(01)
①「鏡の中の自分」は、
②「回れ右」をしてゐないし、
③「逆立ち」iもしてゐない。
ところが、
(02)
①「鏡の中の自分」は、
③「逆立ち」iはしてゐなくとも、
②「回れ右」はしてゐるはずである。
といふ風に、思い込む人が、大半であって、その「結果」として、
② 鏡が上下でなく左右を反対にするのはなぜでしょうか ... - Yahoo!知恵袋
といふ「疑問」が、生じることになる。
(03)
① ◇〔△(囗)〕⇔〔(囗)△〕◇
等を、「mirror image」とする。
(04)
② 不〔読(文)〕⇒〔(文)読〕不。
等を、「ミラーイメージ」とする。
従って、
(04)により、
(05)
② 不〔読(文)〕⇒〔(文)読〕不。
に対して、
③ 我不〔読(文)〕常漢⇒ 我〔(文)読〕不。
③ 我不〔常読(文)〕漢⇒ 我〔常(文)読〕不。
③ 我不〔常読(漢文)〕⇒ 我〔常(漢文)読〕不。
等は、「ミラーイメージ」ではない。
従って、
(04)(05)により、
(06)
例へば、
③ 我不常読漢文=
③ 我不〔常読(漢文)〕⇒
③ 我〔常(漢文)読〕不=
③ 我〔常には(漢文を)読ま〕不。
といふ「漢文訓読」は、「漢文」と「和文」の、「ミラーイメージでない部分」をそのままにして、「漢文」の、「ミラーイメージの部分」の「左右」を「入れ換へる」ことによって、成立する。
然るに、
(07)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
③ 我不常読漢文。
に於いて、
③ 我=主語
③ 常=修飾語
③ 漢=修飾語
に関しては、「ミラーイメージではない部分」であって、
③ 不=否定詞
③ 読=他動詞
③ 文=補足語
に関しては、「ミラーイメージの部分」であって、
③ 我不〔常読(漢文)〕
に於ける、
③ _不〔_読(_文)〕
は、「補足構造」を、表してゐる。
従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
③ 我不常読漢文=
③ 我不〔常読(漢文)〕⇒
③ 我〔常(漢文)読〕不=
③ 我〔常には(漢文を)読ま〕不。
といふ「漢文訓読」や、例へば、
④ 凡人莫不従其所可而去其所不可=
④ 凡人莫{不[従〔其所(可)〕而去〔其所(不可)〕]}⇒
④ 凡人{[〔其(可)所〕従而〔其(不可)所〕去]不}莫=
④ 凡そ人は其の可とする所に従ひて其の不可とする所を去らざること莫し。
といふ「漢文訓読」は、「漢文」と「和文」の、「補足構造」に係はる「語順」を、「逆」にすることによって、成立する。
然るに、
(10)
③ 我不〔常読(漢文)〕⇒ 我〔常(漢文)読〕不。
③ 1 6 〔2 5(3 4)〕)i⇒ 1〔2(3 4)5〕6。
然るに、
(11)
6>2
6>5
6>3
6>4
1<2<3<4
であって、
5>3
5>4
3<4
である。
従って、
(10)(11)により、
(12)
便宜上、
不>常
不>読
不>漢
不>文
我<常<漢<文
であって、
読>漢
読>文
漢<文
である。と、「見なす」ことが出来る。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
③ 我不常読漢文。
③ 1 6 2 5 3 4。
といふ二つには、「共通の構造」が有って、その「構造」を、「括弧」で表した「形」が、
③ 我不〔常読(漢文)〕。
③ 1 6〔2 5(3 4)〕。
といふ「括弧」である。と、すべきである。
然るに、
(14)
例えば、京都大学において、その中国文化の研究について、大きな基礎を作られた狩野直喜氏(一八六六~一九四七)は、その教えを受けた倉石武四郎(一八九七~」に、かつて「自分たちが訓読するのは、そういう習慣になっていたから、いちおう訓読するだけで、実は、原文を直読しているのである」と語られたという(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、385頁)。
従って、
(09)(13)(14)により、
(15)
例へば、
④ 凡人莫不従其所可而去其所不可=
④ 凡そ人は其の可とする所に従ひて其の不可とする所を去らざること莫し。
といふ風に、「直読」出来る。といふことは、
④ 凡人莫不従其所可而去其所不可。
といふ「漢文」を見ると同時に、
④ 凡人莫不従其所可而去其所不可=
④ 凡人莫{不[従〔其所(可)〕而去〔其所(不可)〕]}。
のやうに、「感じる」ことが出来る。
のであらうと、思はれる。
(16)
④ 凡人莫不従其所可而去其所不可=
④ 凡人莫{不[従〔其所(可)〕而去〔其所(不可)〕]}。
のやうに「見える」と言へば、それは、「比喩」であるが、
④ 凡人莫不従其所可而去其所不可=
④ 凡人莫{不[従〔其所(可)〕而去〔其所(不可)〕]}。
のやうに、「感じる」のであらうと、思はれる。
(17)
さうでなければ、「自分たちが訓読するのは、そういう習慣になっていたから、いちおう訓読するだけで、実は、原文を直読しているのである」といふことは、有り得ない。はずである。
然るに、
(18)
④ 凡人莫不従其所可而去其所不可=
④ 凡そ人は其の可とする所に従ひて其の不可とする所を去らざること莫し。
の「音読」は、例へば、
④ 凡人莫不従其所可而去其所不可=
④ ハンジンバクフツショウキショカジキョショフツカ。
である。
然るに、
(19)
④ オヨソヒトワソノカトスルトコロニシタガイテソノフカトスルトコロヲサラザルコトナシ。
といふ「音」と、
④ ハンジンバクフツショウキショカジキョショフツカ。
といふ「音」は、「同じ」ではない。
従って、
(14)(18)(19)により、
(20)
「文字」は、「音声」を、写してゐるのではない?
