(01)
古田島氏が返り点を非論理的だと指摘する根拠は、足りなくなる可能性があるからということらしい。しかし、これは簡単に解決できる。すべて一二点に変換すればいいのである。一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった(ブログ:困窮庵日乗)。
(02)
① 1 2 3 4 5 6 7 8 9
② Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅴ Ⅵ Ⅶ Ⅷ Ⅸ
③ 一 二 三 四 五 六 七 八 九
は、「数字(アラビア・ローマ・漢)」であって、
①=②=③ である。
然るに、
(03)
① 9 8 6 3 2 1 5 4 7 =
① 9〈8{6[3〔2(1)〕5(4)]7}〉
に於いて、
① 2( )⇒( )1
① 3〔 〕⇒〔 〕3
① 5( )⇒( )5
① 6[ ]⇒[ ]6
① 8{ }⇒{ }8
① 9〈 〉⇒〈 〉9
とするならば、
① 〈{[〔(1)2〕3(4)5]67}8〉9 =
① 1 2 3 4 5 6 7 8 9
加へて、
(04)
② 三 二 Ⅲ 3 2 1 Ⅱ Ⅰ 一 =
② 三〈二{Ⅲ[3〔2(1)〕Ⅱ(Ⅰ)]一}〉
に於いて、
② 2( )⇒( )1
② 3〔 〕⇒〔 〕3
② Ⅱ( )⇒(Ⅰ)Ⅱ
② Ⅲ[ ]⇒[ ]Ⅲ
② 二{ }⇒{ }一
② 三〈 〉⇒〈 〉三
とするならば、
② 〈{[〔(1)2〕3(Ⅰ)Ⅱ]Ⅲ一}二〉三 =
② 1 2 3 Ⅰ Ⅱ Ⅲ 一 二 三
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 9 8 6 3 2 1 5 4 7 と、
② 三 二 Ⅲ 3 2 1 Ⅱ Ⅰ 一 は、
① 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ( ) ] } 〉
② 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ( ) ] } 〉
を介して、「等しい」。
然るに、
(06)
① 1 2 3
② Ⅰ Ⅱ Ⅲ
③ 一 二 三
といふ「数字(返り点)」は、
① 一 二 三
② 上 中 下
③ 甲 乙 丙
といふ「返り点(数字)」に、「置き換へ」ることが、出来る。
従って、
(02)(05)(06)により、
(07)
③ 九 八 六 三 二 一 五 四 七 と、
④ 丙 乙 下 三 二 一 中 上 甲 は、
③ 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ( ) ] } 〉
④ 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ( ) ] } 〉
を介して、「等しい」。
然るに、
(08)
④ 三 ← 二 ← 一
④ 下 ← 中 ← 上
④ 丙 ← 乙 ← 甲
は、三つとも、「右から左へ、返ってゐる」。
従って、
(09)
「縦書き」であれば、
④ 丙 乙 下 三 二 一 中 上 甲
に於いて、
④ 三 ← 二 ← 一
④ 下 ← 中 ← 上
④ 丙 ← 乙 ← 甲
は、三つとも、「下から上へ、返ってゐる」。
然るに、
(10)
③ 三 ← 二 ← 一
③ 三 → 四
③ 五 ← 四
③ 六 → 七
③ 九 ← 八 ← 七
の場合は、
③ 三 ← 二 ← 一
③ 五 ← 四
③ 九 ← 八 ← 七
に於いて、「右から左へ、返ってゐて」、
③ 三 → 四
③ 六 → 七
に於いて、「左から右へ、返ってゐる」。
従って、
(09)(10)により、
(11)
「縦書き」であれば、
③ 九 八 六 三 二 一 五 四 七
は、「下から上に返ったり、上から下に返ってゐて」、
④ 丙 乙 下 三 二 一 中 上 甲
は、「下から上に返ってゐる」。
然るに、
(12)
④「下から上に返ってゐる。」の方が、
③「下から上に返ったり、上から下に返ってゐる。」よりも、「読みにくい」はずがない。
従って、
(13)
① 一 二 三 四 五 六 七 八 九
よりも、
① 一 二 三
② 上 中 下
③ 甲 乙 丙
の方が、「読みやすい」。
(14)
このことは、
① 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ( ) ] } 〉
の方が、
① ( ( ( ( ( ) ) ( ) ) ) )
よりも「読みやすい」ことに、似てゐる。
従って、
(15)
一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった(ブログ:困窮庵日乗)。としても、
一二点だけでは、「読みにくい」が故に、今はない。
(16)
⑤ 1 14 13 2 11 3 7 4 6 5 8 10 9 12=
⑤ 1 14〈13{2 11[3 7〔4 6(5)〕8 10(9)]12}〉⇒
⑤ 1〈{2[3〔4(5)6〕7 8(9)10]11 12}13〉14=
⑤ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14
従って、
(05)(07)(16)により、
(17)
① 9 8 6 3 2 1 5 4 7
に対して、「返り点」を付けよといふ「問題」は、
⑤ 1 14 13 2 11 3 7 4 6 5 8 10 9 12
に対して、「返り点」を付けよといふ「問題」に、等しい。
cf.
