2018年4月13日金曜日

述語論理と漢文の「訓読(邪道?)」。

(a)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』他をお読み下さい。
(01)
(a)
1  (1) ∀x(人x→  死x)  仮定
 2 (2) ∃x(人x& ~死x)  仮定
  3(3)    人a& ~死a   仮定
  3(4) ~~(人a& ~死a)  3二重否定
  3(5) ~(~人a∨~~死a)  4ド・モルガンの法則
  3(6) ~(~人a∨  死a)  5二重否定
  3(7) ~( 人a→  死a)  6含意の定義
1  (8)    人a→  死a   1U除去
1 3(9) ~( 人a→  死a)&
        ( 人a→  死a)  78&導入
  3(ア)~∀x(人x→  死x)  19背理法
 2 (イ)~∀x(人x→  死x)  23アE除去
12 (ウ) ∀x(人x→  死x)&
      ~∀x(人x→  死x)  1イ&導入
1  (エ)~∃x(人x& ~死x)  2ウ背理法
(b)
1  (1) ~∃x(人x& ~死x)  仮定
 2 (2) ~∀x(人x→  死x)  仮定
 2 (3)  ~( 人a→  死a)  2U除去
 2 (4)  ~(~人a∨  死a)  3含意の定義
 2 (5)   ~~人a &~死a   4ド・モルガンの定義
 2 (6)     人a &~死a   5二重否定
 2 (7)  ∃x(人x& ~死x)  6E導入
12 (8) ~∃x(人x& ~死x)&
        ∃x(人x& ~死x)  17&導入
1  (9)~~∀x(人x→  死x)  28背理法
1  (ア)  ∀x(人x→  死x)  9二重否定
然るに、
(02)
 ∀ = 全
 ∃ = 有
 ~ = 不
 → = 則
 & = 而
 ∨ = 与
従って、
(01)(02)により、
(03)
1  (1) 全x(人x則  死x)  仮定
 2 (2) 有x(人x而 不死x)  仮定
  3(3)    人a而 不死a   仮定
  3(4) 不不(人a而 不死a)  3二重否定
  3(5) 不(不人a与不不死a)  4ド・モルガンの法則
  3(6) 不(不人a与  死a)  5二重否定
  3(7) 不( 人a則  死a)  6含意の定義
1  (8)    人a則  死a   1U除去
1 3(9) 不( 人a則  死a)而
        ( 人a則  死a)  78而導入
  3(ア)不全x(人x則  死x)  19背理法
 2 (イ)不全x(人x則  死x)  23アE除去
12 (ウ) 全x(人x則  死x)而
      不全x(人x則  死x)  1イ而導入
1  (エ)不有x(人x而 不死x)  2ウ背理法
(b)
1  (1) 不有x(人x而 不死x)  仮定
 2 (2) 不全x(人x則  死x)  仮定
 2 (3)  不( 人a則  死a)  2U除去
 2 (4)  不(不人a与  死a)  3含意の定義
 2 (5)   不不人a 而不死a   4ド・モルガンの定義
 2 (6)     人a 而不死a   5二重否定
 2 (7)  有x(人x而 不死x)  6E導入
12 (8) 不有x(人x而 不死x)而
        有x(人x而 不死x)  17而導入
1  (9)不不全x(人x則  死x)  28背理法
1  (ア)  全x(人x則  死x)  9二重否定
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
①   ∀x(人x→ 死x)=全てのxについて、xが人ならば、そのxは死ぬ。
② ~∃x(人x&~死x)=xは人であって、そのxは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
③   全x(人x則 死x)=全てのxについて、xが人ならば、そのxは死ぬ。
④ 不有x(人x而不死x)=xは人であって、そのxは死なない。といふ、そのやうなxは有らず。
に於いて、
①=②=③=④ である。
cf.
Mors omnibus communis(死は全ての人に共通です)⇔ 死なない人間はゐない。
従って、
(04)により、
(05)
② ~∃x(人x&~死x)。
④ 不有x(人x而不死x)。
に於いて、
②=④ である。
然るに、
(06)
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(05)(06)により、
(07)
② ~(∃x(人x&~(死x)))。
④ 不(有x(人x而不(死x)))。
に於いて、
②=④ である。
従って、
(08)
② ~[∃x〔人x&~(死x)〕]。
④ 不[有x〔人x而不(死x)〕]。
に於いて、
②=④ である。
然るに、
(09)
④ 不[有x〔人x而不(死x)〕]。
に於いて、
④    x  x    x
は、「置き字」であるとする。
cf.
置き字とは、書き下し文を作るときに、書いてあるけど読まない文字があります。この文字のことを置き字と言います(マナペディア)。
従って、
(09)により、
(10)
② ~[∃x〔人x&~(死x)〕]=
④ 不[有 〔人 而不(死 )〕]。
に於いて、
④ 不[ ]⇒[ ]不
④ 有〔 〕⇒〔 〕有
④ 不( )⇒( )不
といふ「移動」を行ふと、
② ~[∃x〔人x&~(死x)〕]=
④ 不[有 〔人 而不(死 )〕]⇒
④ [〔人 而(死 )不〕有 ]不=
④ [〔人にして(死せ)不るは〕有ら]不=
④ 死なない人間(不死身の人間)は、存在しない。
といふ、「漢文訓読」が成立する。
然るに、
(11)
そこで述語論理学では「人間」と「動物」の「包含関係」を表わすのに、
 動物(人間)
と表示する。そしてこれを記号化して
 F(x) または( )を省略して Fx
というように書く。
(沢田允茂、現代論理学入門、1962年、116頁改)
従って、
(11)により、
(12)
人x = 人(x) = xは人である。
死x = 死(x) = xは死ぬ。
従って、
(08)(12)により、
(13)
② ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}。
④ 不{有x[人(x)而不〔死(x)〕]}。
に於いて、
②=④ である。
然るに、
(14)
② ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}=
④ 不{有x[人(x)而不〔死(x)〕]}。
に於いて、
④ 不[ ]⇒[ ]不
④ 有〔 〕⇒〔 〕有
④ 人( )⇒( )人
④ 不( )⇒( )不
といふ「移動」を行ふと、
② ~{∃x〔人(x)&~〔死(x)〕]}=
④ 不{有x[人(x)而不〔死(x)〕]}⇒
④ {[(x)人而〔(x)死〕不]有x}不=
④ {[(xは)人であって〔(xは)死な〕ない]といふ、そのようなxは有ら}不=
④ 死なない人間(不死身な人間)は、存在しない。
従って、
(10)(14)により、
(15)
② ~[∃x〔人 x &~(死 x )〕]=
④ 不[有 〔人   而不(死   )〕]⇒[〔人にして(死せ)不るは〕有ら]ず。
② ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}=
④ 不{有x[人(x)而不〔死(x)〕]}⇒{[(xは)人であって〔(xは)死な〕ない]といふ、そのようなxは有ら}ず。
従って、
(15)により、
(16)
④ 不[有 〔人   而不(死   )〕]=人にして、死せざるは有らず。
といふ「漢文」と、
② ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}=xは人であって、xは死なない。といふ、そのようなxは有らず。
といふ「述語論理」の「違ひ」は、「xの有無」に、過ぎない。
然るに、
(17)

