2015年6月28日日曜日

例外(補足構造)。

(01)
「が」は、濁音であって、「は」は、清音である。
然るに、
(02)
なぜ私達は濁音に迫力を感じるのでしょうか。なぜ清音に爽やかさを感じるのでしょうか。実は、この感覚は人類共通のものなのです(新潮新書、「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」の書評?)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
「~が」と「~は」を比べると、「~が」の方が、「心理的な音量」が大きい。
然るに、
(04)
A以外はBでない(排他的命題)。
といふ「意味」を込めて、それを言ふ場合、
AB也=A is B。
に於ける、
A は、「より大きな声」で、発音される。はずである。
従って、
(03)(04)により、
(05)
AはBである。
に対する、
AがBである。
の場合は、
AがBである=
AはBであ(って、A以外はBでない)。
でなければ、ならない。
然るに、
(06)
A以外Bでない(排他的命題)。
の「対偶」は、
BならばAである=BはAである。
従って、
(05)(06)により、
(07)
Bである=
AはBであり、BはAである。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(07)により、
(08)
例へば、
① 鈴木社長です。
と、言ふのであれば、、
② 社長鈴木です。
と、言へなければ、ならない。
然るに、
(09)
① 鈴木が社長です。
② 社長が鈴木です。
といふ言ひ方は、「同時に可能」であるが、その一方で、例へば、
① 人間が動物である。
② 動物は人間である。
といふ言ひ方は、両方とも、正しくない。
従って、
(01)~(09)により、
(10)
「強調」は、「排他的命題(~以外は、_ない。)」を、主張する。
然るに、
(11)
動詞についての目的語は、その動詞の後に置かれるのが、漢語における基本的構造としての単語の配列のしかたである。また、漢語における介詞は、ほとんど、動詞から発達したものであって、その目的語も、その介詞の後に置かれるのが、その通例であるということができる。しかし、古代漢語においては、それらの目的語が、疑問詞である場合には、いずれも、その動詞・介詞の前に置かれる。このように漢語としての通常の語順を変えて、目的語の疑問詞を前置することは、疑問文において、その疑問の中心になっている疑問詞を、特に「強調」したものにちがいない(鈴木直治、中国語と漢文、334・335頁)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
① 誉汝=汝を誉む。
に対して、
② 誰誉=誰をか誉めむ(論語、衛霊公)。
が、「前置」による「強調形」であるならば、
② 誰誉=誰かを誉め(その誰か以外は誉めない)。
といふ、意味になる。
従って、
(12)により、
(13)
① 誉汝=汝を誉む。
に対する、
② 誰誉=誰をか誉めむ。
といふ「WH移動」は、「強調形」であって、「排他的命題」である。
然るに、
(14)
① 誉汝=汝を誉む。
② 誰誉=誰をか誉めむ。
といふことは、
① 誉汝=動詞+補足語。
② 誰誉=補足語+動詞。
といふことに、他ならない。
加へて、
(15)
③ 不患人之不己知=人の己を知ら不るを憂へ不(論語、学而)。
④ 無友不如己者=己に如しか不る者を友とする無かれ(論語、学而)。
⑤ 良医之門多病人=良医の門に病人多し(荀子)。
⑥ 見季子位高金多也=季子の位高く金多きを見ればなり(十八史略)。
に於ける、
③ 己知=己を知る。
⑥ 金多=金多し。
の場合も、
(b)補足構造であって、尚且つ、漢文と訓読の「語順」は、等しい。
従って、
(14)(15)により、
(16)
(b)補足構造を除くと、漢文と訓読の「語順」は、等しい。
といふ「言ひ方」は、マチガイではないものの、この場合は、
(b)補足構造を除くと、漢文と訓読の「語順」は、概ね等しい(が、漢文に於ける全ての補足構造の語順が、日本語のそれと、異なるわけではない)。
とする方が、「正確」である。
然るに、
(17)
例へば、
人有喜与不如己者為友之心。
に関しては、
(b)補足構造を除くと、漢文と訓読の「語順」は、等しい。
cf.

従って、
(17)により、
(18)
人有喜与不如己者為友之心=
人有〈喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}之心〉=
1C〈9{6[4〔3(2)〕5]8(7)}AB〉⇒
1〈{[〔(2)3〕45]6(7)8}9AB〉C=
人〈{[〔(己)如〕不者]与(友)為}喜之心〉有=
人に〈{[〔(己に)如か〕不る者]と(友と)為るを}喜ぶの心〉有り。
といふ、「括弧によるソート(漢文訓読)」に於ける、
〈{[〔( )〕]( )}〉
といふ「括弧」は、
人有喜与不如己者為友之心。
といふ「漢文」の、「補足構造」を、表してゐる。
然るに、
(19)
人有喜与不如己者為友之心。
といふ「漢文」を、
ジンイウキヨフツジョキシャヰイウシシン。
といふ風に「音読」しても、
人に己に如か不る者と友と為るを喜ぶの心有り。
といふ風に「訓読」しても、
人有〈喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}之心〉。
といふ「漢文の補足構造」自体は、変はらない。
然るに、
(20)
人有喜与不如己者為友之心=
ジンユウキヨフジョキシャイユウシシン。
といふ風に、「音読」するだけであれば、漢文を全く知らない、小学生であっても、可能であるが、
人有喜与不如己者為友之心=
人に己に如か不る者と友と為るを喜ぶの心有り。
といふ風に、「訓読」するには、
人有〈喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}之心〉。
といふ「構造(シンタックス)」が見えてゐる、必要がある。
然るに、
(21)
人有喜与不如己者為友之心。
といふ「漢文の構造(シンタックス)」が、見えるためには、
人有喜与不如己者為友之心。
といふ「漢文」を、「よく見る」必要が有る。
然るに、
(22)
徂徠は、「題言十則」のなかで以下のように述べる。
中華の人多く言へり、「読書、読書」と。予便と謂へり、書を読むは書を看るに如かず、と。これ中華と此の方との語言同じからざるに縁りて、故に此の方は耳口二者、皆力を得ず、唯一双の眼のみ、三千世界の人を合はせて、全て殊なること有ること莫し(中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、「訓読」論、2008年、27頁)。
書を読むは書を看るに如かず=書を読むことは、書を見ることに及ばない。
唯一双の眼のみ、三千世界の人を合はせて、全て殊なること有ること莫し=ただ、両方の眼だけが、世界中の全ての人に於いて、異なる所がない。
然るに、
(23)
(21)と(22)は、「矛盾」しない。
平成27年06月28日、毛利太。