従って、
(05)(07)(17)により、
(18)
「レ点」がなければ、
⑤ 1 14 13 2 11 3 7 4 6 5 8 10 9 12
に付く「返り点」は、
⑤ 丙 乙 下 三 二 一 中 上 甲
である。
(19)
「レ点」を用ゐれば、
⑤ 1 14 13 2 11 3 7 4 6 5 8 10 9 12
に付く「返り点」は、
⑤ レ 乙 下 二 一レ 上レ 甲
である。
従って、
(20)
① レ
② 一 二 三 四 五 六 七 八 九 ・ ・ ・ ・ ・ ・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬
⑤ 天 地 人
の「代はり」に、
① 1 2 3 4 5 6 7 8 9
② Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅴ Ⅵ Ⅶ Ⅷ Ⅸ
③ 一 二 三四 五 六 七 八 九
④ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬
を「返り点」とすることが、出来る。
(21)
① 1 2 3 4 5 6 7 8 9
② Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅴ Ⅵ Ⅶ Ⅷ Ⅸ
③ 一 二 三 四 五 六 七 八 九
④ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬
は、それぞれが、「数字」であるが、
① ② ③ ④
も、「数字」である。
従って、
(21)により、
(22)
① 1 2 3 4 5 6 7 8 9
② Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅴ Ⅵ Ⅶ Ⅷ Ⅸ
③ 一 二 三 四 五 六 七 八 九
④ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬
は、「数字の中」に、「数字」が入ってゐる。
然るに、
(23)
こういうロシアの入れ子人形のような性質を、コンピューター科学や言語学、心理学、哲学などではリカージョンと呼ぶ(ピダハン、317頁)。
従って、
(20)(22)(23)により、
(24)
「返り点」は、「リカージョン」である。
然るに、
(25)
① 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ( ) ] } 〉
① ( ( ( ( ( ) ) ( ) ) ) )
は、「入れ子」である。
従って、
(23)(25)により、
(26)
「括弧」も、「リカージョン」である。
平成27年11月27日、毛利太。
2015年11月27日金曜日
2015年11月25日水曜日
下 レ 上レ 二 一
(01)
(2)「未」は「いまダ~ズ」とよみ、「まだ~しない」の意で、「尚不」と同じである。
(中沢希男、 渋谷玲子、漢文訓読の基礎、90頁)
(02)
(7)比況と呼応するもの。
そのみさをあたかも(チョウド)天上の客の如し。(日本霊異記)
(代々木ゼミ方式 受験国文法、1980年、20頁)
(03)
【恰】① あたかも。ちょうど。
(旺文社、高校基礎漢和辞典、1984年、349頁)
(04)
【猶】②「なお~ごとし」とよみ「ちょうど~のようだ」と訳す。再読文字。
(改定新版、漢字源、1988年、973頁)
(05)
【蓋】[二]漢文で「なんぞ ・ ・ ・ ・ ・ ・ せざる」と返って読み、「どして ・ ・ ・ ・ ・ ・ しないのか」の意。蓋カフの音が何不カフに通ずるのでいう。(同)盍コウ(角川漢和中辞典、1959年、943頁)
従って、
(01)~(05)により、
(06)
「未」は「いまだ~ず」 と読み、「尚不」と同じである。
「尚」は「なほ~ごとし」と読み、「恰如」と同じである。
「盍」は「なんぞ~ざる」と読み、「何不」と同じである。
然るに、
(07)
「将」は「まさに~す」と読むものの、
「将」=「囗為」に当たる「囗」が、見つからない。
そのため、
(08)
以下では、仮に、
「将」=「且為」と、する。
従って、
(08)により、
(09)
吾将任彼而不用吾力焉=
吾且為[任(彼)而不〔用(吾力)〕]焉⇒
吾且[(彼)任而〔(吾力)用〕不]為焉=
吾且に[(彼に)任せて〔(吾が力を)用ゐ〕不らんと]す。
であるが、この場合、而は「接続詞」、焉 は、「置き字」である。
従って、
(09)により、
(10)
吾将任彼而不用吾力焉。
に付く「括弧」は、
[ ( )〔 ( ) 〕 ]
だけであって、他には無い。
然るに、
(11)
丁[二(一)丙〔乙(甲)〕]。
に於いて、
二(一)⇒(二)一
乙(甲)⇒(乙)甲
丙〔 〕⇒〔 〕丙
丁[ ]⇒[ ]丁
とするならば、
丁[二(一)丙〔乙(甲)〕]⇒
[(一)二〔(甲)乙〕丙]丁=
一 二 甲 乙 丙 丁。
従って、
(10)(11)により、
(12)
[ ( )〔 ( ) 〕 ]
といふ「括弧」は、
丁 二 一 丙 乙 甲
といふ「返り点」に、相当する。
然るに、
(13)
任(彼)⇒
(彼に)任す。
の場合は、「一字だけ」返ってゐる。
然るに、
(14)
大辞林 第三版の解説
れてん【レ点】
漢文訓読に用いる返り点の一。一字だけ返って読むという符号。「読レ書(書ヲ読ム)」「不レ明(明ラカナラズ)」の「レ」の類。かりがね点。
(10)~(14)により、
(15)
吾将任彼而不用吾力焉。
に付く「返り点」は、
丁 二 一 丙 乙 甲
ではなく、
四 レ 三 二 一
でなければ、ならない。
然るに、
(16)
従って、
(12)(15)(16)により、
(17)
吾将任彼而不用吾力焉。
に付く「括弧」は、
[ ( )〔 ( ) 〕 ]
だけであって、他には無いものの、
吾将任彼而不用吾力焉。
に付く「返り点」は、
四 レ 三 二 一
丁 二 一 丙 乙 甲
二 レ 一レ 二 一
下 レ 上レ 二 一
による、「四通り」が、有り得る。ことになる。
― 話は変はって、―
(18)
今の日本の中学・高校では英語・数学・国語を主要3教科と呼んでいますが、戦前、旧制の中学では英語・数学・国語・漢文が主要4教科でした。漢文は国語とは独立した教科だったんですね。読解はもとより、復文(書き下し文から原文を復元)や作文もやるし、これだけ高度な学習内容でしたから、白文の読解もなんのそのでした。しかし戦後、漢文は国語の一部である古典分野の、そのまた片隅に追いやられてしまいました。漢文の得意な教師は少なく、漢文に興味を持つ生徒も少なく、おまけに最近は大学入試科目から漢文が消えつつあるので、みんないやいやながら学んでいます。内容もたいしたことはなく、学者先生が返り点と送り仮名をつけた文章をえっちらおっちら読む程度です(Webサイト:漢文入門)。
(19)
本書は曩に世に公にした『国文解釋法』の姉妹編であつて、やはり諸官立學校の入學受驗準備を主要な目的として書いた本である。― 中略 ― あらゆる既知未知の問題 ― それもあまり高尚難澁でない問題に對して、白文に句讀訓點を施し、且つその文の大意が間違ひなく取れるだけの力がつけば、諸君の漢文受驗に對する豫備は十中八九は既に成つたものである。
(塚本哲三、漢文解釋法、1917年、緒言)
従って、
(18)(19)により、
(20)
大正の(国公立校の)受験生は、「白文」に対して、自分で「返り点」を付けるだけの実力が要求されてゐたのに対して、平成の高校の先生は、「学者先生が返り点と送り仮名をつけた文章を読む程度」の実力しか、期待されゐない。
cf.