平成27年08月23・25日、毛利太。
2015年8月23日日曜日
2015年8月18日火曜日
鏡の中の上下左右(ヤフー!知恵袋+α)。
(01)
A lot of people seem to ask this question when they wear a T-shirt in front of a mirror(多くの人は、Tシャツを着て鏡の前に立ってゐる時に、このことを、疑問に思ふ、やう
である)。
(02)
② ΑΕ と書かれた「Tシャツ」を着て、「鏡」に向かへば、「鏡の中」で、「ΑΕの文字」は、
① ∃Α に見える。
(03)
② ΑΕ と書かれた「Tシャツ」を、「自分」に向ければ、「鏡の外」で、「ΑΕの文字」は、
② ΑΕ に見える。
(04)
② ΑΕ と書かれた「Tシャツ」を、「逆に」して「自分」に向ければ、「鏡の外」で、「ΑΕの文字」は、
③ ∃∀ に見える。
従って、
(05)
② ΑΕ と書かれた「Tシャツ」を着た人物が、
②「回れ右」をして、「こちらを向いてゐる」のであれば、
② ΑΕ の文字は、
② ΑΕ に見えなければならないものの、「鏡の中」では、
① ∃Α に見える。
(06)
② ΑΕ と書かれた「Tシャツ」を着た人物が、
③「逆立ち」して「こちらを向いてゐる」のであれば、
② ΑΕ の文字は、
③ ∃∀ に見えなければならないものの、「鏡の中」では、
① ∃Α に見える。
然るに、
(07)
① ∃Α を、「基準」にすると、
② ΑΕ は、「上下が等しく・左右が逆」であり、
③ ∃∀ は、「左右が等しく・上下が逆」である。
従って、
(05)(07)により、
(08)
② 鏡が上下でなく左右を反対にするのはなぜでしょうか ... - Yahoo!知恵袋
といふ「質問」は、
② ΑΕ と書かれた「Tシャツ」を着た人物が、
②「回れ右」をして、「こちらを向いてゐる」のであれば、
② ΑΕ の文字は、
② ΑΕ に見えなければならないものの、「鏡の中」では、
① ∃Α に見えるのは、何故か?
といふ「質問」に、他ならない。
従って、
(06)(07)により、
(09)
② ΑΕ と書かれた「Tシャツ」を着た人物が、
③「逆立ち」して「こちらを向いてゐる」のであれば、
② ΑΕ の文字は、
③ ∃∀ に見えなければならないものの、「鏡の中」では、
① ∃Α に見えるのは、何故か?
といふことを、「疑問」に思ふのであれば、
③ 鏡が左右でなく上下を反対にするのはなぜでしょうか ...?
といふ「質問」を、行ふことに、なる。
然るに、
(10)
我々が、「後ろを振り返る」際に、
③「逆立ち」をして「振り返る人」≒0%
である。
従って、
(09)(10)により、
(11)
③ 鏡が左右でなく上下を反対にするのはなぜでしょうか ...?
といふ「質問」を行ふ人は、ほとんど、皆無である。
(12)
ΑΕ と書かれた「Tシャツ」を、着てゐる場合も、
ΑΕ と書かれた「Tシャツ」を、手に持ってゐる場合も、「結果」は、変はらない。
従って、
(01)~(12)により、
(13)
鏡に映ると、左右が反対になって見える。この「鏡映反転」は、これまで、1つの現象だと考えられてきた。しかし、自分の鏡映反転と文字の鏡映反転は、それぞれ、別の理由で起きる、
別の現象だということがわかった(「鏡の左右逆転 1種類ではなかった」 | 東京大学)。
といふことは、有り得ない。
(14)
②「Tシャツを着てゐる人物」は、「三次元(立体)」であって、
②「Tシャツに書かれた文字」は、「二次元(平面)」である。
然るに、
(15)
②「Tシャツに書かれた文字」が、「二次元(平面)」である以上、
① ∃Α(鏡の中)
② ΑΕ(鏡の外)
③ ∃∀(鏡の外)
といふ「三通り」に、「奥行」は無い。
従って、
(15)により、
(16)
鏡は、「奥行」を反転させる。 としても、
鏡は、「奥行」を反転させない。としても、
② 鏡が上下でなく左右を反対にするのはなぜでしょうか ... - Yahoo!知恵袋
③ 鏡が左右でなく下上を反対にするのはなぜでしょうか ...?
