算子の後にすることから、後置記法 (Postfix Notation) とも言う(ウィキペディア)。
然るに、
(12)
「2×4=8」といふ「数式(人工言語)」を、
「2 multiply by 4 equals 8.」といふ「語順」で読まずに、
「2の4倍は8に等しい。」といふ「語順」で読んだとしても、「マチガイ」であるはずがない。
然るに、
(13)
「2×4=8」は、「人工言語(数式)」である。
然るに、
(14)
(ⅱ)~∃x(馬x&~動物x)├ ∀x{∃y(馬y&頭xy)→∃y(動物y&頭xy)}
といふ「述語論理」を、「左から順に、英語に置き換へる」と、
(ⅱ)Not existential quantifier x bracket horses x and not animals x bracket therefore Not existential quantifier x bracket existential quantifier y bracket horses y and heads x y bracket and not existential quantifier y bracket animals y and heads x y bracket bracket.
といふ「語順」になる。
然るに、
(15)
(ⅱ)~∃x(馬x&~動物x)├ ∀x{∃y(馬y&頭xy)→∃y(動物y&頭xy)}
といふ「述語論理(人工言語)」を、
(ⅱ)馬であって、動物ではないところの、xは存在しない。故に、全てのxについて、或るyが馬であって、xがyの頭であるならば、或るyは動物であって、xはyの頭である。
といふ「語順」で読んだとしても、「マチガイ」であるはずがない。
然るに、
(16)
(ⅲ)無馬而非動物、故無馬之頭而非動物之頭。
といふ「漢文」を、「左から順に、中国語(普通話)に置き換へる」と、
(ⅲ)Wú mǎ ér fēi dòngwù, gù wú mǎ zhī tóu ér fēi dòngwù zhī tóu.
然るに、
(17)
(ⅲ)無馬而非動物、故無馬之頭而非動物之頭。
といふ「漢文」を、
(ⅲ)無馬而非動物、故無馬之頭而非動物之頭=
(ⅲ)無馬而非動物、故無馬之頭而非動物之頭
(ⅲ)〔馬而非(動物)〕、故無〔馬之頭而非(動物之頭)〕⇒
(ⅲ)〔馬而(動物)非〕無、故〔馬之頭而(動物之頭)非〕無=
(ⅲ)〔馬にして(動物に)非らざるは〕無し。故に〔馬の頭にして(動物の頭)非らざるは〕無し=
(ⅲ)すべての馬は動物である。故に、すべての馬の頭は動物の頭である=All horses are animals; therefore all horses' heads are animals' heads.
といふ「語順」で読んだとしても、「マチガイ」であるはずがない。
然るに、
(18)
日本語や英語、中国語(現代でなく、過去の中国語も含む)は、自然言語である。しかし漢文は、自然言語を土台にした人工言語だ(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、8頁)。中国の口語文(白話文)も、漢文とおなじように漢字を使っていますが、もともと二つのちがった体系で、単語も文法もたいへんちがうのですから、いっしょにあつかうことはできません。漢文と中国語は別のものです(魚返善雄、漢文入門、1966年、17頁)。しからば、口語はAxByであるものを、文章語はABとつづめても、これはこれで完全な文となり得る。かくして記載語のABは、はじめから口語のAxByとは別のものとして発生し、存在したと思われる(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、59頁)。
従って、
(17)(18)により、
(19)
(ⅲ)無馬而非動物、故無馬之頭而非動物之頭。
といふ「漢文」は、「自然言語」ではなく、「人工言語」である。
従って、
(20)
(ⅳ)2×4=8.
(ⅲ)無馬而非動物、故無馬之頭而非動物之頭。
(ⅱ)~∃x(馬x&~動物x)├ ∀x{∃y(馬y&頭xy)→∃y(動物y&頭xy)}
に於いて、これらは三つとも、「人工言語」である。
然るに、
(21)
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろうと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
従って、
(12)~(21)により、
(22)
(ⅳ)2×4=8.
