2014年2月22日土曜日

WH移動(wh-movement in archaic Chinese)。

ともあれ、
(01)
「① 死なない人間が存在しない」のであれば、
「② 全ての人間は死ぬ」。
といふ「命題」が「真」であることを、「証明」したい。
(02)
命題 ①と、
命題 ②が有って、
その「結果」として、「矛盾(A&非A)」が生じるであれば、
① と、
② の、
どちらか一方が、「偽」である。
従って、
(03)
① が「真」であれば、② が「偽」であり、
② が「偽」であれば、② の否定が「真」である。
従って、
(04)
① は「真」であり、尚且つ、
② も「真」であると「仮定」して、「矛盾(A&~A)」が生じる場合は、
① が「真」であれば(条件的証明)、
② の否定が「真」である(背理法)。
然るに、
(05)
①  ~(ヨx)(Hx&~Mx)=死なない人間は存在しない。
②    (x)(Hx→Mx) =全ての人間は死ぬ。
に於いて、
(06)
1  (01)  ~(ヨx)(Hx&~Mx)     A〔仮定①〕
2   (02)   ~(x)(Hx→Mx)    A〔仮定②〕
2   (03)         ~(Ha→Ma)    UE
2  (04)      ~(~Ha∨Ma)    (03)Df.→
2  (05)       ~~Ha&~Ma     (04)DML
2  (06)        Ha&~Ma     (05)DN
2  (07)   (ヨx)(Hx&~Mx)    (06)E I
1,2 (08)  ~(ヨx)(Hx&~Mx)&(ヨx)(Hx&~Mx)(01)(07)&I
1  (09)    ~~(x)(Ha→Ma)         (02)(08)RAA〔背理法〕
1  (10)        (x)(Ha→Ma)         (09)U I〔仮定②の否定〕
    (11)    ~(ヨx)(Hx&~Mx)→(x)(Hx→Mx) (01)(11)CP  
  (12) 死なない人間が存在しないならば、全ての人間は死ぬ。(01)(11)CP
  (13) ① 無〔人不(死)〕則 ② 人皆有(死)。(01)(11)CP
従って、
(05)(06)により、
(07)
~(ヨx)(Hx&~Mx)=死なない人間は存在しない。
に於ける、「記号」の意味は、
否定       =~
存在する      =(ヨx)
xは人間である=Hx
接続詞      =&
xは死ぬ     =Mx
然るに、
(08)
「論理記号」の「結合力」の強さは、「¬、&、∨、→、⇔」の順であり、括弧は曖昧さが無い場合には適当に省略される(赤間世紀、prologで学ぶAIプログラミング、平成20年、13頁)。に於いて、「¬(否定)」は、「~(否定)」に等しい。
従って、
(09)
むやみに括弧が多くなることは我慢できないのである(E.J.レモン、論理学初歩、1973年、59頁)。とはせずに、「括弧」を、「省略」しない場合は、
  ~(ヨx)(Hx&~Mx)=
~((ヨx)(Hx&~(Mx)))
従って、
(10)
(( )(( )))を、
[( )〔( )〕]に替へると、
  ~(ヨx)(Hx&~Mx)=
~((ヨx)(Hx&~(Mx)))=
~[(ヨx)〔Hx&~(Mx)〕]
従って、
(11)
『返り点に対する「括弧」の用法』にならって、
~[(ヨx)〔Hx&~(Mx)〕]⇒
[〔Hx&(Mx)~〕(ヨx)]~。
従って、
(07)(11)により、
(12)
~[(ヨx)〔Hx&~(Mx)〕]⇒
[〔Hx&(Mx)~〕(ヨx)]~=
[〔人間であって(死な)ないxは〕(存在し)]ない=
  人間であって 死な ない者は 存在し)  ない。
然るに、
(13)
無〔人不(死)〕⇒
〔人(死)不〕無=
〔人にして(死せ)不る〕は無し=
  人にして  死せ  不る  は無し。
従って、
(12)(13)により、
(14)
無〔人不(死)〕⇒
〔人(死)不〕無=
〔人にして(死せ)不る〕は無し=
  人にして  死せ  不る  は無し。
といふ『返り点に対する「括弧」の用法』は、
~[(ヨx)〔Hx&~(Mx)〕]⇒
[〔Hx&(Mx)~〕(ヨx)]~=
[〔人間であって(死な)ないxは〕(存在し)]ない=
  人間であって   死な ない者は 存在し  ない。
といふ『述語論理に対する「括弧」の用法』に、等しい。
従って、
(14)により、
(15)
① 無人不死。
といふ「漢文」は、「表層的」には、
① 無人不死。
といふ「形」をしてゐる一方で、「論理的」には、
② 無〔人不(死)〕
といふ「形」をしてゐる。はずである。
そのため、
(16)
① 読漢文。
の場合も、「論理的」には、
② 読(漢文)。
といふ「形」をしてゐる。とする。
然るに、
(17)
① 誰毀誰誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(論語)。
の場合は、
② (誰)毀(誰)誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ。
となってゐて、
① 毀誰誉誰=
② 毀(誰)誉(誰)⇒
③ (誰)毀(誰)誉 =
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ。
とはなってゐない。
すなはち、
(18)
② 誉(彼)=彼を誉む。
② 敬(汝)=汝を敬ふ。
② 先(我)=我を先にす。
といふ、「語順」からすれば、
② 誉(誰)=誰をか誉む。
② 敬(誰)=誰をか敬ふ。
② 先(誰)=誰をか先にせむ。
となるはずである。
にも拘わらず、実際には、さうはならず、
②()誉=誰をか誉む。
②()敬=誰をか敬ふ。
②()先=誰をか先にせむ。
といふ風に、「誰(WHOM)」が、「文頭」に来てゐる。
cf.