従って、
(17)により、
(18)
④ 不 人而不一レ 死=人にして、死せざるは有らず。
② ~x 人 x & ~一レ x=xは人であって、xは死なない。といふ、そのようなxは有らず。
に於ける、
④ レ 二 一レ
② レ 二- レ 一レ レ
といふ「返り点」は、
④ 不[有 〔人   而不(死   )〕]=人にして、死せざるは有らず。
② ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}=xは人であって、xは死なない。といふ、そのようなxは有らず。
に於ける「括弧」に、「相当」する。
従って、
(15)(18)により、
(19)
④ 不 人而不一レ 死=人にして、死せざるは有らず。
といふ「漢文」と、
② ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}=xは人であって、xは死なない。といふ、そのようなxは有らず。
といふ「述語論理」の「違ひ」は、「xの有無」に、過ぎない。
然るに、
(20)
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
然るに、
(21)
まず「学習の前に」では、漢文を読むための基礎知識が紹介されている。はじめに漢文は自然言語を土台にして作り上げられた人口的書記言語であることを確認する。話すのではなく、読んで書くために作られたのである(黒田龍之介、寝るまえ5分の外国語、2016年、194・195頁)。
従って、
(19)(20)(21)により、
(22)
西洋文化研究者曰く、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。
とは言ふものの、
② ~x 人 x & ~一レ x=
② ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}=xは人であって、xは死なない。といふ、そのようなxは有らず。
といふ「人工言語」に対する「訓読」が、「正当」である以上、その一方で、
④ 不 人而不一レ 死=
④ 不[有〔人而不(死)〕]=人にして、死せざるは有らず。
といふ「人工言語」に対する「訓読」が、「邪道」である。
といふことには、ならない。
従って、
(22)により、
(23)
支那の言語や文字を研究するのに、漢文と支那語の様な区別を設けてゐるのは、世界中、日本だけで、支那はもとより、ヨーロッパやアメリカで支那学を研究するにも、そんな意味のない区別など夢にも考へてゐない。西洋人が支那のことを研究するには、何よりも先き、支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読んで、支那民族の文化の深淵を理解する。アメリカの大学で支那のことを研究する学生は、最初の年に現代語学現代文学を学び、次の年に歴史の書物を読み経書を習ふさうである(勉誠出版、「訓読」論、2008年、57頁)が故に、日本人もアメリカ人を見習ふべきである。
といふことには、ならない。
平成30年04月13日、毛利太。

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