(ⅲ)無馬而非動物、故無馬之頭而非動物之頭。
(ⅱ)~∃x(馬x&~動物x)├ ∀x{∃y(馬y&頭xy)→∃y(動物y&頭xy)}
に於いて、これらは三つとも、「人工言語」であるにも拘らず、
(ⅳ)と(ⅱ)ではなく、
(ⅲ)に関しては、「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろうか。」といふ、クレームが、付くことになる。
然るに、
(23)
(青木)二百年前、正徳の昔に於て荻生徂徠は夙に道破した。漢学の授業法はまず支那語から取りかからねばならぬ。教うるに俗語を以てし、誦するに支那音を以てし、訳するに日本の俗語を以てし、決して和訓廻環の読み方をしてはならぬ。先ず零細な二字三字の短句から始めて、後には纏った書物を読ませる、斯くて支那語が熟達して支那人と同様になつてから、而る後段々と経子史集四部の書を読ませると云う風にすれば破竹の如しだ、是が最良の策だ(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。(倉石)徂徠は、単に唐音を操るといふ様なことに満足せず、漢文を学ぶには先ず支那語からとりかり、支那の俗語をば支那語で暗誦させ、これを日本語の俗語に訳し、決して和訓の顚倒読みをしてはならない、始めは零細な二字三字の句から始めて、遂に纏った書物を読ます、支那語が支那人ほど熟達してから、古い書物を読ませば、破竹の勢いで進歩すると説いたこれは、今日の様に外国語に対する理念が発達した時代から見れば、何の不思議もないことであるが、その当時、つとに、かかる意見を吐いたのは、たしかに一世に抜きんでた見識に相違ない(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。
従って、
(21)(22)(23)により、
(24)
荻生徂徠先生や、
青木正兒先生や、
倉石武四郎先生や、
西洋文化研究者の方は、「漢文」と「中国語」を、「同一視」してゐて、それ故、
(ⅲ)無馬而非動物、故無馬之頭而非動物之頭。
といふ「漢文」が、
(ⅱ)~∃x(馬x&~動物x)├ ∀x{∃y(馬y&頭xy)→∃y(動物y&頭xy)}
といふ「述語論理」と同様に、「人工言語」である。といふ「視点」が、「欠落」してゐる。
(25)
(a)
予嘗為(蒙生)定(学問之方法)、先為(崎陽之学)、教以(俗語)、誦以(華音)、訳以(此方俚語)、絶不〔作(和訓廻環之読)〕、始以(零細者)、二字三字為(句)、後使[読〔成(書)者〕]}、崎陽之学既成、乃始得〔為(中華人)〕、而後稍稍読(経子史集四部書)、勢如(破竹)、是最上乗也。
(b)
予嘗(蒙生)為(学問之方法)定、先(崎陽之学)為、教(俗語)以、誦(華音)以、訳(此方俚語)以、絶〔(和訓廻環之読〕作〕不、始(零細者)以、二字三字(句)為、後[〔(書)成者〕読]使、崎陽之学既成、乃始〔(中華人)為〕得、而後稍稍(経子史集四部書)読、勢(破竹)如、是最上乗也 。
(c)
予嘗て蒙生の為に学問の方法を定め、先ず崎陽の学を為し、教ふるに俗語を以てし、誦ずるに華音を以てし、訳するに此の方の俚語を以てし、絶へて和訓廻環の読みを作さず、始めは零細なる者を以て、二字三字句と)為し、後に書を成す者を読ま使めば、崎陽の学既に成り、乃ち始めて中華の人と為る得、而る後に稍稍、経子史集四部書を読まば、勢ひ破竹の如く、是れ最上の乗なり。
(荻生徂徠、訳文筌蹄、寛政八年)
然るに、
(26)
(a)
中國以(北京語)為(國語)矣。然、若(北京語)、非(漢文)也。是以、中國語直読法雖(盛)中華人民共和國語不[可〔以書(中夏之書)〕]審矣。如日本之学生有[欲〔能書(漢文)〕者]則宜〔以(括弧)学(其管到)〕。古者、漢文之於(日本語)、猶〔古文之於(日本語)〕也。故、漢文亦日本語也。学(中國語)、莫〔若(音読)〕、学(漢文)、莫[若〔以(訓読)学(之)〕]。
(b)
中國(北京語)以(國語)為矣。然、(北京語)若、(漢文)非也。是以、中國語直読法(盛)雖中華人民共和國語[〔以(中夏之書)書〕可]不審矣。如日本之学生[〔能(漢文)書〕欲者]有則宜〔(括弧)以(其管到)学〕。古者、漢文之(日本語)於、猶〔古文之(日本語)於〕如也。故、漢文亦日本語也。(中國語)学、〔(音読)若〕莫、(漢文)学、[〔(訓読)以(之)学〕若]莫。
(c)
中國は北京語を以て國語と為せり。然れども、北京語の若きは漢文に非ざるなり。是を以て、中國語直読法は盛んなりと雖も、中華人民共和國語は以て中華の書を書く可から不ること審かなり。如し日本の学生に能く漢文を書かむと欲する者有らば則ち、宜しく括弧を以て其の管到を学ぶべし。古へ、漢文の日本語に於けるや、猶ほ古文の日本語のごときなり。故に、漢文も亦た日本語なり。中國語を学ぶは、音読に若くは莫く、漢文を学ぶは、訓読を以て之を学ぶに若くは莫し。
(平成廿九年五月五日、我書之。)
従って、
(24)(25)(26)により、
(27)
1796年の、荻生徂徠は、「漢文」を「中国語の一種」である。と思ってゐたものの、少なくとも、
2016年の、私自身は、  漢文」は「漢文」であって、「中国語」ではない。と思ってゐた。
といふ、ことになる。
然るに、
(28)
例へば、
(ⅰ)Some y are horses and x are heads of y.
といふ「英語の語順」に従ふのであれば、
(ⅰ)∃y(馬y&頭xy)
といふ「語順」ではなく、
(ⅰ)∃y(y馬&x頭y)
といふ「語順」でなければ、ならない。
(29)
(ⅱ)xが馬であってxが動物ではない。といふ、そのやうなxは存在しない。
といふ「英語の語順」に従ふのであれば、
(ⅱ)~∃x(馬x&~動物x)
といふ「語順」ではなく、
(ⅱ)(x馬&x動物~)∃x)~
といふ「語順」でなければ、ならない。
然るに、
(30)
記号論理学は、英語などヨーロッパ語を母国語とする文化圏でもっぱら開発された学門であるにもかかわらず、論理学者の母語よりも日本語のような外国語の文法に合致している部分が少なくない(もちろん逆もある)。このことは、論理学が、ローカルな日常言語ではなく原‐言語的な普遍論理をかなり再現しおおせている証しと言えるだろう(三浦俊彦、ラッセルのパラドックス、2005年、105頁)。
従って、
(28)(29)(30)により、
(31)
例えば、
(ⅰ) ∀x(馬x→ 動物x)├ ∀x{∃y(馬y&頭xy)→∃y(動物y&頭xy)}
(ⅱ)~∃x(馬x&~動物x)├ ∀x{∃y(馬y&頭xy)→∃y(動物y&頭xy)}
といふ「述語論理(Predicate logic)」の「語順」は、「英語の語順」でも「日本語の語順」でもなく、飽く迄も、「述語論理(Predicate logic)の語順」である。
然るに、
(28)~(31)により、
(32)
例へば、
(ⅱ)~∃x(馬x&~動物x)
(ⅱ)(x馬&x動物~)∃x~
といふ「論理式」は、
(ⅱ)There is not such x that x is a horse and x is not an animal.