2015年6月19日金曜日

返り点、括弧、白話(中国語)。

(01)
(a)漢文の補足構造は、「括弧」で表すことが出来る。
(b)補足構造を除くと、漢文と訓読の「語順」は、等しい。
(c)漢文の補足構造を「集合数」で表した時、訓読の語順は、「順序数」である。
といふ「三つの条件」の下で、例へば、
我不常読書=
我不〔常読(書)〕=
15〔24(3)〕⇒
1〔2(3)4〕5=
我〔常には(書を)読ま〕不。
といふ「括弧による、ソート(漢文訓読)」が、成立する。
(02)
5=囗囗囗囗囗
4=囗囗囗囗
3=囗囗囗
2=囗囗
1=囗
に於いて、
5は4を含み、
4は3を含み、
3は2を含み、
2は1を含む。
といふ際の、
5 4 3 2 1。
を、「集合数」とし、
1番目、2番目、3番目、4番目、5番目。
といふ際の、
1 2 3 4 5。
を、「順序数」とする。
(03)
321。
不読書。
に於いて、
3 といふ「集合数」は、「21」といふ「二つの集合数」を含むものの、是を以て、
3(21)。
不(読書)。
といふ風に、「括弧」で括る。
(04)
3(21)。
不(読書)。
に於いて、
2 といふ「集合数」は、「1」といふ「一つの集合数」を含むものの、是を以て、
3〔2(1)〕。
不〔読(書)〕。
然るに、
(05)
3〔2(1)〕。
を、「順序数」と、見なすならば、
不読書=
不〔読(書)〕=
3〔2(1)〕⇒
〔(1)2〕3=
〔(書を)読ま〕不。
といふ「括弧による、ソート(漢文訓読)」が、成立する。
(06)
我不常読書。
15243。
に於いて、
5 といふ「集合数」は、「243」といふ「三つの集合数」を含むものの、是を以て、
我不(常読書)。
15(243)。
といふ風に、「括弧」で括る。
(07)
我不(常読書)。
15(243)。
に於いて、
4 といふ「集合数」は、「3」といふ「一つの集合数」を含むものの、是を以て、
我不(常読書)。
15〔24(3)〕。
我不〔常読(書)〕。
といふ風に、「括弧」で括る。
然るに、
(08)
15〔24(3)〕。
を、「順序数」と、見なすならば、
我不常読書=
我不〔常読(書)〕=
15〔24(3)〕⇒
1〔2(3)4〕5=
我〔常には(書を)読ま〕不。
といふ「括弧による、ソート(漢文訓読)」が、成立する。
然るに、
(09)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(05)(08)(09)により、
(10)
① 不〔読(書)〕。
② 〔(書を)読ま〕不。
③ 我不〔常読(書)〕。
④ 我〔常には(書を)読ま〕不。
に於ける、
① 〔( )〕
② 〔( )〕
③ 〔( )〕
④ 〔( )〕
といふ「括弧」は、
① 不読書。
② 書を読ま不。
③ 我不常読書。
④ 我常には書を読ま不。
といふ「漢文訓読」に於ける、「補足構造」を表してゐる。
従って、
(10)により、
(11)
① 不読書。
といふ「漢文」に対して、
② 書を読ま不。
といふ「訓読」は、語順」は異なるものの、「補足構造」は、等しい。
然るに、
(12)
③  読不書=
③ 2(3〔1)〕⇒
④ (〔1)2〕3=
④ (〔書を)読ま〕不。
然るに、
(13)
③ (〔 )〕 の場合は、
③ (  )  の中に、
③  〔      が有るため、固より、「括弧」とは、言へない。
従って、
(01)(12)(13)により、
(14)
(a)漢文の補足構造は、「括弧」で表すことが出来る。
にも拘わらず、その一方で、
③ (〔 )〕 は、「括弧」ではない。
従って、
(12)(14)により、
(15)
その「補足構造」を、「括弧」で表すことが出来ないが故に、
③  読不書。
といふ「三つの漢字」は、「漢文」ではない。
然るに、
(16)
⑤ 136425=
⑤ 13(6[4〔2)〕5]⇒
⑥ 1([〔2)3〕45]6。
に於ける、
⑤ ([〔 )〕] の場合は、
⑤ (    )  の中に、
⑤  [〔    が有るため、「括弧」とは、言へない。
従って、
(01)(16)により、
(17)
(a)漢文の補足構造は、「括弧」で表すことが出来る。
にも拘わらず、その一方で、
⑤ ([〔 )〕] は、「括弧」ではない。
然るに、
(18)

従って、
(17)(18)により、
(19)
⑤ 端的看不出這婆子的本事来(白話)=
⑤ 端的看(不[出〔這婆子的本事)〕来]=
⑤ 113(6[4〔222222)〕5]⇒
⑥ 113(6[4〔222222)〕5]=
⑥ 端的に([〔這の婆子の本事を)看〕出だし来たら]不(訓読)。
に於いて、
(a)漢文の補足構造は、「括弧」で表すことが出来る。
にも拘わらず、その一方で、
⑤ ([〔 )〕] は、「括弧」ではない。
従って、
(19)により、
(20)
その「補足構造」を、「括弧」で表すことが出来ないが故に、
⑤ 端的看不出這婆子的本事来(白話)。
は、「漢文」ではない。
といふよりも、
(21)
二 五 三 一 四 =
二 下 上 一 中
などといふ「返り点」は、「漢文訓読」では、絶対に、有り得ない。ため、
⑤ 端的看不出這婆子的本事来 ⇒
⑥ 端的に這の婆子の本事を看出だし来たら不。
の場合は、それだけで、
⑤ 漢文。
⑥ 訓読。
ではない。
従って、
(18)(21)により、
(22)
⑤ 白話 は、
⑤ 漢文 ではない。
然るに、
(23)
我々が相手にしている「中国語」とは何か? 「普通話」は、「北京語音を標準音、北方語を基礎語彙として典型的な白話文(口語文)を語法の規範とする」と定義されている(Webサイ
ト:現代中国語の成立小史)。
従って、
(18)~(23)により、
(24)
漢文は、(中華人民共和国の国語といふ意味での、)中国語ではない。
平成27年06月19日、毛利太。