『孟子』の原文と趙岐の注を比較すると上古の語順は後漢時代すでに変化して現代語式なっていたことがわかる。すなわち『孟子』では「敬」「先」と賓語のが動詞の前に来ている(太田辰夫、中国語通史考、1988年、28頁)。
英語(や多くのヨーロッパ言語)のWH要素は文頭移動する。日本語( 中国語、韓国語など)ではWH要素は移動しない(日本語の疑問文について - 神戸松蔭女子学院大学Adobe PDF)。
従って、
(18)
FC2ブログ(2011.05.03.Tue).
でも述べた通り、
誉=
② ()毀()誉=誰をか毀り、誰をか誉めむ。
は、「漢文」に於ける、「WH移動」である。
(A)
「これは私のものである。」の、「私」を「強調」して言うのであれば、その場合は、
「これは私のものであって(、私以外の者の、ものではない)。」⇒「排他的命題」。
という、意味になります。
然るに、
(B)
「ある部分」を「強調」するということは、何らかの形で、「その部分」が、「その他の部分」よりも、「目立つ」ように、工夫することである。という風に、考えられます。
従って、
(C)
「通常の語順」に従わないのであれば、「その部分」は、当然、「目立つ」わけですから、今行った議論 からすれば、「その部分」は、「強調」されることになり、その意味で、私は、次のような、説明を支持します。
漢語としての「通常の語順」を変えて、「目的語の疑問詞」を「前置」することは、疑問文において、その疑問の中心になっている「疑問詞」を、特に「強調」したものにちがいない(鈴木直治、中国語と漢文、334・頁)。
加えて、
(D)
誉(論語、巻第八、衛霊公第十五、二五)は、
かを誉め、その以外を誉めないのであれば、そのかとは、か。
という、「排他的命題」であると、考えます。
 ― 中略 ―
(E)
その言語(漢語)を用ちいる集団の意識として、
排他的命題」を主張する目的が、「強調」につながり、「強調」しようとする意識が、「疑問詞の前置(Wh移動)」をプロモート(促進・助長)する形で、「漢文に於ける、Wh移動」が、定着したという風に、私は、理解しています。
然るに、
(19)
例へば、ラテン語の場合、
QUIS EST ILLE?           =誰、彼である、そこの。
QUO VADIS DOMINE?=何処へあなたは行くのか。主よ。
QUID VIDERE VIS?   =何を見ることを、あなたは望むか。
従って、
(20)
「疑問詞」だけを「英語」に置き換へると、
WHO EST ILLE?        =あそこにいるのは誰ですか。
WHERE VADIS DOMINE?=何処へあなたは行くのか。主よ。
WHAT VIDERE VIS?    =あなたは何が見たいですか。
然るに、
(21)
WHAT DO YOU WANT TO SEE?
I WANT TO SEE A(THE) MOVIE.