といふ「疑問」は、無くならない。
(17)
② 鏡が上下でなく左右を反対にするのはなぜでしょうか ... - Yahoo!知恵袋
といふ「疑問」が生じる「所以」は、
①「鏡の中の人物」は、
②「Α(回れ右)」も、
③「∀(逆立ち)」もしてゐない。
にも拘らず、
②「Α(頭を上)」にして「振り返る人」≒100%
③「∀(逆立ち)」をして「振り返る人」≒ 0%
といふ、「現実」からの「SUGGESTION」に従って、
①「鏡の中の人物」は、
②「Α(回れ右)」をしてゐる。
といふ風に、思ふからに、他ならない。
従って、
(17)により、
(18)
① ∃Α(鏡の中、頭は上)
② ΑΕ(鏡の外、頭は上)
③ ∃∀(鏡の外、頭は下)
である以上、
我々が、「後ろを振り返る」際に、
②「Α(頭を上)」にして「振り返る人」= 0%
③「∀(逆立ち)」をして「振り返る人」=100%
であれば、
① ∃Α(鏡の中、頭は上)
を見て、
③ ∃∀(鏡の外、頭は下)
と「比較」して、我々が、思ふことは、
③ ∃∀(鏡は、左右ではなく、上下を反対にする)。
といふことに、違ひない。
従って、
(18)により、
(19)
我々が、「後ろを振り返る」際に、
②「Α(頭を上)」にして「振り返る人」= 0%
③「∀(逆立ち)」をして「振り返る人」=100%
であるならば、
③ 鏡が左右でなく上下を反対にするのはなぜでしょうか ...?
といふ「疑問」を持つに、違ひない。
平成27年08月14・18日、毛利太(ONOMAMEUS)。
(20)
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閲覧数:79 回答数:0 お礼:50枚
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10149066575
(21)
このまま、回答数が0である場合は、「質問」自体が、Web上から、削除されます。
(22)
因みに、「回答数:0」の時点での、「検索順位」は、
グーグル=8位。ヤフー!=8位。ビーング=8位。
です。
平成27年08月20日、毛利太(ONOMAMEUS)。
cf.
A lot of people seem to ask this question when they wear a T-shirt in front of a mirror(多くの人は、Tシャツを着て鏡の前に立ってゐる時に、このことを、疑問に思ふ、やう
である)。
(02)
② ΑΕ と書かれた「Tシャツ」を着て、「鏡」に向かへば、「鏡の中」で、「ΑΕの文字」は、
① ∃Α に見える。
(03)
② ΑΕ と書かれた「Tシャツ」を、「自分」に向ければ、「鏡の外」で、「ΑΕの文字」は、
② ΑΕ に見える。
(04)
② ΑΕ と書かれた「Tシャツ」を、「逆に」して「自分」に向ければ、「鏡の外」で、「ΑΕの文字」は、
③ ∃∀ に見える。
従って、
(05)
② ΑΕ と書かれた「Tシャツ」を着た人物が、
②「回れ右」をして、「こちらを向いてゐる」のであれば、
② ΑΕ の文字は、
② ΑΕ に見えなければならないものの、「鏡の中」では、
① ∃Α に見える。
(06)
② ΑΕ と書かれた「Tシャツ」を着た人物が、
③「逆立ち」して「こちらを向いてゐる」のであれば、
② ΑΕ の文字は、
③ ∃∀ に見えなければならないものの、「鏡の中」では、
① ∃Α に見える。
然るに、
(07)
① ∃Α を、「基準」にすると、
② ΑΕ は、「上下が等しく・左右が逆」であり、
③ ∃∀ は、「左右が等しく・上下が逆」である。
従って、
(05)(07)により、
(08)
② 鏡が上下でなく左右を反対にするのはなぜでしょうか ... - Yahoo!知恵袋
といふ「質問」は、
② ΑΕ と書かれた「Tシャツ」を着た人物が、
②「回れ右」をして、「こちらを向いてゐる」のであれば、
② ΑΕ の文字は、
② ΑΕ に見えなければならないものの、「鏡の中」では、
① ∃Α に見えるのは、何故か?