純粋な白文というのは句点(。)も読点(.,)も全くなく,それこそ漢字が何十も何百も切れ目なく続いている漢文のことをいいます。白文が読めるようになるというのは,まず正確に句点や読点を打つことが出来るということです。この段階で,本当に漢文の出来る人と,そうではない人が分かります。その上で,正確に返り点や送り仮名をつけて訓読が出来るということです。一般の人であれば,句読点の全くない白文はまず無理であって,句読点のついた白文が読めるようになるだけでも大したものです(ohirune_daisukeさん 2010/1/2314:58:25)。
平成27年11月25日、毛利太。
(2)「未」は「いまダ~ズ」とよみ、「まだ~しない」の意で、「尚不」と同じである。
(中沢希男、 渋谷玲子、漢文訓読の基礎、90頁)
(02)
(7)比況と呼応するもの。
そのみさをあたかも(チョウド)天上の客の如し。(日本霊異記)
(代々木ゼミ方式 受験国文法、1980年、20頁)
(03)
【恰】① あたかも。ちょうど。
(旺文社、高校基礎漢和辞典、1984年、349頁)
(04)
【猶】②「なお~ごとし」とよみ「ちょうど~のようだ」と訳す。再読文字。
(改定新版、漢字源、1988年、973頁)
(05)
【蓋】[二]漢文で「なんぞ ・ ・ ・ ・ ・ ・ せざる」と返って読み、「どして ・ ・ ・ ・ ・ ・ しないのか」の意。蓋カフの音が何不カフに通ずるのでいう。(同)盍コウ(角川漢和中辞典、1959年、943頁)
従って、
(01)~(05)により、
(06)
「未」は「いまだ~ず」 と読み、「尚不」と同じである。
「尚」は「なほ~ごとし」と読み、「恰如」と同じである。
「盍」は「なんぞ~ざる」と読み、「何不」と同じである。
然るに、
(07)
「将」は「まさに~す」と読むものの、
「将」=「囗為」に当たる「囗」が、見つからない。
そのため、
(08)
以下では、仮に、
「将」=「且為」と、する。
従って、
(08)により、
(09)
吾将任彼而不用吾力焉=
吾且為[任(彼)而不〔用(吾力)〕]焉⇒
吾且[(彼)任而〔(吾力)用〕不]為焉=
吾且に[(彼に)任せて〔(吾が力を)用ゐ〕不らんと]す。
であるが、この場合、而は「接続詞」、焉 は、「置き字」である。
従って、
(09)により、
(10)
吾将任彼而不用吾力焉。
に付く「括弧」は、
[ ( )〔 ( ) 〕 ]
だけであって、他には無い。
然るに、
(11)
丁[二(一)丙〔乙(甲)〕]。
に於いて、
二(一)⇒(二)一
乙(甲)⇒(乙)甲
丙〔 〕⇒〔 〕丙
丁[ ]⇒[ ]丁
とするならば、
丁[二(一)丙〔乙(甲)〕]⇒
[(一)二〔(甲)乙〕丙]丁=
一 二 甲 乙 丙 丁。
従って、
(10)(11)により、
(12)
[ ( )〔 ( ) 〕 ]
といふ「括弧」は、
丁 二 一 丙 乙 甲
といふ「返り点」に、相当する。
然るに、
(13)
任(彼)⇒
(彼に)任す。
の場合は、「一字だけ」返ってゐる。
然るに、
(14)
大辞林 第三版の解説
れてん【レ点】
漢文訓読に用いる返り点の一。一字だけ返って読むという符号。「読レ書(書ヲ読ム)」「不レ明(明ラカナラズ)」の「レ」の類。かりがね点。
(10)~(14)により、
(15)
吾将任彼而不用吾力焉。
に付く「返り点」は、
丁 二 一 丙 乙 甲
ではなく、
四 レ 三 二 一
でなければ、ならない。
然るに、
(16)
従って、
(12)(15)(16)により、
(17)
吾将任彼而不用吾力焉。
に付く「括弧」は、
[ ( )〔 ( ) 〕 ]
だけであって、他には無いものの、
吾将任彼而不用吾力焉。
に付く「返り点」は、
四 レ 三 二 一
丁 二 一 丙 乙 甲
二 レ 一レ 二 一
下 レ 上レ 二 一
による、「四通り」が、有り得る。ことになる。
― 話は変はって、―
(18)
今の日本の中学・高校では英語・数学・国語を主要3教科と呼んでいますが、戦前、旧制の中学では英語・数学・国語・漢文が主要4教科でした。漢文は国語とは独立した教科だったんですね。読解はもとより、復文(書き下し文から原文を復元)や作文もやるし、これだけ高度な学習内容でしたから、白文の読解もなんのそのでした。しかし戦後、漢文は国語の一部である古典分野の、そのまた片隅に追いやられてしまいました。漢文の得意な教師は少なく、漢文に興味を持つ生徒も少なく、おまけに最近は大学入試科目から漢文が消えつつあるので、みんないやいやながら学んでいます。内容もたいしたことはなく、学者先生が返り点と送り仮名をつけた文章をえっちらおっちら読む程度です(Webサイト:漢文入門)。
(19)
本書は曩に世に公にした『国文解釋法』の姉妹編であつて、やはり諸官立學校の入學受驗準備を主要な目的として書いた本である。― 中略 ― あらゆる既知未知の問題 ― それもあまり高尚難澁でない問題に對して、白文に句讀訓點を施し、且つその文の大意が間違ひなく取れるだけの力がつけば、諸君の漢文受驗に對する豫備は十中八九は既に成つたものである。
(塚本哲三、漢文解釋法、1917年、緒言)
従って、
(18)(19)により、
(20)
大正の(国公立校の)受験生は、「白文」に対して、自分で「返り点」を付けるだけの実力が要求されてゐたのに対して、平成の高校の先生は、「学者先生が返り点と送り仮名をつけた文章を読む程度」の実力しか、期待されゐない。
cf.
