(01)
① 不敢視。
② 敢不視。
③ 敢不走乎。
④ 不敢不走。
の「書き下し文」は、
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
③ 敢へて走らざらんや。
④ 敢へて走らずんばあらず。
である。
従って、
(02)
「返り点」と「括弧」は、
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 敢
② 敢
③ 敢
④ 敢
といふ「副詞」に対しては、「返り点」と「括弧」が、付かない。
然るに、
(04)
漢文としては助動詞であると思われるけれども、訓読ではアヘテと読み、動詞から変化した副詞のように使われる。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)
然るに、
(05)
「敢」が「漢文としては助動詞である」ならば、「書き下し文」は、
① 視ること敢へてせず。
② 視ざること敢へてす。
③ 走らざること敢へてせんや。
④ 走らざること敢へてせず。
である。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 敢
② 敢
③ 敢
④ 敢
が「副詞」でない場合の、「返り点」と「括弧」は、
従って、
(05)(06)により、
(07)
に於ける「常(副詞)」がさうであるやうに、「敢(副詞)」に対しても、「返り点・括弧」を付けることにする。
然るに、
(08)
あへて【敢へて】(副)①押し切って。むりに。強いて。
(旺文社、高校基礎古語辞典、1987年、39頁)
(09)
デジタル大辞泉の解説
意(い)を決・する
思いきって決心する。覚悟を決める。「―・して直訴をする」
従って、
(08)(09)により、
(10)
敢へて・直訴する=(意を)決して・直訴する。
敢へて・直訴せず=(意を)決して・直訴しない(出来ない)。
とする。
然るに、
(11)
1.市販の問題集・参考書の類、教科書・教師用指導書の類では、「不敢」を「決して・・・ない」と訳している。
(江連隆、漢文語法ハンドブック、1997年、81頁)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
「不敢・・・」=「決して・・・ない」
ではなく、
「不敢・・・」=「(意を)決して・・・しない(出来ない)」
とする。
従って、
(12)により、
(13)
「敢・・・・」=「(意を)決して・・・・する」
である。
従って、
(12)により、
(14)
① 不〔敢(視)〕⇒
① 〔(視)敢〕不=
① 〔(視ること)敢へてせ〕ず=
① 視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふ、「意味」である。
従って、
(13)(14)により、
(15)
② 敢〔不(視)〕⇒
② 〔(視)不〕敢=
② 〔(視)ざること〕敢へてす=
② 視ないことを、(意を)決してする。
といふ、「意味」である。
然るに、
(16)
◆ 敢不レ走乎 「敢不二~一乎」は「あえテ~ざランや」と読む反語形。「どうして~しないことがあろうか、いや必ず~する」「~せずにいられない」の意をあらわす。「不敢二~一」の場合は「あへテ~ず」と読む否定形であることに注意。
(赤塚忠 遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、40頁)
従って、
(15)(16)により、
(17)
③ 敢不走乎。
の場合は、
① 敢不走。
の「反語」であるため、
③ 敢〔不(走)〕乎⇒
③ 〔(走)不〕敢乎=
③ 〔(走ら)ざること〕敢へてせんや=
③ (意を決して、)逃げないでゐられるだろうか(。いや、そのやうなことはなく、必ず逃げるに違ひない)。
といふ、「意味」である。
cf.