(ⅱ)xが馬であってxが動物ではない。といふ、そのやうなxは存在しない。
といふ「意味」であるが、
(ⅱ)~∃x(馬x&~動物x)
(ⅱ)(x馬&x動物~)∃x~
といふ「論理式」の「シンタックス(構造)」が、「異なる」といふことは、有り得ない。
従って、
(33)
(ⅱ)無〔馬而非(動物)〕。
(ⅱ)〔馬にして(動物に)非ざるは〕無し。
といふ「漢文・訓読」に於いて、両者の「シンタックス(構造)」が、「異なる」といふことは、有り得ない。
然るに、
(34)
(ⅱ)無〔馬而非(動物)〕=〔馬にして(動物に)非ざるは〕無し。
(ⅴ)無(馬)而非(動物)=(馬)無くして(動物に)非ず。
であるならば、
(ⅱ)無 馬而非 動物  。
(ⅴ)無 馬 而非 動物 。
といふ「語順」は「等しく」、
(ⅱ) 〔   (  )〕。
(ⅴ) ( )  (  )。
といふ「シンタックス(構造)」は、「等しくない」。
従って、
(33)(34)により、
(35)
「語順が異なれば、シンタックスも異なる」が故に、「大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)。とは言ふものの、
「語順が異なれば、シンタックスも異なる(語順が等しければ、そのときに限って、シンタックスは等しい)」といふ「発想」自体が、「誤解」に過ぎない。
(36)
『「而」を含む例文.html』といふのは、私が、「小林信明、重要漢文単語文例精解(入試文例数1000)、1968年」の中から、『「而」を含む例文(の白文と書き下し文)』を集めた「(白文訓読・訓読復文のための)htmlファイル」です。
そのため、
(37)
『「而」を含む例文.html』をダブルクリックして、スクロールしてゐる際に、
衆有り虎を逐ふ。虎嵎を負ふ。之に敢へて攖る莫し。馮婦を望見し、趨りて之を迎ふ。
といふ「書き下し文」を認めた場合は、
有衆逐虎、虎負嵎、莫之敢攖、望見馮婦、趨而迎之=
シュウイウツイコ、コフグウ、バクシカンエイ、ボウケンヒョウフ、スウジゲイシ。
といふ風に、「音読」で、「復文」をすることになる。
cf.
ふく‐ぶん【復文】の意味
デジタル大辞泉(小学館)
1 漢字仮名まじりに書き下した漢文を原文に戻すこと。
然るに、
(38)
その際に、
敢攖=バクカンエイ。
迎之=スウゲイシ。
ではなく、
莫敢攖之=バクカンエイ
趨迎之 =スウゲイシ。
といふ風に、「音読」してみると、
莫敢攖之=バクカンエイ
趨迎之 =スウゲイシ。
ではなく、「孟子の原文」にある、本来の、
莫之敢攖=バクカンエイ。
趨而迎之=スウゲイシ。
とふ「音読のリズム」の方を、「気に入る」ことになる。
(39)
「人を知る」は、「知人」であるが「己を知らず」は「不己知」となる(岩波全書、漢文入門、1957年、23頁)。といふのであれば、
① 無友不如己者=
① 無{友[不〔如(己)〕者]}⇒
① {[〔(己)如〕不者]友}無=
① {[〔(己に)如か〕不る者を]友とする}無かれ。
といふ「論語、学而」ではなく、
② 無友不己如者=
② 無[友〔不(己如)者〕]⇒
② [〔(己如)不者〕友]無=
② [〔(己に如か)不る者を〕友とする]無かれ。
の方が、「正しい」ことになる。
然るに、
(40)
① 無友不如己者=ムユウフツジョキシャ。
② 無友不己如者=ムユウフツキジョシャ。
であれば、
① の方が、
② よりも、「明らかに、言ひ易い」。
従って、
(37)~(40)により、
(41)
漢文では、音読のリズムを整えるため、しばしば意味のない助字や接続詞を使う。「なぜここで、わざわざ、こんな接続詞がでてくるのか?」「この副詞は、どういう意味なのか?」と理づめで考えても、わからない箇所も多い。漢文の原文を中国語で読むと、それらの字は、音読のリズムを作るための「字数稼ぎ」や「箸休め」であることも多い(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、18・9頁)。
といふことは、私にも、分からないわけではない。
然るに、
(42)
また厳格に言えば、北京語に依る音読は他の発音に依る音読と比べると、古典中国語の正しい理解のためには特別な欠点をいくつか示すその欠点発音文法に関するものである。 発音上の問題は皆北京語の音声磨滅に依るものである。現在生きている多数の漢字の発音の間では、いちばん 極端な磨滅を被ったのは異論の余地なく北京語である(二十一世紀の漢文-死語の将来)。
従って、
(41)(42)により、
(43)
漢文の原文を中国語で読むと、それらの字は、音読のリズムを作るための「字数稼ぎ」や「箸休め」であることも多い。とは言え、
その場合の中国語は、「北京語(普通話)」でなければならない「必要」は、無いはずである。
従って、
(44)
「支那の言語や文字を研究するのに、漢文と支那語の様な区別を設けてゐるのは、世界中、日本だけで、支那はもとより、ヨーロッパやアメリカで支那学を研究するにも、そんな意味のない区別など夢にも考へてゐない。西洋人が支那のことを研究するには、何よりも先き、支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読んで、支那民族の文化の深淵を理解する。アメリカの大学で支那のことを研究する学生は、最初の年に現代語学現代文学を学び、次の年に歴史の書物を読み経書を習ふさうである(勉誠出版、「訓読」論、2008年、57頁)。
とは言ふものの、その場合の中国語は、「北京語(普通話)」でなければならない「必要」は、無いはずである。