といふ「質問」に、他ならない。
従って、
(06)(07)により、
(09)
② ΑΕ と書かれた「Tシャツ」を着た人物が、
③「逆立ち」して「こちらを向いてゐる」のであれば、
② ΑΕ の文字は、
③ ∃∀ に見えなければならないものの、「鏡の中」では、
① ∃Α に見えるのは、何故か?
といふことを、「疑問」に思ふのであれば、
③ 鏡が左右でなく上下を反対にするのはなぜでしょうか ...?
といふ「質問」を、行ふことに、なる。
然るに、
(10)
我々が、「後ろを振り返る」際に、
③「逆立ち」をして「振り返る人」≒0%
である。
従って、
(09)(10)により、
(11)
③ 鏡が左右でなく上下を反対にするのはなぜでしょうか ...?
といふ「質問」を行ふ人は、ほとんど、皆無である。
(12)
ΑΕ と書かれた「Tシャツ」を、着てゐる場合も、
ΑΕ と書かれた「Tシャツ」を、手に持ってゐる場合も、「結果」は、変はらない。
従って、
(01)~(12)により、
(13)
鏡に映ると、左右が反対になって見える。この「鏡映反転」は、これまで、1つの現象だと考えられてきた。しかし、自分の鏡映反転と文字の鏡映反転は、それぞれ、別の理由で起きる、
別の現象だということがわかった(「鏡の左右逆転 1種類ではなかった」 | 東京大学)。
といふことは、有り得ない。
(14)
②「Tシャツを着てゐる人物」は、「三次元(立体)」であって、
②「Tシャツに書かれた文字」は、「二次元(平面)」である。
然るに、
(15)
②「Tシャツに書かれた文字」が、「二次元(平面)」である以上、
① ∃Α(鏡の中)
② ΑΕ(鏡の外)
③ ∃∀(鏡の外)
といふ「三通り」に、「奥行」は無い。
従って、
(15)により、
(16)
鏡は、「奥行」を反転させる。 としても、
鏡は、「奥行」を反転させない。としても、
② 鏡が上下でなく左右を反対にするのはなぜでしょうか ... - Yahoo!知恵袋
③ 鏡が左右でなく下上を反対にするのはなぜでしょうか ...?
といふ「疑問」は、無くならない。
(17)
② 鏡が上下でなく左右を反対にするのはなぜでしょうか ... - Yahoo!知恵袋
といふ「疑問」が生じる「所以」は、
①「鏡の中の人物」は、
②「Α(回れ右)」も、
③「∀(逆立ち)」もしてゐない。
にも拘らず、
②「Α(頭を上)」にして「振り返る人」≒100%
③「∀(逆立ち)」をして「振り返る人」≒ 0%
といふ、「現実」からの「SUGGESTION」に従って、
①「鏡の中の人物」は、
②「Α(回れ右)」をしてゐる。
といふ風に、思ふからに、他ならない。
従って、
(17)により、
(18)
① ∃Α(鏡の中、頭は上)
② ΑΕ(鏡の外、頭は上)
③ ∃∀(鏡の外、頭は下)
である以上、
我々が、「後ろを振り返る」際に、
②「Α(頭を上)」にして「振り返る人」= 0%
③「∀(逆立ち)」をして「振り返る人」=100%
であれば、
① ∃Α(鏡の中、頭は上)
を見て、
③ ∃∀(鏡の外、頭は下)
と「比較」して、我々が、思ふことは、
③ ∃∀(鏡は、左右ではなく、上下を反対にする)。
といふことに、違ひない。
従って、
(18)により、
(19)
我々が、「後ろを振り返る」際に、
②「Α(頭を上)」にして「振り返る人」= 0%
③「∀(逆立ち)」をして「振り返る人」=100%
であるならば、
③ 鏡が左右でなく上下を反対にするのはなぜでしょうか ...?
といふ「疑問」を持つに、違ひない。
平成27年08月14・18日、毛利太(ONOMAMEUS)。
(20)
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(21)
このまま、回答数が0である場合は、「質問」自体が、Web上から、削除されます。
(22)
因みに、「回答数:0」の時点での、「検索順位」は、
グーグル=8位。ヤフー!=8位。ビーング=8位。
です。
平成27年08月20日、毛利太(ONOMAMEUS)。
cf.
2015年8月14日金曜日
漢文は、英語よりも、論理学的である。
(01)
① You must remember.
② You must not remember.
に於いて、
①と②は、「矛盾」する。
然るに、
(02)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、Elementary Logic、1972年、15頁)。
従って、
(02)により、
(03)
② ~(You must not remember.
③ ~(You must not remember).
に於いて、
②と③は、「矛盾」する。
従って、
(02)(03)により、
(04)
③ ~(~(You must not remember).
④ ~(~(You must not remember)).
に於いて、
③と④は、「矛盾」する。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① You mustnot( remember.