2015年6月15日月曜日

返り点、括弧、集合数(Ⅱ)。

(01)
(a)漢文の補足構造は、「括弧」で表すことが出来る。
(b)補足構造を除くと、漢文と訓読の「語順」は、等しい。
(c)漢文の補足構造を「集合数」で表した時、訓読の語順は、「順序数」である。
といふ「三つの条件」の元で、例へば、
人有喜与不如己者為友之心=
人有〈喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}之心〉=
1C〈9{6[4〔3(2)〕5]8(7)}AB〉⇒
1〈{[〔(2)3〕45]6(7)8}9AB〉C=
人〈{[〔(己)如〕不者]与(友)為}喜之心〉有=
人に〈{[〔(己に)如か〕不る者]と(友と)為るを}喜ぶの心〉有り。
といふ「括弧による、ソート(漢文訓読)」が、成立する。
(02)
Dryer (2011a) は世界1377の言語を調べ、可能な語順が複数ある場合には使用頻度によって基本語順を決めた。この調査によれば、SOV型が一番多く565言語、次いでSVO型が488言語であった。他の4つのタイプはいずれも100言語以下で、VSO型が95言語、VOS型が25、OVS型が11、OSV型が4であった(ウィキペディア:語順)。SOV言語とSVO言語の優位は動かず、VSOは少数、VOSとOVSはきわめて希でOSVはほぼ皆無である(岩波書店、言語類型論入門、2006年、91頁)。
(03)
① SOV:日本語
② SVO:漢文
③ VSO:ゲール語
④ VOS:フィジ―語
⑤ OVS:ヒシカリヤナ語
⑥ OSV:シャバンテ語
に於いて、
② S(VO)   ⇒  ④(VO)S
④ (V〔O)S〕⇒ ⑥(〔O)S〕V
従って、
(04)
② SVO=主語+動詞+目的語(補足語)。
といふ、「漢文の語順」を、
⑥ OSV=目的語(補足語)+主語+動詞。
といふ、「シャバンテ語の語順」で読むためには、
⑥ (〔 )〕
を用ゐることになる。
然るに、
(05)
〔( )〕
に対して、
(〔 )〕
の場合は、
(  )の中に、
   〕 があるため、「括弧」ではない。
従って、
(04)(05)により、
(06)
② S(V〔O)〕⇒
⑥ (〔O)S〕V。
すなはち、「シャバンテ語」による、「括弧による、訓読(ソート)」は、成立しない。
(07)
① SOV
② SVO
③ VSO
④ VOS
⑤ OVS
⑥ OSV
に於いて、
S=主語
を、
N=否定
に置き換へると、
① NOV
② NVO
③ VNO
④ VON
⑤ OVN
⑥ ONV
(08)
① NOV
② NVO
③ VNO
④ VON
⑤ OVN
⑥ ONV
に於いて、
N=不
V=読
O=書
とするならば、
① 不書読。
② 不読書。
③ 読不書。
④ 読書不。
⑤ 書読不。
⑥ 書不読。
従って、
(08)により、
(09)
② 不読書=
② 不〔読(書)〕⇒
⑤〔(書)読〕 不=
⑤〔(書を)読ま〕ず。
は、「漢文訓読」である。
然るに、
(10)
② 不読書。を、
⑥ 書をない読ま。と読む場合は、
② 不読書=
② 不(読〔書)〕⇒
⑥ (〔書)不〕読=
⑥ (〔書を)ない〕読ま。
(11)
③ 読書。を、
⑤ 書を読まない。と読む場合は、
③ 読書=
③ 読(不〔書)〕⇒
⑤ (〔書)読〕不=
⑤ (〔書を) 読ま〕ない。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
② ⇒ ⑤ は、〔( )〕を用ゐ、
② ⇒ ⑥ は、(〔 )〕を用ゐ、
③ ⇒ ⑤ は、(〔 )〕を用ゐる。
ものの、(05)でも述べた通り、
(〔 )〕は、『括弧』ではない。
然るに、
(13)
二(三 一) ⇒ (三 一)二
(三〔一)二〕⇒ (〔一)二〕三
従って、
(13)により、
(14)
(〔 )〕 は、
二 三 一 に相当する。
従って、
(13)(14)により、
(15)
② ⇒ ⑥ は、二 三 一 を用ゐ、
③ ⇒ ⑤ は、二 三 一 を用ゐる。
然るに、
(16)
言ふまでもなく、
⑥ 書をない読ま。
などといふ「日本語」はない。
加へて、
(17)
③ 読書。
であれば、「漢文の語順」から、
③  不 は、
③  書 だけを「否定」してゐるため、
③(書を読ま)ず。
といふ「意味」には、成り得ず、それ故、
③ 読書。
といふ「漢文」も、有り得ない。
従って、
(16)(17)により、
(18)
③ 読書。
といふ「漢文」も、
⑥ 書をない読ま。
といふ「訓読」も、有り得ない。
従って、
(15)(18)により、
(19)
③ と ⑥ が、有り得ないが故に、
② ⇒ ⑥ は、二 三 一 を用ゐ、
③ ⇒ ⑤ は、二 三 一 を用ゐる。
といふことも、有り得ない。
従って、
(19)により、
(20)
一体何故、
② 二 三 一
③ 二 三 一
といふ「返り点」が、有り得ないのかと言へば、例へば、
② 不読書。
に対して、
③ 読書。
といふ「漢文」が有り得ず、
⑤ 書を読まない。
といふ「訓読」に対して、
⑥ 書をない読ま。
といふ「訓読」が、有り得ない。からである。
(21)
② 不〔読(文)〕⇒
⑤〔(文)読〕 不=
⑤〔(文を)読ま〕ず。
に対して、
我=主語
常=修飾語
漢=修飾語
を加へると、
② 我不〔常読(漢文)〕⇒
⑤ 我〔常(漢文)読〕不=
⑤ 我〔常には(漢文を)読ま〕不。
然るに、
(22)
① 15〔24(33)〕⇒
④ 1〔2(33)4〕5。
従って、
(21)(22)により、
(23)
① 我不〔常読(漢文)〕⇒
④ 我〔常(漢文)読〕不=
① 15〔24(33)〕⇒
④ 1〔2(33)4〕5=
④ 我〔常には(漢文を)読ま〕不。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
然るに、
(24)
15〔24(33)〕
を「集合数」とすると、
5は、〔24(33)〕を含んでゐて、
4は、(33)を含んでゐる。
然るに、
(25)
15〔24(33)〕。
から、
〔( )〕
を外して、
152433。
としても、
5は、2433 を含んでゐて、
4は、33 を含んでゐる。
従って、
(26)
152433。
を見て、
5は、2433 を含んでゐて、
4は、33 を含んでゐる。
といふことには、「気づく」ことが、出来る。
然るに、
(27)
我不常読漢文。
を見て、
不は、常読漢文 に係ってゐて、
読は、漢文 に係ってゐる。
といふことには、「気づく」ことが、出来る。
然るに、
(28)
我不常読漢文。
を見て、
不は、常読漢文 に係ってゐて、
読は、漢文 に係ってゐる。
といふことには、「気づく」ことが、出来るのであれば、
我不常読漢文。
といふ「白文」を、
我常には漢文を読ま不。
といふ風に、「訓読」することが、出来る。
然るに、
(29)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
従って、
(28)(29)により、
(30)
我不常読漢文。
といふ「漢文」の、「管到」が分れば、その時に限って
我不常読漢文。
といふ「白文」を、
我常には漢文を読ま不。
といふ風に、「訓読」することが、出来る
従って、
(30)により、
(31)
人有喜与不如己者為友之心。
といふ「漢文」の、「管到」が分らなければ
人有喜与不如己者為友之心。
といふ「白文」を、
人己に如かざる者と友と為るを喜ぶの心有り(金沢大学入試問題)。
とは、読めない
然るに、
(32)
人有喜与不如己者為友之心。
といふ「白文」を、
人己に如かざる者と友と為るを喜ぶの心有り。
といふ風に、読めないのであれば、
人有喜与不如己者為友之心。
に対して、
といふ「返り点」を、付けることは、出来ない。
然るに、
(33)
人有喜与不如己者為友之心。
といふ「漢文」の、「管到」は、
人有〈喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}之心〉。
といふ「括弧」で、表すことが、出来る。
cf.