平成31年03月31日、毛利太。

2019年3月29日金曜日

「師説(韓愈)」の述語論理式(Ⅱ)。

(01)
① すべてのxについて、xが弟子であるならば、あるyはxの師であって、xはyに及ばない。
② あるxは弟子であり、あるyがxの師であるならば、xはyに及んでゐる。
に於いて、「①と②」 は、「矛盾」する。
従って、
(01)により、
(02)
① の「否定」は、
② の「肯定」に、「等しい」。
然るに、
(03)
① すべてのxについて、xが弟子であるならば、あるyはxの師であって、xはyに及ばない。
の「否定」は、
① すべてのxについて、xが弟子であるならば、あるyはxの師であって、xはyに及ばない。といふことはない
である。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① すべてのxについて、xが弟子であるならば、あるyはxの師であって、xはyに及ばない。といふことはない
② あるxは弟子であり、あるyがxの師であるならば、xはyに及んでゐる。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(05)
① すべてのxについて、xが弟子であるならば、あるyはxの師であって、xはyに及ばない。といふことはない
② あるxは弟子であり、あるyがxの師であるならば、xはyに及んでゐる。
といふ「日本語」は、
① ~∀x{弟子x→∃y(師yx&~如xy)}
②  ∃x{弟子x&∃y(師yx→ 如xy)}
といふ「述語論理(Predicate logic)」に、相当する。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ~∀x{弟子x→∃y(師yx&~如xy)}
②  ∃x{弟子x&∃y(師yx→ 如xy)}
に於いて、
①=② である。はマチガイです。
従って、
(06)により、
(07)
1 (1)弟子不必不如師(韓愈・師説)。               A
1 (〃)弟子は必ずしも師に如か不んばあら不。          A
1 (1)~∀x{弟子x→ ∃y(師yx&~如xy)} A
1 (2)∃x~{弟子x→ ∃y(師yx&~如xy)} 1量化子の関係
1 (3)∃x~{~弟子x∨∃y(師yx&~如xy)} 2含意の定義
 4(4)  ~{~弟子a∨∃y(師ya&~如ay)} A
 4(5)    弟子a&~∃y(師ya&~如ay)  4ド・モルガンの法則
 4(6)    弟子a                5&E
 4(7)        ~∃y(師ya&~如ay)  5&E
 4(8)        ∀y~(師ya&~如ay)  6量化子の関係
 4(9)          ~(師ba&~如ab)  7UE
 4(ア)           ~師ba∨ 如ab   8ド・モルガンの法則
 4(イ)            師ba→ 如ab   9含意の定義
 4(ウ)         ∃y(師ya→ 如ay)  イEI
 4(エ)    弟子a& ∃y(師ya→ 如ay)  5ウ&I
 4(オ) ∃x{弟子x& ∃y(師yx→ 如xy)} エEI
1 (カ) ∃x{弟子x& ∃y(師yx→ 如xy)} 34オEE
1 (〃)あるxは弟子であり、あるyがxの師であるならば、xはyに及んでゐる。
1 (〃)師に劣らない弟子が存在する。
といふ「述語計算(Predicate calculus)」は、「正しい」。
然るに、
(07)
① すべてのxについて、xが弟子であるならば、あるyはxの師であって、xはyに及ばない。
といふ「日本語」は、
① 弟子は必ず師に及ばない。
といふ「日本語」に、相当し、
① 弟子は必ず師に及ばない。
といふ「日本語」は、
① 弟子必不如師。
といふ「漢文」に、相当する。
然るに、
(08)
① 弟子は必ず師に及ばない。
といふ「日本語」の「否定」は、
①{弟子は必ず師に及ばない。}といふことはない
であるが、
① 弟子必不如師。
といふ「漢文」の「否定」は、
{弟子必不如師}。
ではない。
(09)
「漢文の語順」としては、
① 主語+副詞+動詞
であって、尚且つ、
は、「副詞」であるため、
① 不{弟子必不如師}。
ではなく、
① 弟子{必不如師}。
といふ「語順」でなければ、ならない。
従って、
(01)~(09)により、
(10)
{弟子必不如師}=
① 弟子は必ずしも師に如かずんばあらず。
といふ「漢文訓読」ではなく、
① 弟子{必不如師}=
① 弟子は必ずしも師に如かずんばあらず。
といふ「漢文訓読」は、
∀x{弟子x→∃y(師yx&~如xy)}=
① すべてのxについて、xが弟子であるならば、あるyはxの師であって、xはyに及ばない。といふことはない
といふ「述語論理訓読」に、対応する。 style="font-size: large;"> 平成31年03月28日、毛利太。

2019年3月27日水曜日

「師説(韓愈)」の「述語論理式」。

(01)
1(1)弟子不必不如師(韓愈・師説)。             A
1(〃)弟子は必ずしも師に如か不んばあら不。        A
1(〃)~∀x{弟子x→∃y(師yx&~如xy)} A
1(〃)すべてのxについて、xが弟子であるならば、あるyはxの師であって、xはyに及ばない。といふわけではない。 A
然るに、
(02)
(a)
1  (1) ~∀x Fx  A
 2 (2) ~∃x~Fx  A