② You must not remember.
③ ~(~(You must not remember).
④ ~(~(You must not remember)).
に於いて、
①と②は、「矛盾」し、
②と③は、「矛盾」し、
③と④は、「矛盾」するため、
①=③ であって、
②=④ である。
然るに、
(06)
not remember=forget
従って、
(05)(06)により、
(07)
② ~(~(You must forget.
④ ~(~(You must forget)).
に於いて、
②=④ である。
すなはち、
(08)
~(~(P)), P
は等値である。なぜなら、Pを再び任意の表述と考えてみよう。もしPが真なら、~(P)は偽になり、そしてその否定の~(~(P))は、今度は真となる;ところが、もしPが偽なら、~(P)は真、そして、~(~(P))は偽になる。それゆえ、いずれの場合にも、~(~(P))とPの真理値は同じになる(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、Elementary Logic、1972年、61頁改)。
といふ「理由」により、
P=You must forget.
である時、
② ~(~(You must forget.
④ ~(~(You must forget)).
に於いて、
②=④ である。
然るに、
(09)
(08)のやうな「説明」は、「任意の表述」や、「真理値」の意味を、知ってゐない限り、理解できないし、固より、
② You must forget.
といふ「英語」に対して、
④ ~( ~(You must forget)).
に相当する「英語」は、実際には、無い。
然るに、
(10)
② 可忘=忘るべし。
④ 非不可忘=忘るべからざるに非ず。
といふ「漢文」に於いて、
②=④ である。
といふことは、固より、当然である。
(11)
⑤ 無人不死=
⑤ 不有人而不死=
⑤ 不有人x而不x死=
⑤ 不(有(人x而不(死x))=
⑤ ~(∃x(Mx&~(Dx)))=
⑤ xは人であり、xは死なない。といった、そのやうなxは、存在しない。
従って、
(11)により、
(12)
⑤ ~(∃x(Mx&~(Dx)))
といふ「述語論理」は、
⑤ 無人不死=
⑤ 無(人不(死))⇒
⑤ (人(死)不)無=
⑤ (人として(死せ)不るは)無し=
⑤ 人である限り、死なない者は、ゐない。
といふ、意味である。
従って、
(12)により、
(13)
⑤ 無人不死=
⑤ 不有人而不死。
といふ「漢文」を知ってゐる限り、
⑤ ~(∃x(Mx&~(Dx)))
といふ「述語論理」は、少しも、難しくはない。
然るに、
(14)
⑤ No man doesn’t die=人は、死にません(ヤフー!翻訳)。
⑤ No Man doesn’t die=人は、死にません(ヤフー!翻訳)。
従って、
(13)(14)により、
(15)
⑤ 無人不死。
といふ「漢文」ではなく、
⑤ No man doesn’t die.
といふ「英語」を知ってゐても、
⑤ ~(∃x(Mx&~(Dx)))
といふ「述語論理」の理解する上では、役に、立たない。
従って、
(09)(10)(15)により、
(16)
少なくとも、
② 可忘=忘るべし。
④ 非不可忘=忘るべからざるに非ず。
⑤ 無人不死=人として死せ不る無し。
② You must forget.
④ ~( ~(You must forget)).
⑤ No man doesn’t die.
といふ「例文」から判断する限り、漢文は、英語よりも、「論理学的」である。
然るに、
(17)
巷で言われてゐるやうに、「英語」は、たぶん、「論理的」である。
従って、
(16)(17)により、
(18)
「英語」は、「論理的」ではあっても、「論理学的」ではない。
平成27年08月14日、毛利太。
① You must remember.
② You must not remember.
に於いて、
①と②は、「矛盾」する。
然るに、
(02)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、Elementary Logic、1972年、15頁)。
従って、
(02)により、
(03)
② ~(You must not remember.
③ ~(You must not remember).
に於いて、
②と③は、「矛盾」する。
従って、
(02)(03)により、
(04)
③ ~(~(You must not remember).
④ ~(~(You must not remember)).
に於いて、
③と④は、「矛盾」する。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① You mustnot( remember.
② You must not remember.
③ ~(~(You must not remember).
④ ~(~(You must not remember)).
に於いて、
①と②は、「矛盾」し、
②と③は、「矛盾」し、
③と④は、「矛盾」するため、
①=③ であって、
②=④ である。
然るに、
(06)
not remember=forget
従って、
(05)(06)により、
(07)
② ~(~(You must forget.
④ ~(~(You must forget)).
に於いて、
②=④ である。
すなはち、
(08)
~(~(P)), P
は等値である。なぜなら、Pを再び任意の表述と考えてみよう。もしPが真なら、~(P)は偽になり、そしてその否定の~(~(P))は、今度は真となる;ところが、もしPが偽なら、~(P)は真、そして、~(~(P))は偽になる。それゆえ、いずれの場合にも、~(~(P))とPの真理値は同じになる(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、Elementary Logic、1972年、61頁改)。
といふ「理由」により、
P=You must forget.
