(01)
従って、
(01)により、
(02)
① 子は魚に非ず、 安んぞ魚の楽しみを知らん。
② 子は魚に非ず、子安んぞ魚の楽しみを知らん。
③ 故を以て、漢 追いて之に及ぶ。
④ 故を以て、漢項王を追いて之に及ぶ。
⑤ 秦西巴忍ずして之に 与ふ。
⑥ 秦西巴忍ずして之に其の麑を与ふ。
⑦ 人一たびして之を能くすれば、己之を百たび す。
⑧ 人一たびして之を能くすれば、己之を百たびして能くす。
⑨ 生馬すら且つ之を買はず。況や死せる者を や。
⑩ 生馬すら且つ之を買はず。況や死せる者を買はんや。
従って、
(02)により、
(03)
① あなたは魚ではない、 どうして魚の楽しみを知るのか。
② あなたは魚ではない、あなたはどうして魚の楽しみを知るのか。
③ こういうわけで漢軍が 追いかけて来て追いついた。
④ こういうわけで漢軍が項王を追いかけて来て追いついた。
⑤ 秦西巴はいたましさに耐えられず母鹿に 返してやった。
⑥ 秦西巴はいたましさに耐えられず母鹿に子鹿を返してやった。
⑦ 他人が一度で出来るなら、自分は百度くりかえ す。
⑧ 他人が一度で出来るなら、自分は百度くりかえして出来るようにする。
⑨ 生きてゐる馬すら買はなかったのだから、まして死んだ馬ならなおさら だ。
⑩ 生きてゐる馬すら買はなかったのだから、まして死んだ馬ならなおさら買はないはずだ。
従って、
(04)
① あなたは魚ではない、どうして魚の楽しみを知るのか(荘氏)。
③ こういうわけで漢軍が追いかけて来て追いついた(十八史略)。
⑤ 秦西巴はいたましさに耐えられず母鹿に返してやった(韓非子)。
⑦ 他人が一度でできるなら、自分は百度くりかえす(中庸)。
⑨ 生きてゐる馬すら買はなかったのだから、まして死んだ馬ならなおさらだ(十八史略・改)。
といふ「日本語訳」に於いて、それぞれ、
①(あなたは)
③(項王を)
⑤(子鹿を)
⑦(して出来るように)
⑩(買はないはず)
が、「省略」されてゐる。
然るに、
(05)
①(あなたは)
は、「主語」であるが、
③(項王を)
⑤(子鹿を)
⑦(して出来るように)
⑩(買はないはず)
は、「主語」ではない。
加へて、
(06)
⑪ はじめよりわれはと思ひ上がりたまへる御かたがた、めざましきものにおとしめそねみたまふ。同じほど、それより下﨟の更衣たちは、まして安からず(源氏物語、桐壷)。
⑪(宮仕えの)初めから、自分こそは(帝の御寵愛を得るだろう)と自負していらっしゃる女御がたは、(このかたを)しゃくにさわるものとして、さげすんだりねたんだりなさる(三省堂、明解古典学習シリーズ4 源氏物語 上、1973年、2頁)。
に於いて、
⑪(このかたを)
は、「主語」ではない。
従って、
(05)(06)により、
(07)
「日本語」に於いて「省略が可能」なのは、「主語」だけではない。
然るに、
(08)
よく言われることは『主語の省略』である。日本語では、主語の省略というのは不適当で、実は『主語なしの表現』をするのである。
(1) お暖かくなりましたね。
(2) ほんとうですね。
こんな場合われわれは何か省かれたとは感じない。こういう表現を目指しているのである。(1988)
服部四朗(1960)の立場はすでに第1章で引用したが、同じ本の中で次のようにも言っている。
「私は、日本語に関しては、『主語が省略される』などとは言はずに、『主語』のない(述語)文型を正式な文型として認めるべきであると考える」
(金谷武洋、日本語に主語はいらない、2002年、77頁)
従って、
(07)(08)により、
(09)
『主語』のない文型を正式な文型として認めるべきである。とすならば、『主語』以外がない文型も正式な文型として認めるべきである。
(10)
⑪ 寧悔不撃、不可悔不止=
⑪ 寧悔〔不(撃)〕、不{可[悔〔不(止)〕]}⇒
⑪ 寧〔(撃)不〕悔、{[〔(止)不〕悔]可}不=
⑪ 寧ろ〔(撃た)不るを〕悔ゆるも、{[〔(止め)不るを〕悔ゆる]可から}ず。
といふ「訓読」は、分りにくいし、
⑪ 敵を追撃しなかったことを悔いる方がよく、(敵に不覚を取り)追撃を止めなかったことを後悔してしてはならない(教学社、風呂で覚える漢文)。
といふ「訳文」も分りにくい。
(11)
⑪(敵に不覚を取り)
といふ
⑪(省略)
が、特に、分りにくい。
然るに、
(12)
⑫ 寧悔不追撃、不可悔不止追撃=
⑫ 寧悔〔不(追撃)〕、不〈可{悔[不〔止(追撃)〕]}〉=
⑫ 寧〔(追撃)不〕悔、〈{[〔(追撃)止〕不]悔}可〉不=
⑫ 寧ろ〔(追撃せ)不るを〕悔ゆるも、〈{[〔(追撃を)止め〕不るを]悔ゆる}可から〉ず=
⑫ 寧ろ、追撃しないことを後悔するよりも、追撃を止めないことを後悔してはならない。
然るに、
(13)
⑪ 不撃 =追撃をしない。
⑫ 不止撃=追撃を止めない=追撃を続ける。
従って、
(12)(13)により、
(14)
⑫ 寧悔不追撃、不可悔不止追撃=
⑫ 追撃をしないことを後悔するよりも、追撃を続けることを後悔してはならない=
⑫ 追撃をしないことを後悔すべきであって、追撃を続けることを後悔してはならない。
然るに、
(15)
⑫ 追撃をしないことを後悔すべきであって、追撃を続けることを後悔してはならない。
といふ「訳文」であれば、「十分」に、「意味」が通じる。
(16)
古文を勉強していると出会うことですが、書いてあるはずの主語がよくわからなくなって、意味がとれなくなる、ということがあります。だれとか、何が、ということを主語がわからなくなったら、大あわてです、そんな古文は投げ出したくなります。よく探すと主語が書かれている場合もあるけれども、多く、古文がよくわからなくなるのは、主語が書かれていないからです。
(藤井貞和、古文の読み方、1984年、8頁)。
(17)
受験科目としての「古文」と「漢文」を比較すれば、「古文」の方が、「一段と難しかった」といふ、「記憶」がある。
(18)
『源氏物語』や『蜻蛉日記』を本気で読もうとする、ものすごくたいへんなのです。私が受験した頃は、『源氏物語』がよく出たので、当時かなり熱心に読んだのですが、かなり苦労した記憶があります。
(齋藤孝、学校では教えてくれない日本語の授業、2014年、53頁)
(19)
kawabata1104_0817さん2014/9/2922:50:58
漢文と古文どちらを先に勉強するほうがいいですか?高校生です
hiro34791997さん 2014/9/2922:56:31
今からならもちろん古文です!
なぜなら漢文ほど短期間で上がる科目はないからです!
漢文は後回しで古文あげてからでいいですよ
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
「日本語」を勉強されてゐる、外国の方が「源氏物語や、枕草子」を読めるようになることは、「相当、難しい」ものの、その一方で、『(返り点等付いてゐる)論語や、史記』を読めるようになることは、「比較的、難しくはない」と、思はれる。
平成29年01月22日、毛利太。
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