(18)
④ 不[敢〔不(視)〕]⇒
④ [〔(視)不〕敢]不=
④ [〔(視)ざること〕敢へてせ]ず=
④ 視ないことを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふ、「意味」である。
従って、
(14)(15)(17)(18)により、
(19)
① 不〔敢(視)〕。
② 敢〔不(視)〕。
③ 敢〔不(視)〕乎。
④ 不[敢〔不(視)〕]。
といふ「漢文」は、それぞれ、
① 視ることを、 (意を)決してしない(出来ない)。
② 視ないことを、(意を)決してする。
③ (意を決して、)視ないでゐられるだろうか(。そのやうなことはない)。
④ 視ないことを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふ、「意味」である。
然るに、
(20)
① 視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふことは、つまりは、
① 視ない。
といふ、ことである。
(21)
② 視ないことを、(意を)決してする。
といふことは、つまりは、
② 視ない。
といふ、ことである。
(22)
③ (意を決して、)視ないでゐられるだろうか(。そのやうなことはない)。
といふことは、つまりは、
③ 視る。
といふ、ことである。
(23)
④ 視ないことを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふことは、つまりは、
④ 視る。
といふ、ことである。
従って、
(20)(21)(22)(23)により、
(24)
① 不〔敢(視)〕。
② 敢〔不(視)〕。
③ 敢〔不(視)〕乎。
④ 不[敢〔不(視)〕]。
といふ「漢文」は、「結果」だけを見れば、
①=② であって、
③=④ である。
然るに、
(25)
① 視ることを、 (意を)決してしない(出来ない)。
② 視ないことを、(意を)決してする。
である以上、「結果」としては「同じ」であっても、「内容」としては「同じ」ではない。
然るに、
(26)
【視】みる[意味]①みる(ア)気を付けて見る。「注視」
(旺文社、高校基礎漢和辞典、1984年、690頁)
従って、
(25)(26)により、
(27)
①(意を)決して注視することを、 しない(出来ない)。
②(意を)決して注視しないことを、する。
に於ける「結果」は、「視ない」であっても、「内容」は「同じ」ではない。
(28)
①(意を)決して注視することを、しない(出来ない)。
といふことは、
① まじまじと見てみたい(ガン見したい)のに、(勇気が無くて)それが出来ない。
といふ、ことである。
然るに、
(02)(03)(06)により、
(29)
① 敢 を「副詞」とし、
② 敢 を「副詞」とする。
ならば、
① 不(敢視)。
② 敢不(視)。
の「訓読」は、二つとも、
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
である。
従って、
(28)(29)により、
(30)
① 敢 を「副詞」とし、
② 敢 を「副詞」とする。
ならば、
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
といふ「訓読」からは、
① まじまじと見てみたい(ガン見したい)のに、(勇気が無くて)それが出来ない。
といふ「意味」であるのか、否かが、分らない。
然るに、
(31)
蘇秦は鬼谷先生を師とし学んだ。初め故郷の洛陽を出て諸国に遊説したが、志を得ず困窮して帰って来た。その時妻は秦を軽蔑して機織台から下りても来ず。兄嫁も秦のために飯をたいてもくれなかった。ところが今度は六国同盟の長となり、六国の宰相を兼務する身となった。そして道すがら故郷の洛陽に立ち寄った。護衛の車馬、荷車は、王者のそれにまごうべきであった。それを見た兄弟や妻や兄嫁は、恐れ入ってそっと横目でみてまともに見ず<、うつむいて側に侍ってお給仕をした。秦はおかしくなって、「どうして以前にはあんなに傲慢にして、今度はこんなに鄭重なのですか。」とたずねた。
(林秀一、十八史略、82頁)
従って、
(30)(31)により、
(32)
①(六国同盟の長となり、六国の宰相を兼務する身となって、王者と見まごうばかりの、立派な身なりをしてゐる蘇秦の顔を)まじまじと見てみたいのに、(以前には、傲慢な態度をとってしまった手前もあって、蘇秦をガン見する、勇気を持つことが出来なくて、蘇秦を)まじまじと見ることが出来ない。
といふ、ことになる。
従って、
(30)(32)により、
(33)
この場合の、
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
は、明らかに、
① まじまじと見てみたい(ガン見したい)のに、(勇気が無くて)それが出来ない。
といふ、「意味」である。
従って、
(29)(33)により、
(34)
② 敢不(視)。
ではなく、
① 不(敢視)。
でなければ、ならないものの、次に示す通り、果たして、その通りである。
cf.
