2015年11月4日水曜日

「所」について(Ⅱ)。

(01)
① 我読書。
を、
① 我書読。
とした上で、
② 書
を、
② 所
に替へると、
② 我所読(我の読む所)=書
となる。
(02)
この時、
② 我所読(我の読む所)=書
であると同時に、
② 所読(読む所)=書
② 所読書(読む所の書)=書
② 所読者(読む所の者)=書
② 我所読書(我の読む所の書)=書
② 我所読者(我の読む所の者)=書
である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 我読書(我、書を読む)。
であれば、
② 我所読書(我の読む所の書)=書
であるものの、
②「我」は、「省略可能」であって、
②「書」も、「省略可能」であり、
②「書」は、「者」に、「置き換へ可能」である。
(04)
客有教燕王為不死之道者。王使人学之。所使学者、未及学而客死。
客に燕王に教へて不死の道をなす者有り。王、人をして之を学ばしむ。学ばしむる所の者、未だ学ぶに及ばずして客死せり。
食客中、燕の王に不老不死の方法を教える者がいた。王は人に命じて方法を学ばせた。学ばせた者がまだ学び終わらないうちにその人が死んだ(多久弘一、多久の漢文公式110、1998
年、13頁)。
然るに、
(05)
「教」は教えてさせる意(鳥羽田重直、漢文の基礎、1985年、49頁)であるため、
客有教燕王不死之道者=
客に燕王に教へて不死の道をなす者有り。
ではなく、
客有教燕王不死之道者。
客に燕王に教へて不死の道をなさしむ者有り。
とすべきである。
従って、
(04)(05)により、
(06)
1st: 客が、王にさうするやうに、すすめて、
2nd: 王が、人にさうするやうに、命じて、
3rd: 人が、不死の道を、学んだことになる。
従って、
(03)(06)により、
(07)
王使人学之。所使学者、
であれば、
所使学者(学ば使むる所の者)=
王所使学之者(王の之を学ば使むる所の者)=人
である。
従って、
(04)~(07)により、
(08)
所使学者未及学而客死=
学ば使むる所の者未だ学ぶに及ばずして客死せり。
といふ漢文は、「正確」には、
王所使学不死之道者未及学不死之道而客死=
王所[使〔学(不死之道)〕]者未[及〔学(不死之道)〕]而客死 ⇒
王[〔(不死之道)学〕使]所者未[〔(不死之道)学〕及]不而客死 =
王の[〔(不死の道を)学ば〕使むる]所の者未だ[〔(不死の道を)学ぶに〕及ば]不して而客死せり =
王が[〔(不死の道を)学ば〕せた]その人がまだ[〔(不死の道を)学んで〕ゐ]ないのに、客は死んでしまった。
といふ、ことになる。
(09)
客有教燕王不死之道者。王使人学之。所使学者未及学而客死。
といふ漢文を、初めて読んだ時、私は、「所使学者」の意味が、よく分からなかった。
平成27年11月04日、毛利太。

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