(01)
ASCII.jpデジタル用語辞典の解説
16進数
数値の表し方のひとつ。0~9の数字のほかにA~Fのアルファベットを用いて数値の大きさを表す。10進数でいう10、11、12、13、14、15がA、B、C、D、E、Fとなり、Fの次に1桁上がる。
従って、
(01)により、
(02)
F>E>D>C>B>A>9>8>7>6>5>4>3>2>1
といふ「不等式」が、成立する。
(03)
Nは、任意の一桁の16進数であって、
Nの右側に、Nよりも小さい数字が有れば、
その時に限って、それらの数字を、内側から順番に、
( )
〔 〕
[ ]
{ }
で括ることを、「括弧」で括る。
とする。
従って、
(04)
N=1
である際に、
1D264433355BA79988CE。
を「括弧」で括ると、
1D264433355BA79988CE。
のままで、変はらない。
(05)
N=D
である際に、
1D264433355BA79988CE。
を「括弧」で括ると、
1D(264433355BA79988C)E。
(06)
N=2
である際に、
1D(264433355BA79988C)E。
を「括弧」で括ると、
1D(264433355BA79988C)E。
のままで、変はらない。
(07)
N=6
である際に、
1D(264433355BA79988C)E。
を「括弧」で括ると、
1D〔26(4433355)BA79988C〕E。
(08)
N=4
である際に、
1D〔26(4433355)BA79988C〕E。
を「括弧」で括ると、
1D[26〔44(333)55〕BA79988C]E。
(09)
N=5
である際に、
1D[26〔44(333)55〕BA79988C]E。
を「括弧」で括ると、
1D[26〔44(333)55〕BA79988C]E。
のままで、変はらない。
(10)
N=B
である際に、
1D[26〔44(333)55〕BA79988C]E。
を「括弧」で括ると、
1D[26〔44(333)55〕B(A79988)C]E。
(11)
N=A
である際に、
1D[26〔44(333)55〕B(A79988)C]E。
を「括弧」で括ると、
1D[26〔44(333)55〕B〔A(79988)〕C]E。
を「括弧」で括ると、
(12)
N=7
である際に、
を「括弧」で括ると、
1D[26〔44(333)55〕B〔A(79988)〕C]E。
のままで、変はらない。
(13)
N=9
である際に、
1D[26〔44(333)55〕B〔A(79988)〕C]E。
を「括弧」で括ると、
1D{26〔44(333)55〕B[A〔799(88)〕]C}E。
(14)
N=C
である際に、
C の右側は、}であって、
N=E
である際に、
E の右側は、。であるため、
これ以上、「括弧」で括れない。
従って、
(04)~(14)により、
(15)
FOR I=1 TO 15-1
N=N(I)
Nの右側にある、
Nよりも小さい数字を「括弧」で括る。
NEXT I
といふ「プログラム」を実行すると、
1D{26〔44(333)55〕B[A〔799(88)〕]C}E。
といふ「結果」が、出力される。
とする。
然るに、
(16)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。(産業図書、数理言語学辞典、2013年、47頁:命題論理、
今仁生美)。
従って、
(15)(16)により、
(17)
1D{26〔44(333)55〕B[A〔799(88)〕]C}E。
を、何らかの「演算」とするならば、例へば、
D{ }
のスコープは、
26〔44(333)55〕B[A〔799(88)〕]C
であって、
6〔 〕
のスコープは、
〔44(333)55〕
であって、
44( )
のスコープは、
333
である。
従って、
(18)
例へば、
1+4×(2+3)=
1+(2+3)×4。
にならって、
1D{26〔44(333)55〕B[A〔799(88)〕]C}E ⇒
1{2〔(333)4455〕6[〔7(88)99〕A]BC}DE。
といふ「ソート(並び替へ)」が、可能となる。
然るに、
(19)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置き換えて読むことが、その大きな原則となっている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(18)(19)により、
(20)
我非必以理解中国語方法欲使人理解漢文者也。
といふ「漢文」に、
1D{26〔44(333)55〕B[A〔799(88)〕]C}E。
といふ「補足構造」がある。ならば、
我は必ずしも、中国語を理解する方法を以て、人をして漢文を理解せ使めんと欲する者に非ざる也。
といふ「訓読」には、
1{2〔(333)4455〕6[〔7(88)99〕A]BC}DE。
といふ「語順と、補足構造」がある。はずである。
然るに、
(21)
我非必以理解中国語方法欲使人理解漢文者也=
1 D 2 6 4 4 3 3 3 5 5 B A 7 9 9 8 8 C E=
我非{必以〔理解(中国語)方法〕欲[使〔人理解(漢文)〕]者}也=
1D{26〔44(333)55〕B[A〔799(88)〕]C}E⇒
1{2〔(333)4455〕6[〔7(88)99〕A]BC}DE=
我{必〔(中国語)理解方法〕以[〔人(漢文)理解〕使]欲者}非也=
我は必ずしも、中国語を理解する方法を以て、人をして漢文を理解せ使めんと欲する者に非ざる也。
cf.