然るに、
(34)
人有喜与不如己者為友之心=
人有〈喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}之心〉=
1C〈9{6[4〔3(2)〕5]8(7)}AB〉⇒
1〈{[〔(2)3〕45]6(7)8}9AB〉C=
人〈{[〔(己)如〕不者]与(友)為}喜之心〉有=
人に〈{[〔(己に)如か〕不る者]と(友と)為るを}喜ぶの心〉有り。
の「返り点」は、
乙 下 二 レ レ 一 上レ 甲
であるが、
人有喜与不如自分者為友人之心=
人有〈喜{与[不〔如(自分)〕者]為(友人)}之心〉=
1C〈9{6[4〔3(22)〕5]8(77)}AB〉⇒
1〈{[〔(22)3〕45]6(77)8}9AB〉C=
人〈{[〔(自分)如〕不者]与(友)為}喜之心〉有=
人に〈{[〔(自分に)如か〕不る者]と(友人と)為るを}喜ぶの心〉有り。
の「返り点」は、
地 丙 下 三 二 一 上 乙 甲 天
である。
従って、
(34)により、
(35)
〈{[〔( )〕]( )}〉
〈{[〔( )〕]( )}〉
といふ「括弧」に対して、
乙 下 二 レ レ 一 上レ 甲
地 丙 下 三 二 一 上 乙 甲 天
といふ具合に、「返り点」は、「一通り」ではない。
従って、
(35)により、
(36)
「返り点」は、「順番」を表してゐるとしても、「補足構造(管到)」を表してゐるとは、言へない。
(37)
更に言ふと、「返り点」は、「レ点とハイフン」の用法が、恣意的であって、それ故、分かりやすいとは、言へない。
(38)
漢文非中華人民共和国語也。以是、
中国語直読法雖隆盛而中国語不可以読中夏之書審也。
如日本之大学生有欲能読白文者則宜以括弧学其管到。
(39)
漢文は中華人民共和国語に非ざるなり。是を以て、
中国語直読法は盛んなりと雖も、中国語は以て中華の書を読む可から不ること審かなり。
如し日本の学生に能く白文を読まんと欲する者有らば則ち、宜しく括弧を以て其の管到を学ぶべし。
平成27年06月15日、毛利太。

