(01)
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
は、「10進数」であって、
1 2 3 4 5 6 7 8 9 A B C D E F
は、「16進数」である。
(02)
1 2 3 4 5 6 7 8 9 A B C D E。
が、「14個の、16進数」であるやうに、
1 D 2 B 7 5 3 4 6 A 8 9 C E。
は、「14個の、16進数」である。
(03)
1 D 2 B 7 5 3 4 6 A 8 9 C E。
にあって、「左から順」に、
1番の数=1
2番の数=D
3番の数=2
4番の数=B
5番の数=7
6番の数=5
7番の数=3
8番の数=4
9番の数=6
10番の数=A
11番の数=8
12番の数=9
13番の数=C
14番の数=E
とする。
(04)
1 D 2 B 7 5 3 4 6 A 8 9 C E。
にあって、「左から順」に、
N番の数の右側に、N番の数よりも小さい数が有るならば、その時に限って、それらの数を( )で括る。
然るに、
(05)
1 D 2 B 7 5 3 4 6 A 8 9 C E。
にあって、
1番の数である、1の右側に、1よりも小さい数は、無い。
2番の数である、Dの右側に、Dよりも小さい数は、(2 B 7 5 3 4 6 A 8 9 C)による、11個である。
3番の数である、2の右側に、2よりも小さい数は、無い。
4番の数である、Bの右側に、Bよりも小さい数は、 (7 5 3 4 6 A 8 9)による、8個である。
5番の数である、7の右側に、7よりも小さい数は、 (5 3 4 6)による、4個である。
6番の数である、5の右側に、5よりも小さい数は、 (3 4)による、2個である。
7番の数である、3の右側に、3よりも小さい数は、無い。
8番の数である、4の右側に、4よりも小さい数は、無い。
9番の数である、6の右側に、6よりも小さい数は、無い。
10番の数である、Aの右側に、Aよりも小さい数は、 (8 9)による、2個である。
11番の数である、8の右側に、8よりも小さい数は、無い。
12番の数である、9の右側に、9よりも小さい数は、無い。
13番の数である、Cの右側に、Cよりも小さい数は、無い。
14番の数である、Eの右側に、Eよりも小さい数は、無い。
従って、
(03)~(05)により、
(06)
1 D 2 B 7 5 3 4 6 A 8 9 C E。
である限り、必然的に、
1D(2B(7(5(34)6)A(89))C)E。
であるものの、「読みやすさ」を考慮して、
1D{2B[7〔5(34)6〕A(89)]C}E。
であるとする、
然るに、
(05)により、
(07)
D{2 B 7 5 3 4 6 A 8 9 C}
にあって、
Dよりも大きい数は、{ }の中には無く、
B[7 5 3 4 6 A 8 9]
にあって、
Bよりも大きい数は、[ ]の中には無く、
7〔5 3 4 6〕
にあって、
7よりも大きい数は、〔 〕の中には無く、
5(3 4)
にあって、
5よりも大きい数は、( )の中には無く、
A(8 9)
にあって、
Aよりも大きい数は、( )の中には無い。
従って、
(05)(07)により、
(08)
1D{2B[7〔5(34)6〕A(89)]C}E。
に於いて、
D{ }⇒{ }D
B[ ]⇒[ ]B
7〔 〕⇒〔 〕7
5( )⇒( )5
A( )⇒( )A
といふ「移動」を行ふと、
1D{2B[7〔5(34)6〕A(89)]C}E⇒
1{2[〔(34)56〕7(89)A]BC}DE=
1<2<3<4<5<6<7<8<9<A<B<C<D<E。
といふ「並び替へ(ソート)」が成立する。
従って、
(08)により、
(09)
我非{必求[以〔解(白話)法〕解(漢文)]者}也=
1D{2B[7〔5(34)6〕A(89)]C}E。
に於いて、
D{ }⇒{ }D
B[ ]⇒[ ]B
7〔 〕⇒〔 〕7
5( )⇒( )5
A( )⇒( )A
といふ「移動」を行ふと、
1D{2B[7〔5(34)6〕A(89)]C}E⇒
1{2[〔(34)56〕7(89)A]BC}DE=
我{必[〔(白話)解法〕以(漢文)解]求者}非也=
我は{必ずしも[〔(白話を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求むる者に}非ざる也。
といふ、「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(09)により、
(10)