従って、
(20)(21)により、
(22)
英語の場合は、
ラテン語のやうな、「語」が、「格(てにをは)」を表す「言語」から、
漢文のやうな、   「語」が、「格(てにをは)」を表す「言語」に、
変はって行った過程で、
「疑問詞」だけは、「語頭」に「止まった」のかも、知れない。
すなはち、
(23)
「WH移動」ではなく、「WH停止」なのかも、知れない。
加へて、
(24)
たとえば、「私の女主人」と言いたいとき、普通は domina mea(domina,ae,f)ですが、mea domina と言っても構わないのです。散文などでは離れることさえよくあります。これがラテン語の柔軟さ、屈折語の強みです。このmea domina はキリスト教では「聖母マリア」といふ特別な意味で使われました。比喩的には「敬うべき女性、あこがれの女(ひと)」。伊語のmadonna の元の形です(大西英文、はじめてのラテン語、1997年、75頁)。
従って、
(24)により、
(25)
現代イタリア語としては、
② MADONNA=MEA DOMINA。
といふ「語順」だけしかなく(?)、
古代イタリア語(ラテン語)としては、
①「普通」は ⇒ DOMINA MEA。
②「前置」は ⇒ MEA DOMINA。
である。と、思はれる。
従って、
(25)
現代イタリア語としては、
一通りしか無く、
②「普通」は ⇒ MEUS LIBER(私の本)。
古代イタリア語(ラテン語)としては、
二通り有って、
①「普通」は ⇒ LIBER MEUS(私の本)。
②「前置」は ⇒ MEUS LIBER(私の本)。
である。と、思はれる。
従って、
(A)~(25)により、
(26)
ラテン語に於ける、
① LIBER MEUS(私の本)。
に対する、
② MEUS LIBER(私の本)。
といふ「言ひ方」は、「所有形容詞」の「前置」による「強調形」であって、
② MEUS LIBER=私の以外のものではない所の、私の本。
といふ「意味」である。と、思はれる。
然るに、
(27)
① LIBER MEUS。
に対する、
② MEUS LIBER.
といふラテン語に、
② 私の以外のものではない所の、私の本。
といふニュアンスが有るのか、どうかは、イタリア人でも、フランス人でもない、私には、全くわからない。
但し、
(28)
私の本。
私のです。
に於いて、「私の」を、強く言ふと、日本語では、
② 私の本 =(私以外のものではない所の、)私の本。
私のです=(私以外のものではなく)私のです。
といふ「意味」になることは、知ってゐる。
然るに、
(29)
① LIBER MEUS。
のやうな「普通の語順」を、
② MEUS LIBER。
のやうに「前置」した際に、
② MEUS LIBER=私の以外のものではない所の、私の本。
といふニュアンスになる言語が、3000とも5000ともいわれる世界の言語の中に、在るのかどうかは、わからない。
(30)
仮に、ある言語Aが、そのやうな言語であるとして、その言語Aの話者が、英語だけを使用し始めた結果として、その言語Aが、亡びようとしてゐるのかどうかも、分らない。
従って、
(31)
そのやうな、滅びつつある言語Aが有るのであれば、滅びてしまふ前に、せめて「記録」だけは、残って欲しい。
(32)
① WHAT DO YOU WANT TO SEE?
② DO YOU WANT TO SEE what?
③ I WANT TO SEE MOVIE.
の内の、
② DO YOU WANT TO SEE what?
が、消滅しつつ、あることによって、今現在、
① WHAT DO YOU WANT TO SEE?
③ I WANT TO SEE MOVIE.
といふ「WH移動」が、生じようとしてゐる「言語」が、実際に在るのであれば、滅びてしまふ前に、「記録」だけは、残って欲しい。
従って、
(33)
「現在」に於いても、そのやうな「言語」が在るかもしれないし、
「過去」には、そのやうな「言語」が在ったのかも知れないため、
私は、世界中の、「過去と現在の言語」を、全て知りたい。
然るに、
(34)
「世界中の、全ての、過去と現在の言語」を知ることは、不可能なので、なるべく、「互いにかけ離れた、様々な言語を、少しづづ」知りたい。
然るに、
(35)
ただし、言語学のあらゆる分野が世界中の言語を研究対象にしているわけではない。とくに最近の言語学は、人間が言語を生成するメカニズムを理論的に追い求めるのが主流である。心の中、いや、頭の中がどうなっているのかを追求するわけで、これでは心理学や生理学に近い。
(黒田龍之介、世界の言語入門、2008年、5頁)
然るに、
(36)
「ラテン語やギリシャ語」のやうな、「ありふれた言語の対極」にある「漢文」は、「世界中の様々な言語」から、かなりかけ離れてゐる(?)。と、思はれる。
加へて、
(37)
エヴェレットは、この言語に再帰(繰り返し、recursion)が無いことは、(もしそれが正しいとすれば)チョムスキー言語学の根底を崩すものとなると主張している。この説はしかし、「エヴェレット自身がピラハン語の中に再帰を認めているではないか」と、多くの言語学者から反論を受けている。これに対しエヴェレットは、表面的には再帰的であるように見えるとする当初の発言は、ピダハン語に対する知識不足による誤った解釈であったと言っている(ウィキペディア)。
従って、
(38)
「ラテン語や、ギリシャ語」のやうな、「ありふれた言語の対極」にある「言語」は、「漢文訓読」と、「ピダハン語」なのかも、知れない。
cf.