2015年6月9日火曜日

返り点、括弧、集合数(Ⅰb)。

(01)
不読書。
に於いて、
不=~ は、否定である。
然るに、
(02)
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’といふ空所にいれて書くことにしよう(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
不読書=
不(読書)。
然るに、
(04)
読む のは、(書)である。
従って、
(03)(04)により、
(05)
不読書=
不〔(読書)〕。
然るに、
(06)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(05)(06)により、
(07)
不読書=
不〔読(書)〕⇒
〔(書)読〕不=
〔(書を)読ま〕ず。
といふ「ソート(並び替へ)」が、成立する。
(08)
3=囗囗囗
2=囗囗
1=囗
に於いて、
3は2を含み、
2は1を含む。
といふ際の、
321。
を、「集合数」とし、
1番目、2番目、3番目。
といふ際の、
123。
を、「順序数」とする。
(09)
321。
に於いて、「21」といふ「二つの集合数」は、「3」に含まれるものの、是を以て、
3(21)。
とする。
(10)
3(21)。
に於いて、「1」といふ「一つ集合数」は、「2」に含まれるものの、是を以て、
3〔2(1)〕。
とする。
然るに、
(11)
3〔2(1)〕。
を、「順序数」とするならば、
3〔2(1)〕⇒
〔(1)2〕3。
といふ「ソート(並び替へ)」が、成立する。
従って、
(07)(11)により、
(12)
不読書=
不〔読(書)〕=
3〔2(1)〕⇒
〔(1)2〕3=
〔(書)読〕不=
〔(書を)読ま〕ず。
といふ「ソート(並び替へ)」が、成立する。
(13)
我不常聞鳥啼梅樹声。
に於いて、
不=~ は、否定である。
然るに、
(14)
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’といふ空所にいれて書くことにしよう(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(13)(14)により、
(15)
我不常聞鳥啼梅樹声=
我不(常聞鳥啼梅樹声)。
然るに、
(16)
聞く のは、(鳥啼梅樹声)である。
従って、
(15)(16)により、
(17)
我不常聞鳥啼梅樹声=
我不〔常聞(鳥啼梅樹声)〕。
然るに、
(18)
鳥が啼く のは、(梅樹)である。
従って、
(17)(18)により、
(19)
我不常聞鳥啼梅樹声=
我不[常聞〔鳥啼(梅樹)声〕]。
然るに、
(20)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(19)(20)により、
(21)
我不常聞鳥啼梅樹声=
我不[常聞〔鳥啼(梅樹)声〕]⇒
我[常〔鳥(梅樹)啼声〕聞]不=
我[常には〔鳥の(梅樹に)啼く声を〕聞]ず。
といふ「ソート(並び替へ)」が、成立する。
(22)
9=囗囗囗囗囗囗囗囗囗
8=囗囗囗囗囗囗囗囗
7=囗囗囗囗囗囗囗
6=囗囗囗囗囗囗
5=囗囗囗囗囗
4=囗囗囗囗
3=囗囗囗
2=囗囗
1=囗
に於いて、
9は8を含み、
8は7を含み、
7は6を含み、
6は5を含み
5は4を含み、
4は3を含み、
3は2を含み、
2は1を含む。
といふ際の、
987654321。
を、「集合数」とし、
1番目、2番目、3番目、4番目、5番目、6番目、7番目、8番目、9番目。
といふ際の、
123456789。
を、「順序数」とする。
(23)
192836457。
に於いて、「2836457」といふ「七つの集合数」は、「9」に含まれるものの、是を以て、
19(2836457)。
とする。
(24)
19(2836457)。
に於いて、「36457」といふ「五つの集合数」は、「8」に含まれるものの、是を以て、
19〔28(36457)〕。
とする。
(25)
19〔28(36457)〕。
に於いて、「45」といふ「二つの集合数」は、「6」に含まれるものの、是を以て、
19[28〔36(45)7〕]。
とする。
然るに、
(26)
19[28〔36(45)7〕]。
を、「順序数」とするならば、
19[28〔36(45)7〕]⇒
1[2〔3(45)67〕8]9。
といふ「ソート(並び替へ)」が、成立する。
従って、
(21)(26)により、
(27)
我不常聞鳥啼梅樹声=
我不[常聞〔鳥啼(梅樹)声〕]=
19[28〔36(45)7〕]⇒
1[2〔3(45)67〕8]9=
我[常〔鳥(梅樹)啼声〕聞]不=
我[常には〔鳥の(梅樹に)啼く声を〕聞]ず。
といふ「ソート(並び替へ)」が、成立する。
従って、
(01)~(27)により、
(28)
(A)漢文の補足構造は、「括弧」で表すことが出来る。
(B)補足構造に関して、漢文訓読語順は、全く反対である。
(C)漢文の補足構造を「集合数」で表す時、訓読の語順は、その「順序数」に対応する。。
といふ「三つの条件」の元で、
① 不読書=
① 不〔読(書)〕=
① 3〔2(1)〕⇒
① 〔(1)2〕3=
①〔(書)読〕不=
①〔(書を)読ま〕ず。
といふ、『括弧による、ソート(漢文訓読)』と、
② 我不常聞鳥啼梅樹声=
② 我不[常聞〔鳥啼(梅樹)声〕]=
② 19[28〔36(45)7〕]⇒
② 1[2〔3(45)67〕8]9=
② 我[常〔鳥(梅樹)啼声〕聞]不=
② 我[常には〔鳥の(梅樹に)啼く声を〕聞]ず。
といふ『括弧による、ソート(漢文訓読)』が、成立する。
然るに、
(29)
① 不読書=書を読ま不。
の「返り点」は、
① レ レ
であるが、
① レ レ
は、
① 三 二 一
に、置き換へることが、出来る。
(30)
② 我不常聞鳥啼梅樹声=我常には鳥の梅樹に啼く声を聞か不。
の「返り点」は、
② 下 中 二 一 上
である。
cf.

