(01)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
加へて、
(02)
日本語の、「ず(助動詞)」は、「付属語」であるため、
不(漢文)=ず(訓読)。
と訳すとき、
不~。は、
不~。⇒ ~・ず。
といふ風に、「後置」される。
加へて、
(03)
「に(格助詞)」は、
こうちし [3] 【後置詞】 〔postposition〕(Weblio辞書)。
であるため、
非(漢文)=に・あらず(訓読)。
と訳すとき、
非A。は、
非A。⇒ Aに・非ず。
といふ風に、「後置」される。
然るに
(04)
悪寒。
は、「捕捉構造」である。
従って、
(01)(04)により、
(05)
悪寒=寒きを悪(にく)む。
となる。
従って、
(02)(05)により、
(06)
不悪寒=寒きを悪まず。
となる。
従って、
(03)(06)により、
(07)
非不悪寒=寒きを悪まずに非ず。
となる。
然るに、
(08)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
従って、
(08)により、
(09)
「横書きの漢文」であれば、
「管到」=「左の語が、右のことばのどこまでかかるか」ということ。
である。
従って、
(07)(09)により、
(10)
「横書きの訓読」であれば、
「管到」=「右の語が、左のことばのどこまでかかるか」ということ。
である。
然るに、
(11)
悪寒=寒きを悪む。
に於いて、
「悪む」のは=「寒さ」。
であるため、
「悪む」は、
「寒さ」に、「かかってゐる」。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
「括弧」を用ゐれば、
悪(寒)⇒(寒き)を悪む。
といふ風に、「管到」を、表すことが、出来る。
然るに、
(13)
不悪(寒)=(寒き)を悪まず。
に於いて、
「不」は、
「悪(寒)」=「(寒き)を悪む」。
を「否定」してゐる。といふ意味で、
「不」は、
「悪(寒)」=「(寒き)を悪む」。に、「かかってゐる」。
従って、
(09)(10)(13)により、
(14)
「括弧」を用ゐれば、
不〔悪(寒)〕⇒〔(寒き)を悪ま〕ず。
といふ風に、「管到」を、表すことが、出来る。
従って、
(09)(10)(14)により、
(15)
非不〔悪(寒)〕=〔(寒き)を悪ま〕ずに非ず。
であっても、
「括弧」を用ゐれば、
非[不〔悪(寒)〕⇒[〔(寒き)を悪ま〕ざるに]非ず。
といふ風に、「管到」を、表すことが、出来る。
従って、
(15)により、
(16)
不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}⇒
{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不=
{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ場合も、「管到」を表してゐる。と、すべきである。
然るに、
(17)
不求以解中国語法解漢文。
といふ「漢文」には、少なくとも、「目に見える形」では、「括弧」が無いため、その意味に於いて、
不求以解中国語法解漢文也。
不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
といふ「形」をしてゐる。といふのは、「譬へ」に、過ぎない。
然るに、
(18)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんのことはない。諸君たちが古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかる」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
とするならば、「管到」自体は、「実在」する。
然るに、
(19)
①「不」が、「求以解中国語法解漢文」に「かかってゐて」、
②「求」が、「以解中国語法解漢文」に「かかってゐて」、
③「以」が、「解中国語法」に「かかってゐて」、
④「解」が、「中国語」に「かかってゐて」、
⑤「解」が、「漢文」に「かかってゐて」、
といふことを、表す上で、
⑥ 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
以上に、「適切な譬へ」は、無いはずである。
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
不求以解中国語法解漢文。
には、「管到」が、備はってゐて、「括弧」以上に、「管到」を表す「適切な譬へ」が無い以上、
不求以解中国語法解漢文。
には、
不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
といふ「括弧」が備はってゐる。とすることは、可能な、はずである。
従って、
(21)
「管到」が、「漢文」に実在する以上、「管到(の譬へ)」としての「括弧」は、存在する。
従って、
(22)
「管到(括弧)」は、有ります!
平成26年09月08日、毛利太。
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