然るに、
(35)
10 蘇秦之昆弟妻嫂、側レ目不二敢仰視一。(史記、蘇秦列伝)蘇秦の兄弟や妻や兄嫁は、目をそらして、顔を上げてはっきり見るだけの勇気がなかった。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、321頁)
然るに、
(36)
① 不〔敢(視)〕⇒
① 〔(視)敢〕不=
① 〔(視ること)敢へてせ〕ず=
① 視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
であって、尚且つ、
① 不〔敢(仰視)〕⇒
① 〔(仰視)敢〕不=
① 〔(仰ぎ視ること)敢へてせ〕ず=
① 仰ぎ視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
である。
従って、
(36)により、
(37)
① 不〔敢(視)〕。
であっても、
① 不〔敢(仰視)〕。
であっても、「同じ」である。
然るに、
(38)
さてたとえば10の「不敢仰視」についていうと、漢文の原則として上の字は下の字のみ影響するから、「敢」は、「仰視」の字にのみ影響する。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)
然るに、
(39)
「不敢仰視」に於いて、「敢」は、「仰視」の字にのみ影響する。
といふことは、
「不敢仰視」に於いて、「敢」の「意味」は、「仰視」に及んでゐる。
といふ風に、「言ひ換へ」ることが、出来る。
然るに、
(40)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(39)(40)により、
(41)
「不敢仰視」に於いて、「敢」の「意味」は、「仰視」に及んでゐる。
といふことを、「括弧」を用ゐて、「表す」のであれば、
① 敢(仰視)。
といふことに、他ならない。
然るに、
(42)
蘇秦の昆弟妻嫂の場合、蘇秦を仰視することは勇気がいることだから「敢仰視」は「勇気を出して仰視」することで、「不敢仰視」はそれを否定している。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)
従って、
(42)により、
(43)
「不敢仰視」は、「敢仰視」を「否定」している。
すなはち、
(44)
正確に言ふと、
「不敢仰視」の「不」は、「敢仰視」を「否定」している。
従って、
(41)(44)により、
(45)
① 不敢(仰視)。の「不」は、
① 敢(仰視)。を「否定」してゐる。
然るに、
(46)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
然るに、
(47)
「~」といふ「演算子」は、「不」である。
従って、
(45)(46)(47)により、
(48)
① 不敢(仰視)。の「不」が、
① 敢(仰視)。を「否定」してゐる。
のであれば、
① 不(敢(仰視))。
でなければ、ならない。
従って、
(48)により、
(49)
少なくとも、
① 不敢仰視。
といふ「漢文」には、
① 不〔敢(仰視)〕。
といふ「括弧」が、有ります!
従って、
(35)(38)(41)(49)により、
(50)
10 蘇秦之昆弟妻嫂、側レ目不二敢仰視一(史記、蘇秦列伝)蘇秦の兄弟や妻や兄嫁は、目をそらして、顔を上げてはっきり見るだけの勇気がなかった。
さてたとえば10の「不敢仰視」についていうと、漢文の原則として上の字は下の字のみ影響するから、「敢」は、「仰視」の字にのみ影響する。蘇秦の昆弟妻嫂の場合、蘇秦を仰視することは勇気がいることだから「敢仰視」は「勇気を出して仰視」することで、「不敢仰視」はそれを否定している。
といふ風に、西田先生が書いてゐる。といふことは、西田先生もまた、私と同様に、
① 不〔敢(仰視)〕⇒
① 〔(仰視)敢〕不=
① 〔(仰ぎ視ること)敢へてせ〕ず=
① 仰ぎ視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふ風に「理解」してゐる。
といふことを、意味してゐる。
従って、
(51)
「漢文」に於ける「括弧」は、「実在」するのであって、単なる、「返り点」の「代用」ではない。
といふ「意味」で、「括弧は有ります!」。
平成29年01月29日、毛利太。
―「関連記事」―
「部分否定・全部否定」と「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_27.html)。
「復(副詞)の位置」 と「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_25.html)。
「括弧」の付け方:「係り・及び・並び」(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_6.html)。
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