従って、
(29)(30)により、
(31)
① 不読書=書を読ま不。
② 我不常聞鳥啼梅樹声=我常には鳥の梅樹に啼く声を聞か不。
の「返り点」が、
① 三 二 一
② 下 中 二 一 上
である以上、
③ 読不書=書を読ま不。
④ 我常聞不鳥啼梅樹声=我常には鳥の梅樹に啼く声を聞か不。
に付く「返り点」は、
③ 二  一
④ 中  二 一 上
である。
然るに、
(32)
③ 二(三〔一)〕
④ 中〔下[二(一)上〕]
といふ「括弧」、すなはち、
③ (〔 )〕
④ 〔[( )〕]
といふ「形」の「括弧」は、有り得ないし、
③ 二  一
④ 中  二 一 上
といふ「返り点」も、「漢文訓読」である限り、絶対に有り得ない
従って、
(32)により、
(33)
「漢文訓読」である限り、
③ (〔 )〕
③ 二 三 一
といふ「(括弧と)返り点」は、絶対に、有り得ない
然るに、
(34)
従って、
(33)(34)により、
(35)
① 臣本布衣、躬耕(於南陽)。
② 臣は本布衣、躬ら(南陽に)耕す。
といふ、
① 漢文。
② 訓読。
に於いて、「語順」は異なるが、
① (   )
② (   )
といふ「補足構造」は、等しく、尚且つ、漢字も等しい。
(36)
① 臣本布衣、躬耕(於南陽)。
③ 臣本来是一個平民、(〔在南陽)親自〕耕田種地、
といふ、
① 漢文。
③ 現代中国語訳、
に於いて、「語順」は、固より、
① (   )
③ (〔   )  〕
といふ「補足構造」も、同じではなく、漢字も一致しない。
従って、
(35)(36)により、
(37)
① 臣本布衣、躬耕(於南陽)。
② 臣は本布衣、躬ら(南陽に)耕す。
③ 臣本来是一個平民、(〔在南陽)親自〕耕田種地、
といふ、
① 漢文。
② 訓読。
③ 現代中国語訳、
に於いて、「より大きく異なる」のは、
①と③であって、
①と②ではない。
然るに、
(38)
①と②が、「小さく異なり」、
①と③が、「大きく異なり」のであれば、
②と③は、「大きく異なる」はずである。
然るに、
(39)
通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア:漢文)。
然るに、
(40)
いづれにせよ、
① 漢文。
② 訓読。
③ 現代中国語訳、
に於いて、
①と③が、「小さく異なる」のであれば、
漢文は、普通に「訓読」出来る一方で、
白話文を「訓読」するとたいへん奇妙日本語になる。
といふことは、おそらく、矛盾する。
従って、
(39)(40)により、
(41)
① 漢文
③ 現代中国語訳。
に於いて、
①と③は、「全く別物」であるとしても、不思議ではないが、例へば、次の通りである。
(42)
ユーザーID:9191609315
漢文と現代中国語は全く別物
のぶりん
2011年8月19日 20:40
はじめまして。
中国語と中国情勢でメシを食っている者ですが、結論はタイトルの通りです。
漢文がわかっても現代中国語はわからないし、逆も然りです。
自分も仕事柄と教養のために中国古典を読んでますが、漢文はさっぱりで見るのは専ら日本語訳の方です(笑
言葉は生き物のように常に進化します。中国語も無論時代を経て進化していて、日本なら織田信長が生まれた頃に書かれた『菜根譚』という古典なら文章が漢文と現代中国語の中間くらいなので、現代中国語の知識を持っていれば「原文でも何とかわかる」という感じです。
(43)
漢字の訓読みに用いるのは和語とは限らず、外来語である場合もある。この場合はカタカナで表記されることが多い(ウィキペディア:訓読)。
訓読みの例[編集]
 頁 - ぺーじ(英語: page)
 米 - めーとる(フランス語: mètre[6])
 哩 - まいる(英語: mile)
 熟字訓の例[編集]
 麦酒 - びーる(オランダ語: bier[7])
 煙草 - たばこ(ポルトガル語: tabaco[8])
従って、
(44)
「漢字」は、「意味」を無視しない限り、「音」としては、「どうにでも」読めるため、
① 子 爲(誰)。
② しは(だれとか)なす。
③ YOU ARE(WHO)?
に於いて、
①を、②のやうに読んでも良いのであれば、
①を、③のやうに読んで、悪いはずがない。
従って、
(45)
④ WHO ARE YOU?
ではなく、
③ YOU ARE WHO?
が、「正しい英語」である場合には、
① 子 爲 誰。
と書かれた「漢文」は、
③ YOU ARE WHO?
といふ風に、読んでも、構はない。
然るに、
(46)
③ YOU ARE WHO?
ではなく、
④ WHO ARE YOU?
が、正しいため、その場合は、
① 子 爲 誰=
① 子〔爲(誰)〕⇒
④ 〔(誰)爲〕子=
④ 〔(WHO)ARE〕YOU?
といふ風に、「訓読」される。
平成27年06月09日、毛利太。
(47)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、
きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様ものである(勉誠出版、訓読論、2008年、60頁)。
(48)
両者の亀裂は、戦後も親中国革新派の音読、反中国保守派の訓読として、ある意味で現在にまでつづいている(金文京、漢文と東アジア、2010年、88・9頁)。

2015年6月1日月曜日

返り点、括弧、アルゴリズム。

(01)
上中下点(上・下、上・中・下)
必ず一二点をまたいで返る場合に用いる(数学の式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考えるとわかりやすい)。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、43頁)
従って、
(01)により、
(02)
① 下 二 一 上
① {  (   )  }
に対して、
② 下 二 上 一
② {  (   }  )
③ 二 下 一 上
③ (  {   )  }
といふ「返り点・括弧」は、有り得ない。
然るに、
(03)
『「勉誠出版、続「訓読論」、2010年、312頁:川島優子』によると、
只管要纏擾我=ヒタスラ 我ガ ヤッカイニナル。
に於いて、
要纏擾我。の「返り点」は、
② 下 二 上 一
である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
② 下 二 上 一
といふ、「有り得ない、返り点」を付けざるを得ないが故に、
只管要纏擾我=ヒタスラ 我ガ ヤッカイニナル。
といふ「白話文(口語)」は、「漢文」の内に、入らない。
然るに、
(05)