純粋な白文というのは句点(。)も読点(.,)も全くなく,それこそ漢字が何十も何百も切れ目なく続いている漢文のことをいいます。白文が読めるようになるというのは,まず正確に句点や読点を打つことが出来るということです。この段階で,本当に漢文の出来る人と,そうではない人が分かります。その上で,正確に返り点や送り仮名をつけて訓読が出来るということです。一般の人であれば,句読点の全くない白文はまず無理であって,句読点のついた白文が読めるようになるだけでも大したものです(ohirune_daisukeさん 2010/1/2314:58:25)。
平成27年11月25日、毛利太。
2015年11月23日月曜日
再読文字(呼応の副詞)。
(01)
まったく【全く】(副)〔雅語。「またく」の強調形〕そうとしか形容できないほど強く感じることを表す。「―〔=いかなる意味においても・(全然)〕忘れていた・―〔=実に〕つらい話だ・―〔=お世辞抜きで〕うまいね・これは ― の幸運だった」〔元来は、否定表現を伴った〕
(新明解国語辞典 第四版、1991年、1222頁)
従って、
(01)により、
(02)
まったく【全く】(副)は、〔元来は、否定表現を伴った〕。
然るに、
(03)
たえて【絶えて】〔副〕①〔下に打消の語を伴って〕まったく(~ない)。全然(~ない)。
(古語林、1997年、802頁)
加へて、
(04)
(三)叙述の副詞(副詞の呼応)あるきまった語と呼応して意味の述べ方を助けるもの。
(1)打消(禁止)と呼応するもの。
― 中略、―
心やましきさまにたえて(ゼンゼン・マッタク)ことづてもなし(蜻蛉日記)
(代々木ゼミ方式 受験国文法、1980年、17・18頁)
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
「全く=全然=絶えて」は、「打消(禁止)」と呼応する「呼応の副詞」である。
然るに、
(06)
① 少しも食べる。
② 少しは食べる。
③ 少しも食べない。
に於いて、
① 少しも食べる。
といふ「日本語」は、無い。
従って、
(05)(06)により、
(07)
③ 少しも食べない。
に於ける、
③ 少しも
は、「打消(禁止)」と呼応する「呼応の副詞」である。
従って、
(05)(07)により、
(08)
③ 絶不(食)⇒
③ 絶へて(食せ)不=
③ 少しも(食べ)ない。
に於いて、
③ 絶
は、
③ 不
に「係ってゐる」と、すべきである。
然るに、
(09)
③ 不(食)⇒
③ (食せ)不=
③ (食べ)ない。
に於いて、
③ 不
は、
③ 食
に「係ってゐる」と、すべきである。
従って、
(08)(09)により、
(10)
③ 絶不(食)⇒
③ 絶へて(食せ)不=
② 少しも(食べ)ない。
に於いて、
③ 絶 は 不 に「係ってゐて」、
③ 不 は 食 に「係ってゐる」。 が故に、
③ 絶不 は 食 に「係ってゐる」と、すべきである。
従って、
(10)により、
(11)
④ 何不(食)⇒
④ 何ぞ(食らは)不る=
④ どうして (食べ)ないのか。
に於いて、
④ 何不 は 食 に「係ってゐる」と、すべきである。
然るに、
(12)
【盍】コウ(カフ)②〔盍 ・ ・ ・ ・ ・ ・〕(再読文字)「なんゾ ・ ・ ・ ・ ・ ・ざル」と読み、「どうして ・ ・ ・ ・ ・ ・ しないのか、 ・ ・ ・ ・ ・ ・ すればよいではないか」の意。「何不 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 」と同じで「何不カフ」の二音が「盍カフ・コウ」の一音につまったもので「蓋」と同じに用いる(旺文社、高校基礎漢和辞典、1984年、558頁)。
従って、
(11)(12)により、
(13)
④ 盍(食)⇒
④ 何ぞ(食らは)不る=
④ どうして (食べ)ないのか。
に於いて、
④ 盍=何不 は 食 に「係ってゐる」と、すべきである。
従って、
(10)~(13)により、
(14)
④ なんぞ・ざる=何不=盍
のやうに、
③ たへて・ず =絶不=囗
に相当する、
③ 囗
といふ「漢字」が有るのであれば、
③ 囗
といふ「漢字」は、「盍」と同じく、「再読文字」であるが、
③ 絶不=囗
に相当する、
③ 囗
といふ「漢字」は無い。
然るに、
(15)
(4)当然(命令)と呼応するもの。
なんぢまさに知るべし。(オ前ハ当然知ラナケレバナラナヌ)(今昔物語)
徳をつかんと思はばすべからくまづその心づかいを修業すべし(徳ヲツモウト思ッタラ当然ナスベキコトトシテ、マズソノ心ノ使イ方ヲ修業シナケレバナラヌ)(徒然草)
(代々木ゼミ方式 受験国文法、1980年、19頁)
従って、
(14)(15)により、
(16)
⑤ マサニ ・ ・ ・ ・ ・ スベシ。
⑥ スベカラク ・ ・ ・ ・ ・ スベシ。
に相当する、
⑤ 囗
⑥ 囗
といふ「漢字」があれば、それらの「漢字」は、「日本語」から見れば、
⑤ 囗=呼応の副詞+助動詞。
⑥ 囗=呼応の副詞+助動詞。
といふ「形」をしてゐることになる。
然るに、
(17)
7 再読文字
当 まさニ ・ ・ ・ ・ ・ スベシ。
宜 よろシク ・ ・ ・ ・ ・ スベシ。
(鳥羽田重直、漢文の基礎、1985年、25頁改)
(1)「未」「將」「當」「應」「宜」「須」「猶」「盍」などの諸字は、一字でありながら、最初副詞によみ、次に動詞あるいは助動詞によむのが例になっている。
(中沢希男、 渋谷玲子、漢文訓読の基礎、90頁)
従って、
(16)(17)により、
(18)
「日本語」から見たとき、「再読文字」は、その「意味」として、「呼応の副詞」を含んでゐる。
平成27年11月23日、毛利太。
まったく【全く】(副)〔雅語。「またく」の強調形〕そうとしか形容できないほど強く感じることを表す。「―〔=いかなる意味においても・(全然)〕忘れていた・―〔=実に〕つらい話だ・―〔=お世辞抜きで〕うまいね・これは ― の幸運だった」〔元来は、否定表現を伴った〕
(新明解国語辞典 第四版、1991年、1222頁)
従って、
(01)により、
(02)
まったく【全く】(副)は、〔元来は、否定表現を伴った〕。
然るに、
(03)
たえて【絶えて】〔副〕①〔下に打消の語を伴って〕まったく(~ない)。全然(~ない)。
(古語林、1997年、802頁)
加へて、
(04)
(三)叙述の副詞(副詞の呼応)あるきまった語と呼応して意味の述べ方を助けるもの。
(1)打消(禁止)と呼応するもの。
― 中略、―
心やましきさまにたえて(ゼンゼン・マッタク)ことづてもなし(蜻蛉日記)
