(01)
「直読」か「訓読」かは、日本の中国研究者にとって長年の課題であり、たえず蒸し返された問題であった(勉誠出版、「訓読論」、2008年、2頁:中村春作)。大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという(洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに
ⅳ)。専門家と称する人たちの大部分、99.9パーセントは(外国語として扱えという人ももちろん含めて)実は「訓読」すなわち日本語流に理解しているのである。これは厳たる事実である(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、62頁)。
従って、
(01)により、
(02)
①
中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求むる者 ={直読派}。
② 中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者=〈訓読派〉。
然るに、
(03)
漢文よみを止めて中国語(その当時は支那語でしたが)でもってよまなければならない。
それは徳川時代にも荻生徂徠がいっぺんやったことだが、今はもっとやりよい時代だから大いにやらなければならない。
(倉石武四郎、中国語五十年、1973年、21頁)
従って、
(02)(03)により、
(04)
③ 倉石先生非〈訓読派〉=
③ 倉石先生は〈訓読派〉に非ず=
③
倉石先生は〈訓読派〉ではない。
といふ「命題」は、「真(本当)」である。
然るに、
(05)
② 不求以解中国語法解漢文者=
②
不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者⇒
② {[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者=
②
{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者=
② 中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者=〈訓読派〉。
従って、
(04)(05)により、
(06)
② を、
③ に、「代入」すると、
③ 倉石先生非〈訓読派〉=
③ 倉石先生非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉⇒
③
倉石先生〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非=
③
倉石先生は〈{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ず=
③
倉石先生は、中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ず=
③
倉石先生は、〈訓読派〉ではない。
といふ「命題」は、「真(本当)」である。
然るに、
(07)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
③ 倉石先生 が、
③
倉石先生非不求以解中国語法解漢文者。
といふ「命題」を、「真(本当)」であるとするならば、
③ 倉石先生 は、
③
倉石先生非不求以解中国語法解漢文者。
といふ「漢文」に対して、
③ 倉石先生非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉⇒
③
倉石先生〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非=
③
倉石先生〈{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ず。
といふ「管到(捕捉構造)」を、認めざるを、得ない。
然るに、
(09)
③
倉石先生 が、
③ 倉石先生は〈訓読派〉ではない=
③
倉石先生非不求以解中国語法解漢文者。
といふ「命題」を、「偽(ウソ)」であるとすることは、有り得ない。
従って、
(08)(09)により、
(10)
③
倉石先生 は、
③ 倉石先生非不求以解中国語法解漢文者=
③
倉石先生非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉。
といふ「管到(補足構造)」を、認めざるを、得ない。
加へて、
(11)
とっくに結論が出ている。清朝における北京官話とは満洲語である。そして英和辞典のmandarinとは北京官話と同時に北京語ともある。北京語は満洲語であるという結論が論理的に導かれる。北京語は満洲語がルーツである(Webサイト:漢民族滅亡論2)。
従って、
(12)
もっとも手近に考へれば、日本人が日本のことを研究する方法だって、つまり、この順序を踏んでゐるので、小学校で現代の日本語を学び、今の文章を読み、次第に、古い書物を研究して行くのである。支那のことだけが例外でなければならないと云ふ筈はない(勉誠出版、「訓読論」、2008年、58頁:陶徳民)。
といふ「(倉石先生の)主張」は、この場合には、成立しない。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
③
倉石先生非不求以解中国語法解漢文者。
といふ「漢字の列」を、「日本漢字音」や「北京語(満州語)の音」で、「音読」したからと言って、それだけでは、
③
倉石先生非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉。
といふ「管到(補足構造)」を、「把握」した上で、読んでゐることには、ならない。
然るに、
(14)
③
倉石先生非不求以解中国語法解漢文者。
に対する、
③ 〈{[〔( )( )〕]}〉。
といふ「括弧」は、
③
地 レ 丙 下 二 一 上 乙 甲 天。
といふ「返り点」に、「対応」する。
cf.
従って、
(14)により、
(15)
③
地 レ 丙 下 二 一 上 乙 甲 天。
といふ「返り点」に頼って、それを読んでゐる場合であっても、
③
倉石先生は、中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ず。
といふ「訓読」は、
③
倉石先生非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉。
といふ「管到(補足構造)」に即した「形」で、読んでゐる。ことになる。
従って、
(15)により、
(16)
「訓読」は、「原文(漢文)」の「補足構造(管到)」に即した、「定型的な訳読」である。
従って、
(13)(16)により、
(17)
私自身は、「訓読」が、「(北京語による)直読」よりも劣った「読み方」である。とする意見には、与しない。
平成26年09月27・28日、毛利太。
(18)
ドイツ語は、欧州の言葉である。といふ意味で、ドイツ語は、欧州語である。
ラテン語も、欧州の言葉である。といふ意味で、ラテン語は、欧州語である。
然るに、
(19)
「ラテン語」を学ぶ際に、「欧州語(ドイツ語)」の学習は、不要であって、それ故、
「漢文」
を学ぶ際に、「中国語(北京語)」 の学習が、不要であっても、オカシクは、ない。
(20)
日本の支那学者は、今日にいたるまで、支那の書物を読むのに、わざわざ発表の順序を顚倒して、日本語の約束になほして見ないと気が済まず、さういう順序に考へなほさないと、頭へ入らない習慣にとらはれてゐる(勉誠出版、「訓読論」、2008年、59頁:陶徳民)。
然るに、
(21)
① 非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉⇔
② 〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非。
に於いて、「語順」は異なってゐても、「補足構造(管到)」は、変はらない。
従って、
(22)
その「意味」で、
①
非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉。
と、
② 〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非。
は、
①
〈{[〔( )( )〕]}〉。
を介して、「同じ語順」であると、見做すことが、出来る。
従って、
(23)
①
非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉。
② 〈{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ず。
といふ二つは、「論理的」には、「同じ語順」であると、見なすことが、出来る。
平成26年09月28日、毛利太。
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