  3(3)    ~Fa  A
  3(4)  ∃x~Fx  3EI
 23(5) ~∃x~Fx&
        ∃x~Fx  24&I
 2 (6)   ~~Fa  35RAA
 2 (7)     Fa  6DN
 2 (8)  ∀x Fx  7UI
12 (9) ~∀x Fx&
        ∀x Fx  18&I
1  (ア)~~∃x~Fx  29RAA
1  (イ)  ∃x~Fx  アDN
  (b)
1  (1) ∃x~Fx A
 2 (2) ∀x Fx A
  3(3)   ~Fa A(1の代表的選言項)
 2 (4)    Fa 2UE
 23(5)~Fa&Fa 34&I
  3(6)~∀x Fx 35RAA
1  (7)~∀x Fx 136EE
12 (8) ∀x Fx&
      ~∀x Fx 27&I
1  (9)~∀x Fx 18RAA
従って、
(02)により、
(03)
(a)~∀x Fx
(b) ∃x~Fx
に於いて、
(a)=(b) である。
従って、
(03)により、
(04)
(a)~∀x{弟子x→∃y(師yx&~如xy)}
(b)∃x~{弟子x→∃y(師yx&~如xy)}
に於いて、
(a)=(b) である。
従って、
(01)(04)により、
(05)
1(1)弟子不必不如師(韓愈・師説)。             A
1(〃)弟子は必ずしも師に如か不んばあら不。     A
1(〃)~∀x{弟子x→∃y(師yx&~如xy)} A
1(2)∃x~{弟子x→∃y(師yx&~如xy)} 1量化子の関係
(06)
(c)
    1 (1)  P→ Q A
     2(2)  P&~Q A
     2(3)  P    2&E
     2(4)    ~Q 2&E
    12(5)     Q 13MPP
    12(6)  ~Q&Q 45&I
    1 (7)   ~~Q 46RAA
    1 (8)     Q 7DN
    1 (9)  ~P∨Q 8∨I
(d)
1     (1) ~P∨ Q   A
 2    (2)  P&~Q   A
  3   (3) ~P      A
 2    (4)  P      2&E
 23   (5) ~P& P   34&I
  3   (6)~(P&~Q)  25RAA
   7  (7)     Q   A
 2    (8)    ~Q   A
 2 7  (9)  Q&~Q   78&I
   7  (ア)~(P&~Q)  29RAA
1     (イ)~(P&~Q)  1367ア∨E
    ウ (ウ)  P      A
     エ(エ)    ~Q   A
    ウエ(オ)  P&~Q   エオ&I
1   ウエ(カ)~(P&~Q)&
          (P&~Q)  イオ&I
1   ウ (キ)   ~~Q   7カRAA
1   ウ (ク)     Q   キDN
1     (ケ)  P→ Q   ウク
従って、
(06)により、
(07)
(c) P→Q
(d)~P∨Q
に於いて、
(c)=(d) である。
従って、
(07)により、
(08)
(c) 弟子x→∃y(師yx&~如xy)
(d)~弟子x∨∃y(師yx&~如xy)
に於いて、
(c)=(d) である。
従って、
(05)(08)により、
(09)
1(1)弟子不必不如師(韓愈・師説)。               A
1(〃)弟子は必ずしも師に如か不んばあら不。          A
1(〃)~∀x{弟子x→ ∃y(師yx&~如xy)} A
1(2)∃x~{弟子x→ ∃y(師yx&~如xy)} 1量化子の関係
1(3)∃x~{~弟子x∨∃y(師yx&~如xy)} 2含意の定義
従って、
(09)により、
(10)
1  (1)弟子不必不如師(韓愈・師説)。               A
1  (〃)弟子は必ずしも師に如か不んばあら不。          A
1  (〃)~∀x{弟子x→ ∃y(師yx&~如xy)} A
1  (2)∃x~{弟子x→ ∃y(師yx&~如xy)} 1量化子の関係
1  (3)∃x~{~弟子x∨∃y(師yx&~如xy)} 2含意の定義
 4 (4)  ~{~弟子a∨∃y(師ya&~如ay)} A
  5(5)  ~{~弟子a∨  (師ba&~如ab)} A
然るに、
(11)
(e)
1  (1)~(~P∨Q)  A
 2 (2)  ~P     A
 2 (3)  ~P∨Q   2∨I
12 (4)~(~P∨Q)&
       (~P∨Q)  13&I
1  (5) ~~P     24RAA
1  (6)   P     5DN
  7(7)     Q   A
  7(8)  ~P∨Q   7∨I
1 7(9)~(~P∨Q)&
       (~P∨Q)  18&I
1  (ア)    ~Q   79RAA
1  (イ)  P&~Q   6ア&I
(f)
1   (1)   P&~Q   A
 2  (2)  ~P∨ Q   A
  3 (3)  ~P      A
1   (4)   P      1&E
1 3 (5)  ~P& P   34&I
  3 (6) ~(P&~Q)  15RAA
   7(7)      Q   A
1   (8)     ~Q   1&E
1  7(9)   Q&~Q   78&I 
   7(ア) ~(P&~Q)  19RAA
 2  (イ) ~(P&~Q)  2367ア∨E
12  (ウ)  (P&~Q)&
        ~(P&~Q)  1イ&I