どこに外国語を母国語の語順で読む国があろう」か(、そのやうな例は、世界中探してもどこにも無い)と嘆く著者(西洋文化研究者)は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するときだ」とするのである(訓読論、勉誠出版、2008年、1頁)。
然るに、
(39)
この案を簡単に言えば「漢字を禁止し、カタカナのみにする」といふことであります。この案を提案した海軍少佐によれば、カタカナのみにすればすべてが能率的にできるということです。さらに学校で漢字を禁止すると、GHQの検閲が容易になるということです。さらに学校で漢字を禁止すれば、「漢字で書かれた戦前の宣伝に感染しない、日本人の世代を生み出すことになろう。なぜなら、かれらはそれを読むことができないからである」予想していたのです(津田幸男、日本語防衛論、平成23年、150頁)。
(40)
「漢文」を、まともに習ったことがあれば、
誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(論語)。
といふ「語順」が「倒置」であることは、誰にでも、分るはずであり、
① 誰毀誰誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(論語、巻第八、衛霊公第十五、二五)。
が「反語」であることも、少し考へれば、分るはずである。
(41)
① 誰毀誰誉=
② (誰)毀(誰)誉 ⇒
③ (誰)毀(誰)誉 =
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(反語)。
といふ「漢文」が、「倒置反語」であることを、「意識」する時、
① (誰)毀(誰)誉=
をか毀り、をか誉めむ(反語)。
といふ「漢文」は、
かを誉め、その以外を誉めないのであれば、そのかとは、か。
といった、「ニュアンス」に、ならないでせうか?
(42)
仮に、少しは、そのやうな「ニュアンス」になり、尚且つ、
漢語としての「通常の語順」を変えて、「目的語の疑問詞」を「前置」することは、疑問文において、その疑問の中心になっている「疑問詞」を、特に「強調」したものにちがいない(鈴木直治、中国語と漢文、334・頁)。
といふことを、読んだことがあるのであれば、私ならぬ、あなたの場合も、「排他的命題」を主張する目的が、「強調」につながり、「強調」しようとする意識が、「疑問詞の前置(Wh移動)」をプロモート(促進・助長)する形で、「漢文に於ける、Wh移動」が、定着した。
といふ風に、考へるやも、知れない。
それ故、
(43)
日本語を母語とする、その意味では普通の高校生であるにかかわらず、60年代のMITに直接論文を請求し、「それを知る由もないMITの言語学科では、いつもすぐに Dr.Harada あてに謄写版の論文をおくってくるのであった。」といふ、逸話が有る、原田信一のやうな人物が、受験勉強の際に、
誉=
をか毀り、をか誉めむ(論語)。
に接してゐたとしたら、その、天才である彼が、
① (誰)毀(誰)誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(論語)。
いふ「漢文」が、
① 誰毀誰誉=
② (誰)毀(誰)誉 ⇒
③ (誰)毀(誰)誉 =
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(反語)=
 誰かを誉め、その以外を誉めないのであれば、そのかとは、か。
といふ「排他的命題」であるといふことに、気付いた。としても、不思議ではない。
従って、
(44)
1960年代の終わりに彗星の如く日本の言語学界に現われた、天才言語学者によって、MITの
チョムスキーにも、
① (誰)毀(誰)誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(反語)。
といふ、「古代漢語に於けるWH移動(wh-movement in archaic Chinese)」が知られることになり、古代漢語の場合は、上古の語順は後漢時代すでに変化して現代語式なっていたことがわかる(太田辰夫、中国語通史考、1988年、28頁)。
といふこととと、相俟って、
誉=
をか毀り、をか誉めむ(反語)=
 誰かを誉め、その以外を誉めないのであれば、そのかとは、か。
といふ「排他的命題」は、あるいは、一躍有名になってゐた。かも、知れない。
然るに、
(45)
その頃から既に、 
最近では倉石武四郎(くらいし・たけしろう)博士(1897-1975)が、中国語の音読を強硬に主張されました。昭和16年に出版された『支那語教育の理論と実際』(岩波書店)は、まさに信念の書です。― 中略、― 倉石博士の影響力はすさまじく、現在ではほとんどの大学において、漢文の講座で中国語(普通話)の音読を用いています(漢文の中国語音読の主張3(倉石武四郎博士) 日本漢文の世界 kambun.jp)。
といふことによって、「漢文訓読」は、アカデミズムとしては、人気の下降に歯止めが訊かず、それ故、
中国文学科に変身した新学科には、訓読を軽視し、否定する教授もいらっしゃる(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、38頁)。といふことに、なってゐる。次第である。
といふ風に、独学の徒は、思ってゐる。
平成26年02月22日、毛利太。

0 件のコメント:

コメントを投稿