である時、
② ~(~(You must forget.
④ ~(~(You must forget)).
に於いて、
②=④ である。
然るに、
(09)
(08)のやうな「説明」は、「任意の表述」や、「真理値」の意味を、知ってゐない限り、理解できないし、固より、
② You must forget.
といふ「英語」に対して、
④ ~( ~(You must forget)).
に相当する「英語」は、実際には、無い。
然るに、
(10)
② 可忘=忘るべし。
④ 非不可忘=忘るべからざるに非ず。
といふ「漢文」に於いて、
②=④ である。
といふことは、固より、当然である。
(11)
⑤ 無人不死=
⑤ 不有人而不死=
⑤ 不有人x而不x死=
⑤ 不(有(人x而不(死x))=
⑤ ~(∃x(Mx&~(Dx)))=
⑤ xは人であり、xは死なない。といった、そのやうなxは、存在しない。
従って、
(11)により、
(12)
⑤ ~(∃x(Mx&~(Dx)))
といふ「述語論理」は、
⑤ 無人不死=
⑤ 無(人不(死))⇒
⑤ (人(死)不)無=
⑤ (人として(死せ)不るは)無し=
⑤ 人である限り、死なない者は、ゐない。
といふ、意味である。
従って、
(12)により、
(13)
⑤ 無人不死=
⑤ 不有人而不死。
といふ「漢文」を知ってゐる限り、
⑤ ~(∃x(Mx&~(Dx)))
といふ「述語論理」は、少しも、難しくはない。
然るに、
(14)
⑤ No man doesn’t die=人は、死にません(ヤフー!翻訳)。
⑤ No Man doesn’t die=人は、死にません(ヤフー!翻訳)。
従って、
(13)(14)により、
(15)
⑤ 無人不死。
といふ「漢文」ではなく、
⑤ No man doesn’t die.
といふ「英語」を知ってゐても、
⑤ ~(∃x(Mx&~(Dx)))
といふ「述語論理」の理解する上では、役に、立たない。
従って、
(09)(10)(15)により、
(16)
少なくとも、
② 可忘=忘るべし。
④ 非不可忘=忘るべからざるに非ず。
⑤ 無人不死=人として死せ不る無し。
② You must forget.
④ ~( ~(You must forget)).
⑤ No man doesn’t die.
といふ「例文」から判断する限り、漢文は、英語よりも、「論理学的」である。
然るに、
(17)
巷で言われてゐるやうに、「英語」は、たぶん、「論理的」である。
従って、
(16)(17)により、
(18)
「英語」は、「論理的」ではあっても、「論理学的」ではない。
平成27年08月14日、毛利太。
2015年8月9日日曜日
日本語と、ド・モルガンの法則。
(01)
① ~(A&B)= ~A∨~B : ドモルガンの法則。
② ~A∨~B = A → ~B : 含意の定義。
③ A → ~B = B → ~A : 対偶律。
従って、
(01)により、
(02)
① ~(A&B)
② A → ~B
③ B → ~A
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(02)により、
(03)
「日本語」の「語順」であれば、
①(A&B)~
② A → B~
③ B → A~
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(03)により、
(04)
①「Aであって、Bである。」といふことは、ない。
② Aならば、Bでない。
③ Bならば、Aでない。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(05)
①「人間であって、不死身である。」といふことは、ない。
② 人間ならば、不死身でない(人間は皆、いつかは死ぬ)。
③ 不死身であるならば、人間でない(死なない人間は、ゐない)。
に於いて、
①=②=③ である。
といふことは、「当然」である。
従って、
(01)~(05)により、
(06)
①「人間であって、不死身である。」といふことは、ない。
② 人間ならば、不死身でない。
③ 不死身であるならば、人間でない
といふ「日本語」に於いて、
①=②=③ である。
である。といふことを、「理解」出来るのであれば、その人は、
① ~(A&B)= ~A∨~B : ドモルガンの法則。
② ~A∨~B = A → ~B : 含意の定義。
③ A → ~B = B → ~A : 対偶律。
といふ「論理学」を、「常識」として、「理解」している。ことになる。
従って、
(06)により、
(07)
日本語は非論理的であり、論理的思考に向いていないと思い込んでいる人が多い(月本洋、日本語は論理的である、2009年、2頁)。
とするならば、そのやうな「理解」は、「偏見」である。
平成27年08月09日、毛利太。
① ~(A&B)= ~A∨~B : ドモルガンの法則。
② ~A∨~B = A → ~B : 含意の定義。
③ A → ~B = B → ~A : 対偶律。
従って、
(01)により、
(02)
① ~(A&B)
② A → ~B
③ B → ~A
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(02)により、