1   (エ)~(~P∨ Q)  2ウRAA
従って、
(11)により、
(12)
(e)~(~P∨ Q)
(f)  P &~Q
に於いて、
(e)=(f) である。
従って、
(12)により、
(13)
(e)~{~弟子a∨ (師ba&~如ab)}
(f)   弟子a&~(師ba&~如ab)
に於いて、
(e)=(f) である。
従って、
(10)(13)により、
(14)
1  (1)弟子不必不如師(韓愈・師説)。               A
1  (〃)弟子は必ずしも師に如か不んばあら不。          A
1  (〃)~∀x{弟子x→ ∃y(師yx&~如xy)} A
1  (2)∃x~{弟子x→ ∃y(師yx&~如xy)} 1量化子の関係
1  (3)∃x~{~弟子x∨∃y(師yx&~如xy)} 2含意の定義
 4 (4)  ~{~弟子a∨∃y(師ya&~如ay)} A
  5(5)  ~{~弟子a∨  (師ba&~如ab)} A
  5(6)     弟子a& ~(師ba&~如ab)  5ド・モルガンの法則
  5(7)          ~(師ba&~如ab)  6&E
然るに、
(15)
(g)
1  (1)~(師ba&~如ab)  A
 2 (2)  師ba        A
  3(3)      ~如ab    A
 23(4)  師ba&~如ab   23&I
123(5)~(師ba&~如ab)&
       (師ba&~如ab)  14&I
12 (6)     ~~如ab   35RAA
12 (7)       如ab   6DN
1  (8)  師ba→ 如ab   27CP
(h)
1  (1)  師ba→ 如ab   A
 2 (2)  師ba&~如ab   A
 2 (3)  師ba        2&E
12 (4)       如ab   13MPP
 2 (5)      ~如ab   2&E
12 (6)  如ab&~如ab   45&I
1  (7)~(師ba&~如ab)  26RAA
従って、
(15)により、
(16)
(g)~(師ba&~如ab)
(h)  師ba→ 如ab
に於いて、
(g)=(h) である。
従って、
(14)(16)により、
(17)
1 (1)弟子不必不如師(韓愈・師説)。               A
1 (〃)弟子は必ずしも師に如か不んばあら不。          A
1 (〃)~∀x{弟子x→ ∃y(師yx&~如xy)} A
1 (2)∃x~{弟子x→ ∃y(師yx&~如xy)} 1量化子の関係
1 (3)∃x~{~弟子x∨∃y(師yx&~如xy)} 2含意の定義
 4(4)  ~{~弟子a∨∃y(師ya&~如ay)} A
 4(5)    弟子a&~∃y(師ya&~如ay)  4ド・モルガンの法則
 4(6)    弟子a                5&E
 4(7)        ~∃y(師ya&~如ay)  5&E
 4(8)        ∀y~(師ya&~如ay)  6量化子の関係
 4(9)          ~(師ba&~如ab)  7UE
 4(ア)           ~師ba∨ 如ab   8ド・モルガンの法則
 4(イ)            師ba→ 如ab   9含意の定義
然るに、
(17)により、
(18)
1 (1)弟子不必不如師(韓愈・師説)。               A
1 (〃)弟子は必ずしも師に如か不んばあら不。          A
1 (〃)~∀x{弟子x→ ∃y(師yx&~如xy)} A
1 (2)∃x~{弟子x→ ∃y(師yx&~如xy)} 1量化子の関係
1 (3)∃x~{~弟子x∨∃y(師yx&~如xy)} 2含意の定義
 4(4)  ~{~弟子a∨∃y(師ya&~如ay)} A
 4(5)    弟子a&~∃y(師ya&~如ay)  4ド・モルガンの法則
 4(6)    弟子a                5&E
 4(7)        ~∃y(師ya&~如ay)  5&E
 4(8)        ∀y~(師ya&~如ay)  6量化子の関係
 4(9)          ~(師ba&~如ab)  7UE
 4(ア)           ~師ba∨ 如ab   8ド・モルガンの法則
 4(イ)            師ba→ 如ab   9含意の定義
 4(ウ)         ∃y(師ya→ 如ay)  イEI
 4(エ)    弟子a& ∃y(師ya→ 如ay)  5ウ&I
 4(オ) ∃x{弟子x& ∃y(師yx→ 如xy)} エEI
1 (カ) ∃x{弟子x& ∃y(師yx→ 如xy)} 34オEE
  1 (〃)あるxは弟子であり、あるyがxの師であるならば、xはyに及んでゐる。
1 (〃)師に劣らない弟子が存在する。
然るに、
(19)
弟子は必ずしも師に及ばないというわけではなく(、弟子の方がすぐれている場合もある)。
(三省堂、明解古典学習シリーズ20、1973年、56頁改)
従って、
(01)~(19)により、
(20)
① 弟子不必不如師=
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
① 弟子[必〔(師)如〕不]不=
① 弟子は[必ずしも〔(師に)如か〕ずんば]あらず。
といふ「漢文訓読」は、
② ~∀x{弟子x→∃y(師yx&~如xy)}⇒
② ∀x{x弟子→∃y(yx師&xy如~)}~=
