2015年6月9日火曜日

返り点、括弧、集合数(Ⅰb)。

(01)
不読書。
に於いて、
不=~ は、否定である。
然るに、
(02)
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’といふ空所にいれて書くことにしよう(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
不読書=
不(読書)。
然るに、
(04)
読む のは、(書)である。
従って、
(03)(04)により、
(05)
不読書=
不〔(読書)〕。
然るに、
(06)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(05)(06)により、
(07)
不読書=
不〔読(書)〕⇒
〔(書)読〕不=
〔(書を)読ま〕ず。
といふ「ソート(並び替へ)」が、成立する。
(08)
3=囗囗囗
2=囗囗
1=囗
に於いて、
3は2を含み、
2は1を含む。
といふ際の、
321。
を、「集合数」とし、
1番目、2番目、3番目。
といふ際の、
123。
を、「順序数」とする。
(09)
321。
に於いて、「21」といふ「二つの集合数」は、「3」に含まれるものの、是を以て、
3(21)。
とする。
(10)
3(21)。
に於いて、「1」といふ「一つ集合数」は、「2」に含まれるものの、是を以て、
3〔2(1)〕。
とする。
然るに、
(11)
3〔2(1)〕。
を、「順序数」とするならば、
3〔2(1)〕⇒
〔(1)2〕3。
といふ「ソート(並び替へ)」が、成立する。
従って、
(07)(11)により、
(12)
不読書=
不〔読(書)〕=
3〔2(1)〕⇒
〔(1)2〕3=
〔(書)読〕不=
〔(書を)読ま〕ず。
といふ「ソート(並び替へ)」が、成立する。
(13)
我不常聞鳥啼梅樹声。
に於いて、
不=~ は、否定である。
然るに、
(14)
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’といふ空所にいれて書くことにしよう(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(13)(14)により、
(15)
我不常聞鳥啼梅樹声=
我不(常聞鳥啼梅樹声)。
然るに、
(16)
聞く のは、(鳥啼梅樹声)である。
従って、
(15)(16)により、
(17)
我不常聞鳥啼梅樹声=
我不〔常聞(鳥啼梅樹声)〕。
然るに、
(18)
鳥が啼く のは、(梅樹)である。
従って、
(17)(18)により、
(19)
我不常聞鳥啼梅樹声=
我不[常聞〔鳥啼(梅樹)声〕]。
然るに、
(20)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(19)(20)により、
(21)
我不常聞鳥啼梅樹声=
我不[常聞〔鳥啼(梅樹)声〕]⇒
我[常〔鳥(梅樹)啼声〕聞]不=
我[常には〔鳥の(梅樹に)啼く声を〕聞]ず。
といふ「ソート(並び替へ)」が、成立する。
(22)
9=囗囗囗囗囗囗囗囗囗
8=囗囗囗囗囗囗囗囗
7=囗囗囗囗囗囗囗
6=囗囗囗囗囗囗
5=囗囗囗囗囗
4=囗囗囗囗
3=囗囗囗
2=囗囗
1=囗
に於いて、
9は8を含み、
8は7を含み、
7は6を含み、
6は5を含み
5は4を含み、
4は3を含み、
3は2を含み、
2は1を含む。
といふ際の、
987654321。
を、「集合数」とし、
1番目、2番目、3番目、4番目、5番目、6番目、7番目、8番目、9番目。
といふ際の、
123456789。
を、「順序数」とする。
(23)
192836457。
に於いて、「2836457」といふ「七つの集合数」は、「9」に含まれるものの、是を以て、
19(2836457)。
とする。
(24)
19(2836457)。
に於いて、「36457」といふ「五つの集合数」は、「8」に含まれるものの、是を以て、
19〔28(36457)〕。
とする。
(25)
19〔28(36457)〕。
に於いて、「45」といふ「二つの集合数」は、「6」に含まれるものの、是を以て、
19[28〔36(45)7〕]。
とする。
然るに、
(26)
19[28〔36(45)7〕]。
を、「順序数」とするならば、
19[28〔36(45)7〕]⇒
1[2〔3(45)67〕8]9。
といふ「ソート(並び替へ)」が、成立する。
従って、
(21)(26)により、
(27)
我不常聞鳥啼梅樹声=
我不[常聞〔鳥啼(梅樹)声〕]=
19[28〔36(45)7〕]⇒
1[2〔3(45)67〕8]9=
我[常〔鳥(梅樹)啼声〕聞]不=
我[常には〔鳥の(梅樹に)啼く声を〕聞]ず。
といふ「ソート(並び替へ)」が、成立する。
従って、
(01)~(27)により、
(28)
(A)漢文の補足構造は、「括弧」で表すことが出来る。
(B)補足構造に関して、漢文訓読語順は、全く反対である。
(C)漢文の補足構造を「集合数」で表す時、訓読の語順は、その「順序数」に対応する。。
といふ「三つの条件」の元で、
① 不読書=
① 不〔読(書)〕=
① 3〔2(1)〕⇒
① 〔(1)2〕3=
①〔(書)読〕不=
①〔(書を)読ま〕ず。
といふ、『括弧による、ソート(漢文訓読)』と、
② 我不常聞鳥啼梅樹声=
② 我不[常聞〔鳥啼(梅樹)声〕]=
② 19[28〔36(45)7〕]⇒
② 1[2〔3(45)67〕8]9=
② 我[常〔鳥(梅樹)啼声〕聞]不=
② 我[常には〔鳥の(梅樹に)啼く声を〕聞]ず。
といふ『括弧による、ソート(漢文訓読)』が、成立する。
然るに、
(29)
① 不読書=書を読ま不。
の「返り点」は、
① レ レ
であるが、
① レ レ
は、
① 三 二 一
に、置き換へることが、出来る。
(30)
② 我不常聞鳥啼梅樹声=我常には鳥の梅樹に啼く声を聞か不。
の「返り点」は、
② 下 中 二 一 上
である。
cf.