(03)
「日本語」の「語順」であれば、
①(A&B)~
② A → B~
③ B → A~
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(03)により、
(04)
①「Aであって、Bである。」といふことは、ない。
② Aならば、Bでない。
③ Bならば、Aでない。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(05)
①「人間であって、不死身である。」といふことは、ない。
② 人間ならば、不死身でない(人間は皆、いつかは死ぬ)。
③ 不死身であるならば、人間でない(死なない人間は、ゐない)。
に於いて、
①=②=③ である。
といふことは、「当然」である。
従って、
(01)~(05)により、
(06)
①「人間であって、不死身である。」といふことは、ない。
② 人間ならば、不死身でない。
③ 不死身であるならば、人間でない
といふ「日本語」に於いて、
①=②=③ である。
である。といふことを、「理解」出来るのであれば、その人は、
① ~(A&B)= ~A∨~B : ドモルガンの法則。
② ~A∨~B = A → ~B : 含意の定義。
③ A → ~B = B → ~A : 対偶律。
といふ「論理学」を、「常識」として、「理解」している。ことになる。
従って、
(06)により、
(07)
日本語は非論理的であり、論理的思考に向いていないと思い込んでいる人が多い(月本洋、日本語は論理的である、2009年、2頁)。
とするならば、そのやうな「理解」は、「偏見」である。
平成27年08月09日、毛利太。
2015年8月8日土曜日
「二畳庵主人、漢文法基礎、109頁」
(01)
例えば、日本語で「字を書き、書を読まず」と言ふと、意味がはっきりしない。すなわち、(ア)字は書くが、本を読まない。(イ)字を書かないし、本も読まない。という両方が考えられるからである。ところが、漢文では、ありがたいことに目で見てイッパツで(ア)か(イ)かわかるんだ。次の漢文をみよ。否定を表すことばの代表は「不」で助動詞「ず」をあてて読むこと。ただし「ず」という送りがなはつけない。
(ア)を見ると、「不」は「読書」だけにかかっているが、(イ)では「不」は全部にかかっている。だから、否定形が出てくると、まず何よりも、どこまでかかっているか、ということを第一に考えよ
(加地伸行、漢文法基礎、2010年、109頁)。
(02)
① 書字不読書=
① 書(字)不〔読(書)〕⇒
① (字)書〔(書)読〕不=
① (字を)書くも〔(書は)読ま〕ず。
(03)
② 不書字読書=
② 不〔書(字)読(書)〕⇒
② 〔(字)書(書)読〕不=
② 〔(字を)書き(書を)読ま〕ず。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 書字不読書。
① 字を書くも、書は読まず。
とする一方で、
② 不書字読書。
② 字を書き、書を読まず。
とする限り、
① 書字不読書。
② 不書字読書。
に於いて、
①と②の「区別」が付かない。といふことには、ならない。
cf.
も[三](接助)①逆説の確定条件を表す。・・・のに。「内裏にへ参らむとおぼしつるも、出で立たれず」〔源氏・橋姫〕(旺文社、高校基礎古語辞典)
(05)
(イ)字を書かないし、本も読まない。
といふことは、
③ 不書字不読書=
③ 不〔書(字)〕不〔読(書)〕⇒
③ 〔(字)書〕不〔(書)読〕不=
③ 〔(字を)書か〕ず〔(書も)読ま〕ず。
といふことに、他ならない。
然るに、
(06)
② 不書字読書=
② 不〔書(字)読(書)〕⇒
② 〔(字)書(書)読〕不=
② 〔(字を)書き(書を)読ま〕不。
といふ「漢文」と、
③ 不書字不読書=
③ 不〔書(字)〕不〔読(書)〕⇒
③ 〔(字)書〕不〔(書)読〕不=
③ 〔(字を)書か〕ず〔(書も)読ま〕ず。
といふ「漢文」が、「等しい」のであれば、
② ~(A&B)
といふ「論理式」は、
③ ~(A)&~(B)
といふ「論理式」に、「等しい」。
然るに、
(07)
「ド・モルガンの法則」により、
② ~(A&B)=
③ ~(A)&~(B)
は、「間違ひ」であって、
② ~(A&B)=
③ ~(A)∨~(B)
が、「正しい」。
従って、
(05)~(07)により、
(08)
仮に、
といふ「解釈」を、するのであれば、「漢文」に於いて、「ド・モルガンの法則」は、成り立たない。
(09)
④ 不以其道得之=
④ 不〔以(其道)得(之)〕⇒
④ 〔(其道)以(之)得〕不=
④ 〔(其の道を)以て(之を)得〕ず。
(10)
⑤ 不以其道得之=
⑤ 不〔以(其道)〕得(之)⇒
⑤ 〔(其道)以〕不(之)得=
⑤ 〔(其の道を)以てせ〕ずして(之を)得。
然るに、
(11)
新注では「其の道を以てせずして、これを得れば、・・・・・・。」と読む(岩波文庫、論語、1963年、72頁)。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
④ 不(以其道得之)。
⑤ 不(以其道)得之。
に於いて、
④ は、「古注」であって、
⑤ は、「新注」である。
cf.