従って、
(20)(21)により、
(22)
我非必以理解中国語方法欲使人理解漢文者也。
といふ「漢文」には、
我非{必以〔理解(中国語)方法〕欲[使〔人理解(漢文)〕]者}也。
といふ「補足構造」がある。ことになる。
然るに、
(23)
「さばかりの人の、無下にこそ心弱き気色を、人の国にて見えたまいてけれ」の部分の構文を、文節・連文節の係り受けがわかるように図示せよ(新明解古典シリーズ10、徒然草、1990年、142頁)。
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんのことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
然るに、
(24)
漢文にも、古文にも、英語にも、「管到(スコープ)」があって、
日本人から見た際の、
我非必以理解中国語方法欲使人理解漢文者也。
といふ「漢文」の「管到(スコープ)」が、
我非{必以〔理解(中国語)方法〕欲[使〔人理解(漢文)〕]者}也。
である際に、
中国人から見た際の、
我非必以理解中国語方法欲使人理解漢文者也。
といふ「漢文」の「管到(スコープ)」が、
我非{必以〔理解(中国語)方法〕欲[使〔人理解(漢文)〕]者}也。
ではない。といふことは、有り得ない。
従って、
(22)(24)により、
(25)
我非必以理解中国語方法欲使人理解漢文者也。
といふ「漢文(作例)」が、正しいのであれば、
我非必以理解中国語方法欲使人理解漢文者也。
といふ「漢文」自体に、
我非{必以〔理解(中国語)方法〕欲[使〔人理解(漢文)〕]者}也。
といふ「構造(シンタックス)」がある。ことになる。
従って、
(21)(25)により、
(26)
我非必以理解中国語方法欲使人理解漢文者也。
といふ「漢文」が、
我は必ずしも、中国語を理解する方法を以て、人をして漢文を理解せ使めんと欲する者に非ざ也。
といふ風に「訓読」出来る。といふこと自体が、
我非必以理解中国語方法欲使人理解漢文者也。
といふ「漢文」が、
我非{必以〔理解(中国語)方法〕欲[使〔人理解(漢文)〕]者}也。
といふ「構造(シンタックス)」をしてゐる。といふことを、示してゐる。
然るに、
(27)
我非{必以〔理解(中国語)方法〕欲[使〔人理解(漢文)〕]者}也。
の「返り点」が、
乙 下 ‐二‐ 一 上 レ 三 ‐二‐ 一 甲
であるのに対して、
我非{必以〔解(語)法〕欲[使〔人解(文)〕]者}也。
の「返り点」は、
下 二 レ 一 レ 二 レ 一 上
である。
然るに、
(28)
我非{必以〔解(語)法〕欲[使〔人解(文)〕]者}也。
我非{必以〔理解(中国語)方法〕欲[使〔人理解(漢文)〕]者}也。
の「構造(シンタックス)」が、異なるはずがない。
従って、
(27)(28)により、
(29)
{〔( )〕[〔( )〕]}
{〔( )〕[〔( )〕]}
に対して、
下 二 レ 一 レ 二 レ 一 上
乙 下 ‐二‐ 一 上 レ 三 ‐二‐ 一 甲
の場合は、「構造(シンタックス)」をしてゐる。とは言へない。
従って、
(29)により、
(30)
「括弧」は、「漢文の構造(シンタックス)」を示すための「ツール」であって、単なる「返り点」の、代用ではない。
加へて、
(31)
我非必以理解中国語方法欲使人理解漢文者也。
を、「音読」しても、
我非{必以〔理解(中国語)方法〕欲[使〔人理解(漢文)〕]者}也。
といふ「構造(シンタックス)」を、把握できるはずもなく、
我非必以理解中国語方法欲使人理解漢文者也=
ガヒヒツイリカイチュウゴクゴホウホウヨクシジンリカイカンブンシャヤ。
と「音読」するだけであれば、小学生にも、可能である。
従って、
(32)
倉石武四郎博士が戦前に中国留学した際に「訓読は玄界灘に捨ててきた」と言ったことは音読派の決めぜりふとして有名である(土田健次郎、大学における訓読教育の必要性)。
とのことであっても、「括弧」に関しては、それを捨てるべきではない。
平成27年05月24日、毛利太。
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