(代々木ゼミ方式 受験国文法、1980年、17・18頁)
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
「全く=全然=絶えて」は、「打消(禁止)」と呼応する「呼応の副詞」である。
然るに、
(06)
① 少しも食べる。
② 少しは食べる。
③ 少しも食べない。
に於いて、
① 少しも食べる。
といふ「日本語」は、無い。
従って、
(05)(06)により、
(07)
③ 少しも食べない。
に於ける、
③ 少しも
は、「打消(禁止)」と呼応する「呼応の副詞」である。
従って、
(05)(07)により、
(08)
③ 絶不(食)⇒
③ 絶へて(食せ)不=
③ 少しも(食べ)ない。
に於いて、
③ 絶
は、
③ 不
に「係ってゐる」と、すべきである。
然るに、
(09)
③ 不(食)⇒
③ (食せ)不=
③ (食べ)ない。
に於いて、
③ 不
は、
③ 食
に「係ってゐる」と、すべきである。
従って、
(08)(09)により、
(10)
③ 絶不(食)⇒
③ 絶へて(食せ)不=
② 少しも(食べ)ない。
に於いて、
③ 絶 は 不 に「係ってゐて」、
③ 不 は 食 に「係ってゐる」。 が故に、
③ 絶不 は 食 に「係ってゐる」と、すべきである。
従って、
(10)により、
(11)
④ 何不(食)⇒
④ 何ぞ(食らは)不る=
④ どうして (食べ)ないのか。
に於いて、
④ 何不 は 食 に「係ってゐる」と、すべきである。
然るに、
(12)
【盍】コウ(カフ)②〔盍 ・ ・ ・ ・ ・ ・〕(再読文字)「なんゾ ・ ・ ・ ・ ・ ・ざル」と読み、「どうして ・ ・ ・ ・ ・ ・ しないのか、 ・ ・ ・ ・ ・ ・ すればよいではないか」の意。「何不 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 」と同じで「何不カフ」の二音が「盍カフ・コウ」の一音につまったもので「蓋」と同じに用いる(旺文社、高校基礎漢和辞典、1984年、558頁)。
従って、
(11)(12)により、
(13)
④ 盍(食)⇒
④ 何ぞ(食らは)不る=
④ どうして (食べ)ないのか。
に於いて、
④ 盍=何不 は 食 に「係ってゐる」と、すべきである。
従って、
(10)~(13)により、
(14)
④ なんぞ・ざる=何不=盍
のやうに、
③ たへて・ず =絶不=囗
に相当する、
③ 囗
といふ「漢字」が有るのであれば、
③ 囗
といふ「漢字」は、「盍」と同じく、「再読文字」であるが、
③ 絶不=囗
に相当する、
③ 囗
といふ「漢字」は無い。
然るに、
(15)
(4)当然(命令)と呼応するもの。
なんぢまさに知るべし。(オ前ハ当然知ラナケレバナラナヌ)(今昔物語)
徳をつかんと思はばすべからくまづその心づかいを修業すべし(徳ヲツモウト思ッタラ当然ナスベキコトトシテ、マズソノ心ノ使イ方ヲ修業シナケレバナラヌ)(徒然草)
(代々木ゼミ方式 受験国文法、1980年、19頁)
従って、
(14)(15)により、
(16)
⑤ マサニ ・ ・ ・ ・ ・ スベシ。
⑥ スベカラク ・ ・ ・ ・ ・ スベシ。
に相当する、
⑤ 囗
⑥ 囗
といふ「漢字」があれば、それらの「漢字」は、「日本語」から見れば、
⑤ 囗=呼応の副詞+助動詞。
⑥ 囗=呼応の副詞+助動詞。
といふ「形」をしてゐることになる。
然るに、
(17)
7 再読文字
当 まさニ ・ ・ ・ ・ ・ スベシ。
宜 よろシク ・ ・ ・ ・ ・ スベシ。
(鳥羽田重直、漢文の基礎、1985年、25頁改)
(1)「未」「將」「當」「應」「宜」「須」「猶」「盍」などの諸字は、一字でありながら、最初副詞によみ、次に動詞あるいは助動詞によむのが例になっている。
(中沢希男、 渋谷玲子、漢文訓読の基礎、90頁)
従って、
(16)(17)により、
(18)
「日本語」から見たとき、「再読文字」は、その「意味」として、「呼応の副詞」を含んでゐる。
平成27年11月23日、毛利太。
2015年11月18日水曜日
括弧はアリマス(括弧不可不有)。
― 「11月16日の記事」を書き換へます。―
(01)
登門=門に登る。
の「返り点」は、
レ
である。
然るに、
(02)
登竜門=竜門に登る。
に於いて、
竜‐門 を、ハイフンで結んで、
竜‐門 とすると、
従って、
(03)
師‐事 を、ハイフンで結んで、
師‐事 とするならば、
欲師‐事之=之に師‐事せんと欲す。
の「返り点」は、
レ
レ
で表すことが、出来る。
然るに、
(04)
従って、
(03)(04)により、
(05)
欲師事之=之に師事せんと欲す。
に対する「返り点」は、
といふ「五通り」が可能であるものの、古田島先生の説明によれば、
④ だけが、「正しい」。
然るに、
(06)
欲〔師事(之)〕。
に於いて、
師‐事( )⇒(之)師‐事
師‐欲〔 〕⇒〔 〕欲
とするならば、
欲〔師‐事(之)〕⇒
〔(之)師‐事〕欲=
〔(之に)師‐事せんと〕欲す。
従って、
(07)
欲師‐事之=之に師‐事せんと欲す。
に対する「括弧」は、
欲〔師事(之)〕。
欲〔師‐事(之)〕。
といふ、「二通り」しかない。
(08)
欲師事之。
といふ「漢文」自体は、少なくとも、「表面的(surface structure的)」には、
欲〔師‐事(之)〕。
といふ「形」をしてゐない。
然るに、
(09)
欲師事之=之に師事せんと欲す。
といふ「訓読」が「正しい」限り、
欲=欲す。
が、
師事之=之に師事せんと
に「係ってゐる」こと、並びに、
師事=師事す
が、
之=之に
に「係ってゐる」ことは、「明白」である。
然るに、
(10)
欲
が、
師事之
に「係ってゐて」、
師事
が、
之
に「係ってゐる」のであれば、
欲師事之=
欲〔師事(之)〕。
とすることに、「不都合」は、無い。
(11)
He said, "I am a Japanese."
の「英訳(ヤフー!翻訳)」は、
「私は、日本人です。」と、彼は言いました。
である。
従って、
(12)
彼曰我日本人也=彼曰く我は日本人なりと。
であっても、
彼曰「我日本人也」=彼曰く「我は日本人なり」と。
といふ風に、「括弧」で括っても、「不都合」は無い。
然るに、
(13)
Why not ask him his nationality?
といふ英語は、
「 彼に彼の国籍を尋ねること」を、促してゐる。
従って、
(13)により、
(14)
Why not ask him his nationality?
といふ英語は、
Why not「ask him his nationality」.