従って、
(29)(30)により、
(31)
① 不読書=書を読ま不。
② 我不常聞鳥啼梅樹声=我常には鳥の梅樹に啼く声を聞か不。
の「返り点」が、
① 三 二 一
② 下 中 二 一 上
である以上、
③ 読不書=書を読ま不。
④ 我常聞不鳥啼梅樹声=我常には鳥の梅樹に啼く声を聞か不。
に付く「返り点」は、
③ 二  一
④ 中  二 一 上
である。
然るに、
(32)
③ 二(三〔一)〕
④ 中〔下[二(一)上〕]
といふ「括弧」、すなはち、
③ (〔 )〕
④ 〔[( )〕]
といふ「形」の「括弧」は、有り得ないし、
③ 二  一
④ 中  二 一 上
といふ「返り点」も、「漢文訓読」である限り、絶対に有り得ない
従って、
(32)により、
(33)
「漢文訓読」である限り、
③ (〔 )〕
③ 二 三 一
といふ「(括弧と)返り点」は、絶対に、有り得ない
然るに、
(34)
従って、
(33)(34)により、
(35)
① 臣本布衣、躬耕(於南陽)。
② 臣は本布衣、躬ら(南陽に)耕す。
といふ、
① 漢文。
② 訓読。
に於いて、「語順」は異なるが、
① (   )
② (   )
といふ「補足構造」は、等しく、尚且つ、漢字も等しい。
(36)
① 臣本布衣、躬耕(於南陽)。
③ 臣本来是一個平民、(〔在南陽)親自〕耕田種地、
といふ、
① 漢文。
③ 現代中国語訳、
に於いて、「語順」は、固より、
① (   )
③ (〔   )  〕
といふ「補足構造」も、同じではなく、漢字も一致しない。
従って、
(35)(36)により、
(37)
① 臣本布衣、躬耕(於南陽)。
② 臣は本布衣、躬ら(南陽に)耕す。
③ 臣本来是一個平民、(〔在南陽)親自〕耕田種地、
といふ、
① 漢文。
② 訓読。
③ 現代中国語訳、
に於いて、「より大きく異なる」のは、
①と③であって、
①と②ではない。
然るに、
(38)
①と②が、「小さく異なり」、
①と③が、「大きく異なり」のであれば、
②と③は、「大きく異なる」はずである。
然るに、
(39)
通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア:漢文)。
然るに、
(40)
いづれにせよ、
① 漢文。
② 訓読。
③ 現代中国語訳、
に於いて、
①と③が、「小さく異なる」のであれば、
漢文は、普通に「訓読」出来る一方で、
白話文を「訓読」するとたいへん奇妙日本語になる。
といふことは、おそらく、矛盾する。
従って、
(39)(40)により、
(41)
① 漢文
③ 現代中国語訳。
に於いて、
①と③は、「全く別物」であるとしても、不思議ではないが、例へば、次の通りである。
(42)
ユーザーID:9191609315
漢文と現代中国語は全く別物
のぶりん
2011年8月19日 20:40
はじめまして。
中国語と中国情勢でメシを食っている者ですが、結論はタイトルの通りです。
漢文がわかっても現代中国語はわからないし、逆も然りです。
自分も仕事柄と教養のために中国古典を読んでますが、漢文はさっぱりで見るのは専ら日本語訳の方です(笑
言葉は生き物のように常に進化します。中国語も無論時代を経て進化していて、日本なら織田信長が生まれた頃に書かれた『菜根譚』という古典なら文章が漢文と現代中国語の中間くらいなので、現代中国語の知識を持っていれば「原文でも何とかわかる」という感じです。
(43)
漢字の訓読みに用いるのは和語とは限らず、外来語である場合もある。この場合はカタカナで表記されることが多い(ウィキペディア:訓読)。
訓読みの例[編集]
 頁 - ぺーじ(英語: page)
 米 - めーとる(フランス語: mètre[6])
 哩 - まいる(英語: mile)
 熟字訓の例[編集]
 麦酒 - びーる(オランダ語: bier[7])
 煙草 - たばこ(ポルトガル語: tabaco[8])
従って、
(44)
「漢字」は、「意味」を無視しない限り、「音」としては、「どうにでも」読めるため、
① 子 爲(誰)。
② しは(だれとか)なす。
③ YOU ARE(WHO)?
に於いて、
①を、②のやうに読んでも良いのであれば、
①を、③のやうに読んで、悪いはずがない。
従って、
(45)
④ WHO ARE YOU?
ではなく、
③ YOU ARE WHO?
が、「正しい英語」である場合には、
① 子 爲 誰。
と書かれた「漢文」は、
③ YOU ARE WHO?
といふ風に、読んでも、構はない。
然るに、
(46)
③ YOU ARE WHO?
ではなく、
④ WHO ARE YOU?
が、正しいため、その場合は、
① 子 爲 誰=
① 子〔爲(誰)〕⇒
④ 〔(誰)爲〕子=
④ 〔(WHO)ARE〕YOU?
といふ風に、「訓読」される。
平成27年06月09日、毛利太。
(47)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、
きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様ものである(勉誠出版、訓読論、2008年、60頁)。
(48)
両者の亀裂は、戦後も親中国革新派の音読、反中国保守派の訓読として、ある意味で現在にまでつづいている(金文京、漢文と東アジア、2010年、88・9頁)。

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