② すべてのxについて、xが弟子であるならば、あるyはxの師であって、xはyに及ばない。といふわけではない。
といふ「述語論理訓読」に、対応する。
従って、
(21)
② ~∀x{弟子x→∃y(師yx&~如xy)}⇒
② ∀x{x弟子→∃y(yx師&xy如~)}~=
② すべてのxについて、xが弟子であるならば、あるyはxの師であって、xはyに及ばない。といふわけではない。
といふ「論理式訓読」を、「是」とするのであれば、
① 弟子不必不如師=
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
① 弟子[必〔(師)如〕不]不=
① 弟子は[必ずしも〔(師に)如か〕ずんば]あらず。
といふ「論理式訓読」も、「是」とすべきである。
然るに、
(22)
江戸時代には、荻生徂来(おぎゅう・そらい、1666-1728)が、漢文訓読法を排斥して、漢詩文は唐音(中国語音)で音読すべきだと主張しました。荻生徂来は、長崎通詞であった岡島冠山(おかじま・かんざん、1674-1728)から唐話(とうわ=中国語)を学んでいました。漢詩文を唐音で読むという徂来の主張は強固なもので、彼の古文辞学(擬古的な漢文)とともに一世を風靡する大流行となりました。ただし、当時のいわゆる唐音というのは、中国南方の方言音で、現在の北京語を基礎とした普通話(pŭ tōng huà)とはかなり違うものでした。当時、わが国は清国と正式の国交はなく、貿易は長崎において清国商人に信牌(貿易許可証)を与え、私貿易という形で許可していました。そのため、長崎で用いられる中国語も、清国商人が用いる南方方言だったのです(Webサイト:日本漢文の世界)。
(23)
しかし、倉石の鋭さは、なによりもまず先にも触れた「漢文訓読塩鮭論」に余すところなく現われていると言える。それはすなわち次のような一節である。
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様なものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)。
従って、
(21)(22)(23)により、
(24)
荻生徂徠先生、並びに、倉石武四郎先生は、
② ~∀x{弟子x→∃y(師yx&~如xy)}⇒
② ∀x{x弟子→∃y(yx師&xy如~)}~=
② すべてのxについて、xが弟子であるならば、あるyはxの師であって、xはyに及ばない。といふわけではない。
といふ「述語論理訓読」は、兎も角、
① 弟子不必不如師=
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
① 弟子[必〔(師)如〕不]不=
① 弟子は[必ずしも〔(師に)如か〕ずんば]あらず。
といふ「漢文訓読」を、「是認」しない。
平成31年03月27日、毛利太。

「難(返読文字)」が「返読しない」場合。

(01)
① 破心中賊難=
① 破(心中賊)難⇒
① (心中賊)破難=
① (心中の賊を)破るは難し。
然るに、
(02)
① 破心中賊難=心中の賊を破るは難し。
に於ける、「左辺」は、「王陽明の文」である。
従って、
(03)
① 破心中賊難=心中の賊を破るは難し。
といふ「漢文訓読」は「正しい」。
従って、
(04)
① 破心中賊難=心中の賊を破るは難し。
といふ「漢文訓読」が「正しい」が故に、
② 破賊難=賊を破るは難し。
といふ「漢文訓読」は「正しい」。
従って、
(04)により、
(05)
② 破賊難=賊を破るは難し。
といふ「漢文訓読」が「正しい」が故に、
③ 成学難=学を成すは難し。
といふ「漢文訓読」は「正しい」。
従って、
(05)により、
(06)
③ 成学難=学を成すは難し。
といふ「漢文訓読」が「正しい」が故に、
③ 少年易老成学難=
③ 少年易(老)成(学)難⇒
③ 少年(老)易(学)成難=
③ 少年(老ひ)易く(学を)成すは難し。
といふ「漢文訓読」は「正しい」。
然るに、
(07)
少年易老学難 少年老い易く学成り難し
一寸光陰不可 一寸の光陰軽んず可からず
未覚池塘春草夢 未だ覚めず池塘春草の夢
階前梧葉已秋 階前の梧葉已に秋声
この有名な七言絶句は、長らく宋の朱子の作と信じられてきたが、近年の研究により、日本の十四世紀頃の僧侶の作であることが判明した。
(加藤徹、白文攻略 漢文法ひとり学び、2013年、32頁)
従って、
(07)により、
(08)
④ 少年易老学難成=
④ 少年易(老)学難(成)⇒
④ 少年(老)易学(成)難=
④ 少年(老ひ)易く学(成り)難し。
といふ「漢文訓読」は「正しい」。
従って、
(06)(07)により、
(08)
③ 成学難=学を成すは難し。
④ 学難成=学成り難し。
といふ「漢文訓読」は、両方とも、「正しい」。
然るに、
(09)
③ 難(nan) の「韻」は、「an」であるが、
④ 成(sei) の「韻」は、「ei」であって、
④ 軽(kei) の「韻」は、「ei」であって、
④ 声(sei) の「韻」は、「ei」である。
然るに、
(10)
七言絶句の場合は、第一句・第二句・第四句の末尾が押印することになっている。
(旺文社、漢文の基礎、1973年、84頁)
従って、
(07)~(10)により、
(11)
③ 少年易老成学難(nan)=少年老ひ易く学を成すは難し。
といふ「漢文訓読」は、「七言絶句の、第一句」としては、「間違ひ」であるが、
④ 少年易老学難成(sei)=少年老ひ易く学成り難し。
といふ「漢文訓読」は、「七言絶句の、第一句」としても、「正しい」。
従って、