我非{必求[以〔解(白話)法〕解(漢文)]者}也。
に於ける、
{ [ 〔 ( ) 〕 ( )] }
といふ「括弧」は、
1D 2B 7 5 34 6 A 89 C E
といふ「訓読の語順」を表してゐる。
然るに、
(11)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、二九六頁)
従って、
(10)(11)により、
(12)
我非{必求[以〔解(白話)法〕解(漢文)]者}也。
我{必[〔(白話)解法〕以(漢文)解]求者}非也。
に於いて、
前者 は、{漢文の補足構造}であって、
後者 は、{訓読の補足構造}である。
従って、
(11)(12)により、
(13)
我非{必求[以〔解(白話)法〕解(漢文)]者}也。
に於いて、
非 の「補足語」は、{必求以解白話法解漢文者}であって、
求 の「補足語」は、[以解白話法解漢文]であって、
以 の「補足語」は、〔解白話法〕であって、
解 の「補足語」は、(白話)であって、
解 の「補足語」は、(漢文)である。
従って、
(10)(13)により、
(14)
我非{必求[以〔解(白話)法〕解(漢文)]者}也。
に於ける、
{ [ 〔 ( ) 〕 ( )] }
といふ「括弧」は、「漢文の補足構造」と、「訓読の語順」を表してゐる。
然るに、
(15)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(15)により、
(16)
漢文に於ける、括弧は、漢字のスコープ(管到)を明示する働きを持つ。管到は、漢字の意味が及ぶ範囲のことをいふ。
従って、
(13)(16)により、
(17)
我非{必求[以〔解(白話)法〕解(漢文)]者}也。
に於いて、
非 の「意味」は、{必求以解白話法解漢文者}に及んでゐて、
求 の「意味」は、[以解白話法解漢文]に及んでゐて、
以 の「意味」は、〔解白話法〕に及んでゐて、
解 の「意味」は、(白話)に及んでゐて、
解 の「意味」は、(漢文)に及んでゐる。
然るに、
(18)
我非{必求[以〔解(白話)法〕解(漢文)]者}也。
から、
我 と、
必 を除いても、
非{求[以〔解(白話)法〕解(漢文)]者}也⇒
{[〔(白話)解法〕以(漢文)解]求者}非也=
{[〔(白話を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求むる者に}非ざる也。
といふ、「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(18)により、
(19)
我(主語) の「意味」は、直接ではなく、非 を介して、{必求以解白話法解漢文者}に及んでゐて、
必(副詞) の「意味」は、直接ではなく、求 を介して、[以解白話法解漢文]に及んでゐる。
従って、
(12)(17)(19)により、
(20)
我非必求以解白話法解漢文者也。
といふ「漢文」を「訓読」するためには、
我
非 の「意味」が{及ぶ範囲(管到)}。
必
求 の「意味」が[及ぶ範囲(管到)]。
以 の「意味」が〔及ぶ範囲(管到)〕。
解 の「意味」が(及ぶ範囲(管到))。
白
話
法
解 の「意味」が(及ぶ範囲(管到))。
漢
文
者
也。
を、「把握」する「必要」がある。
従って、
(20)により、
(21)
読漢文。
といふ「漢文」を「訓読」するためには、
読 の「意味」が(及ぶ範囲(管到))。
漢
文。
を、「把握」する「必要」がある。
然るに、
(22)
読(漢文)=漢文を読む。
に対して、
文(読〔漢)〕=漢文を読む。
といふ「漢文」は、有り得ないし、
(〔 )〕
は、「括弧」ではなく、
二 三 一
といふ「それ」も、「返り点」ではない。
従って、
(23)
読(漢文)=漢文を読む。
といふ「補足構造」に対して、
文(読〔漢)〕=漢文を読む。
といふ「補足構造」は、有り得ない。
従って、
(22)(23)により、
(24)
「括弧・返り点」は、
2<3>1 & 2-1=1
のやうな、
M<N>L & M-L=1
といふ「順番」を、
L<M<N
といふ「順番」に、「並び替へ(ソートす)」ることが、出来ない。
然るに、
(25)
半ば「積読」をしてゐた「ラテン語の教科書」を読む限り、例へば、
あの男の子たちは何処へ行くか。
みんな今日はここにゐる。
書かれるべき大きな作品。
あなたたちの兄弟たちは何処にゐるか。
我々は祖国のために戦ふべきである。
世界中でどの都市が最も豊かであるか。
といふ「意味」である所の、
QUO EUNT ILLI PUERI?
OMNES HIC SUNT HODIE.