従って、
(02)(05)により、
(06)
② 要 纏 擾 我
② 下 二 上 一
② {  (   }  )
② 4 2 3 1
といふ「順番」と、
③ 読 非 書 不
③ 二 下 一 上
③ (  {   )  }
③ 2 4 1 3
といふ「順番」は、「漢文訓読」に於いて、有り得ない。
従って、
(06)により、
(07)
② 2<>1
③ 2<>1
といふ「順番」は、「漢文訓読」に於いて、有り得ない。
cf.
従って、
(08)
言ひ方を変へると、
③ 2 # 1
④ 3 # 2
に於いて、
③ # は、2よりも、大きくない。
④ # は、3よりも、大きくない。
従って、
(09)
さらに、言ひ方を変へると。
③ 2<3 # # 
④ 3<5 # # #
⑤ 4<7 # # # #
等に於いて、
③ # は、1ではない。
④ # は、2ではない。
⑤ # は、3ではない。
(10)
小さな箱=( )
大きな箱={ }
のやうに考へた場合、「数学」に於ける、
{( )}は、
大きな箱={ }
の中に、
小さな箱=( )
が入ってゐる。といふ風に、喩へることが出来る。
従って、
(10)により、
(11)
① {( )}
に対して、
② {( })
③ ({ )}
の場合は、
小さな箱の中に、大きな箱が入ってゐて、尚且つ、
大きな箱の中に、小さな箱が入ってゐる。ものの、
② 下 二 上 一 =
② 四 二 三 一
③ 二 下 一 上 =
③ 二 四 一 三
といふ「順序」は、そのやうな
② {( })
③ ({ )}
といふ、『(あり得ない)形』に、相当する。
(12)
「返り点」に対する「括弧」は、
( )=小さな箱
〔 〕=中くらゐの箱
[ ]=大きな箱
{ }=もっと大きな箱
に、相当する。
(13)
コンピューター関連では2進数とともに、16進数というのがよく使われます。このときは数字が0から9まででは足りないのでA、B、C、D、Eを加えて16個の数字をつかいます(何森仁、
小沢健一、算数から数学までまるごと8時間でわかる本、2014年、45頁)。
従って、
(13)により、
(14)
F>E>D>C>B>A>9>8>7>6>5>4>3>2>1
といふ「不等式」が、成立する。
但し、
(15)
  1=  1
 11= 17
111=273
ではなく、
1     は、 1番目の、「一字」とし、
11    は、 1番目の、「二字」とし、
AAA   は、10番目の、「三字」とし、
FFFF は、15番目の、「四字」と、する。
(16)
Nは、0以外の、任意の16進数の数字であって、
Nの右側に、Nよりも小さい数字が有れば、
その時に限って、それらの数字を、内側から順番に、
( )
〔 〕
[ ]
{ }
で括ることを、「括弧」で括る。
とする。
(17)
N=1
である時、
1<D であるため、
1D264433355BA79988CE。
のままで、変はらない。
(18)
N=D
である際に、
1D264433355BA79988CE。
を( )で括ると、
1D(264433355BA79988C)E。
(19)
N=2
である時、
2<6 であるため、
1D(264433355BA79988C)E。
のままで、変はらない。
(20)
N=6
である際に、
1D(264433355BA79988C)E。
を〔 〕で括ると、
1D〔26(4433355)BA79988C〕E。
(21)
N=4
である際に、
1D〔26(4433355)BA79988C〕E。
を( )で括ると、
1D[26〔44(333)55〕BA79988C]E。
(22)
N=5
である時、
6〔・ ・ ・ ・ ・5〕#
であるため、
6<#
であるものの、固より、
5<6
であるため、
5<#
であり、それ故、
1D[26〔44(333)55〕BA79988C]E。
のままで、変はらない。
(23)
N=B
である際に、
1D[26〔44(333)55〕BA79988C]E。
を( )で括ると、
1D[26〔44(333)55〕B(A79988)C]E。
(24)
N=A
である際に、
1D[26〔44(333)55〕B(A79988)C]E。
を( )で括ると、
1D[26〔44(333)55〕B〔A(79988)〕C]E。
(25)
N=7
である時、
7<9 であるため、
1D[26〔44(333)55〕B〔A(79988)〕C]E。
のままで、変はらない。
(26)
N=9
である際に、
1D[26〔44(333)55〕B〔A(79988)〕C]E。
を( )で括ると、
1D{26〔44(333)55〕B[A〔799(88)〕]C}E。
(27)
N=C
である時、
D{・ ・ ・ ・ ・C}#。
であるため、
D<#
であるものの、固より、
C<D
であるため、
C<# 
であって、それ故、
1D{26〔44(333)55〕B[A〔799(88)〕]C}E。
のままで、変はらない。
(28)
N=E
である時、
E の右には、。しかないため、
1D{26〔44(333)55〕B[A〔799(88)〕]C}E。
のままで、変はらない。
従って、
(14)~(28)により、
(29)
 FOR I=1 TO 14
  N=N( I )
  Nの右側にある、
  Nよりも小さい数字を「括弧」で括る。
 NEXT I
といふプログラムを実行すると、
1D{26〔44(333)55〕B[A〔799(88)〕]C}E。
といふ「結果」が、出力される。
然るに、
(30)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう(産業図書、数理言語学辞典、2013年、47頁:命題論理、
今仁生美)。
従って、
(29)(30)により、
(31)
1D{26〔44(333)55〕B[A〔799(88)〕]C}E。
を、「演算」とするならば、例へば、
D{ }
のスコープは、
 26〔44(333)55〕B[A〔799(88)〕]C
であって、
6〔 〕
のスコープは、
 44(333)55
である。
(32)
44(333)=
理解(中国語)
であるならば、
理解(   )
のスコープは、
 中国語
であるため、
44(   )
のスコープは、
 333
である。
然るに、
(33)
例へば、
1+4×(2+3)=
1+(2+3)×4。
にならって、