といふ風に、解することが、出来る。
然るに、
(15)
【盍】コウ(カフ)②〔盍 ・ ・ ・ ・ ・ ・〕(再読文字)「なんゾ ・ ・ ・ ・ ・ ・ざル」と読み、「どうして ・ ・ ・ ・ ・ ・ しないのか、 ・ ・ ・ ・ ・ ・ すればよいではないか」の意。「何不 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 」と同じで「何不カフ」の二音が「盍カフ・コウ」の一音につまったもので「蓋」と同じに用いる(旺文社、高校基礎漢和辞典、1984年、558頁)。
従って、
(15)により、
(16)
盍=何不=WhyNot
である。
従って、
(14)(16)により、
(17)
Why not「ask him his nationality」=
何不「ask him his nationality」=
何不「問彼之国籍於彼」。
といふ風に、解することが、出来る。
従って、
(12)(17)により、
(18)
曰 ・ ・ ・ ・ ・ ・
何不 ・ ・ ・ ・ ・ ・
に関しては、
曰( ・ ・ ・ ・ ・ ・ )
何不( ・ ・ ・ ・ ・ ・ )
といふ風に、解することが、出来る。
然るに、
(19)
何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
といふ「一つの漢文」に関して、次の通りである。
(20)
「通常の包含関係」といふのは、
① 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・ ・ ・ ・ ・ ・
② 上 中 下
③ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
④ 天 地 人
に於いて、
④ の間に、③ が入り、
③ の間に、② が入り、
② の間に、① が入ることを、いひ、それ故、
(21)
④ 天 地 人
ではなく、
④ 天 地 人 間
であるならば、
レ 丁 二 一 地 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 天レ レ 丙 二 一 三 二 一 乙 甲レ
といふ「それ」は、
レ 間 二 一 乙 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 甲レ レ 人 二 一 三 二 一 地 天レ
でなければ、ならない。
然るに、
(22) 従って、
(17)(18)(22)により、
(23)
何不〈令{人謂(韓公叔)曰[秦之敢絶(周)而伐(韓)者、信(東周)也、公何不〔与(周地)発(質使)之(楚)〕、秦必疑(楚)、不〔信(周)〕、是韓不(伐)也]、又謂(秦)曰、[韓彊与(周地)、将〔以疑(周於秦)〕也、周不〔敢不(受)〕]}〉。
といふ「括弧」の内の、少なくとも、
曰[ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ]
曰[ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ]
何不〔 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 〕
何不〈 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 〉
といふ「括弧」、すなはち、
Say[ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ]
Say[ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ]
WhyNot〔 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 〕
WhyNot〈 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 〉
といふ「括弧」に関しては、それらが、無いはずがない。
(24)
これまでに、繰り返し述べて来たやうに、
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(23)(24)により、
(25)
何不〈 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 〉。
の不 が、
〈 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 〉
を「補語」とするとき、「日本語」では、
何〈 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 〉不。
といふ「語順」になる。
従って、
(26)
何不〈令{・ ・ ・ ・ ・} 〉。
の不 が、
〈令{ ・ ・ ・ ・ ・}〉
を「補語」とし、
令{ ・ ・ ・ ・ ・}
の令 が、
{ ・ ・ ・ ・ ・}
を「補語」とするとき、「日本語」では、
何不〈令{・ ・ ・ ・ ・}〉。
何〈{・ ・ ・ ・ ・}令〉不=
何ぞ〈{・ ・ ・ ・ ・}令め〉ざる。
といふ風に、読むことになる。
従って、
(24)(25)(26)により、
(27)
何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
といふ「漢文」に、
(28)
何不〈令{人謂(韓公叔)曰[秦之敢絶(周)而伐(韓)者、信(東周)也、公何不〔与(周地)発(質使)之(楚)〕、秦必疑(楚)、不〔信(周)〕、是韓不(伐)也]、又謂(秦)曰、[韓彊与(周地)、将〔以疑(周於秦)〕也、周不〔敢不(受)〕]}〉。
といふ「補足構造」が有るとき、「日本語」では、
(29)
何ぞ〈{人をして(韓の公叔に)謂ひて[秦の敢へて(周を)絶って(韓を)伐んとするは、(東周を)信ずればなり、公何ぞ〔(周に地を)与へ(質使を)発して(楚に)之かしめ〕ざる、秦必ず(楚を)疑ひ、〔(周を)信ぜ〕ざらん、是れ韓(伐たれ)ざらんと]曰ひ、又(秦に)謂ひて、[韓彊ひて(周に地を)与ふるは、将に〔以て(周を秦に)疑はしめんとする〕なり、周〔敢へて(受け)ずんば〕あらずと]曰は}令め〉ざる。
といふ風に、読むことになる。
従って、
(30)
「換言」すると、
何不〈令{人謂(韓公叔)曰[秦之敢絶(周)而伐(韓)者、信(東周)也、公何不〔与(周地)発(質使)之(楚)〕、秦必疑(楚)、不〔信(周)〕、是韓不(伐)也]、又謂(秦)曰、[韓彊与(周地)、将〔以疑(周於秦)〕也、周不〔敢不(受)〕]}〉。
といふ「補足構造」が有るからこそ、
(31)
何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
といふ「漢文」は、
(32)
何ぞ〈{人をして(韓の公叔に)謂ひて[秦之敢へて(周を)絶つ而(韓を)伐んとする者、(東周を)信ずれば也、公何ぞ〔(周に地を)与へ(質使を)発して(楚に)之かしめ〕不る、秦必ず(楚を)疑ひ、〔(周を)信ぜ〕不らん、是れ韓(伐たれ)不らん也と]曰ひ、又(秦に)謂ひて、[韓彊ひて(周に地を)与ふるは、将に〔以て(周を於秦に)疑はしめんとする〕也、周〔敢へて(受け)不んば〕不ずと]曰は}令め〉不る。
といふ風に、「訓読」出来る。ことになる。
従って、
(30)(31)(32)により、
(33)
何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
に付く、
レ 丁 二 一 地 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 天レ レ 丙 二 一 三 二 一 乙 甲レ
といふ「返り点」は、
(34)
〈 { ( ) [ ( )( )( ) 〔 ( )( )( ) 〕 ( ) 〔 ( ) 〕 ( ) ] ( ) [ ( ) 〔 ( ) 〕 〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「補足構造」に、附いてゐる。ことになる。
従って、
(35)
仮に、我々の先人が、「漢文訓読」を行はなかったとしても、
何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
といふ「漢文」には、
〈 { ( ) [ ( )( )( ) 〔 ( )( )( ) 〕 ( ) 〔 ( ) 〕 ( ) ] ( ) [ ( ) 〔 ( ) 〕 〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「括弧」が有る。ことになる。
従って、
(01)~(35)により、
(36)
括弧不可不有(括弧はあります)。
平成27年11月18日、毛利太。
(01)
登門=門に登る。
の「返り点」は、
レ
である。
然るに、
(02)
登竜門=竜門に登る。
に於いて、
竜‐門 を、ハイフンで結んで、
竜‐門 とすると、
従って、
(03)
師‐事 を、ハイフンで結んで、
師‐事 とするならば、
欲師‐事之=之に師‐事せんと欲す。
の「返り点」は、
レ
レ
で表すことが、出来る。
然るに、
(04)
従って、
(03)(04)により、
(05)
欲師事之=之に師事せんと欲す。
に対する「返り点」は、
といふ「五通り」が可能であるものの、古田島先生の説明によれば、
④ だけが、「正しい」。
然るに、
(06)
欲〔師事(之)〕。
に於いて、
師‐事( )⇒(之)師‐事
師‐欲〔 〕⇒〔 〕欲
とするならば、
欲〔師‐事(之)〕⇒
〔(之)師‐事〕欲=
〔(之に)師‐事せんと〕欲す。
従って、
(07)
欲師‐事之=之に師‐事せんと欲す。
に対する「括弧」は、
欲〔師事(之)〕。
欲〔師‐事(之)〕。
といふ、「二通り」しかない。
(08)
欲師事之。
といふ「漢文」自体は、少なくとも、「表面的(surface structure的)」には、
欲〔師‐事(之)〕。
といふ「形」をしてゐない。
然るに、
(09)
欲師事之=之に師事せんと欲す。
といふ「訓読」が「正しい」限り、
欲=欲す。
が、
師事之=之に師事せんと
に「係ってゐる」こと、並びに、
師事=師事す
が、
之=之に
に「係ってゐる」ことは、「明白」である。
然るに、
(10)
欲
が、
師事之
に「係ってゐて」、
師事
が、
之
に「係ってゐる」のであれば、
欲師事之=
欲〔師事(之)〕。
とすることに、「不都合」は、無い。
(11)
He said, "I am a Japanese."
