(01)
① AはDである=
① AはDである。
(02)
② AがDである=
② AはDであって(、A以外はDでない)。
(03)
③ AもDである=
③ AはDであって(、A以外もDである)。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① AはDである。
② AがDである。
③ AもDである。
に於いて、
①と② は、「矛盾」せず、
①と③ も、「矛盾」せず、
②と③ は、「矛盾」する。
例へば、
(05)
「忠臣蔵」、
② 私が日野家用人垣見五郎兵衛である。
③ 私も日野家用人垣見五郎兵衛である。
に於いて、
②と③ は、「矛盾」する。
従って、
(04)により、
(06)
{Aさん、Bさん、Cさん}
に於いて、
① AはDであるが(、A以外については、分らない)。
といふことを、言おうとする場合は、
① AがDである。
② AもDである。
とは、言はずに、
③ AはDである。
といふ風に、言ふことになる。
然るに、
(07)
① AはDであるが(、A以外については、分らない)。
といふことは、
①(少なくとも)AはDである。
といふことに、他ならない。
従って、
(08)
{Aさん、Bさん、Cさん}がゐるとして、
B「それはさうとして、一体誰が、猫の首に鈴を付けに行くのか。」
A「私は行きます。」
であれば、
A「(少なくとも)私は行きます。」
といふ、「意味」である。
(09)
A「それはさうとして、一体誰が、猫の首に鈴を付けに行くのか。」
B「私が行きます。」
であれば、
B「私が行く(ので、私以外は行かなくてもよい)。」
といふ、「意味」である。
(10)
A「Bの他に誰か、猫の首に鈴を付けに行かないのか。」
C「私も行きます。」
であれば、
C「私は行くし(、私以外も行く)。」
といふ、「意味」である。
(11)
仮に、私が「日本語の教師」であれば、
「それはさうとして、一体誰が、猫の首に鈴を付けに行くのか。」
に対する「答へ」としての、
① 私は行きます。
② 私が行きます。
③ 私も行きます。
④ あなたが行くべきだ。
といふ「日本語」を、最初に、教へたい。
(12)
仮に、私が「日本語の勉強を始めたばかりの外国人」であれば、
「それはさうとして、一体誰が、猫の首に鈴を付けに行くのか。」
に対する「答へ」としての、
① 私は行きます。
② 私が行きます。
③ 私も行きます。
④ あなたが行くべきだ。
といふ「日本語」の「意味」を、「日本人」に対して、質問したい。
因みに、
(13)
今年91才になる男性(毎日本ばかり読んでゐる日本語の大ベテラン)に確認したところ、
① 私は行きます=(少なくとも)私は行きます。
② 私が行きます=私が行く(ので、私以外は行かなくてもよい)。
③ 私も行きます=私は行くし(、私以外も行く)。
④ あなたが行くべきだ=(他の人ではなく、)あなたが行くべきだ。
であることについて、「そんなことは、当たり前である。」
との、ことである。
従って、
(14)
① 私は行きます=(少なくとも)私は行きます。
② 私が行きます=私が行く(ので、私以外は行かなくてもよい)。
③ 私も行きます=私は行くし(、私以外も行く)。
④ あなたが行くべきだ=(他の人ではなく、)あなたが行くべきだ。
といふ風に、答へられない「日本語教師」がゐるとするならば、そのやうな「彼・彼女」は、「日本語教師」としては、「失格」である。
平成29年01月18日、毛利太。
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象鼻文:{主題(題目)}は(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_17.html)。
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