(01)
① 冀〔復得(兎)〕。の場合は、
① 〔復得(兎)〕といふことを、「一度だけ、 願った。」のに対して、
② 復冀〔 得(兎)〕。の場合は、
② 〔 得(兎)〕といふことを、「一度ならず、二度、願った。」ことになる。
然るに、
(02)
①〔復得(兎)〕=〔もう一度、兎を手に入れること〕
②〔 得(兎)〕=〔 兎を手に入れること〕
である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 冀〔復得(兎)〕。
② 復冀〔 得(兎)〕。
といふ「漢文」は、
①〔もう一度、兎を手に入れること〕を「冀ふ」。
②〔兎を手に入れること〕を「もう一度、冀ふ」。
といふ「意味」である。
然るに、
(04)
① 冀復得兎=
① 冀〔復得(兎)〕⇒
① 〔復(兎)得〕冀=
① 復た兎を得んことを冀ふ。
(05)
② 復冀得兎=
② 復冀〔得(兎)〕⇒
② 復〔(兎)得〕冀=
② 復た兎を得んことを冀ふ。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 冀復得兎。
② 復冀得兎。
といふ「漢文」の「訓読」は、両方とも、
① 復た兎を得んことを冀ふ。
② 復た兎を得んことを冀ふ。
である。
従って、
(03)(06)により、
(07)
① 復た兎を得んことを冀ふ。
② 復た兎を得んことを冀ふ。
といふ「一つの訓読」に対して、
①〔もう一度、兎を手に入れること〕を「願ふ」。
②〔兎を手に入れること〕を「もう一度、願ふ」。
といふ、「二つの意味」が、対応する。
従って、
(08)
◆ 冀二復得一レ兎 この句は「復た兎を得んことを冀ふ」と読むが、いまかりに原文の「冀」と「復」とを入れかえて「復冀レ得レ兎」としても
読み方はかわらない。しかし意味内容のうえでは大きな違いがあるので注意を要する。「冀二復得一レ兎」の場合は「冀ふ」の内容が下の「復得レ兎」となる形であるから、「ふたたび兎を手に入れる」ということを「ねがう」の意で、まえにも兎を入れたが、さらにもう一度兎を手に入れ
たいと望むことになる。ところが「復冀レ得レ兎」の場合は「復」が「冀」の上にあるので、「復」が「冀」を修飾する形であり、「冀ふ」の内容は「得レ兎」だけになる。つまり「兎を手に入れること」を「もう一度ねがう」の意である(旺文社、漢文の基礎、1973年、36頁)。
といふ、ことになる。
(09)
【邪】同じく疑問を主として「乎」「与」に通じるが、〈かな〉という訓はない。「乎」のように単に問うのではなく、怪しみ疑う気持ちを強くこめて自問する場合に多く用いる。「耶」は「邪」と音義とも同じ(三省堂、新明解漢和辞典、第四版)。
従って、
(09)により、
(10)
③ 天下豈聞三死人可二復活一耶。
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かんや。
であれば、
③ 天下豈聞死人可復活。といふことは「怪しく、疑はしい」。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(11)
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かんや。
であれば、
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かん乎。
であるのか、
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かん与。
であるのか、
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かん耶。
であるのかが、「不明」である。
(12)
「也」と「矣」とは共に断定の終詞であるが、その用法にははっきりとした区別がある。「也」は断定をいっそう確言する口気を写すもので、国語では、「~は~である」と訳せばほぼ合致する。「也」の確言のしかたはこのように説明であり、平板である。しかるに「矣」は自ら信ずるところを特に強く表示したり、またこれを主張する必要がある場合の口気を写すものあり、その確言のしかたは直覚であり。感情的であり、強くかつ鋭い。国語では「~であることはいうまでもない「~にちがいない」といような気持ちを含めて訳せば、その意に近い。
(中澤希男・澁谷玲子、漢文訓読の基礎、昭和60年、86頁)
従って、
(12)により、
(13)
④ 慎レ終追レ遠、民徳帰厚矣。
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す。
であれば、
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す(にちがいない)。
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す(ことはいうまでもない)。
といふ「意味」になる。
然るに、
(14)
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す。
だけでは、
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す(にちがいない)。
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す(ことはいうまでもない)。
といふ「意味」なのか、さうでないのかが、分らない。
従って、
(07)(11)(14)により、
(15)
① 復た兎を得んことを冀ふ。
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かんや。
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す。
といふ「書き下し文」は、
① 冀二復得一レ兎。
③ 天下豈聞三死人可二復活一耶。
④ 慎レ終追レ遠、民徳帰厚矣。
