2015年8月23日日曜日

返り点に対する「括弧」の説明(mirror image)。

(01)
①「鏡の中の自分」は、
②「回れ右」をしてゐないし、
③「逆立ち」iもしてゐない。
ところが、
(02)
①「鏡の中の自分」は、
③「逆立ち」iはしてゐなくとも、
②「回れ右」はしてゐるはずである。
といふ風に、思い込む人が、大半であって、その「結果」として、
② 鏡が上下でなく左右を反対にするのはなぜでしょうか ... - Yahoo!知恵袋
といふ「疑問」が、生じることになる。
(03)
① ◇〔△(囗)〕⇔〔(囗)△〕◇
等を、「mirror image」とする。
(04)
② 不〔読(文)〕⇒〔(文)読〕不。
等を、「ミラーイメージ」とする。
従って、
(04)により、
(05)
② 不〔読(文)〕⇒〔(文)読〕不。
に対して、
③ 我不〔読(文)〕常漢⇒ 我〔(文)読〕不。
③ 我不〔常読(文)〕⇒ 我〔常(文)読〕不。
③ 我不〔常読(漢文)〕⇒ 我〔常(漢文)読〕不。
等は、「ミラーイメージ」ではない。
従って、
(04)(05)により、
(06)
例へば、
③ 我不常読漢文=
③ 我不〔常読(漢文)〕⇒
③ 我〔常(漢文)読〕不=
③ 我〔常には(漢文を)読ま〕不。
といふ「漢文訓読」は、「漢文」と「和文」の、「ミラーイメージでない部分」をそのままにして、「漢文」の、「ミラーイメージの部分」の「左右」を「入れ換へる」ことによって、成立する。
然るに、
(07)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
③ 我不常読漢文。
に於いて、
③ 我=主語
③ 常=修飾語
③ 漢=修飾語
に関しては、「ミラーイメージではない部分」であって、
③ 不=否定詞
③ 読=他動詞
③ 文=補足語
に関しては、「ミラーイメージの部分」であって、
③ 我不〔常読(漢文)〕
に於ける、
③ _不〔_読(_文)〕
は、「補足構造」を、表してゐる。
従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
③ 我不常読漢文=
③ 我不〔常読(漢文)〕⇒
③ 我〔常(漢文)読〕不=
③ 我〔常には(漢文を)読ま〕不。
といふ「漢文訓読」や、例へば、
④ 凡人莫不従其所可而去其所不可=
④ 凡人莫{不[従〔其所(可)〕而去〔其所(不可)〕]}⇒
④ 凡人{[〔其(可)所〕従而〔其(不可)所〕去]不}莫=
④ 凡そ人は其の可とする所に従ひて其の不可とする所を去らざること莫し。
といふ「漢文訓読」は、「漢文」と「和文」の、「補足構造」に係はる「語順」を、「逆」にすることによって、成立する。
然るに、
(10)
③ 我不〔常読(漢文)〕⇒ 我〔常(漢文)読〕不。
③ 1 6 〔2 5(3 4)〕)i⇒ 1〔2(3 4)5〕6。
然るに、
(11)
6>2
6>5
6>3
6>4
1<2<3<4
であって、
5>3
5>4
3<4
である。
従って、
(10)(11)により、
(12)
便宜上、
不>常
不>読
不>漢
不>文
我<常<漢<文
であって、
読>漢
読>文
漢<文
である。と、「見なす」ことが出来る。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
③ 我不常読漢文。
③ 1 6 2 5 3 4。
といふ二つには、「共通の構造」が有って、その「構造」を、「括弧」で表した「形」が、
③ 我不〔常読(漢文)〕。
③ 1 6〔2 5(3 4)〕。
といふ「括弧」である。と、すべきである。
然るに、
(14)
例えば、京都大学において、その中国文化の研究について、大きな基礎を作られた狩野直喜氏(一八六六~一九四七)は、その教えを受けた倉石武四郎(一八九七~」に、かつて「自分たちが訓読するのは、そういう習慣になっていたから、いちおう訓読するだけで、実は、原文を直読しているのである」と語られたという(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、385頁)。
従って、
(09)(13)(14)により、
(15)
例へば、
④ 凡人莫不従其所可而去其所不可=
④ 凡そ人は其の可とする所に従ひて其の不可とする所を去らざること莫し。
といふ風に、「直読」出来る。といふことは、
④ 凡人莫不従其所可而去其所不可。
といふ「漢文」を見ると同時に、
④ 凡人莫不従其所可而去其所不可=
④ 凡人莫{不[従〔其所(可)〕而去〔其所(不可)〕]}。
のやうに、「感じる」ことが出来る。
のであらうと、思はれる。
(16)
④ 凡人莫不従其所可而去其所不可=
④ 凡人莫{不[従〔其所(可)〕而去〔其所(不可)〕]}。
のやうに「見える」と言へば、それは、「比喩」であるが、
④ 凡人莫不従其所可而去其所不可=
④ 凡人莫{不[従〔其所(可)〕而去〔其所(不可)〕]}。
のやうに、「感じる」のであらうと、思はれる。
(17)
さうでなければ、「自分たちが訓読するのは、そういう習慣になっていたから、いちおう訓読するだけで、実は、原文を直読しているのである」といふことは、有り得ない。はずである。
然るに、
(18)
④ 凡人莫不従其所可而去其所不可=
④ 凡そ人は其の可とする所に従ひて其の不可とする所を去らざること莫し。
の「音読」は、例へば、
④ 凡人莫不従其所可而去其所不可=
④ ハンジンバクフツショウキショカジキョショフツカ。
である。
然るに、
(19)
④ オヨソヒトワソノカトスルトコロニシタガイテソノフカトスルトコロヲサラザルコトナシ。
といふ「音」と、
④ ハンジンバクフツショウキショカジキョショフツカ。
といふ「音」は、「同じ」ではない。
従って、
(14)(18)(19)により、
(20)
「文字」は、「音声」を、写してゐるのではない?
平成27年08月23・25日、毛利太。

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