(08)(11)により、
(12)
③ 成学難=学を成すは難し。
④ 学難成=学は成り難し。
といふ「漢文訓読」は、「七言絶句の、第一句」ではなく、「散文」としては、両方とも、「正しい」。
然るに、
(13)
返読文字とは、先に述べた「ヲ・ニ・ト・ヨリ」がなくとも返り点を打つ文字のことである。 (目的語を示す「~ヲ」、補語を示す「~ニ」「~ト」「~ヨリ」の送り仮名のつく文字には原則として返り点が付く。
― 中略 ―
難(かたシ)・易(やすシ)
少年易老、学難成。→ 少年老い易く、学成り難し。
従って、
(12)(13)により、
(14)
④ 学難成=学は成り難し。
③ 成学難=学を成すは難し。
に於いて、
④ 難 は、「返読文字」であるが、
③ 難 は、「返読文字」ではない。
従って、
(14)により、
(15)
」自体は、「常に、返読文字」である。といふわけではない。
(16)
「結論」だけ述べるものの、
」も、「常に、返読文字」である。といふわけではない。
平成31年03月27日、毛利太。

2019年3月22日金曜日

足りないのは「和文の力」。

(01)
(02)
我嘗欲〔以(漢文)表(我意)〕而不(能)。
然、我之所(最得意)者復文也。
所謂復文者和文漢訳也。
以(是)観(之)、
我之所〔不(足)〕者非(漢訳力)也。
我之所〔不(足)〕者其和文力也。
故、自(今日)、我使〔我鍛(和文力)〕矣。
(03)
我嘗〔(漢文)以(我意)表〕欲而(能)不。
然、我之(最得意)所者復文也。
所謂復文者和文漢訳也。
(是)以(之)観、
我之〔(足)不〕所者(漢訳力)非也。
我之〔(足)不〕所者其和文力也。
故、(今日)自、我〔我(和文力)鍛〕使矣。
(04)
我嘗て漢文を以て我が意を表はさんと欲するも能はず。
然れども、我の最も得意とする所の者は復文なり。
所謂、復文とは和文漢訳なり。
是こを以て之れを観るに、
我の足らざる所の者は漢訳力に非ざるなり。
我の足らざる所の者は其の和文力なり。
故に、今日より、我、我をして和文力を鍛へ使めん。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
我嘗て、漢文を以て我が意を表はさんと欲するも能はず。
然れども、我の最も得意とする所の者は復文なり。
所謂、復文とは和文漢訳なり。
是こを以て之を観るに、
我の足らざる所の者は漢訳力に非ざるなり。
我の足らざる所の者は其の和文力なり。
故に、今日より、我、我をして和文力を鍛へ使めん。
といふ「和文(書き下し文)」を、得ることが、出来るならば(それが正則な漢文であるかどうかは別にしても)、そのときに限って、私自身は、
我嘗欲以漢文表我意而不能。
然、我之所最得意者復文也。
所謂復文者和文漢訳也。
以是観之、
我之所不足者非漢訳力也。
我之所不足者其和文力也。
故、自今日、我使我鍛和文力矣。
といふ「漢文」を書くことが出来る。
cf.
「大漢和辞典デジタル版」によると、「鍛」といふ「漢字」には、「practice」のやうな「意味」は無いので、「鍛漢文力」といふのは、所謂、「和臭」です。
cf.
和習(わしゅう)または和臭(倭臭)とは日本人が漢文を作る時に、日本語の影響によっておかす独特な癖や用法。江戸時代に荻生徂徠によって指摘された。
(ウィキペディア)
従って、
(05)により、
(06)
私自身が、「漢文」が書けるようになるためには、その前に、「和文(書き下し文)」が書けるようになる必要がある。
然るに、
(07)
(筆談の際に)大典が自分の書いた漢文の文章を使節の書記官に見せたところ、そこに訓点がついていたため、成大中は次のように言った。「貴邦(日本)の書籍には、字のかたわらにみな訳音がついているが、これは一国のみで行われるやり方で、万国通行の法ではない。ただ物茂卿は豪傑の士であることがわかる」(もと漢文)
(金文京、漢文と東アジア、2010年、108頁改)
(08)
「訳音」というのは、訓読の送り仮名を言ったものであろう。成大中は、訓読は「万国通行の法」ではないと言い、訓読廃止論者であった徂徠をほめたわけである。この発言からからは、朝鮮知識人の日本に対する優越感が垣間見られるが、同時にそれは当時の朝鮮における訓読観をも示すものである。成大中もかつて自国で日本と同じような訓読が行われていたことを、おそらく知っていたであろう。しかしそれは彼にとって、すでにグローバルスタンダードに合わないものだったのである。
(金文京、漢文と東アジア、2010年、108頁)
(09)
古典を正しく理解するためには、訓読によるのではなく、まず中国語を学習して中国語音を身につけ、中国人と同様になる必要があると、主張する徂徠は、自らの学塾に岡島冠山を講師として招き、自身も冠山の指導のもと中国語を学んだ。
(続訓読論、川島優子 他、2010年、316頁)
従って、
(06)~(09)により、
(10)
私自身が、「漢文」が書けるようになるためには、その前に、「和文(書き下し文)」が書けるようになる必要がある。
といふ風に、荻生徂徠先生に言ったとすれば、私は、荻生徂徠先生から、おそらくは、「説教」をされるに違ひない。
(11)
故、自今日、我使我鍛和文力矣=
故、自(今日)、我使〔我鍛(和文力)〕⇒
故、(今日)自、我〔我(和文力)鍛〕使矣=
故に、(今日)自り、我〔我をして(和文力を)鍛へ〕使めん。
といふのは、「具体的」には、「近思録(新釈漢文大系、明治書院)」の中の、「漢文」ではなく、「和文(書き下し文)」に注目し、その中で、「気になる和文(書き下し文)」を、PCに入力してゐます。