MAGNA OPERA SCRIBENDA.
UBI SUNT FRATRES VESTRI?
NOBIS PUGNADUM EST PRO PATRIA.
QUAE URBS EST OPULENTISSIMA IN ORBE TERRARUM?
といふ「ラテン語」を「訓読」する際の「語順」は、
3(4〔1 2)〕
1 3(4〔2)〕
2(3〔1)〕
3(4〔2 1)〕
1 4(5〔3 2)〕
4[5{7《6〈3〔2(1)〕]}〉》
である。
従って、
(24)(25)により、
(26)
例へば、
QUO EUNT ILLI PUERI?
OMNES HIC SUNT HODIE.
MAGNA OPERA SCRIBENDA.
UBI SUNT FRATRES VESTRI?
NOBIS PUGNADUM EST PRO PATRIA.
QUAE URBS EST OPULENTISSIMA IN ORBE TERRARUM?
といふ「ラテン語」は、「括弧・返り点」を用ゐて、「訓読」することが、出来ない。
然るに、
(27)
NONNE FILIUS TUUS IN CIRCUM IT?
であれば、
NONNE〔FILIUS(TUUS)IN(CIRCUM)IT〕?⇒
〔(TUUS)FILIUS(CIRCUM)INIT〕NONNE?=
〔(あなたの)息子は(競走場)に行か〕ないのか。
であるため、「括弧」は、〔( )( )〕であって、「返り点」は、「下 二 一 二 一 上」である。
(28)
PATER FILIO LIBRUM DAT.
であれば、そのまま、
PATER FILIO LIBRUM DAT=
父は 息子に 本を 与へる。
である。
従って、
(26)(27)(28)により、
(29)
例へば、
QUO EUNT ILLI PUERI?
OMNES HIC SUNT HODIE.
MAGNA OPERA SCRIBENDA.
PATER FILIO LIBRUM DAT.
UBI SUNT FRATRES VESTRI?
NOBIS PUGNADUM EST PRO PATRIA.
NONNE FILIUS TUUS IN CIRCUM IT?
QUAE URBS EST OPULENTISSIMA IN ORBE TERRARUM?
といふ「ラテン語」は、「訓読できない」場合と、「訓読できる」場合があるため、「ラテン語」は、「訓読」に適してゐない。
然るに、
(30)
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア)。
従って、
(29)(30)により、
(31)
「漢文の語順」は、「訓読」に適してゐて、「ラテン語の語順」や「白話文(中国語)」は、「訓読」に適さない。
従って、
(32)
「ラテン語」や「中国語」では「訓読」が行はれない(出来ない)のだから、「漢文」も「訓読」すべきではない。
といふことには、ならない。
然るに、
(33)
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年)。
従って、
(32)(33)により、
(34)
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く西洋文化研究者は、「漢文の語順」は、「訓読」に適してゐて、例へば、「ラテン語の語順」は、「訓読」に適してゐない。といふことを、確認すべきである。
(35)
「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら」とのことであるが、例へば、
我非{必求[以〔解(白話)法〕解(漢文)]者}也。
の「返り点」は、
地 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
であって、それ故、
二 下 丙 地
↑ ↑ ↑ ↑
一 上 乙 天
↑
甲
であるため、
我非{必求[以〔解(白話)法〕解(漢文)]者}也。
の「返り点」は、「上がったり、上がったり」であって、「上がったり、下がったり」はしていない。
然るに、
(36)
QUAE URBS EST OPULENTISSIMA IN ORBE TERRARUM?
の「それ」は、
四 五 七 六 三 二 一
であって、それ故、
三 三 五 五 七
↑ ↓ ↑ ↓ ↑
二 四 四 六 六
↑
一
であるため、
QUAE[URBS{EST《OPULENTISSIMA〈IN〔ORBE(TERRARUM)〕]}〉》
の「それ」は、「上がったり、下がったり」である。
cf.
然るに、
(37)
「返り点」は、「下から上へ返る点」であるため、
三 三 五 五 七
↑ ↓ ↑ ↓ ↑
二 四 四 六 六
↑
一
のやうな、「上がったり、下がったり」は、「返り点」ではない。
(38)
「上がったり、下がったり」は「返り点」ではないだけでなく、
「上がったり、上がったり」と「比較」すると、
「上がったり、下がったり」は、「極端に、読みにくい」。
平成28年09月22日、毛利太。
0 件のコメント:
コメントを投稿