(01)
「が」は、濁音であって、「は」は、清音である。
然るに、
(02)
なぜ私達は濁音に迫力を感じるのでしょうか。なぜ清音に爽やかさを感じるのでしょうか。実は、この感覚は人類共通のものなのです(新潮新書、「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」の書評?)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
「~が」と「~は」を比べると、「~が」の方が、「心理的な音量」が大きい。
然るに、
(04)
A以外はBでない(排他的命題)。
といふ「意味」を込めて、それを言ふ場合、
AB也=A is B。
に於ける、
A は、「より大きな声」で、発音される。はずである。
従って、
(03)(04)により、
(05)
AはBである。
に対する、
AがBである。
の場合は、
AがBである=
AはBであ(って、A以外はBでない)。
でなければ、ならない。
然るに、
(06)
A以外Bでない(排他的命題)。
の「対偶」は、
BならばAである=BはAである。
従って、
(05)(06)により、
(07)
AがBである=
AはBであり、BはAである。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(07)により、
(08)
例へば、
① 鈴木が社長です。
と、言ふのであれば、、
② 社長は鈴木です。
と、言へなければ、ならない。
然るに、
(09)
① 鈴木が社長です。
② 社長が鈴木です。
といふ言ひ方は、「同時に可能」であるが、その一方で、例へば、
① 人間が動物である。
② 動物は人間である。
といふ言ひ方は、両方とも、正しくない。
従って、
(01)~(09)により、
(10)
「強調」は、「排他的命題(~以外は、_ない。)」を、主張する。
然るに、
(11)
動詞についての目的語は、その動詞の後に置かれるのが、漢語における基本的構造としての単語の配列のしかたである。また、漢語における介詞は、ほとんど、動詞から発達したものであって、その目的語も、その介詞の後に置かれるのが、その通例であるということができる。しかし、古代漢語においては、それらの目的語が、疑問詞である場合には、いずれも、その動詞・介詞の前に置かれる。このように漢語としての通常の語順を変えて、目的語の疑問詞を前置することは、疑問文において、その疑問の中心になっている疑問詞を、特に「強調」したものにちがいない(鈴木直治、中国語と漢文、334・335頁)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
① 誉汝=汝を誉む。
に対して、
② 誰誉=誰をか誉めむ(論語、衛霊公)。
が、「前置」による「強調形」であるならば、
② 誰誉=誰かを誉め(その誰か以外は誉めない)。
といふ、意味になる。
従って、
(12)により、
(13)
① 誉汝=汝を誉む。
に対する、
② 誰誉=誰をか誉めむ。
といふ「WH移動」は、「強調形」であって、「排他的命題」である。
然るに、
(14)
① 誉汝=汝を誉む。
② 誰誉=誰をか誉めむ。
といふことは、
① 誉汝=動詞+補足語。
② 誰誉=補足語+動詞。
といふことに、他ならない。
加へて、
(15)
③ 不患人之不己知=人の己を知ら不るを憂へ不(論語、学而)。
④ 無友不如己者=己に如しか不る者を友とする無かれ(論語、学而)。
⑤ 良医之門多病人=良医の門に病人多し(荀子)。
⑥ 見季子位高金多也=季子の位高く金多きを見ればなり(十八史略)。
に於ける、
③ 己知=己を知る。
⑥ 金多=金多し。
の場合も、
(b)補足構造であって、尚且つ、漢文と訓読の「語順」は、等しい。
従って、
(14)(15)により、
(16)
(b)補足構造を除くと、漢文と訓読の「語順」は、等しい。
といふ「言ひ方」は、マチガイではないものの、この場合は、
(b)補足構造を除くと、漢文と訓読の「語順」は、概ね等しい(が、漢文に於ける全ての補足構造の語順が、日本語のそれと、異なるわけではない)。
とする方が、「正確」である。
然るに、
(17)
例へば、
人有喜与不如己者為友之心。
に関しては、
(b)補足構造を除くと、漢文と訓読の「語順」は、等しい。
cf.
従って、
(17)により、
(18)
人有喜与不如己者為友之心=
人有〈喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}之心〉=
1C〈9{6[4〔3(2)〕5]8(7)}AB〉⇒
1〈{[〔(2)3〕45]6(7)8}9AB〉C=
人〈{[〔(己)如〕不者]与(友)為}喜之心〉有=
人に〈{[〔(己に)如か〕不る者]と(友と)為るを}喜ぶの心〉有り。
といふ、「括弧によるソート(漢文訓読)」に於ける、
〈{[〔( )〕]( )}〉
といふ「括弧」は、
人有喜与不如己者為友之心。
といふ「漢文」の、「補足構造」を、表してゐる。
然るに、
(19)
人有喜与不如己者為友之心。
といふ「漢文」を、
ジンイウキヨフツジョキシャヰイウシシン。
といふ風に「音読」しても、
人に己に如か不る者と友と為るを喜ぶの心有り。
といふ風に「訓読」しても、
人有〈喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}之心〉。
といふ「漢文の補足構造」自体は、変はらない。
然るに、
(20)
人有喜与不如己者為友之心=
ジンユウキヨフジョキシャイユウシシン。
といふ風に、「音読」するだけであれば、漢文を全く知らない、小学生であっても、可能であるが、
人有喜与不如己者為友之心=
人に己に如か不る者と友と為るを喜ぶの心有り。
といふ風に、「訓読」するには、
人有〈喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}之心〉。
といふ「構造(シンタックス)」が見えてゐる、必要がある。
然るに、
(21)
人有喜与不如己者為友之心。
といふ「漢文の構造(シンタックス)」が、見えるためには、
人有喜与不如己者為友之心。
といふ「漢文」を、「よく見る」必要が有る。
然るに、
(22)
徂徠は、「題言十則」のなかで以下のように述べる。
中華の人多く言へり、「読書、読書」と。予便と謂へり、書を読むは書を看るに如かず、と。これ中華と此の方との語言同じからざるに縁りて、故に此の方は耳口二者、皆力を得ず、唯一双の眼のみ、三千世界の人を合はせて、全て殊なること有ること莫し(中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、「訓読」論、2008年、27頁)。
書を読むは書を看るに如かず=書を読むことは、書を見ることに及ばない。
唯一双の眼のみ、三千世界の人を合はせて、全て殊なること有ること莫し=ただ、両方の眼だけが、世界中の全ての人に於いて、異なる所がない。
然るに、
(23)
(21)と(22)は、「矛盾」しない。
平成27年06月28日、毛利太。
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