の「英訳(ヤフー!翻訳)」は、
「私は、日本人です。」と、彼は言いました。
である。
従って、
(12)
彼曰我日本人也=彼曰く我は日本人なりと。
であっても、
彼曰「我日本人也」=彼曰く「我は日本人なり」と。
といふ風に、「括弧」で括っても、「不都合」は無い。
然るに、
(13)
Why not ask him his nationality?
といふ英語は、
「 彼に彼の国籍を尋ねること」を、促してゐる。
従って、
(13)により、
(14)
Why not ask him his nationality?
といふ英語は、
Why not「ask him his nationality」.
といふ風に、解することが、出来る。
然るに、
(15)
【盍】コウ(カフ)②〔盍 ・ ・ ・ ・ ・ ・〕(再読文字)「なんゾ ・ ・ ・ ・ ・ ・ざル」と読み、「どうして ・ ・ ・ ・ ・ ・ しないのか、 ・ ・ ・ ・ ・ ・ すればよいではないか」の意。「何不 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 」と同じで「何不カフ」の二音が「盍カフ・コウ」の一音につまったもので「蓋」と同じに用いる(旺文社、高校基礎漢和辞典、1984年、558頁)。
従って、
(15)により、
(16)
盍=何不=WhyNot
である。
従って、
(14)(16)により、
(17)
Why not「ask him his nationality」=
何不「ask him his nationality」=
何不「問彼之国籍於彼」。
といふ風に、解することが、出来る。
従って、
(12)(17)により、
(18)
曰 ・ ・ ・ ・ ・ ・
何不 ・ ・ ・ ・ ・ ・
に関しては、
曰( ・ ・ ・ ・ ・ ・ )
何不( ・ ・ ・ ・ ・ ・ )
といふ風に、解することが、出来る。
然るに、
(19)
何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
といふ「一つの漢文」に関して、次の通りである。
(20)
「通常の包含関係」といふのは、
① 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・ ・ ・ ・ ・ ・
② 上 中 下
③ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
④ 天 地 人
に於いて、
④ の間に、③ が入り、
③ の間に、② が入り、
② の間に、① が入ることを、いひ、それ故、
(21)
④ 天 地 人
ではなく、
④ 天 地 人 間
であるならば、
レ 丁 二 一 地 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 天レ レ 丙 二 一 三 二 一 乙 甲レ
といふ「それ」は、
レ 間 二 一 乙 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 甲レ レ 人 二 一 三 二 一 地 天レ
でなければ、ならない。
然るに、
(22) 従って、
(17)(18)(22)により、
(23)
何不〈令{人謂(韓公叔)曰[秦之敢絶(周)而伐(韓)者、信(東周)也、公何不〔与(周地)発(質使)之(楚)〕、秦必疑(楚)、不〔信(周)〕、是韓不(伐)也]、又謂(秦)曰、[韓彊与(周地)、将〔以疑(周於秦)〕也、周不〔敢不(受)〕]}〉。
といふ「括弧」の内の、少なくとも、
曰[ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ]
曰[ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ]
何不〔 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 〕
何不〈 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 〉
といふ「括弧」、すなはち、
Say[ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ]
Say[ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ]
WhyNot〔 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 〕
WhyNot〈 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 〉
といふ「括弧」に関しては、それらが、無いはずがない。
(24)
これまでに、繰り返し述べて来たやうに、
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(23)(24)により、
(25)
何不〈 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 〉。
の不 が、
〈 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 〉
を「補語」とするとき、「日本語」では、
何〈 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 〉不。
といふ「語順」になる。
従って、
(26)
何不〈令{・ ・ ・ ・ ・} 〉。
の不 が、
〈令{ ・ ・ ・ ・ ・}〉
を「補語」とし、
令{ ・ ・ ・ ・ ・}
の令 が、
{ ・ ・ ・ ・ ・}
を「補語」とするとき、「日本語」では、
何不〈令{・ ・ ・ ・ ・}〉。
何〈{・ ・ ・ ・ ・}令〉不=
何ぞ〈{・ ・ ・ ・ ・}令め〉ざる。
といふ風に、読むことになる。
従って、
(24)(25)(26)により、
(27)
何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
といふ「漢文」に、
(28)
何不〈令{人謂(韓公叔)曰[秦之敢絶(周)而伐(韓)者、信(東周)也、公何不〔与(周地)発(質使)之(楚)〕、秦必疑(楚)、不〔信(周)〕、是韓不(伐)也]、又謂(秦)曰、[韓彊与(周地)、将〔以疑(周於秦)〕也、周不〔敢不(受)〕]}〉。
といふ「補足構造」が有るとき、「日本語」では、
(29)
何ぞ〈{人をして(韓の公叔に)謂ひて[秦の敢へて(周を)絶って(韓を)伐んとするは、(東周を)信ずればなり、公何ぞ〔(周に地を)与へ(質使を)発して(楚に)之かしめ〕ざる、秦必ず(楚を)疑ひ、〔(周を)信ぜ〕ざらん、是れ韓(伐たれ)ざらんと]曰ひ、又(秦に)謂ひて、[韓彊ひて(周に地を)与ふるは、将に〔以て(周を秦に)疑はしめんとする〕なり、周〔敢へて(受け)ずんば〕あらずと]曰は}令め〉ざる。
といふ風に、読むことになる。
従って、
(30)
「換言」すると、
何不〈令{人謂(韓公叔)曰[秦之敢絶(周)而伐(韓)者、信(東周)也、公何不〔与(周地)発(質使)之(楚)〕、秦必疑(楚)、不〔信(周)〕、是韓不(伐)也]、又謂(秦)曰、[韓彊与(周地)、将〔以疑(周於秦)〕也、周不〔敢不(受)〕]}〉。
といふ「補足構造」が有るからこそ、
(31)
何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
といふ「漢文」は、
(32)
