(01)
(02)
我嘗欲〔以(漢文)表(我意)〕而不(能)。
然、我之所(最得意)者復文也。
所謂復文者和文漢訳也。
以(是)観(之)、
我之所〔不(足)〕者非(漢訳力)也。
我之所〔不(足)〕者其和文力也。
故、自(今日)、我使〔我鍛(和文力)〕矣。
(03)
我嘗〔(漢文)以(我意)表〕欲而(能)不。
然、我之(最得意)所者復文也。
所謂復文者和文漢訳也。
(是)以(之)観、
我之〔(足)不〕所者(漢訳力)非也。
我之〔(足)不〕所者其和文力也。
故、(今日)自、我〔我(和文力)鍛〕使矣。
(04)
我嘗て漢文を以て我が意を表はさんと欲するも能はず。
然れども、我の最も得意とする所の者は復文なり。
所謂、復文とは和文漢訳なり。
是こを以て之れを観るに、
我の足らざる所の者は漢訳力に非ざるなり。
我の足らざる所の者は其の和文力なり。
故に、今日より、我、我をして和文力を鍛へ使めん。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
我嘗て、漢文を以て我が意を表はさんと欲するも能はず。
然れども、我の最も得意とする所の者は復文なり。
所謂、復文とは和文漢訳なり。
是こを以て之を観るに、
我の足らざる所の者は漢訳力に非ざるなり。
我の足らざる所の者は其の和文力なり。
故に、今日より、我、我をして和文力を鍛へ使めん。
といふ「和文(書き下し文)」を、得ることが、出来るならば(それが正則な漢文であるかどうかは別にしても)、そのときに限って、私自身は、
我嘗欲以漢文表我意而不能。
然、我之所最得意者復文也。
所謂復文者和文漢訳也。
以是観之、
我之所不足者非漢訳力也。
我之所不足者其和文力也。
故、自今日、我使我鍛和文力矣。
といふ「漢文」を書くことが出来る。
cf.
「大漢和辞典デジタル版」によると、「鍛」といふ「漢字」には、「practice」のやうな「意味」は無いので、「鍛漢文力」といふのは、所謂、「和臭」です。
cf.
和習(わしゅう)または和臭(倭臭)とは日本人が漢文を作る時に、日本語の影響によっておかす独特な癖や用法。江戸時代に荻生徂徠によって指摘された。
(ウィキペディア)
従って、
(05)により、
(06)
私自身が、「漢文」が書けるようになるためには、その前に、「和文(書き下し文)」が書けるようになる必要がある。
然るに、
(07)
(筆談の際に)大典が自分の書いた漢文の文章を使節の書記官に見せたところ、そこに訓点がついていたため、成大中は次のように言った。「貴邦(日本)の書籍には、字のかたわらにみな訳音がついているが、これは一国のみで行われるやり方で、万国通行の法ではない。ただ物茂卿は豪傑の士であることがわかる」(もと漢文)
(金文京、漢文と東アジア、2010年、108頁改)
(08)
「訳音」というのは、訓読の送り仮名を言ったものであろう。成大中は、訓読は「万国通行の法」ではないと言い、訓読廃止論者であった徂徠をほめたわけである。この発言からからは、朝鮮知識人の日本に対する優越感が垣間見られるが、同時にそれは当時の朝鮮における訓読観をも示すものである。成大中もかつて自国で日本と同じような訓読が行われていたことを、おそらく知っていたであろう。しかしそれは彼にとって、すでにグローバルスタンダードに合わないものだったのである。
(金文京、漢文と東アジア、2010年、108頁)
(09)
古典を正しく理解するためには、訓読によるのではなく、まず中国語を学習して中国語音を身につけ、中国人と同様になる必要があると、主張する徂徠は、自らの学塾に岡島冠山を講師として招き、自身も冠山の指導のもと中国語を学んだ。
(続訓読論、川島優子 他、2010年、316頁)
従って、
(06)~(09)により、
(10)
私自身が、「漢文」が書けるようになるためには、その前に、「和文(書き下し文)」が書けるようになる必要がある。
といふ風に、荻生徂徠先生に言ったとすれば、私は、荻生徂徠先生から、おそらくは、「説教」をされるに違ひない。
(11)
故、自今日、我使我鍛和文力矣=
故、自(今日)、我使〔我鍛(和文力)〕⇒
故、(今日)自、我〔我(和文力)鍛〕使矣=
故に、(今日)自り、我〔我をして(和文力を)鍛へ〕使めん。
といふのは、「具体的」には、「近思録(新釈漢文大系、明治書院)」の中の、「漢文」ではなく、「和文(書き下し文)」に注目し、その中で、「気になる和文(書き下し文)」を、PCに入力してゐます。
0 件のコメント:
コメントを投稿