(01)
(一)主述関係 主語 ― 述語。
(二)修飾関係 修飾語 ―
被修飾語。
(三)補足構造 叙述語 ― 補足語。
(四)並列関係 並列語 ― 並列語。
右の四つの文法関係は、漢語文法の基礎となっている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、284頁改)。
然るに、
(02)
例へば、
人之悪=人の悪。
の場合は、
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語。
であるが、
称人之悪=人の悪を称す。
は、全体としては、
(三)補足構造 叙述語 ― 補足語。
である。
然るに、
(03)
彼称人之悪=彼人の悪を称す。
は、
SVO=主語+動詞+目的語。
である。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
彼称人之悪=彼人の悪を称す。
といふ「漢文訓読」は、
(三)補足構造 叙述語
― 補足語。
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語。
(一)主述関係 主語 ― 述語。
の、「組み合はせ」で、出来てゐる。
然るに、
(05)
F ⅹ に於いて、
F ⅹ が、『補足関係』に在る時、そのやうな、
F ⅹ を、
F(ⅹ) と、記すことにする。
従って、
(06)
G(ⅹ)
といふ、『補足関係』に於いて、
ⅹ=F(ⅹ) ならば、
G(ⅹ)=G〔F(ⅹ)〕。
従って、
(07)
H(ⅹ)
といふ、『補足関係』に於いて、
ⅹ=G〔F(ⅹ)〕 ならば、
H(ⅹ)=H[G〔F(ⅹ)〕]。
従って、
(08)
H =非
G =不
F =悪
ⅹ=寒
ならば、
H[G〔F(ⅹ)〕]=
非[不〔悪(寒)〕]。
は、『補足構造』を、表してゐる。
従って、
(09)
非不悪寒=寒きを悪ま不るに非ず。
といふ「漢文訓読」は、
(三)補足構造 叙述語 ― 補足語。
だけの、「組み合はせ(合成)」で、出来てゐる。
然るに、
(10)
非[不〔悪(ⅹ)者〕]也。
に於いて、
ⅹ=称(人之悪)而道(己之長)。
といふ、「代入」を行ふ。
従って、
(08)(10)により、
(11)
非{不[悪〔称(人之悪)而道(己之長)者〕]}也。
は、
非不悪称人之悪而道己之長者也。
といふ「漢文」の、『補足構造』を、表してゐる。
然るに、
(12)
非不悪称人之悪而道己之長者也。
といふ「漢文」の、『補足構造』が、
非{不[悪〔称(人之悪)而道(己之長)者〕]}也。
といふ「括弧」で表せることは、純粋に、「漢文の文法」に属してゐるのであって、直接には、「訓読」の問題ではない。
然るに、
(13)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳案主人、漢文法基礎、1984年、339頁)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
非{不[悪〔称(人之悪)而道(己之長)者〕]}也 ⇔{[〔(人の悪を)称して(己の長を)道ふ者を〕悪ま]不るに}非ざるなり。
に於いて、
左辺=『漢文の、補足構造』。
右辺=『国語の、補足構造』。
であるが、「左(右)の語が、右(左)のことばのどこまでかかるか」といふ、「管到」の立場からすれば、
非{不[悪〔称(人之悪)而道(己之長)者〕]}也 ={[〔(人の悪を)称して(己の長を)道ふ者を〕悪ま]不るに}非ざるなり。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(12)(14)により、
(15)
非不悪称人之悪而道己之長者也。
といふ「漢文」を、
人の悪を称して己の長を道ふ者を悪ま不るに非ざるなり。
といふ風に、「訓読」することは、
非不悪称人之悪而道己之長者也。
といふ『漢文の、捕捉構造』を、
非{[不〔悪〔称(人之悪)而道(己之長)者〕]}也。
といふ風に、捉へてゐることに、他ならない。
然るに、
(16)
例へば、
非不悪 ・ ・ ・ ・ ・
也。 は、
悪(にく)まないのではないのである。
とは、決して、読まないため、
悪ま不るに非ざるなり。
といふ「言ひ方」は、実質的に、他には、「読みやう」が無い。
従って、
(12)(15)(16) により、
(17)
「訓読」は、「原文(漢文)」の「捕捉構造(管到)」に即した、「定型的な訳読」である。
然るに、
(18)
非不悪称人之悪而道己之長者也=
人の悪を称して己の長を道ふ者を悪ま不るに非ざるなり。
に対する、「返り点」は、
レ レ 下 二 一 二 一 上。
従って、
(18)により、
(19)
非不悪称人之悪而道己之長者也 ⇒
非{[不〔悪〔称(人之悪)而道(己之長)者〕]}也。
に於ける、
{[〔( )( )〕]}。
といふ「括弧」は、
レ レ 下 二 一 二 一 上。
といふ「返り点」に、「対応」する。
cf.
従って、
(17)(19)により、
(20)
「返り点」が有るからこそ、例へば、
「新釈漢文大系 全120巻(別巻1) - 明治書院」は、
「原文(漢文)」の「補足構造(管到)」に即した、「定型的な訳読」である。といふ、ことになる。
然るに、
(21)
満洲人の努力は無駄ではなかった。「世界の言語ガイドブック」⑯という本によれば、現代に満洲語を習得するメリットは支那の古典を満洲語に翻訳されたものから理解できることである、というのだ。つまり漢文は誰にとっても難しいが、通常の言語体系である満洲語によって古典を習得できるというのだ。満洲語により支那の古典を理解することは、ルネッサンスの時代にヨーロッパ人がアラビア語からラテン語の古典を理解したのに似ている(Webサイト:漢民族滅亡論2)。
然るに、
(20)により、
(22)
日本語を習得すれば、「原文(漢文)」の「捕捉構造(管到)」が分かるだけでなく、「通釈」により、支那の古典を「現代日本語」に翻訳されたものから理解できることになる。
加へて、
(23)
北京語は満洲語がルーツである(Webサイト:漢民族滅亡論2)。
満州語は類型論的に膠着語に分類され、語順は日本語と同じく「主語―補語―述語 (SOV)」の順である。修飾語は被修飾語の前に置かれる。
また、関係代名詞がなく代わりに動詞が連体形を取って名詞を修飾するのも日本語と同様である。
さらに、日本語同様、動詞を活用する(動詞語幹に接尾辞を付ける)ことで、日本語で言う過去形や連用形と同じ働きを、動詞に持たせることができる(ウィキペディア)。
従って、
(22)(23)により、
(24)
例へば、
学而時習之。
を、北京語(≒満州語)で読んで、北京語(≒満州語)で理解しなければ、支那の古典が、理解できない。とは、私には、思へない。
平成26年09月29日、毛利太。
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