南宋の朱子は、独自の立場から注釈を作り『論語集注』(新注)としてまとめた(ウィキペディア)。
従って、
(12)により、
(13)
① 不書字読書。
② 不書字読書。
であっても、
① 不(書字)読書=字を書かず、書を読む。
② 不(書字読書)=字を書き、書を読まず。
といふ、「二通りの解釈」が、「可能」である。
平成27年08月08日、毛利太。
例えば、日本語で「字を書き、書を読まず」と言ふと、意味がはっきりしない。すなわち、(ア)字は書くが、本を読まない。(イ)字を書かないし、本も読まない。という両方が考えられるからである。ところが、漢文では、ありがたいことに目で見てイッパツで(ア)か(イ)かわかるんだ。次の漢文をみよ。否定を表すことばの代表は「不」で助動詞「ず」をあてて読むこと。ただし「ず」という送りがなはつけない。
(ア)を見ると、「不」は「読書」だけにかかっているが、(イ)では「不」は全部にかかっている。だから、否定形が出てくると、まず何よりも、どこまでかかっているか、ということを第一に考えよ
(加地伸行、漢文法基礎、2010年、109頁)。
(02)
① 書字不読書=
① 書(字)不〔読(書)〕⇒
① (字)書〔(書)読〕不=
① (字を)書くも〔(書は)読ま〕ず。
(03)
② 不書字読書=
② 不〔書(字)読(書)〕⇒
② 〔(字)書(書)読〕不=
② 〔(字を)書き(書を)読ま〕ず。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 書字不読書。
① 字を書くも、書は読まず。
とする一方で、
② 不書字読書。
② 字を書き、書を読まず。
とする限り、
① 書字不読書。
② 不書字読書。
に於いて、
①と②の「区別」が付かない。といふことには、ならない。
cf.
も[三](接助)①逆説の確定条件を表す。・・・のに。「内裏にへ参らむとおぼしつるも、出で立たれず」〔源氏・橋姫〕(旺文社、高校基礎古語辞典)
(05)
(イ)字を書かないし、本も読まない。
といふことは、
③ 不書字不読書=
③ 不〔書(字)〕不〔読(書)〕⇒
③ 〔(字)書〕不〔(書)読〕不=
③ 〔(字を)書か〕ず〔(書も)読ま〕ず。
といふことに、他ならない。
然るに、
(06)
② 不書字読書=
② 不〔書(字)読(書)〕⇒
② 〔(字)書(書)読〕不=
② 〔(字を)書き(書を)読ま〕不。
といふ「漢文」と、
③ 不書字不読書=
③ 不〔書(字)〕不〔読(書)〕⇒
③ 〔(字)書〕不〔(書)読〕不=
③ 〔(字を)書か〕ず〔(書も)読ま〕ず。
といふ「漢文」が、「等しい」のであれば、
② ~(A&B)
といふ「論理式」は、
③ ~(A)&~(B)
といふ「論理式」に、「等しい」。
然るに、
(07)
「ド・モルガンの法則」により、
② ~(A&B)=
③ ~(A)&~(B)
は、「間違ひ」であって、
② ~(A&B)=
③ ~(A)∨~(B)
が、「正しい」。
従って、
(05)~(07)により、
(08)
仮に、
といふ「解釈」を、するのであれば、「漢文」に於いて、「ド・モルガンの法則」は、成り立たない。
(09)
④ 不以其道得之=
④ 不〔以(其道)得(之)〕⇒
④ 〔(其道)以(之)得〕不=
④ 〔(其の道を)以て(之を)得〕ず。
(10)
⑤ 不以其道得之=
⑤ 不〔以(其道)〕得(之)⇒
⑤ 〔(其道)以〕不(之)得=
⑤ 〔(其の道を)以てせ〕ずして(之を)得。
然るに、
(11)
新注では「其の道を以てせずして、これを得れば、・・・・・・。」と読む(岩波文庫、論語、1963年、72頁)。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
④ 不(以其道得之)。
⑤ 不(以其道)得之。
に於いて、
④ は、「古注」であって、
⑤ は、「新注」である。
cf.
南宋の朱子は、独自の立場から注釈を作り『論語集注』(新注)としてまとめた(ウィキペディア)。
従って、
(12)により、
(13)
① 不書字読書。
② 不書字読書。
であっても、
① 不(書字)読書=字を書かず、書を読む。
② 不(書字読書)=字を書き、書を読まず。
といふ、「二通りの解釈」が、「可能」である。
平成27年08月08日、毛利太。
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