といふ「漢文」に及ばない。
従って、
(15)により、
(16)
① 復た兎を得んことを冀ふ。
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かんや。
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す。
といふ「書き下し文」だけを読んでゐても、
① 冀〔復得(兎)〕。
③ 天下豈聞〔死人可(復活)〕耶。
④ 慎(終)追(遠)、民徳帰厚矣。
といふ「漢文(の補足構造とニュアンス)」を、「理解」することは、出来ない。
(17)
① 男もす なり(伝聞)=男もするそうだ。
② 男もするなり(断定)=男もするのである。
である。
然るに、
(18)
①「なり(伝聞・推定)」
といふ「助動詞」は、「漢文訓読」では、用ゐない。
(19)
③ 春きたるらし=春が+来る+らしい。
④ 春きたるらし=春が+来て+ゐる+らしい。
である。
然るに、
(20)
③ 来たる=きたる(四段動詞・連体形・終止形)
に対して、
④ 来たる=き(カ変動詞・連用形)+たる(完了の助動詞・連体形)
といふ「形」は、「漢文訓読」では、用ゐない。
(21)
⑤ 三笠の山にいでし月かも。
⑥ 倭建命その刀を抜かして、
⑦ 聞かでただ寝なましものを。
に於いて、
⑤ し=「過去」の助動詞「き」の連体形。
⑥ し=「尊敬」の助動詞「す」の連用形。
⑦ し=「反実仮想」の助動詞「まし」の一部。
である。
然るに、
(22)
⑤「き(過去)」
⑥「す(尊敬)」
⑦「まし(反実仮想)」
といふ「助動詞」は、「漢文訓読」では、用ゐない。
従って、
(17)~(22)により、
(23)
例へば、
① 男もすなり(伝聞)。
② 男もするなり(断定)。
③ 春きたる(四段動詞)らし。
④ 春き(カ変動詞)たるらし。
⑤ 三笠の山にいでし(過去)月かも。
⑥ 倭建命その刀を抜かし(尊敬)て、
⑦ 聞かでただ寝なまし(反実仮想)ものを。
のやうな「識別(分析)」は、「漢文訓読」に於いては、「不要」であるし、更に言へば、
⑧ 名に(格助詞)し(副助詞・強意)負はばこと問はむ。
のやうな「識別(分析)」も、「漢文訓読」では、「問題」にはならない。
(24)
「中村菊一、基礎からわかる古典文法」によると「古文」で用ゐる「助動詞」は、
「ふ、ゆ、らゆ、る、らる、す、さす、しむ、ず、む、むず、じ、まし、まほし、り、き、けり、つ、ぬ、たり、けむ、たし、らむ、らし、めり、べし、まじ、なり、なり、たり、ごとし」による「31種類」である。
然るに、
(25)
その内、「漢文訓読」で用ゐる「助動詞」は、「二畳庵主人、漢文法基礎」によると、
「る、らる、しむ、ず、む、り、べし、なり、たり、ごとし」による「10種類」である。
加へて、
(26)
これも、「かなりむつかしい」所の、
「あそばす、います、いますがり、うけたまはる、おはします、おはす、おぼしめす、おぼす、おほせらる、おほとのごもる、おもほす、きこえさす、きこしめす、きこゆ、けいす、ごらんず、さぶらふ、しろしめす、そうす、たうぶ、たてまつる、たぶ、たまはす、たまはる、たまふ、つかうまつる、(のたまふ)、のたまはす、はべり、もうす、まうず、まかず、まかる、まします、まゐらす、まゐる、みそなす、めす」
のやうな「敬語」は、「漢文訓読」では用ゐない。
従って、
(23)~(26)により、
(27)
以上のやうな「事情」等により、「漢文訓読の文法」は、「古文の文法」より、「はるかに、簡単」である。
従って、
(28)
論語や孟子を読むことは、少なくとも「源氏物語」や「枕草子」を読むほどには、むつかしくない。更にもう一つ少なくともを加へれば、少なくとも漢文の文法は、いわゆる日本の「古文」の文法よりも簡単である(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、31頁)。
といふことは、「本当」であって、「実感」である。
従って、
(29)
それを「訓読」する限り、日本人にとっては、約2500年前のシナの「古文」の方が、約1000年前の日本の「古文」よりも、「はるかに、簡単」である。
従って、
(30)
信じられない話だが日本人は学校で漢文を勉強するらしい……中国人オタクの疑問(百元)
といふことは、別段、「信じられない話」ではない。
(31)
それよりも、
『源氏物語』や『蜻蛉日記』を本気で読もうとする、ものすごくたいへんなのです。私が受験した頃は、『源氏物語』がよく出たので、当時かなり熱心に読んだのですが、かなり苦労した記憶があります(齋藤孝、学校では教えてくれない日本語の授業、2014年、53頁)。
とあるやうに、40年程前には、高校生に対して、「源氏物語の読解」を期待してゐた。といふことの方が、信じられない。
従って、
(32)
日本人にとっては、「論語や孟子や史記」の方が「源氏物語や枕草子や蜻蛉日記」よりも、簡単である。
従って、
(33)
日本語を学ばれてゐる、外国の方にとっても、「漢文」の方が、「古文」よりも、簡単である。
然るに、
(34)
私の後輩に、中国語をずいぶん熱心に勉強している女性がいます。彼女は中国語の検定試験にもチャレンジしている達人ですが、この『論語』の文章を一目みて、
「これも中国語ですか? 私には全く分かりません!」
と言いました。彼女ほどの人が、本当に「全く分からない」のだろうか、と私はちょっと驚いたのですが、現代中国語と古文(漢文)では、かなり違いがあるのは事実です。現代中国語だけしか習っておらず、 古文(漢文)を読んだ経験がなければ、「全く分からない」ということも、ありうるかもしれません(Webサイト:日本漢文へのいざない)。
従って、
(35)
中国語をずいぶん熱心に勉強してゐるからといって、「漢文」が読めるように、なるわけではない。
平成29年01月24日、毛利太。
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