何ぞ〈{人をして(韓の公叔に)謂ひて[秦之敢へて(周を)絶つ而(韓を)伐んとする者、(東周を)信ずれば也、公何ぞ〔(周に地を)与へ(質使を)発して(楚に)之かしめ〕不る、秦必ず(楚を)疑ひ、〔(周を)信ぜ〕不らん、是れ韓(伐たれ)不らん也と]曰ひ、又(秦に)謂ひて、[韓彊ひて(周に地を)与ふるは、将に〔以て(周を於秦に)疑はしめんとする〕也、周〔敢へて(受け)不んば〕不ずと]曰は}令め〉不る。
といふ風に、「訓読」出来る。ことになる。
従って、
(30)(31)(32)により、
(33)
何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
に付く、
レ 丁 二 一 地 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 天レ レ 丙 二 一 三 二 一 乙 甲レ
といふ「返り点」は、
(34)
〈 { ( ) [ ( )( )( ) 〔 ( )( )( ) 〕 ( ) 〔 ( ) 〕 ( ) ] ( ) [ ( ) 〔 ( ) 〕 〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「補足構造」に、附いてゐる。ことになる。
従って、
(35)
仮に、我々の先人が、「漢文訓読」を行はなかったとしても、
何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
といふ「漢文」には、
〈 { ( ) [ ( )( )( ) 〔 ( )( )( ) 〕 ( ) 〔 ( ) 〕 ( ) ] ( ) [ ( ) 〔 ( ) 〕 〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「括弧」が有る。ことになる。
従って、
(01)~(35)により、
(36)
括弧不可不有(括弧はあります)。
平成27年11月18日、毛利太。
2015年11月4日水曜日
「所」について(Ⅱ)。
(01)
① 我読書。
を、
① 我書読。
とした上で、
② 書
を、
② 所
に替へると、
② 我所読(我の読む所)=書
となる。
(02)
この時、
② 我所読(我の読む所)=書
であると同時に、
② 所読(読む所)=書
② 所読書(読む所の書)=書
② 所読者(読む所の者)=書
② 我所読書(我の読む所の書)=書
② 我所読者(我の読む所の者)=書
である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 我読書(我、書を読む)。
であれば、
② 我所読書(我の読む所の書)=書
であるものの、
②「我」は、「省略可能」であって、
②「書」も、「省略可能」であり、
②「書」は、「者」に、「置き換へ可能」である。
(04)
客有教燕王為不死之道者。王使人学之。所使学者、未及学而客死。
客に燕王に教へて不死の道をなす者有り。王、人をして之を学ばしむ。学ばしむる所の者、未だ学ぶに及ばずして客死せり。
食客中、燕の王に不老不死の方法を教える者がいた。王は人に命じて方法を学ばせた。学ばせた者がまだ学び終わらないうちにその人が死んだ(多久弘一、多久の漢文公式110、1998
年、13頁)。
然るに、
(05)
「教」は教えてさせる意(鳥羽田重直、漢文の基礎、1985年、49頁)であるため、
客有教燕王不死之道者=
客に燕王に教へて不死の道をなす者有り。
ではなく、
客有教燕王不死之道者。
客に燕王に教へて不死の道をなさしむ者有り。
とすべきである。
従って、
(04)(05)により、
(06)
1st: 客が、王にさうするやうに、すすめて、
2nd: 王が、人にさうするやうに、命じて、
3rd: 人が、不死の道を、学んだことになる。
従って、
(03)(06)により、
(07)
王使人学之。所使学者、
であれば、
所使学者(学ば使むる所の者)=
王所使学之者(王の之を学ば使むる所の者)=人
である。
従って、
(04)~(07)により、
(08)
所使学者未及学而客死=
学ば使むる所の者未だ学ぶに及ばずして客死せり。
といふ漢文は、「正確」には、
王所使学不死之道者未及学不死之道而客死=
王所[使〔学(不死之道)〕]者未[及〔学(不死之道)〕]而客死 ⇒
王[〔(不死之道)学〕使]所者未[〔(不死之道)学〕及]不而客死 =
王の[〔(不死の道を)学ば〕使むる]所の者未だ[〔(不死の道を)学ぶに〕及ば]不して而客死せり =
王が[〔(不死の道を)学ば〕せた]その人がまだ[〔(不死の道を)学んで〕ゐ]ないのに、客は死んでしまった。
といふ、ことになる。
(09)
客有教燕王不死之道者。王使人学之。所使学者未及学而客死。
といふ漢文を、初めて読んだ時、私は、「所使学者」の意味が、よく分からなかった。
平成27年11月04日、毛利太。
① 我読書。
を、
① 我書読。
とした上で、
② 書
を、
② 所
に替へると、
② 我所読(我の読む所)=書
となる。
(02)
この時、
② 我所読(我の読む所)=書
であると同時に、
② 所読(読む所)=書
② 所読書(読む所の書)=書
② 所読者(読む所の者)=書
② 我所読書(我の読む所の書)=書
② 我所読者(我の読む所の者)=書
である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 我読書(我、書を読む)。
であれば、
② 我所読書(我の読む所の書)=書
であるものの、
②「我」は、「省略可能」であって、
②「書」も、「省略可能」であり、
②「書」は、「者」に、「置き換へ可能」である。
(04)
客有教燕王為不死之道者。王使人学之。所使学者、未及学而客死。
客に燕王に教へて不死の道をなす者有り。王、人をして之を学ばしむ。学ばしむる所の者、未だ学ぶに及ばずして客死せり。
食客中、燕の王に不老不死の方法を教える者がいた。王は人に命じて方法を学ばせた。学ばせた者がまだ学び終わらないうちにその人が死んだ(多久弘一、多久の漢文公式110、1998
年、13頁)。
然るに、
(05)
「教」は教えてさせる意(鳥羽田重直、漢文の基礎、1985年、49頁)であるため、
客有教燕王不死之道者=
客に燕王に教へて不死の道をなす者有り。
ではなく、
客有教燕王不死之道者。
客に燕王に教へて不死の道をなさしむ者有り。
とすべきである。
従って、
(04)(05)により、
(06)
1st: 客が、王にさうするやうに、すすめて、
2nd: 王が、人にさうするやうに、命じて、
3rd: 人が、不死の道を、学んだことになる。
従って、
(03)(06)により、
(07)
王使人学之。所使学者、
であれば、
所使学者(学ば使むる所の者)=
王所使学之者(王の之を学ば使むる所の者)=人
である。
従って、
(04)~(07)により、
(08)
所使学者未及学而客死=
学ば使むる所の者未だ学ぶに及ばずして客死せり。
といふ漢文は、「正確」には、
王所使学不死之道者未及学不死之道而客死=
王所[使〔学(不死之道)〕]者未[及〔学(不死之道)〕]而客死 ⇒
王[〔(不死之道)学〕使]所者未[〔(不死之道)学〕及]不而客死 =
王の[〔(不死の道を)学ば〕使むる]所の者未だ[〔(不死の道を)学ぶに〕及ば]不して而客死せり =
王が[〔(不死の道を)学ば〕せた]その人がまだ[〔(不死の道を)学んで〕ゐ]ないのに、客は死んでしまった。
といふ、ことになる。
(09)
客有教燕王不死之道者。王使人学之。所使学者未及学而客死。
といふ漢文を、初めて読んだ時、私は、「所使学者」の意味が、よく分からなかった。
平成27年11月04日、毛利太。
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