1D{26〔44(333)55〕B[A〔799(88)〕]C}E ⇔
1{2〔(333)4455〕6[〔7(88)99〕A]BC}DE。
とする。
然るに、
(34)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置き換えて読むことが、その大きな原則となっている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(33)(34)により、
(35)
① 読書。
② 我非必以理解中国語方法欲使人理解漢文者也。
といふ「漢文」に、
① 2(1)。
② 1D{26〔44(333)55〕B[A〔799(88)〕]C}E。
といふ『補足構造』がある。ならば、その時に限って、
その『補足構造』における語順は、国語とは『全く反対』である。
といふ「事情」により、
① 書読む。
② 我は必ずしも、中国語を理解する方法を以て、人をして漢文を理解せ使めんと欲する者に非ざる也。
といふ「訓読」には、
① (1)2。
② 1{2〔(333)4455〕6[〔7(88)99〕A]BC}DE。
といふ「語順と、補足構造」がある。ことになる。
然るに、
(36)
① 読書=
① 2 1=
① 2(1)⇒
① (1)2=
① (書)読=
① 書を読む。
② 我非必以理解中国語方法欲使人理解漢文者也=
② 1 D 2 6 4 4 3 3 3 5 5 B A 7 9 9 8 8 C E=
② 1D{26〔44(333)55〕B[A〔799(88)〕]C}E⇒
② 1{2〔(333)4455〕6[〔7(88)99〕A]BC}DE=
② 我{必〔(中国語)理解方法〕以[〔人(漢文)理解〕使]欲者}非也=
② 我は必ずしも、中国語を理解する方法を以て、人をして漢文を理解せ使めんと欲する者に非ざる也。
cf.
従って、
(35)(36)により、
(37)
① 読書。
② 我非必以理解中国語方法欲使人理解漢文者也。
といふ「漢文」には、確かに、
① 2(1)。
② 1D{26〔44(333)55〕B[A〔799(88)〕]C}E。
① 読(書)。
② 我非{必以〔理解(中国語)方法〕欲[使〔人理解(漢文)〕]者}也。
といふ「語順と、補足構造」が有る。ことになる。
然るに、
(38)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である。
漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
「さばかりの人の、無下にこそ心弱き気色を、人の国にて見えたまいてけれ」の部分の構文を、文節・連文節の係り受けがわかるように図示せよ(新明解古典シリーズ10、徒然草、1990年、142頁)。
従って、
(30)(37)(38)により、
(39)
① 読書。
② 我非必以理解中国語方法欲使人理解漢文者也。
といふ「漢文」には、
① 2(1)。
② 1D{26〔44(333)55〕B[A〔799(88)〕]C}E。
① 読(書)。
② 我非{必以〔理解(中国語)方法〕欲[使〔人理解(漢文)〕]者}也。
といふ「語順と、補足構造(管到・スコープ)」が有る。ことになる。
従って、
(39)により、
(40)
① 読書。
② 我非必以理解中国語方法欲使人理解漢文者也。
といふ「漢文」を、
① 書を読む。
② 我は必ずしも、中国語を理解する方法を以て、人をして漢文を理解せ使めんと欲する者に非ざる也。
といふ「語順」で「訓読」する。といふことは、
① 読書。
② 我非必以理解中国語方法欲使人理解漢文者也。
といふ「漢文」の「補足構造(管到・スコープ)」を、
① 読(書)。
② 我非{必以〔理解(中国語)方法〕欲[使〔人理解(漢文)〕]者}也。
といふ「形」で把握することに、他ならない。
従って、
(40)により、
(41)
① 読書。
② 我非必以理解中国語方法欲使人理解漢文者也。
といふ「漢文」が、
① 書を読む。
② 我は必ずしも、中国語を理解する方法を以て、人をして漢文を理解せ使めんと欲する者に非ざる也。
といふ風に「訓読」出来る。といふこと自体が、
② 我非必以理解中国語方法欲使人理解漢文者也。
といふ「漢文」が、
① 読(書)。
② 我非{必以〔理解(中国語)方法〕欲[使〔人理解(漢文)〕]者}也。
といふ「構造(シンタックス)」をしてゐる。といふことを、示してゐる。
然るに、
(42)
① 読(書)。
② 我非{必以〔理解(中国語)方法〕欲[使〔人理解(漢文)〕]者}也。
であるならば、
① レ 
② 乙 下 ‐二‐ 一 上 レ 三 ‐二‐ 一 甲
であるの対して、
① 読(漢文)。
② 我非{必以〔解(語)法〕欲[使〔人解(文)〕]者}也。
であるならば、
① 二 一
② 下 二 レ 一 レ 二 一レ 上
であるため、「返り点」は、「語順」は示してゐても、「構造(シンタックス)」を示してゐる。とは、言へない。
(43)
「返り点」は、「レ点」や「ハイフン」の使い方が、「恣意的」であるが故に、それなりに、難しい。
従って、
(41)(42)(43)により、
(44)
「括弧」は、「漢文の構造(シンタックス)」を示すための「ツール」であって、単なる、「返り点」の「代用」ではない。
従って、
(45)
倉石武四郎博士が戦前に中国留学した際に「訓読は玄界灘に捨ててきた」と言ったことは音読派の決めぜりふとして有名である(土田健次郎、大学における訓読教育の必要性)。
とのことであっても、「訓読」と一緒に、「括弧」まで、捨てるべきでははない。
(46)
「牛島徳次、中国古典の学び方、1977年、59・60頁」に、
わたしが「次の一句が全然わからなかった。」というと、そばにいた二三人の学生が一斉に笑い出して、いった。「先生、そこはこの間、先生がぼくたちに教えてくれた”xue er you shi”ですよ!」とあるやうに、
倉石博士の薫陶を受けられた、牛島博士は、「学而優則仕(論語)」のやうに、「返り点」も付かない、これ以上簡単なそれがないくらゐ簡単な、たった五字しかない「漢文」の意味を、「訓読」としては、学生に対して、「即答」出来たにも拘わらず、「中国語」としては、「全然わからなかった。」との、ことである。
従って、
(47)
現代中国語がしゃべれないような人は本当は漢文は読めないんです(Webサイト)。
といふ言ひ方は、たぶん、「錯覚(思ひ込み)」である。
平成27年06月01日、毛利太。